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2015年2月

2015年2月 2日 (月)

ユグノー戦争Ⅴ  ナントの勅令(終章)

 1589年8月1日朝7時、ジャック・クレマンと名乗るドミニクス派修道士が国王アンリ3世のもとを訪れました。側近たちは見ず知らずの人物に国王自ら会われることはないと止めますが、「聖職者の要求を拒むことは良くないだろう」と国王は会見を承知します。
 ところがこの修道士はカトリック同盟が送り込んだ刺客でした。持参した書状を国王が読んでいる隙に隠し持っていた短剣で切りつけたのです。犯人はその場で取り押さえられ殺されますが国王も重傷を負ってしまいました。死の床にあったアンリ3世は妹婿であるナバラ王アンリ・ド・ブルボンを呼び寄せます。
 「朕の命は長くない。そなたはサリカ法典(王位継承に関する中世ヨーロッパの基本法)に則っても正式な王位継承者だ。フランスの王冠はそなたに授けよう」
 瀕死の国王の言葉に、ナバラ王アンリは涙を流して頷いたそうです。さきにカトリック同盟の指導者ギーズ公を暗殺した報いが国王自身に降りかかったとも言えます。アンリ3世はカトリック教徒でしたが、それよりもフランス王権の安定を最優先にしていました。ユグノー側との和解を目指していた事がカトリック同盟の激しい憎悪を呼んだのです。1589年8月2日午前3時ヴァロワ朝最後の王アンリ3世は息を引き取ります。享年38歳。摂政としてフランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の三人の息子たちを支えた女傑、カトリーヌ・ド・メディシスも同じ年の1月5日すでに亡くなっていました。
 三アンリのなかで最後まで生き残ったナバラ王アンリが結局フランスの王冠を得ることとなります。ノストラダムスの予言は当たったのです。アンリはフランス国王アンリ4世(在位1589年~1610年)と名乗ります。ブルボン朝の始まりです。即位当時アンリ4世は35歳の働き盛りでした。
 ただしアンリ4世を支持する者はフランス全国民の6分の1にすぎないユグノー(カルヴァン派プロテスタント)のみ。カトリック同盟の力は依然として強く首都パリもカトリック勢力に占領されたままでした。カトリック勢力の働きかけでアンリ4世はローマ教皇から破門されています。アンリ4世は、パリ奪還を目指し血みどろの戦いをフランス各地で繰り広げました。しかし、依然としてパリはびくともしません。
 1593年7月15日、アンリ4世は歴史的な決断をします。すなわちユグノーの信仰を捨てカトリックに改宗したのです。フランスの安定を信仰よりも優先させた合理的な決断でした。カトリック同盟も国王がカトリックに改宗したので抵抗する大義名分を失います。こうしてアンリは次第にフランス国内で支持者を増やし始めました。1994年3月22日、頑強に抵抗したパリ市もついに屈服。アンリ4世はパリ入城を果たします。
 事実上、これがユグノー戦争の転換点となりました。カトリック同盟は各地で抵抗を続けますが残ったのは強硬派だけで、大部分はカトリック教徒になったアンリ4世に帰順しました。強硬派は抵抗を続けブルターニュ地方にメルクール公を総大将に立て籠もります。これをスペインが援助したため1995年アンリ4世はスペインに宣戦布告しました。ブルターニュ地方の反乱はアンリ4世の親征で鎮圧されます。36年にわたってフランスを二分した内戦ユグノー戦争はここに集結しました。
 戦争は終わりましたが、未だカトリックとユグノーの対立は内在したまま。ユグノーにとっては自分たちの盟主と思っていたアンリ4世がカトリックに寝返ったのですから尚更です。1598年4月13日、アンリ4世は硝煙冷めやらぬブルターニュ半島の付け根にあるナントで一つの勅令を発します。
 それはユグノーに初めてカトリックと同等の権利を与え、近代ヨーロッパで最初に信仰の自由を認めた画期的なものでした。発布された都市の名をとってナントの勅令と呼ばれます。36年の長きにわたってフランスが苦しんだ末生みだした成果でした。しかしアンリ4世の理想は孫のルイ14世のフォンテーヌブロー勅令によって否定されます。結局ユグノーは迫害を受けフランスに残る事が出来ずイギリスやオランダなど海外に逃れました。ユグノーには商工業者が多かったため亡命を受け入れた国は経済発展を、逆にフランスには経済衰退をもたらします。
 最後に、アンリ4世のその後を記します。名実ともにフランス国王となったアンリ4世は、すでに関係がすっかり冷え切っていた王妃マルグリット・ド・ヴァロワと離婚しました。アンリ4世は母方の遠縁に当たるメディチ家のマリー・ド・メディシスと再婚します。これも政略結婚でしたがマリーとの再婚は相性が良く後継ぎのルイ13世が生まれました。ただしアンリ4世の女癖は治らず生涯で56人いたとされる愛人のうちこの時も何人も同時進行していたそうですから驚かされます。とはいえ、アンリ4世は国民的人気が高く「良王アンリ」「大アンリ」と呼ばれ親しまれました。この辺り不思議な人徳があったのかもしれません。離婚したマルグリットとも、その後は友人関係が続いたそうですから救いがあります。
 ユグノー戦争終結後、アンリ4世は戦乱で疲弊した国土の再建に生涯を捧げます。1610年アンリ4世はドイツ諸侯国間の相続問題で再び宿敵両ハプスブルク(スペイン、オーストリア)と戦端を開こうとしていました。5月14日午後4時頃前線に出発しようとアンリ4世は大した護衛も付けず馬車に乗ります。ある町に差し掛かった時、一人の凶漢が馬車に飛び乗り書類に目を通していた国王の胸を短剣で貫きました。ほとんど即死でした。犯人は狂信的なカトリック教徒でユグノーとの融和政策を進めるアンリ4世に不満を抱いての犯行だったと伝えられます。アンリ4世享年56歳。こうして三アンリのすべてが暗殺の凶刃に倒れた事になります。
 アンリ4世は、統治中も死後もフランスでもっとも人気のある国王です。そして彼の個性なくしてはユグノー戦争は終結しなかったと思います。アンリ4世の死後、息子のルイ13世が即位しました。この後もひと波乱、ふた波乱ありますがリシュリューという稀有の才能を持つ大宰相に恵まれてフランスは絶対王政の絶頂期を迎えることとなります。太陽王ルイ14世は彼の孫でした。

ユグノー戦争Ⅳ  三アンリの戦い

 摂政王太后カトリーヌ・ド・メディシスがなぜ末娘マルグリットを政敵であるユグノー側の盟主ナバラ王アンリ(ナバラ王としてはエンリケ3世)に嫁がせたかですが、一つはカトリックとユグノーの融和を図ったという見方で間違いないでしょう。ただし直後に聖バルテルミーの大虐殺が起こりそれにカトリーヌの関与が濃厚である以上この説は怪しくなります。
 もう一つの理由としては、ノストラダムスの予言によってヴァロワ朝の断絶を覚悟したカトリーヌが、次のフランス王になると噂されたナバラ王アンリと娘マルグリットの間に息子ができれば女系で王統をつなぐ事が出来ると考えたのではないかと思います。
 しかし、母の希望は肝心のマルグリットの行動によって無残に打ち砕かれました。マルグリットは夫となったナバラ王アンリと同年の1553年生まれ。アレクサンドル・デュマの歴史小説『王妃マルゴ』で有名な彼女ですが、奔放な性格だったらしく生涯に50人の愛人がいたと言われています。これは夫のアンリも同様でこちらも同じく50人の愛人。しかもマルグリットの前の愛人はこともあろうにカトリック側の盟主ギーズ公アンリ。
 夫婦仲は最初から冷え切っていたと思います。ただナバラ王アンリは、望まぬ結婚であるからといってすぐ離婚することはしませんでした。利用価値のある間は…。ギーズ公はなんといってもフランス王国の陸軍総司令官として強大な軍事力を握っていました。さらにカトリック教徒の多い首都パリ市民の絶大な支持もあったのです。当時の都市は、防衛するための民兵を持ち特にパリのような大都市は傭兵を雇ってマスケット銃や大砲で武装していました。へたな諸侯の軍など簡単に粉砕できるほどの軍事力を持っていたのです。
 ユグノー(カルヴァン派プロテスタント)はフランス全人口の6分の1しかいません。カトリック信者が農民中心だったのに対し、ユグノー側には商工業者という財力を持った市民が多かったとはいえ劣勢は否めませんでした。ナバラ王アンリにとってフランス王室はカトリックで現在は敵でしたがどんな細い糸でも繋がっておくことは政略上得策だったのです。
 ここで三アンリの最後の一人、アンリ3世(1551年~1589年)に登場してもらいましょう。アンリ3世はアンリ2世の四男です。幼少期から読書を好み生母カトリーヌからは最も溺愛されました。彼の幼少期の学友がギーズ公アンリとナバラ王アンリだった事は前に書きました。普通ならフランス王位を継ぐことはできないはずでした。そのためポーランドでヤギュウォー朝が断絶しポーランド貴族たちによって次期国王に選出されると送り出されることとなります。
 彼は兄であるフランス国王シャルル9世が結核を悪化させていたため、ポーランドには行きたくなかったといわれています。しかしポーランド使節団から促されて渋々出国、1574年即位しました。が、結局はポーランド貴族たちの傀儡に過ぎませんでした。実権のまったくないお飾りの王位に嫌気がさしたアンリはフランスから連れてきた側近たちとしか交流しなかったと伝えられます。これがますますポーランド人の反発を買います。
 そんな中、1574年ポーランドの首都クラコフにフランス王シャルル9世が崩御したと云う知らせが入ります。シャルル9世崩御が5月30日。ポーランドに知らせが届いたのは6月14日でした。6月18日深夜アンリは側近だけを伴ってポーランド王宮を脱出します。国王逃亡という前代未聞の大事件にポーランド貴族は驚きました。早速ポーランドからは帰国要請が出されますがアンリの決意は固く、結局アンリのポーランド王位は1575年5月失効します。ただしアンリは死ぬまでポーランド王の称号を名乗っていたそうです。
 こうして兄の死を受けフランス国王に即位したアンリ3世(在位1574年~1589年)でしたが、実権は強大な軍事力を持つギーズ公アンリに握られたままでした。王室がカトリックを擁護しそのカトリック側の盟主がギーズ公だっただけに仕方ない事でした。しかもギーズ公はカトリック信者が多い首都パリ市の絶大な支持を受けていました。
 実子のないアンリ3世に対し、次のフランス国王の最有力候補はギーズ公だったのです。ギーズ公の家系がスコットランド王家と繋がりありフランス王室にもフランソワ2世の正室をギーズ家から出すなど有力な貴族だった事は前に書きました。血統的にはナバラ王アンリにも王位継承の権利はありましたが、なんといってもユグノーであったことからカトリック側は忌避していました。
 ユグノー戦争は宗教戦争から次第に王継承争いへと移行します。1584年筆頭王位継承者でアンリ3世の弟アンジュー公フランソワが亡くなりました。サリカ法典によって筆頭王位継承権はユグノーのナバラ王アンリに移ります。カトリック側はこれに反発し、パリ市民などが中心になりギーズ公を奉じて蜂起しました。カトリック側は国王アンリ3世に圧力をかけナバラ王アンリの王位継承権を剥奪させます。これは次の王にギーズ公が就くという暗黙の了解でした。
 さすがのアンリ3世も、カトリック側の横暴に怒りを爆発させます。国王を蔑ろにする態度はあまりにも酷いものでした。国王アンリ3世と王位継承権を剥奪されたナバラ王アンリが接近したのは自然だったといえます。もともと国王はカトリックとユグノーの融和を図り内戦を終結させようと考えていました。その点でもカトリック側は国王に反感を抱きます。
 カトリック同盟はローマ教皇庁と結びつきギーズ公をフランス王位に就ける陰謀を巡らせました。ギーズ公の野心に気付いたアンリ3世は、1588年ギーズ公のパリ入城を禁じます。ところがそれに怒ったパリ市民が蜂起して逆に国王をパリから追放しました。アンリ3世はシャルトルに逃亡します。市民に迎えられパリに入ったギーズ公は三部会を招集し王権の制限を議論し始めました。さながらギーズ公が新しい国王になったようでした。これに危機感を抱いたアンリ3世は、和解すると称してギーズ公とその弟ギーズ枢機卿を呼び寄せ暗殺してしまいます。
 激高したパリ市民とカトリック同盟は、アンリ3世を王と認めないと宣言しました。そしてギーズ公の弟マイエンヌ公をカトリック同盟の新しい指導者に迎えます。フランスはこの時完全に分裂したのです。ヴァロワ朝フランス王国はこの後どうなっていくのでしょう?アンリ3世の良く末は?そして不気味な沈黙を守るナバラ王アンリはどういう行動を起こすのか?
 次回、最終章ナントの勅令にご期待ください。

ユグノー戦争Ⅲ  聖(サン)バルテルミの大虐殺

 今の若い人は知らないでしょうが、20世紀末を生きていた人たちの間で1999年7の月に人類が滅亡すると云うノストラダムスの大予言がブームでした。世紀末に終末論が流行るのはありがちです。実際19世紀末にも似たような現象が起こっています。
 日本でそれを紹介したのは五島勉氏です。「ノストラダムスの大予言Ⅰ~Ⅳ」「ノストラダムスの大秘法」など所謂ノストラダムス本を私も読みふけっていました。結局1999年7月人類は滅亡などせずガセネタだったわけですが、その中で大予言者ノストラダムスが時のフランス王太后・摂政カトリーヌ・ド・メディシスに仕えると云うエピソードがありました。ですから私のようにノストラダムスファン?の人はアンリ2世やカトリーヌを良く知っているはずです。どのような性格かも含めて。
 これはノストラダムスの大秘法に載っていたエピソードですが、ユグノー戦争が勃発した後の1964年カトリーヌは息子たちが王を務めるヴァロワ朝フランス王国の将来を憂いてノストラダムスに相談します。ノストラダムスはどのようにしても王家が滅ぶ事を防ぐことはできないと予言し王太后は絶望したそうです。そしてさらにノストラダムスは何でも未来を見通す不思議な鏡を見せヴァロワ朝の次にフランス王になる男を王太后に示しました。その中に映っていた者はアンリ・ド・ブルボン。ユグノー戦争一方の雄であるナバラ王・ヴァンドーヌ公アントワーヌ・ド・ブルボンの嫡男でした。1964年当時はわずか11歳。鏡には成人した姿で映っていたそうですから本人かどうか判別できたのか?など突っ込みどころが数多いエピソードではあります。ただしアカデミックな歴史にはノストラダムスのノの字も出てこないのであまり本気にしないでください(笑)。
 さらにネタ的エピソードを続けると、カトリーヌはノストラダムスに何とかヴァロワ朝が滅亡しないで済む方法を聞きだし助言に従って藁をもすがる気持ちで1572年末娘マルグリット・ド・ヴァロワをブルボン家の跡取りアンリと結婚させます。しかしこの女性はとんでもない人で結局婚姻の力は何の役にも立ちませんでした。
 脱線が過ぎたので本題に戻ります。夫アンリ2世の不慮の死で即位した息子フランソワ2世がわずか15歳。しかも病弱だったためカトリーヌは摂政としてフランスの国政を見始めます。彼女はカトリックの本場イタリア出身ですが彼女自身はカトリック教徒というより息子たちのフランス王家の方が大事でした。政治のためにはどんな悪辣な事も辞さず冷静な計算に基づいて行動する合理主義者です。まさに女傑といってもよい人物でした。カトリーヌの統治は、カトリックとユグノー(カルヴァン派プロテスタント)のバランスをとる政治だったと云えます。
 ところが、フランソワ2世の王妃メアリーの親族であるギーズ公は違っていました。カトリック教徒を中心にした安定した政治がフランスにとっても王家にとっても最良でユグノーはそれを阻害する者達だと信じて疑いませんでした。1560年フランソワ2世は即位一年で病死します。享年16歳。王位は弟シャルル9世が継ぎました。1562年東フランス、ヴァッシーの町に集まっていたユグノーにギーズ公の一党が襲いかかりユグノー300人を虐殺すると云う事件が起こります。
 カトリーヌにとって恐れていた事が起こりました。ユグノーは激高しフランス国内を二分するユグノー戦争という大内戦が勃発したのです。カトリック側の首領には当然ギーズ公フランソワが就きました。ユグノー側は名門ブルボン家のアントワーヌがトップとなるはずですが1562年11月45歳の若さで死去します。跡取りアンリはまだ8歳の若年だったのでアントワーヌの弟コンデ公ルイがユグノーの盟主となりました。
 実はアントワーヌは、戦争勃発の直前カトリックに改宗していたのです。ギーズ公側の圧力に負けたともユグノーのままでは今の勢力を維持する事が出来ないと考えたとも言われますがはっきりしません。ともかくユグノー側トップの間にごたごたがあったことは事実でしょう。とはいえ全フランス人口の6分の1を占めたユグノーは劣勢だけに頑強に抵抗しました。カトリック側もユグノー側も外国勢力を引きいれ収拾のつかない状況になります。
 カトリーヌは必死に両者の和解を図りますが無駄でした。戦いは泥沼の様相を呈してきます。長年の戦いで疲れた両者の間に1570年ようやく和解が成立し一時休戦となりました。その日は聖バルテルミーの祭日の前夜だったと伝えられます。1572年8月23日のことです。
 カトリックとユグノーの和解のしるしとしてナバラ王アンリ・ド・ブルボンとカトリーヌの娘マルグリットとの婚礼が8月18日行われユグノーたちはそれを祝うためパリに数多く集まります。その中には国王シャルル9世の信任厚い勇将コリニー提督(1519年~1572年)がユグノー側の代表として参列していました。カトリーヌは息子シャルルがユグノーに誑かされていると警戒を抱きます。ギーズ公側の工作もあったと思います。この時カトリーヌは完全にカトリック側に軸足を移しました。
 摂政カトリーヌの意を受けたギーズ公の軍隊は、パリに集まっていたユグノーたちを片っ端から虐殺します。コリニー提督邸にも軍隊が差し向けられ提督は殺されてしまいます。用意周到だったギーズ公はユグノー側の主だった指導者をことごとく補殺しました。この知らせを受けたパリ市民(カトリック教徒が多かった)も日ごろユグノーに反感があったため虐殺に加わります。ユグノーの犠牲者はパリだけで2000人、フランス全土では2万人にも及んだと伝えられます。これが聖(サン)バルテルミの大虐殺の顛末です。
 これによりカトリックとユグノーの和解は不可能となりました。カトリーヌはユグノーの指導者がすべていなくなれば内戦は収まると思っていたのですが、かえって全ユグノーの敵愾心を煽ると云う逆効果になってしまいます。当時の指導者を多く失ったユグノーですが、ナバラ王アンリ・ド・ブルボンは確実に成長していました。1553年生まれですから1572年当時は19歳。ユグノーは彼を中心にまとまっていくこととなります。一方、カトリック側も指導者ギーズ公フランソワが1663年暗殺されていましたから息子のギーズ公アンリ1世が当主でした。彼もまた1572年当時22歳。そして大虐殺を指導したのは彼です。
 国王シャルル9世は、大虐殺の衝撃でその2年後死去します。享年23歳。末弟アンリ3世(在位1574年~1589年)が後を継ぎました。国王アンリ3世、ギーズ公アンリ、ナバラ王アンリという3人の若者がユグノー戦争を戦う事となります。これ以後を三アンリの戦いと呼ぶのはそのためです。
 実はこの3人、幼いころフランス宮廷で少年時代をともに過ごした学友であり幼馴染でした。3人のアンリはどう戦ったのか、そしてユグノー戦争はどう推移したのか。次回三アンリの戦いを描きます。

ユグノー戦争Ⅱ  ヴァロワ朝とその周辺

 ヴァロワ朝(1328年~1589年)はカペー朝第10代フィリップ3世の四男ヴァロワ伯シャルルに始まる家系です。シャルルの子フィリップの時1328年カペー朝の嫡流が断絶したのを受けて即位しフィリップ6世となりました。ヴァロワ朝は王朝成立直後から百年戦争という試練を経験します。国難を排しようやく王権が安定してきた頃、イタリア戦争で両ハプスブルク家(スペイン、オーストリア)に挟撃され疲弊、そして宗教戦争ユグノー戦争で止めを刺されす。まさにヴァロワ朝の時代は波乱万丈の歴史だったといってもよいでしょう。
 ユグノー戦争勃発直前、フランス国王はアンリ2世(在位1519年~1559年)でした。父フランソワ1世の意思を継ぎイタリア戦争を継続しますがハプスブルクの優位は動かず1559年にはカトー・カンブレジ条約でイタリアにおけるフランスの諸権益を放棄せざるをえませんでした。
 アンリ2世自身は、優柔不断で気の弱い人物だったと伝えられます。むしろ彼の正室の方が有名です。彼女の名はカトリーヌ・ド・メディシス(1519年~1589年)。名前からも分かる通りイタリア・フィレンツェの大富豪メディチ家の出身でした。おそらくイタリア戦役でフランスは莫大な戦費を浪費し金銭的に苦しかったのだと思います。カトリーヌは莫大な持参金つきで嫁ぎフランスの国家財政を助けます。
 カトリーヌは勝気で男勝りな性格だったと伝えられます。彼女に圧倒されアンリ2世は愛人ディアーヌ・ド・ポワチエに奔ります。政治を顧みなくなった夫に代わりカトリーヌが事実上のフランス国王として統治しました。
 当時、フランスでは2つの勢力が対立していました。一つはギーズ公を代表とするカトリック勢力。ギーズ家はフランス一の実力を持つ大貴族ですが、その歴史は意外と新しいものでした。ギーズ公爵家の成立は1520年です。ロレーヌ公ルネ2世の次男クロードが父からフランス内の領地を相続してフランス高等法院からギーズ公の称号を得たのが始まりでした。現在ではロレーヌ(ドイツ語読みロートリンゲン)はフランス領ですが当時はドイツに属していました。ロートリンゲン公はドイツでも有力貴族でフランス国内にも広大な領地をもっていたのです。
 新興貴族であるギーズ公ですが、閨閥は素晴らしくクロードの娘メアリー・オブ・ギーズはスコットランド王ジェームズ5世に嫁ぎスコットランド女王メアリー・スチュアートを生みます。そのメアリーがアンリ2世の王太子フランソワ(後のフランソワ2世)と1558年結婚したことでギーズ公爵家は国王の外戚となり強大な力を持つことになるのです。当時の当主はクロードの長男フランソワ1世(ギーズ公フランソワ 1519年~1563年)でした。彼の姉はスコットランド王太后メアリー。姪の女王メアリー・スチュアートはフランス王太子フランソワの正室。さらに弟はロレーヌ枢機卿シャルル、フランスにおける彼の立場は盤石とも云えました。
 フランス一の実力者、ギーズ公フランソワは次第にカトリックを信奉する貴族たちの代表となっていきます。一方、新教徒側の代表となったブルボン家はどういう家系だったでしょうか?実はこちらもカペー朝の支流から始まる由緒ある家系でした。ユグノー戦争勃発直前の当主はヴァンドーム公アントワーヌ(1518年~1562年)。フランスの有力貴族であるばかりでなくナバラ女王ジャンヌ・ダルブレと結婚してナバラ王も兼任していました。ちなみにナバラ王としてはアントニオ1世(在位1555年~1562年)と名乗ります。
 ナバラ王国というのは、ピレネー山脈を中心としスペインとフランスにまたがる小王国です。住民の大半はバスク人という少数民族。ただしこの頃は、ピレネー以南の領土をことごとくスペインに奪われピレネーの北に細々と残るのみでした。ただ小国とはいえ王号をもつ意味は大きくナバラ王室がプロテスタントに理解を示していた事もあってアントワーヌは新教側の旗頭として注目されることとなりました。
 ギーズ家とブルボン家の対立は、そもそもフランス国内での主導権争いが先にあって新教旧教の対立はその口実に過ぎなかったとも言えます。
 アンリ2世の治世の晩年、カルヴァン派は侮りがたい勢力となって行きました。さすがのアンリ2世も王妃カトリーヌに尻を叩かれ異端審問の法廷を設け弾圧に転じます。王室がカトリックの権威のもとに成り立っている以上これは当然の処置でした。
 そんな中、1559年6月30日事件が起こります。アンリ2世の妹マルグリットとサヴォイア公エマヌエーレ・フィリヴェルト、アンリ2世の娘エリザベートとスペイン国王フェリペ2世が同時に婚姻しその日宮廷では酒宴が開かれていました。めでたい席で酒がかなり入っていたのでしょう。アンリ2世はすっかり気分が良くなりモンゴメリ伯と馬上試合をすることとなりました。この時周囲は危ないからと止めたそうですが、強引に馬上の人となった国王は事故によりアンリ伯の槍で左目を貫かれます。この時の傷がもとでアンリ2世は7月10日没しました。
 アンリ2世の事故死を、当時カトリーヌの宮廷に仕えていたノストラダムスが予言していたというエピソードもありますが予言はどのようにでも解釈されることから歴史学界では黙殺されています。優柔不断な国王とはいえアンリ2世は確かにフランスの安定を保つ大黒柱でした。国王の逝去でカトリックとプロテスタントの対立は次第に先鋭化していきます。跡を継いだ息子フランソワ2世はわずか15歳。母カトリーヌ・ド・メディシスは摂政として息子を支えなければなりませんでした。
 彼女の双肩にフランスの命運は掛かっているのです。そして悲劇は大虐殺という最悪の形で具現しました。次回はユグノー戦争の勃発とサン・バルテルミの大虐殺を描きます。

ユグノー戦争Ⅰ  ユグノーの誕生

 16世紀から17世紀にかけてヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹き荒れていました。それは30年戦争という大きな影響をドイツに与えるのですが、フランス、イギリス、オランダという欧州列強にも深い爪痕を残します。オランダ独立戦争、イギリスの清教徒(ピューリタン)革命、フランスでもユグノー戦争という宗教戦争が起こりヴァロワ朝は断絶し勝ち残ったアンリ・ド・ブルボンが即位しブルボン朝を創始しました。すなわちアンリ4世です。
 フランスの歴史を大きく動かしたユグノー戦争をヴァロワ朝ブルボン朝の動きと宗教戦争の側面から描こうと思います。まずはそもそもユグノーとは何か?です。
 ユグノーというのはフランスにおける新教徒(プロテスタント)のことです。ユグノーの語源については諸説あってはっきりしません。ただイギリスの清教徒、オランダの独立派と同じくカルヴァン派だと云う事に注目する必要があります。
 宗教改革とは御存じの通り、ドイツのマルティン・ルターが腐敗したローマ教皇庁に対し95カ条の論題を示し免罪符商法を批判したことがきっかけでしたが、じつはそれ以前にも宗教改革の先駆者がおり、有名な人としてイギリスのウィクリフやそれに影響を受けたボヘミア(現チェコ)のフスらが挙げられます。とくにフスの影響は強くフス戦争という内乱まで起こっています。
 ルター以降の改革者は少なからず彼の影響を受けているのですが、その中にフランス出身のジャン・カルヴァン(1509年~1564年)という人物がいました。ルターが教皇庁を中心とする教会支配を否定しキリスト教信者それぞれが聖書の教えに従い司祭になるべきだしそれによって救われる(聖書中心主義)と説いたのに対し、カルヴァンはより急進的に「人間の本性は決まっており、それによって神に救われるかどうかあらかじめ決まっている」という予定説を唱えます。
 またカルヴァンは、労働は尊くそれによって得た報酬は正当であると唱えそれまで報酬を得る事を卑しんでいたカトリックの考え方と真っ向から対立します。プロテスタントとは「抗議」という意味ですが、ルターの思想が農民たちに支持されドイツを中心に北欧に広がったのに対し、カルヴァン派は商工業者から支持されイギリス、フランス、オランダなどに広がりました。ですからこの国々にカルヴァン派が多いのは当然でした。
 ルター派より過激な思想を唱えるカルヴァン派は、ローマ教皇の権威を利用して統治していたフランス王室にとっては邪魔以外の何物でもありませんでした。当然カルヴァンは追放されます。フスのように宗教裁判を受け処刑(異端者は火刑)されなかったのはカルヴァン派がフランス国内にかなり浸透していたからではないかと思います。後のユグノー戦争の時代ですが、一説によると全フランス人口(推定1600万~1800万人)のうち6分の1を占めていたのではないかとも言われます。もしカルヴァンを処刑していれば、その時点でフス戦争のような大規模な内乱が起こっていたはずです。
 祖国を追放されたカルヴァンは、スイスのジュネーヴに落ち着きます。この地のカルヴァン派の有力者が招いたのですが、彼はジュネーヴをカルバン派の聖地にすべく反対派を弾圧しました。カルヴァン派は市の要職を占めそれに反抗する者は殺されるか追放されました。同じ新教徒でもカルヴァンに異を唱えたセルヴェは捕えられ焼き殺されました。セルヴェ処刑はカルヴァン生涯の汚点となります。過激思想が結局粛清の嵐となるのは歴史の常なのでしょう。
 厳格ないや恐怖政治といってもよいでしょう。ジュネーブの恐怖政治は1564年カルヴァンの死と共に終わります。しかしジュネーブはカルヴァンによってプロテスタントのローマと呼ばれるまでになりました。この地で学んだカルヴァン派は西ヨーロッパ各地に戻りカルヴァンの考え方を広めます。
 現世利益をとなえるカルヴァン派は燎原之火の如く拡大しました。フランスももちろん例外ではありません。最初フランス国王アンリ2世(ヴァロワ朝10代、ヴァロワ・アングレーム朝では2代、在位1519年~1559年)はこの動きを軽視していました。ところがカルヴァン派は支持者を広げ貴族たちの中にも新教に改宗する者が増えた事から次第に危機感を募らせます。
 当時フランスでは貴族間に大きな対立があり、一部の貴族の新教改宗は宗派の勢力を利用しようとする意図があったとも言われています。旧教(カトリック)勢力はフランス最大の貴族であるギーズ公が率いました。一方新教側は王室の傍系で当時ナバル王にもなっていたブルボン家とコリニー提督が旗頭でした。
 次回は、ユグノー戦争に至るまでのフランスの状況について語ります。

シャルル8世  ルネサンスを終わらせた男

 ルネサンス、文芸復興とも訳されだいたい14世紀から16世紀にわたりイタリアを中心に栄えた文化です。中世の暗黒時代を終わらせ近代へ繋がる重要な時代と目されていますが、それがいつ終わったかは諸説あります。ただ私はフランス王シャルル8世のイタリア侵入がルネサンスに止めを刺したと解釈しています。
 
 ルネサンス自体はその後も続きますが、それは余喘にすぎず文化の中心であったイタリア半島は混乱と衰退を続け1866年のサルディニア・ピエモンテ王国による統一まで世界史の舞台に躍り出る事はありませんでした。ルネサンス衰退の外形的要因としては大航海時代の到来によりヴェネツィア、ジェノヴァなどが独占していた東方貿易が衰退しイベリア半島のスペイン、ポルトガルが世界貿易に乗り出した事があげられます。それと同時にフランス軍のイタリア侵入にはじまるイタリア戦争でフランス王国、神聖ローマ帝国、スペインなど列強が介入しイタリア半島を舞台に勢力争いを始めた事も大きな要因になったと考えるのです。
 では、その原因を作ったシャルル8世(在位1483年~1498年)とはどのような人物だったのでしょうか。彼は百年戦争を勝利した有名なシャルル7世の孫にあたります。百年戦争の勝利によってフランスを統一したシャルル7世とその子ルイ11世(シャルル8世の父)の時代、国力を充実させ中央集権・絶対王政の端緒を築いたフランス王国は、百年戦争後期に登場した常備軍を拡充させ一躍欧州列強の主役に躍り出ました。
 面積ではそれほどでなくとも、百年戦争末期すでに人口1200万を数えたフランスは欧州の超大国でした。同時期のイングランド(ウェールズ、スコットランドを除く)が人口250万だった事を考えるとどれほど巨大であったか分かります。同じ頃のドイツがおそらく推定800万人前後だった事を考えてもフランスの大きさが理解できるでしょう。しかもドイツは統一さえしていませんでした。
 1483年父ルイ11世の死去により13歳で即位したシャルル8世が何故イタリア介入戦争を始めたかですが、その発端はナポリ王フェルディナンド1世とローマ教皇インノケンティウス8世の対立でした。教皇はナポリ王を破門しナポリ王の縁者だったシャルルをナポリ国王として推薦します。しかしフェルディナンド1世はこれを拒否し息子アルフォンソ2世に王位を譲って病没しました。
 無視されたシャルル8世が不満を持っていたところ渡りに船の出来事が起こります。イタリア北部ミラノ公国でもお家騒動が勃発したのです。前ミラノ公の叔父で公国の実権を握っていたルドヴィーコ・スフォルツァは失脚を恐れフランス国王シャルル8世に接近します。ミラノ公国の通行権を得たシャルル8世は、インノケンテイウス8世に代わっていた教皇アレクサンデル6世が反フランスの姿勢を見せている事にも怒り、自分の息のかかったユリウス2世を即位させる目的も持っていました。
 シャルル8世は、1494年10月前教皇のナポリ王推薦状を大義名分に大軍をもってアルプスを越えました。この時の兵力は諸説あります。一番多い説だと騎兵2万4千、歩兵2万2千、これにミラノ公国の援軍6千を加えて5万2千。フランスの人口を考えるとこれくらいの軍を動員することは可能ですが、当時の兵站能力を考慮すると2万前後というのが妥当な数字でしょう。フランス兵1万7千、これにスイス人傭兵8千を加えて総計2万5千くらいであったと考えます。
 それまで都市が雇った雑多な装備の傭兵しか見た事のなかったイタリア人はマスケット銃隊、弓隊、砲兵隊、精鋭をもってなるガスコーニュ騎兵隊で構成され整然と行動するフランス正規軍を見て驚愕しました。フランスの大軍はイタリア半島を破竹の勢いで進撃します。ルネサンスの中心都市であったフィレンツェでさえ一戦も交えず降伏しました。
 当時25歳だったマキャべリは、フランス軍が祖国フィレンツェを蹂躙する姿を見ていたと思います。イタリアが統一せず小国同士小さな争いを繰り返していた事がフランスの侵略を招いたと考えたマキャべリは、このままではイタリアが滅ぶと云う危機感から有名な君主論・政略論を記しました。
 1495年2月、フランス軍は教皇領を制圧しナポリ王国に達します。アルフォンソ2世の後を継いでいた弟フェルディナンド2世は抵抗を試みるも鎧袖一触、またたくまに重要拠点を奪われ敗退しました。フランス軍はそのままナポリに居座ります。しかし、此処まで外国人であるフランス軍に好き勝手にされると多くのイタリア人が怒りました。
 まず、フランス軍の被害を直接受けていなかったヴェネツィア共和国が立ち上がります。ヴェネツィアは教皇アレクサンデル6世やフランス軍に攻め込まれていたナポリ王フェルディナンド2世と連絡を取りました。フェルディナンド2世は、親族であったカスティリア・アラゴン王フェルナンド2世と同盟を結びます。アラゴンの援軍を得たナポリ軍はシチリア島から進軍し占領軍として軍規の緩みきっていたフランス軍を撃破しナポリを奪回しました。
 これを見て、フィレンツェなどフランス軍に制圧されていたイタリア諸都市と諸侯たちが立ち上がり、神聖ローマ帝国やスペイン王国を盟主とする対仏大同盟(神聖同盟、ヴェネツィア同盟)を結びます。1495年3月の出来事でした。この中にはフランスを引き入れた張本人ミラノ公国のルドヴィーコ・スフォルツァさえも加わっていました。完全な裏切りです。
 退路を断たれたフランス軍は、慌てて帰途につきますがミラノ近郊で連合軍に捕捉されます。フォルノーヴォで激突した両軍でしたが豊かなイタリアで贅沢に慣れ軍規が弛緩しきっていたフランス軍に勝ち目はありませんでした。甚大な損害を出して敗北したシャルル8世はほうほうの態でフランスに逃げ帰ります。イタリア遠征は何ら得るものはなく莫大な借金ばかりをフランスに残しました。しかも1498年シャルル8世はうっかり鴨居に頭を打ち付けると云う事故を起こし、それが原因で死去します。
 シャルル8世に嫡子がいなかったためサリカ法典で傍系のオルレアン公ルイが即位します。すなわちルイ12世(在位1498年~1515年)です。ヴァロワ朝の直系はシャルル8世で断絶しルイ12世の治世はヴァロワ=オルレアン朝と呼ばれます。さらにルイ12世も子がいなかったため傍系のフランソワ1世が継承しました。これ以後がヴァロワ=アングレーム朝です。
 さて、シャルル8世の侵略を撃退したイタリアでしたが統一勢力が生まれることはなく相変わらず小国同士が勢力争いを続けました。そしてこれがフランス、神聖ローマ帝国、スペインという列強の介入を招きます。まさにマキャべリの予言通りになったのです。民族の団結がいかに大切か良く分かる歴史ですね。

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