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2015年2月 2日 (月)

ユグノー戦争Ⅲ  聖(サン)バルテルミの大虐殺

 今の若い人は知らないでしょうが、20世紀末を生きていた人たちの間で1999年7の月に人類が滅亡すると云うノストラダムスの大予言がブームでした。世紀末に終末論が流行るのはありがちです。実際19世紀末にも似たような現象が起こっています。
 日本でそれを紹介したのは五島勉氏です。「ノストラダムスの大予言Ⅰ~Ⅳ」「ノストラダムスの大秘法」など所謂ノストラダムス本を私も読みふけっていました。結局1999年7月人類は滅亡などせずガセネタだったわけですが、その中で大予言者ノストラダムスが時のフランス王太后・摂政カトリーヌ・ド・メディシスに仕えると云うエピソードがありました。ですから私のようにノストラダムスファン?の人はアンリ2世やカトリーヌを良く知っているはずです。どのような性格かも含めて。
 これはノストラダムスの大秘法に載っていたエピソードですが、ユグノー戦争が勃発した後の1964年カトリーヌは息子たちが王を務めるヴァロワ朝フランス王国の将来を憂いてノストラダムスに相談します。ノストラダムスはどのようにしても王家が滅ぶ事を防ぐことはできないと予言し王太后は絶望したそうです。そしてさらにノストラダムスは何でも未来を見通す不思議な鏡を見せヴァロワ朝の次にフランス王になる男を王太后に示しました。その中に映っていた者はアンリ・ド・ブルボン。ユグノー戦争一方の雄であるナバラ王・ヴァンドーヌ公アントワーヌ・ド・ブルボンの嫡男でした。1964年当時はわずか11歳。鏡には成人した姿で映っていたそうですから本人かどうか判別できたのか?など突っ込みどころが数多いエピソードではあります。ただしアカデミックな歴史にはノストラダムスのノの字も出てこないのであまり本気にしないでください(笑)。
 さらにネタ的エピソードを続けると、カトリーヌはノストラダムスに何とかヴァロワ朝が滅亡しないで済む方法を聞きだし助言に従って藁をもすがる気持ちで1572年末娘マルグリット・ド・ヴァロワをブルボン家の跡取りアンリと結婚させます。しかしこの女性はとんでもない人で結局婚姻の力は何の役にも立ちませんでした。
 脱線が過ぎたので本題に戻ります。夫アンリ2世の不慮の死で即位した息子フランソワ2世がわずか15歳。しかも病弱だったためカトリーヌは摂政としてフランスの国政を見始めます。彼女はカトリックの本場イタリア出身ですが彼女自身はカトリック教徒というより息子たちのフランス王家の方が大事でした。政治のためにはどんな悪辣な事も辞さず冷静な計算に基づいて行動する合理主義者です。まさに女傑といってもよい人物でした。カトリーヌの統治は、カトリックとユグノー(カルヴァン派プロテスタント)のバランスをとる政治だったと云えます。
 ところが、フランソワ2世の王妃メアリーの親族であるギーズ公は違っていました。カトリック教徒を中心にした安定した政治がフランスにとっても王家にとっても最良でユグノーはそれを阻害する者達だと信じて疑いませんでした。1560年フランソワ2世は即位一年で病死します。享年16歳。王位は弟シャルル9世が継ぎました。1562年東フランス、ヴァッシーの町に集まっていたユグノーにギーズ公の一党が襲いかかりユグノー300人を虐殺すると云う事件が起こります。
 カトリーヌにとって恐れていた事が起こりました。ユグノーは激高しフランス国内を二分するユグノー戦争という大内戦が勃発したのです。カトリック側の首領には当然ギーズ公フランソワが就きました。ユグノー側は名門ブルボン家のアントワーヌがトップとなるはずですが1562年11月45歳の若さで死去します。跡取りアンリはまだ8歳の若年だったのでアントワーヌの弟コンデ公ルイがユグノーの盟主となりました。
 実はアントワーヌは、戦争勃発の直前カトリックに改宗していたのです。ギーズ公側の圧力に負けたともユグノーのままでは今の勢力を維持する事が出来ないと考えたとも言われますがはっきりしません。ともかくユグノー側トップの間にごたごたがあったことは事実でしょう。とはいえ全フランス人口の6分の1を占めたユグノーは劣勢だけに頑強に抵抗しました。カトリック側もユグノー側も外国勢力を引きいれ収拾のつかない状況になります。
 カトリーヌは必死に両者の和解を図りますが無駄でした。戦いは泥沼の様相を呈してきます。長年の戦いで疲れた両者の間に1570年ようやく和解が成立し一時休戦となりました。その日は聖バルテルミーの祭日の前夜だったと伝えられます。1572年8月23日のことです。
 カトリックとユグノーの和解のしるしとしてナバラ王アンリ・ド・ブルボンとカトリーヌの娘マルグリットとの婚礼が8月18日行われユグノーたちはそれを祝うためパリに数多く集まります。その中には国王シャルル9世の信任厚い勇将コリニー提督(1519年~1572年)がユグノー側の代表として参列していました。カトリーヌは息子シャルルがユグノーに誑かされていると警戒を抱きます。ギーズ公側の工作もあったと思います。この時カトリーヌは完全にカトリック側に軸足を移しました。
 摂政カトリーヌの意を受けたギーズ公の軍隊は、パリに集まっていたユグノーたちを片っ端から虐殺します。コリニー提督邸にも軍隊が差し向けられ提督は殺されてしまいます。用意周到だったギーズ公はユグノー側の主だった指導者をことごとく補殺しました。この知らせを受けたパリ市民(カトリック教徒が多かった)も日ごろユグノーに反感があったため虐殺に加わります。ユグノーの犠牲者はパリだけで2000人、フランス全土では2万人にも及んだと伝えられます。これが聖(サン)バルテルミの大虐殺の顛末です。
 これによりカトリックとユグノーの和解は不可能となりました。カトリーヌはユグノーの指導者がすべていなくなれば内戦は収まると思っていたのですが、かえって全ユグノーの敵愾心を煽ると云う逆効果になってしまいます。当時の指導者を多く失ったユグノーですが、ナバラ王アンリ・ド・ブルボンは確実に成長していました。1553年生まれですから1572年当時は19歳。ユグノーは彼を中心にまとまっていくこととなります。一方、カトリック側も指導者ギーズ公フランソワが1663年暗殺されていましたから息子のギーズ公アンリ1世が当主でした。彼もまた1572年当時22歳。そして大虐殺を指導したのは彼です。
 国王シャルル9世は、大虐殺の衝撃でその2年後死去します。享年23歳。末弟アンリ3世(在位1574年~1589年)が後を継ぎました。国王アンリ3世、ギーズ公アンリ、ナバラ王アンリという3人の若者がユグノー戦争を戦う事となります。これ以後を三アンリの戦いと呼ぶのはそのためです。
 実はこの3人、幼いころフランス宮廷で少年時代をともに過ごした学友であり幼馴染でした。3人のアンリはどう戦ったのか、そしてユグノー戦争はどう推移したのか。次回三アンリの戦いを描きます。

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