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2015年2月 2日 (月)

ユグノー戦争Ⅴ  ナントの勅令(終章)

 1589年8月1日朝7時、ジャック・クレマンと名乗るドミニクス派修道士が国王アンリ3世のもとを訪れました。側近たちは見ず知らずの人物に国王自ら会われることはないと止めますが、「聖職者の要求を拒むことは良くないだろう」と国王は会見を承知します。
 ところがこの修道士はカトリック同盟が送り込んだ刺客でした。持参した書状を国王が読んでいる隙に隠し持っていた短剣で切りつけたのです。犯人はその場で取り押さえられ殺されますが国王も重傷を負ってしまいました。死の床にあったアンリ3世は妹婿であるナバラ王アンリ・ド・ブルボンを呼び寄せます。
 「朕の命は長くない。そなたはサリカ法典(王位継承に関する中世ヨーロッパの基本法)に則っても正式な王位継承者だ。フランスの王冠はそなたに授けよう」
 瀕死の国王の言葉に、ナバラ王アンリは涙を流して頷いたそうです。さきにカトリック同盟の指導者ギーズ公を暗殺した報いが国王自身に降りかかったとも言えます。アンリ3世はカトリック教徒でしたが、それよりもフランス王権の安定を最優先にしていました。ユグノー側との和解を目指していた事がカトリック同盟の激しい憎悪を呼んだのです。1589年8月2日午前3時ヴァロワ朝最後の王アンリ3世は息を引き取ります。享年38歳。摂政としてフランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の三人の息子たちを支えた女傑、カトリーヌ・ド・メディシスも同じ年の1月5日すでに亡くなっていました。
 三アンリのなかで最後まで生き残ったナバラ王アンリが結局フランスの王冠を得ることとなります。ノストラダムスの予言は当たったのです。アンリはフランス国王アンリ4世(在位1589年~1610年)と名乗ります。ブルボン朝の始まりです。即位当時アンリ4世は35歳の働き盛りでした。
 ただしアンリ4世を支持する者はフランス全国民の6分の1にすぎないユグノー(カルヴァン派プロテスタント)のみ。カトリック同盟の力は依然として強く首都パリもカトリック勢力に占領されたままでした。カトリック勢力の働きかけでアンリ4世はローマ教皇から破門されています。アンリ4世は、パリ奪還を目指し血みどろの戦いをフランス各地で繰り広げました。しかし、依然としてパリはびくともしません。
 1593年7月15日、アンリ4世は歴史的な決断をします。すなわちユグノーの信仰を捨てカトリックに改宗したのです。フランスの安定を信仰よりも優先させた合理的な決断でした。カトリック同盟も国王がカトリックに改宗したので抵抗する大義名分を失います。こうしてアンリは次第にフランス国内で支持者を増やし始めました。1994年3月22日、頑強に抵抗したパリ市もついに屈服。アンリ4世はパリ入城を果たします。
 事実上、これがユグノー戦争の転換点となりました。カトリック同盟は各地で抵抗を続けますが残ったのは強硬派だけで、大部分はカトリック教徒になったアンリ4世に帰順しました。強硬派は抵抗を続けブルターニュ地方にメルクール公を総大将に立て籠もります。これをスペインが援助したため1995年アンリ4世はスペインに宣戦布告しました。ブルターニュ地方の反乱はアンリ4世の親征で鎮圧されます。36年にわたってフランスを二分した内戦ユグノー戦争はここに集結しました。
 戦争は終わりましたが、未だカトリックとユグノーの対立は内在したまま。ユグノーにとっては自分たちの盟主と思っていたアンリ4世がカトリックに寝返ったのですから尚更です。1598年4月13日、アンリ4世は硝煙冷めやらぬブルターニュ半島の付け根にあるナントで一つの勅令を発します。
 それはユグノーに初めてカトリックと同等の権利を与え、近代ヨーロッパで最初に信仰の自由を認めた画期的なものでした。発布された都市の名をとってナントの勅令と呼ばれます。36年の長きにわたってフランスが苦しんだ末生みだした成果でした。しかしアンリ4世の理想は孫のルイ14世のフォンテーヌブロー勅令によって否定されます。結局ユグノーは迫害を受けフランスに残る事が出来ずイギリスやオランダなど海外に逃れました。ユグノーには商工業者が多かったため亡命を受け入れた国は経済発展を、逆にフランスには経済衰退をもたらします。
 最後に、アンリ4世のその後を記します。名実ともにフランス国王となったアンリ4世は、すでに関係がすっかり冷え切っていた王妃マルグリット・ド・ヴァロワと離婚しました。アンリ4世は母方の遠縁に当たるメディチ家のマリー・ド・メディシスと再婚します。これも政略結婚でしたがマリーとの再婚は相性が良く後継ぎのルイ13世が生まれました。ただしアンリ4世の女癖は治らず生涯で56人いたとされる愛人のうちこの時も何人も同時進行していたそうですから驚かされます。とはいえ、アンリ4世は国民的人気が高く「良王アンリ」「大アンリ」と呼ばれ親しまれました。この辺り不思議な人徳があったのかもしれません。離婚したマルグリットとも、その後は友人関係が続いたそうですから救いがあります。
 ユグノー戦争終結後、アンリ4世は戦乱で疲弊した国土の再建に生涯を捧げます。1610年アンリ4世はドイツ諸侯国間の相続問題で再び宿敵両ハプスブルク(スペイン、オーストリア)と戦端を開こうとしていました。5月14日午後4時頃前線に出発しようとアンリ4世は大した護衛も付けず馬車に乗ります。ある町に差し掛かった時、一人の凶漢が馬車に飛び乗り書類に目を通していた国王の胸を短剣で貫きました。ほとんど即死でした。犯人は狂信的なカトリック教徒でユグノーとの融和政策を進めるアンリ4世に不満を抱いての犯行だったと伝えられます。アンリ4世享年56歳。こうして三アンリのすべてが暗殺の凶刃に倒れた事になります。
 アンリ4世は、統治中も死後もフランスでもっとも人気のある国王です。そして彼の個性なくしてはユグノー戦争は終結しなかったと思います。アンリ4世の死後、息子のルイ13世が即位しました。この後もひと波乱、ふた波乱ありますがリシュリューという稀有の才能を持つ大宰相に恵まれてフランスは絶対王政の絶頂期を迎えることとなります。太陽王ルイ14世は彼の孫でした。

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