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2015年3月

2015年3月 1日 (日)

清教徒革命Ⅶ  名誉革命(終章)

 王政復古の立役者、ジョージ・マンクとは一体どのような人物だったでしょうか?彼はイングランド貴族出身ですが軍功をあげながらもチャールズ1世に疎まれ議会派に奔っていました。もともと軍事的な才能があった事から共和国内でも頭角を現し第1次英蘭戦争では艦隊司令官として数々の海戦に勝利します。彼は共和国のスコットランド総督に任命されました。ところが、軍事的英雄で貴族出身、政治的才能もあったことから独裁者クロムウェルから警戒されます。クロムウェルが長命だったらいずれ粛清されていたかもしれません。
 クロムウェルが亡くなり、息子リチャードとクロムウェルの旧部下たちが醜い権力争いをしているのを見たマンクは完全に共和国を見限ります。スコットランド総督の地位を最大限に利用し大陸の国王派と連絡を取り自らは1660年軍を率いてイングランドに入ります。
 クロムウェル亡き後、彼の軍事能力に対抗できる者はいませんでした。戦争の英雄として国民的人気も高かったためその頃ロンドンで権力を掌握していたランバートは急速に支持を失って失脚、逮捕されロンドン塔に幽閉されました。クロムウェルの息子リチャードは殺される事を恐れフランスに逃亡します。
 共和国という名のクロムウェル独裁政権に不満を持っていたイングランド国民は、マンクを大歓迎しました。その国民的人気を背景に長期議会を招集、クロムウェルから排除されていた長老派や国王派も議員に加えます。王政復古は当時のイングランド一般国民の願いだったと思います。共和制の厳しい現実を思い知らされていたからです。
 マンクはすっかりお膳立てをし1660年5月、大陸に亡命していた王太子チャールズをロンドンに迎え入れました。チャールズは5月29日即位しチャールズ2世(在位1660年~1685年)となります。すでに1651年にはスコットランド王に推戴されていたため晴れてイングランド、スコットランドの同君連合が復活しました。
 この時の論功行賞でマンクはアルべマール公爵ほか複数の爵位、国軍最高司令官、侍従長、アイルランド総督など多くの官職を与えられました。晩年は再び第2次英蘭戦争で活躍、1671年61歳で死去、最後まで名誉とともに過ごします。
 王政復古はこうして成されたわけですがイギリス国民は手放しで喜んでいるわけではありません。ただ共和制時代があまりにも酷く人権弾圧も繰り返されたためよりましな政体として王制を選んだにすぎなかったのです。革命関係者のうち王殺しの罪で13名が処刑され反逆者クロムウェルの遺体を掘り出しあらためて絞首刑にした後、その首を晒したところまでは積年の恨みもあるだろうし容認されましたが、国王が国王派中心の議会運営で王朝を守ろうという姿勢を示したことには批判が生まれました。
 議会もまた共和国という洗礼を受けており、いくら議会の多数派が貴族中心の国王派といえど必ずしも従順ではなかったのです。国王は国王派である騎士党を重用し清教徒を弾圧します。宗教的にも伝統の国教会支配を強化し清教徒を追放しました。従わない清教徒は西インド諸島に流刑し強制労働をさせます。この流れを見ていたジェントリー層の多くは急いで国教徒に改宗しました。しかし宗派を捨てない者も多く、アメリカ大陸に亡命した者も出てきます。
 チャールズ2世の政策は、再び国王と議会の対立を生じさせました。ただ議会派も再び革命を起こすほどのエネルギーはすでに無くなっており、不穏な空気だけが流れます。イギリス議会は、国王の国教会を中心とする支配体制を是とする保守派トーリー党と、これに反発する地方代表や一部貴族、都市の有力者からなるホイッグ党とに分裂します。ただしホイッグ党もかつての独立派のような革新勢力というわけではなく、あくまで保守勢力の中の改革派という位置づけでした。これがのちの二大政党制の源流です。
 トーリー党は保守党になり現在に至ります。ホイッグ党は後に自由党となりますが20世紀初頭労働党が誕生すると勢力を失い労働党が二大政党の一方の雄となりました。ちなみに自由党も自由民主党と改名し地方議会などでは細々と命脈を保っているそうです。
 チャールズ2世は、自分に逆らうホイッグ党を徹底的に弾圧、公職からも締め出しました。1685年イギリス国王チャールズ2世は54歳の波乱の生涯を閉じます。後を継いだのは弟ジェームズ。即位してジェームズ2世(在位1685年~1688年)と名乗りました。ところが新国王ジェームズは熱心なカトリック信者で、イギリス国民の大半を占める国教徒からそっぽを向かれます。カトリック信仰を重視するジェームズの政策は、兄チャールズ2世が推進した国教会支配からも逆行しイギリス支配層は完全に新国王を見放しました。
 1688年カトリック教徒だった王の正室メアリー・オブ・モデナとの間に王子(のちのジェームズ3世)が生まれると、イギリスにカトリック王朝が続くことを恐れた議会は国王を廃する決議を下しました。この時は国王派のトーリー党でさえ賛成に回ったそうです。ただ、清教徒革命のような流血は避けなければなりません。皆懲りていたのです。
 結局、ジェームズ2世の娘メアリーが嫁いでいたオランダ総督ウィレム3世に白羽の矢が立ちます。ウィレム自身母親がジェームズ1世の娘(メアリー・ヘンリエッタ・スチュアート)で母系でもスチュアート王家の血をひいていたので好都合でした。二人は従兄弟同士の結婚です。
 その頃宿敵フランスのルイ14世と戦争していたウィレム3世にとっても渡りに船の申し出でした。イギリスを味方にできるからです。こうしてオランダ総督ウィレム3世は、イギリスに迎えられウィリアム3世(在位1689年~1702年)として即位しました。共同統治者として妻メアリー2世も同時に即位します。
 ジェームズ2世は孤立しますが、援軍を出そうというルイ14世の申し出を断る良識は持ち合わせていました。戦うために軍を編成しますが大半の貴族はウィリアム3世陣営に寝返ります。ウィリアム3世も義父と戦うのはためらわれジェームズ2世がフランスに亡命するのを黙認しました。こうして一滴の血も流れず革命が成就したのでこれを名誉革命と呼びます。後にジェームズ2世の息子ジェームズ3世が成長しイギリス王位を主張して運動しますが大勢を覆すには至りませんでした。ジェームズ2世は1701年亡命先のフランスで亡くなります。享年67歳。ちなみにジェームズ2世は庶子ヘンリエッタを残しており、彼女はスペンサー伯爵家に嫁ぎます。その子孫がダイアナ元王太子妃で、長男ウィリアム王子はイギリス王位を継承することがほぼ確実なため巡りに巡ってスチュアート家の血が再びイギリス王室に入ることとなるのです。
 新国王ウィリアム3世は英語を解しない国王でした。議会においてもただ黙って国王の席に着くのみだったと伝えられます。ウィリアム3世とメアリー2世は、議会から提出された権利宣言を承認、これによりイギリス立憲君主制が確立します。1707年スコットランド王国が正式にイングランド王国に合併しグレートブリテンおよびアイルランド(この頃は全土)連合王国が成立しました。
 ウィリアム3世、メアリー2世夫婦には子が生まれなかったため、後を継いだのは妹のアンでした。アン女王も1714年子供を残さず死去しスチュアート朝はここに断絶します。後継者にはジェームズ1世の外孫ソフィアの血をひくドイツ人、ハノーバー選帝侯ゲオルグ・ルートビッヒが新国王に迎えられました。すなわちハノーバー朝の始まりです。ハノーバー朝は第1次大戦中敵であるドイツ系の王朝の評判が悪くなる事を恐れウィンザー朝と改名し現在に至ります。
 外国人が王に迎えられてもイギリスは微動だにしませんでした。なぜなら立憲君主制と議会制民主主義が確立していたからです。この後イギリスはナポレオン戦争を経て帝国主義の道を推し進め太陽の没せぬ帝国と称えられる絶頂期を迎えることとなります。

清教徒革命Ⅵ  護国卿クロムウェル

 イングランド国王チャールズ1世の処刑は欧州中に衝撃を与えました。なかでもフランスはアンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスがチャールズの正室となっていたため激しく反発します。さらにはオランダもチャールズ1世の娘メアリー・ヘンリエッタ・スチュアートがオランダ総督ウィレム2世に嫁いでいたためスチュアート王家に同情的でした。
 またイングランド国内でも、公然たる非難こそないものの一般大衆は議会派が国王を処刑した事を支持していませんでした。そんな中、革命を成功させた議会派内部では熾烈な権力闘争が起こりました。新模範軍という強力な軍隊を擁する独立派の指導者オリバー・クロムウェルは軍の力を背景に穏健な長老派を追放、独立派から別れた急進左派の水平派も弾圧します。
 イングランド王国は、1649年5月イングランド共和国(コモンウェルス)と成りました。実はその前の3月、議会は正式に君主制の廃止を決議していました。さらには貴族院が君主制と密接に結びつき人民に無用有害として解散させています。それを踏まえての共和制でした。ただしその実態は独立派を指導するクロムウェルを最高権力者とした独裁国家だったと言えます。
 共和国の指導者となったクロムウェルは、中産階級の権益を保護する姿勢をみせ重商主義を推し進めます。まさに彼の権力基盤が中産階級だったからです。ところで国王チャールズ1世を処刑された後のスチュアート王家はどうなっていたでしょうか?実はチャールズ1世の息子で王太子のチャールズ(のちの2世)は1646年母の実家があるフランスに亡命していました。これには国王である父を除く家族全員が付き従ったそうです。1648年には義弟のオランダ総督ウィレム2世を頼ってオランダ、ハーグに移り住みました。
 ちなみに、時のフランス国王ルイ14世も母方の従兄弟にあたります。イングランド国内で議会派が勝利を収めたとはいえアイルランドやスコットランドはまだまだ国王派が多く潜在的脅威となっていました。この中でアイルランドは特殊な地位だったので簡単に歴史を説明しておきましょう。
 アイルランドはもともとケルト系民族の独立国でした。ところが8世紀頃からブリテン島と同様ノルマン人(ヴァイキング)の侵略を受けその後もイングランドから入植者が相次ぎ特にアイルランド東岸のウォーターフォードから東アルスターにかけてはアイルランド卿領としてイングランドの封建支配を受けます。この後何度かアイルランド人がイングランド支配からの脱出を図って蜂起しますがそのたびに強大なイングランドの軍事力に圧殺されました。
 イングランド国王はアイルランド現地諸侯が認めないにもかかわらず勝手にアイルランド国王の称号を唱えます。イングランドによるアイルランド支配はエリザベス1世の時代に完成したといわれます。ですからアイルランドは連合王国に参加してまだ日が浅い状況でした。スコットランドもスチュアート朝成立で初めて同君連合になったので同じ国民という意識は薄かったはずです。もともとカトリック教徒の多いアイルランドは、イングランドで起こった清教徒革命には反発していました。そこへ戦争に敗れた国王派が多数流れ込んだのです。
 アイルランドの情勢をみたオランダのチャールズは1648年ダブリンに上陸します。ところが準備不足だった事もありこの時は撤退しました。1649年には最後までイングランドに留まっていた父チャールズ1世が処刑されます。クロムウェルは後顧の憂いを断つため自らアイルランドに遠征、これを平定しました。この時多くのアイルランド人が虐殺されたといわれます。以後アイルランドはイングランドの完全な植民地となりました。さらにクロムウェルはオランダ議会に圧力を掛けチャールズを追放させます。フランスに移ったチャールズは、1649年2月5日スコットランドが彼を国王に推戴すると宣言した事で6月にスコットランド上陸。1651年1月1日スクーンで戴冠式を挙げ正式にスコットランド王になりました。
 この動きに危機感を抱いたクロムウェルは自ら軍を率いスコットランドへ遠征します。1651年9月3日、クロムウェル率いるイングランド軍はチャールズのスコットランド軍をウスターの戦いで撃破、チャールズは再び大陸に逃げ戻りました。
 1652年に始まった第一次英蘭戦争は1654年ウェストミンスター条約で終結、講和条件の一つとしてスチュアート家に対するオラニエ・ナッサウ家(オランダ総督家)の援助停止が盛り込まれていました。おかげで兄チャールズを援助していた妹メアリー(総督ウィレム2世妃)さえもが1654年から3年間オランダ国内からの退去という厳しい処分を受けます。フランスも両ハプスブルク(スペイン、オーストリア)との戦争を抱えていたためイングランド共和国と結ぶ必要性があり、結局チャールズ一家はドイツのケルンに亡命宮廷を設けることになりました。
 着々と権力基盤を固めたクロムウェルは、1653年議会を解散させて終身護国卿となります。反対者は軍の力を背景に徹底的な弾圧を加えました。護国卿とは共和政ローマ時代の護民官の意味ですが、完全なる軍事独裁制で事実上国王と変わらぬ権力を有していました。
 クロムウェル時代は、フランス、オランダと結びスペイン・ハプスブルク家との対立を外交方針とします。英西戦争では艦隊を派遣しスペインからジャマイカ島を奪取しました。全国を11の軍管区に分け、軍政長官を派遣して支配します。反対者は弾圧を恐れ沈黙しました。ある意味王政時代よりも一般庶民にとっては暗黒時代だったかもしれません。
 クロムウェルは、お手盛りの議会から2度にわたって国王就任を求められますがこれを拒否、最後まで護国卿としてイギリスを支配しました。1658年インフルエンザを悪化させたクロムウェル死去。享年59歳。後を継いだ息子のリチャード・クロムウェルには父のようなカリスマ性はありませんでした。
 器量のない人間にありがちですが、第2代護国卿に就任したリチャードは父以上の権力を欲して議会を解散しようとします。ところがかえって議会の反発を受けわずか就任8カ月で辞任を余儀なくされました。辞任後は父の部下だったフリートウッド、ランバートらと議会で争いますが所詮小者同士、最終的に海軍司令官として戦功をあげ政治家に転身したジョージ・マンク(のちの初代アルべマール公)に敗れます。
 マンクは、王太子チャールズをイングランドへ迎え入れ1660年王政復古を実現させました。イングランド共和政はここに崩壊します。報復を恐れたリチャードはフランスに亡命、1680年イングランドに戻って余生を過ごしました。無能な人間は長生きするといわれますが彼も例外ではなく1712年85歳まで生きます。時の権力も人畜無害なリチャードを無視したため生き延びられたのだと思います。その意味では、器量のなさが長生きさせたのですから歴史の皮肉です。
 次回は、王政復古後のイギリスの混乱そして名誉革命によって一連の動乱が終わるまでを描きます。最終回名誉革命にご期待ください。

清教徒革命Ⅴ  国王処刑

 ネースビーの戦いの勝利によって優勢になった議会軍ですが、内部では戦後処理を巡って深刻な対立が生じます。穏健派の長老派と急進派の独立派でした。長老派というのは清教徒(ピューリタン)の一つの宗派で教会を長老制度で統一し他の宗派を許さず国民に厳格な宗教的統制を加えようとする一派です。スコットランドでも長老派が優勢で、彼らは宗教においては長老派支配の確立、政治においては法の下での議会支配の確立と王権の制限で利害が一致していました。
 長老派にはロンドンの大商人や地方のジェントリー階級の中でも大規模地主が多かったといわれます。門閥貴族ほどでないにしても莫大な財産を有する所謂持てる者だったわけです。既得権益を持っているだけにそれを失いかねない急進的な共和制には反対でした。国王の支配力が弱まれば良いだけで、王政廃止などという過激な動きは絶対に容認できないのです。議会派の大多数は長老派で占められます。
 ところがこの戦争で台頭してきたクロムウェルら新興勢力は、新たに得た権益を失わないためにも王政を廃止し共和制にすることが至上命題でした。彼らを独立派と呼びます。独立派は宗教的には各個人、各教会の独立を支持し比較的寛容でしたが、その政治的主張は過激でした。独立派は、さらに急進的左派の水平派とに分裂します。
 当時の議会の勢力図では、長老派が206名だったのに対し独立派はわずか88名に過ぎませんでした。ただ独立派はクロムウェルの新模範軍という軍隊を握っていた点が有利だったといえるでしょう。1647年10月、ロンドン近郊パトニーで水平派の提出した人民協約を巡って大討論会が開かれます。人民協約とは共和制を主張し、議会に対する人民の優越、各種の人権を謳った当時ではありえない革新的な主張でした。さすがにこれは共和制を支持する独立派からも危ぶまれ討論は3日で打ち切られます。
 長老派は、独立派と水平派の対立を利用すれば自派が優位に立てると踏みました。その頃国王チャールズ1世はスコットランドに亡命したもののそこで長老派同盟軍に捕われイングランドに送り返されていました。捕虜となっていたチャールズも議会派内の対立を利用し策謀を巡らせます。ところがこの動きは、逆に議会派を警戒させ国王が存在する限り革命が成功することはないと覚悟させることとなります。
 クロムウェル自身は立憲君主制を支持していたとされますが、国王のこのような姿を見て態度を硬化させます。チャールズ1世は何度も脱走しては挙兵、敗北、逮捕を繰り返しました。クロムウェルは、国王を廃し王太子を次の国王に据える案も持っていたそうですが自分を支持する独立派の大勢が国王処刑に傾いたため覚悟を決めます。クロムウェルは政治的利害では一致する水平派とも結びました。
 1649年1月、議会は国王を裁くため特別に高等裁判所を設置します。135名の委員が任命されますが、当時の感覚として国王を処刑することは冒涜行為だと考える者が多く半数以上が就任を拒否したといわれます。1月27日、ついに国王に判決が下されました。
 「チャールズ・スチュアートは暴君・反逆者・殺人者、この善良なものたちに対する公敵として斬首による死刑に処す」
 判決が下った時委員の一人フェアファックスは死刑に賛成せず、彼の妻は議長のクロムウェルを指さして
「クロムウェルこそ国家に対する反逆者です」と絶叫したと伝えられます。
 1649年1月30日、スチュアート朝第2代国王チャールズ1世は処刑台に上りました。国王が斬首された瞬間、見物していた数千人の群衆はうめき声をあげたそうです。有力市民、ジェントリー階級は革命を支持しても、一般国民の間では長い歴史を持つ王家に対する信頼がまだ残っていたのです。しかし、新模範軍という強力な軍隊を持つ議会派に逆らえば死を意味します。清教徒革命は一般国民の大多数の支持を得ることなく軍による独裁政権として続くこととなりました。
 次回は、革命政権の中で権力を掌握したクロムウェルの生涯を描きます。

清教徒革命Ⅳ  ネースビーの戦い

 クロムウェルが頭角を現したのは、エッジヒルの戦い(1642年10月)で議会派が敗戦した直後だと言われます。彼は議会軍のジョン・ハンプデン大佐に向かって「酒場の給仕や職人の軍隊で上流人士の騎士たちと戦を続けることは難しい。これからは信者の軍をつくらなければならない」と語ったそうです。
 実際、マスケット銃の時代に入って国王軍はそれに対する騎兵の使い方もよく研究していました。とうぜん精強なマスケット銃隊も擁しています。寄せ集めの議会軍に勝ち目はありませんでした。フランスやドイツで最終的に皇帝軍や国王軍が農民反乱に勝利したのも同じ理由です。
 クロムウェルは、ヨーマン(イングランド農民)の清教徒(ピューリタン)を中核とし信仰心に支えられた軍隊を作ります。彼らに激しい訓練を施し軍規も厳しいものでした。騎兵が中心だったのでこれを鉄騎隊と呼びます。1644年7月マーストンムアの戦いでその真価は早くも発揮されました。1000騎の鉄騎隊とともにこの戦いに参加したクロムウェルはここで大いに活躍し勝利に貢献します。
 マーストンムアはヨークの西方10kmにあり、国王軍はここに騎兵6千、歩兵1万1千、大砲14門、議会軍は騎兵7千5百、歩兵1万4千、大砲40門を集めました。珍しく双方1万を超える比較的大規模な戦いでしたがそれだけ重要な戦場だったといえます。当時の国王派と議会派の勢力範囲を示すと国王派はスコットランドの近いイングランド北部とウェールズ、コーンウォール半島のある西南部。これに対し議会派は中部から南部と東部のロンドンを含む大都市圏が地盤でした。ただ単純に色分けできないのは同じ州のうちでも既得権益を持っている大地主が一族郎党国王派に参加したのに対し都市は議会派に属するという複雑な勢力関係になっているところも多かったのです。おそらくですがジェントリーでありながら国王派に参加した者たちは、国教会かカトリックの信者で清教徒の多い議会派に反発していたのではないかと考えます。
 自らの軍隊をもったクロムウェルは、議会派の中で次第に台頭していきます。クロムウェルは自分の軍隊を拡充しマスケット銃隊も含めた新模範軍(ニューモデルアーミー)を創設しました。こうなってくると新模範軍=議会軍となってくるのも時間の問題でした。それと同時にクロムウェルは次第に議会派を牛耳るようになっていきます。
 1645年6月14日、両軍はノーサンプトンシャー州マーケット・ハールバラ近郊ネースビーで激突します。議会派はスコットランド教会同盟軍と結びこのころイングランド北部を制圧しつつありました。チャールズ1世は、最初寄せ集めの議会軍を侮っていたのですが次第にクロムウェルの新模範軍に押され始め焦っていたのです。チャールズの考えとしては、ここでクロムウェルの新模範軍を粉砕し同時に議会派に制圧されていたイングランド北部を回復することを目指しました。ただ、北部平定に軍隊を派遣しこの戦場に全軍を集結できなかったのが国王軍にとって悔やまれました。
 両軍の兵力を示しましょう。国王軍は騎兵7千、歩兵6千。議会軍は新模範軍を中核とし騎兵4千百、歩兵3千3百。重要な戦いにしては双方兵力が少ないのが気になります。両軍とも各地に部隊を派遣し決戦場に主力を集められないのが悩みでした。戦闘は午前10時国王軍が前進した事によってはじまります。右翼に布陣していたクロムウェル(当時中将)は、両軍の間にあるダストの丘に駆け上がってこれに対抗しました。左翼では、国王軍右翼のルパートが議会軍左翼のアイアトン少将の部隊に猛攻を掛け支えきれなくなったアイアトンは間もなく捕虜となります。このままルパートの軍が左に旋回し議会軍の右翼を包み込むように包囲すれば間違いなく国王軍の勝利でした。数の上でも国王軍が上回っていたのですから。
 ところがルパートは、敗走するアイアトン軍の追撃に夢中になり戦場から離れていきます。歴史ではその後の展開を左右する決定的瞬間がありますが、この時のルパートの戦場離脱もその一つ。まさに致命的な判断ミスでした。ですから両翼の指揮官は戦況判断ができる有能な人材でなければならないのです。
 9割方勝っていたはずの国王軍は、右翼が欠けたために優位を生かせなくなります。両軍の中央では激しい銃撃戦とパイク(長槍)の応酬が繰り広げられました。その間、クロムウェル直卒の新模範軍は国王軍左翼を圧迫しつつありました。やはり信仰心に支えられた鉄の規律が最後にものを言ったのです。クロムウェルはチャールズ1世の中軍に迫ります。国王は親衛隊にクロムウェルを撃退するよう命じました。ところがこの命令が誤って伝えられ親衛隊は後退してしまいます。
 クロムウェルは絶好の機会を見逃しませんでした。国王軍にできた致命的間隙に向けてすかさず突撃命令を下したのです。国王軍はこれを支えきれませんでした。この時、ルパートの追撃を振り切ったアイアトン軍も到着し議会軍は両翼から国王軍を包囲し始めます。本来なら国王軍がこうなるはずの展開でしたが完全に逆の形となりました。
 国王軍は総崩れとなります。チャールズ1世も身一つで戦場を脱しました。議会派はこの勝利をイングランド全土に宣伝し日和見を決めていた勢力もどんどん議会派に参加して行きました。国王軍は敗戦の痛手を回復できず、その後1年内戦は続きますが結局チャールズはスコットランドに亡命を余儀なくされます。いや亡命という言葉はおかしいですね。スコットランドも同君連合で国王なのですから。
 クロムウェル率いる議会軍は、完全に国王派に勝利し清教徒革命は無事成功するかに見えました。ところが議会派の優位が確定すると今度は議会派内部で戦後処理を巡って対立が表面化していきます。議会派の大勢を占めるのは穏健な解決を望む長老派でした。一方新興勢力のクロムウェルら独立派は王政を廃止し共和制にすべきだという過激な思想を持っていました。両者の対立は次第に深刻化していきます。
 次回、議会派内部の対立と国王チャールズ1世処刑を描きます。

清教徒革命Ⅲ  革命勃発

 イングランド議会が力を持ったのは税を審議できたからだと言われます。国王は国内統治するためにも戦争するためにも資金がなければ何もできません。チャールズ1世は議会が関与しない新税を創設したりしましたが国家予算の主要な財源は議会を通してしか得る事が出来ず彼らの力を削ぐまでには至りませんでした。
 まだこの時は庶民院の優越は確立していませんでしたが、地方の有力者であるジェントリー(郷紳)と都市の有力市民から成る庶民院は力をつけつつありました。当時のイングランドでは地方行政を担当する治安判事をジェントリーの中から選びました。チューダー朝末期にこれらジェントリー階級の治安判事がイングランド全土で700人もいたとされます。驚くのは彼らが無給で働いていた事でした。むしろ名誉と思っていたのです。彼らから選ばれる庶民院議員も当然無給でした。
 国王から給料をもらっているわけではないので、彼らの立場が強くなるのも当然でした。コモン・ローに絶対の忠誠を誓い、国王がそれに反したら遠慮なく批判できました。これは貴族院議員である有力貴族たちには出来ないことでした。多かれ少なかれ彼らは王権によって既得権益を与えられていたのですから。
 ジェントリーが始末に負えないのは、彼らの大半が清教徒(ピューリタン)である事でした。カルヴァン派プロテスタントは当時西ヨーロッパ世界を席巻しオランダ、フランスでも革命や反乱、戦争を巻き起こしていました。ここイングランドも例外ではなく、新興勢力であるジェントリーや都市の有力市民は皆カルヴァン派プロテスタントである清教徒となっていったのです。労働の尊さとそれによって得られる報酬は正当な権利だというカルヴァン派の考えが彼らに受け入れられたのは自然だったと言えます。
 自分たちを無視し続けるチャールズ1世に業を煮やした議会は、1628年国王に対して「権利の請願」を提出します。一応請願の形をとってはいますが、実体は人権の宣言でアメリカ独立宣言やフランス人権宣言にも大きな影響を与えました。この時はチャールズ1世も渋々受け入れたものの、怒りが収まる事はなく結局1629年議会を解散しました。チャールズ1世は、どうもフランス絶対王政を模範にしていたふしがありますがフランスとイングランドでは国王と議会の関係が決定的に違っていました。13世紀のマグナ・カルタ(大憲章)以来、イングランド王権は他国と比べて制限されていたのです。エリザベス1世のように、それを十分承知して議会を操縦できるなら問題なかったのですが、悲しいかなチャールズには器量がありませんでした。
 国王と議会の対立が決定的になったのはスコットランド問題でした。同君連合としてスコットランド王も兼ねていたチャールズ1世は、スコットランド教会にイングランドと同様イングランド国教会の勢力を植え付けようとします。その方が支配に都合が良かったからです。国教会の長は国王ですから。ところがこれにカルヴァン派の多かったスコットランド教会は猛反発し盟約を結んで兵力を集め始めます。チャールズ1世は、反乱を鎮圧するために軍を派遣しようとしますが、経費の捻出に苦慮しやむなく1640年11年ぶりに議会を招集しました。
 ところが、議員の堪りに堪った不満が爆発し国王のエゴによる出兵に猛反発、議会は大荒れになります。止むなく国王は3週間で議会を解散しました。これを短期議会と呼びます。再び選挙がおこなわれ新たな議会が招集されました。今回の議会は1653年クロムウェルによる解散まで12年半続いたのでこちらを長期議会と呼びます。ただし議員の頭を挿げ替えても結果は同じでした。
 国王と議会の対立は、議員たちに「王の側近たちを退けて悪政を改めさせる」という考えをもたらします。これは大半の穏健派の意見でしたが中には「国王そのものを除いて革命を起こすしかない」と主張する過激派も出現しました。議会の不穏な空気を悟ったチャールズ1世は、1642年王妃と共にロンドンを脱出しヨークに赴きます。議会は、国王に「公共の関する事は議会において決定する」という要求を出し、国王はこれを拒否しました。
 チャールズ1世は、ヨークからノッチンガムに移り軍隊を招集して力ずくで議会を制圧しようとします。議会側も対抗するため兵を集めました。革命の勃発です。議会勢力に清教徒(ピューリタン)が多かったためこれを清教徒革命と呼びます。
 中世では絶対に起こり得ない事件でした。というのもプロの軍隊である騎士を擁する国王の力は絶対で庶民がいくら集まっても無力だったからです。ところがマスケット銃の登場はこの図式を一変させます。ある程度訓練を積めばマスケット銃は誰でも扱えしかも集団で使用すれば騎士軍に十分対抗できました。当時は騎兵の力よりマスケット銃を使用する歩兵の力が上回り始めた時代だったと言えるでしょう。
 国王チャールズ1世を支持する勢力を国王派、清教徒を中心とした勢力を議会派と呼びます。国王派を構成したのはイングランド国教会(一部カトリック勢力も含む)に属する貴族たちでした。王権と自分たちの既得権益は不可分だったからです。彼らは既得権益が破壊されるのでジェントリーたち新興勢力が国を支配する事を恐れました。注意しなくてはならないのは、この争いは貴族やジェントリーたち国家の上層部に属する者たちのみで一般庶民にはまったく無関係だった事です。そのため戦闘の規模も小さく、戦場で万単位の軍隊を動員することは稀でした。だいたい数千人規模の戦いが続くと思ってください。
 最初は、常備軍を持つ国王派が優勢でした。いくら数が多いとはいえ議会派は戦争の素人。議会派が負けるのは時間の問題だったと思います。ところが議会派に一人の男が登場します。その名をオリバー・クロムウェル(1599年~1658年)といいました。
 イングランド東部ハンティンドンシャー州出身の熱心な清教徒。ケンブリッジ大学に学び1628年庶民院議員。1629年の議会解散後は故郷に帰り1640年の短期議会、長期議会ではケンブリッジから再び庶民院議員に選出されました。クロムウェルは1642年エッジヒルの戦いで議会派が敗北した直後に現れます。
 次回は、クロムウェルの活躍と清教徒革命を決定付けたネースビーの戦いを描きます。

清教徒革命Ⅱ  国王と議会

ヘンリー7世の娘マーガレットの血をひくとはいえジェームズ1世は、イングランド人にとっては外国人です。国王が即位すべくイングランド入りした時、一つの小さな事件が起こりました。王の行列が滞在したノッチンガム州ニューアークで一人のスリが捕まります。ジェームズは裁判もせずいきなり絞首刑にしてしまいました。
 王権の強いスコットランドでは当たり前でも、見ていたイングランド人の目には異様に映ります。そしてこれがのちの清教徒革命と王家の行く末を暗示していたとも言えます。
 ロンドンに到着したジェームズ1世(在位1603年~1625年)は、盛大な戴冠式を挙げ正式にイングランド国王として即位しました。ジェームズは、自分が外国人なので国民に不人気なのは十分承知しています。ゆえに、王権神授説を唱え徹底的な王権の強化に努めました。これがイングランド議会の反発を生みます。
 イングランド議会は中世以来の伝統を持ち、貴族院は1066年のノルマンコンクエスト後に創設されたイングランド貴族によって構成される国王諮問機関キュリア・レジス(国王裁判所)から分化したのが始まりとされます。庶民院も1254年シモン・ド・モンフォール反乱の際彼が招集した各州を代表する2名の騎士と封建都市を代表する2名の市民(ブルジョワ)から構成された議会をその起源とします。ただしここで言う庶民とは、一般市民ではもちろんなく貴族でない者つまり地方の地主階級であるジェントリー(郷紳 ジェントルマンの語源ともなった)と都市の有力市民の事である事は言うまでもありません。
 イギリス議会、特に貴族院は1215年ジョン王にマグナ・カルタ(大憲章)を認めさせるほど強力で、国王と言えど議会と対立して国を統治するのは困難だという存在でした。前の国王、エリザベス1世は議会操縦が巧みで小さな抵抗はあったもののほぼ女王の意向通りに議会を動かすことに成功します。ところがイングランド議会の特殊性を理解できてなかったジェームズ1世は、いたずらに議会と対立するのみでした。
 またジェームズ1世はイングランド国教会においても清教徒(ピューリタン、イギリスにおけるカルヴァン派プロテスタント)とカトリックの両極を排除することを宣言し、清教徒とカトリックの双方から憎まれます。ジェームズはますます意固地になり王権神授説にのめり込み議会を無視しました。一方、議会側はコモン・ロー(普通法)の概念を盾に取り抵抗します。コモン・ローとは簡単に言うとイギリスの長い伝統から生まれた慣習法で例え王であろうとこれに反する行動はできないという主張でした。そしてイングランドにおいては大多数の国民もコモン・ローの考え方を支持したのです。
 1621年の第3議会で国王と議会の対立は決定的になります。ジェームズ1世の側近で大法官の重職にあったフランシス・ベーコンが収賄の罪で議会で弾劾されたのです。ベーコンは収賄は認めたもののそれによって法を曲げることはなかったと主張しました。実は当時イギリス社会では便宜を図ったくれた者に対する贈与が一般化しており収賄との境界線は曖昧だったのです。ベーコンの弾劾は議会が国王に痛手を与えるための手段でした。
 怒ったジェームズ1世はベーコンの禁固を解き、それに対する議会の抗議文をずたずたに引き裂いて議会を解散させます。また議会に諮らず関税を決めたりしてその対立は激化の一途を辿りました。そんな中、ジェームズ1世は1625年亡くなります。後を継いだのは息子のチャールズ1世。
 国王と議会の対立を引きずったまま即位した新国王チャールズ1世。彼の治世に波乱が起こるのは目に見えていました。次回は、清教徒革命の勃発とクロムウェルの台頭を描きます。

清教徒革命Ⅰ  スチュアート朝の成立

 前回、フランスの中世から近世に脱皮するための産みの苦しみとしてユグノー戦争を描きました。清教徒革命とそれに連なる名誉革命は同じくイギリスが近世に突入するための産みの苦しみでした。フランスはユグノー戦争の後もフランス革命・ナポレオン戦争という大動乱を経て近代国家の礎を築きますが、イギリスは清教徒革命から名誉革命によってほぼ近代国家へと脱皮することに成功します。
 しかも、イギリスの場合は名誉革命の後議会制民主主義が確立し国王は「君臨すれども統治せず」という立憲君主制へと移行していきます。ナポレオン戦争時代、英王室が表に出てこず小ピットなど首相が対仏戦争を主導したのもそのためです。
 ただイギリスの一連の動乱の終息は、大きな犠牲なくしては成しえなかったものでした。中でも国王チャールズ1世の処刑は欧州各国に大きな衝撃を与えます。おそらくフランス革命後のルイ16世夫妻処刑に優るとも劣らない出来事だったと思います。
 それでは、まず清教徒革命に至ったイギリスの状況をスチュアート朝成立の過程を踏まえて説明したいと思います。一応断っておきますが、イギリスとはイングランド一国の意味ではなくユナイテッドキングダム(連合王国)全体を指すものと思ってください。なぜならスチュアート朝はイングランドとスコットランドを同君連合で支配した初めての王朝だからです。
 イギリスを列強の一角に押し上げたチューダー朝5代女王エリザベス1世は、生涯独身を貫き1603年69歳で永眠します。これによりヘンリー7世より始まったチューダー朝は断絶、エリザベス1世の生前の指名により姻戚関係にあったスコットランド王ジェームズ6世が後継者とされました。
 ところがジェームズの母スコットランド女王メアリーは、かつてエリザベス1世が庶出だとしてイングランド王位を主張して戦争になり両国の関係は冷え切っていました。ですから、エリザベス1世の遺言というのは怪しい話ではあります。おそらく国王不在となるのを恐れたイングランド側とジェームズの利害が一致しての王位継承だったと思います。
 1603年7月、ジェームズ6世はイングランド国王として即位しジェームズ1世と名乗りました。イングランドとスコットランドは同君連合となります。スチュアート朝の成立です。ちなみにスチュアートというのはスコットランド語で宮宰の意味で、ジェームズの父ダーンリー卿ヘンリー・スチュアートの家門名でした。
 ジェームズの母、メアリー・スチュアートも波乱の生涯を送った人です。彼女の母はフランスの有力貴族ギーズ家の出身で彼女自身も最初の結婚相手はフランス国王フランソワ2世でした。もちろん政略結婚です。ところがフランソワ2世は病弱で結婚4年目で病死。18歳の幼妻メアリーは若くして未亡人となります。
 メアリーはスコットランド女王でしたから再婚話が相次ぎますが、フランソワの母で摂政のカトリーヌ・ド・メディシスは新たな政略結婚によってフランスが不利になる事を恐れことごとく邪魔しました。結局メアリーはスコットランドの有力貴族ダーンリー卿ヘンリー・スチュアートと再婚します。二人の間に初めて子供ができ、ジェームズと名付けられました。
 ここまで読むと彼女を運命に翻弄された薄幸の女性だと思いがちですが、実際はとんでもない女傑でした。隣国イングランドでエリザベス1世が即位すると自分もチューダー家の血を引くという理由で王位継承権を主張しエリザベスと戦争します。国内でも寵臣を寵愛し高い地位を与えた事から門閥貴族と対立し、最後はスコットランドを叩き出され、事もあろうにライバル、エリザベス1世のイングランドに亡命するという離れ業まで演じます。ここで静かな余生を送れば良かったはずですが、なんとエリザベス廃位の陰謀に加担、女王の逆鱗に触れ処刑されてしまいました。
 実は、息子ジェームズもダーンリー卿との間の子かどうか怪しいという説もあります。史家の中には当時の寵臣・秘書のダヴィット・リッチオとの間に生まれた子なのではないかという者もいるほどです。噂は当時からあったらしく、女王の権力によって性格の弱い夫ダーンリー卿に実子だと認めさせたといわれます。とんでもない女性ですが、私は嫌いではないです(笑)。ただし自分の親類縁者にこんな人がいるのはご勘弁願いますが…。
 ともかく、スコットランドからイングランドに入って王位を継いだジェームズ1世(在位1603年~1625年)は、イングランド生え抜きではないということで国民の尊敬を受けにくかっただろうと想像します。そしてそれが清教徒革命へと繋がったのでしょう。
 次回清教徒とはどのような存在か、そして国王と議会の対立から清教徒革命勃発に至る歴史を記します。

団琢磨と血盟団事件

 最初に全然関係ない話から。司馬遼太郎の短編小説に『女は遊べ物語』というものがあります。主人公伊藤七蔵政国は織田信長に仕える武士ですが、妻と妾の浪費癖のおかげで武功をあげて所領を貰っても軍役を果たす事が出来ず信長の怒りを買います。ところがそれを見ていた秀吉が貰い受け、土地の代わりに武功をあげたら金銭を与える方式に切り替えました。七蔵は相変わらずみすぼらしい身なりながら武功をあげ続け、その恩賞は莫大な金額になります。そして、女の浪費はたかが知れているため巨富を築き、七蔵は武士を辞め近江商人として成功したという話です。
 大商人となった者には意外と武士出身者が多いような気がします。有名な大阪の豪商鴻池も山中鹿介幸盛の長男幸元だと言われますし、三井財閥の創始者三井高俊も慶長年間武士を廃業し伊勢商人になったのだそうです。三井高俊は最初質屋を本業とし酒や味噌を商いました。その時の屋号が越後屋。時代劇で悪徳商人の屋号に越後屋が多いのは、それが大商人の代名詞だからです。
 高俊の四男高利は、1673年江戸に進出し越後屋三井呉服店を開きました。これが三越のルーツだそうですが、越後屋は「店頭売り」「現金安売り掛け値なし」で大成功し両替商にも手を出し幕府御用商人に出世。江戸屈指の豪商となったのです。
 ちなみに四大財閥のうち三菱は岩崎弥太郎が維新後に築き上げ、三井は伊勢商人出身、住友は近江商人出身、安田は安田善次郎が幕末明治期に勃興させました。明治期に入ると、三井も近代化に迫られます。1876年(明治9年)三井銀行創設を皮切りに三井物産、三井鉱山などを次々と作り上げ三井本体は持株会社として傘下企業を支配しました。この持株会社支配というのが戦前の財閥の特徴で、戦後は財閥解体によって持株会社が禁止されます。ところが旧財閥はその主体を銀行支配に切り替え実業を持つ銀行が傘下企業の株を持つ形態に変わって現在に至っています。
 三井財閥発展の過程で創業者三井一族は株の配当を受け取るだけの存在になり、財閥自体は明治の中ごろ維新の元勲井上馨の知己だった中津藩出身の中上川彦次郎が三井に入って近代的企業体に改革します。以後三井財閥の経営は総帥と呼ばれる今で言うところのCEO(最高経営責任者)が負うこととなったのです。
 団琢磨(1858年~1932年)もそんな三井財閥総帥の一人です。福岡藩馬廻役神尾家に生まれ勘定奉行団家に養子に入ります。藩校修猷館に学び、明治4年には金子堅太郎と共に岩倉遣欧使節団に同行そのまま留学します。金子はハーバード大に進み、団はマサチューセッツ工科大学鉱山学科で学んだそうです。大変な秀才だったのでしょう。帰国しても金子との交流は続き、その妹を娶り義弟となったほどです。
 最初は大学で工学を教え、その後官界に転じます。官営の三池鉱山技師(福岡県大牟田市)となりますが1988年(明治21年)三池鉱山が三井に払い下げられると団もそのまま三井に移り三井三池炭鉱社事務長になりました。三大工事と言われた三池港築港、三池鉄道の敷設、大牟田川の浚渫を成功させ1909年(明治42年)三井鉱山会長になった時には、その利益が三井銀行を追い抜き三井物産と肩を並べるドル箱となります。
 当時の石炭産業はエネルギーの花形産業、莫大な利益をあげたのも納得できます。もちろん団の手腕もあったのでしょう。団は三井三池鉱山の財力を背景に三井グループ内で発言力を増し1914年(大正3年)には益田孝の後を受け三井財閥総帥に就任しました。
 1917年日本工業倶楽部創設初代理事長、1922年日本経済連盟会(のちの日本経済団体連合会)設立、翌年会長。名実ともに日本経済会のリーダーとなり男爵位を授けられるほどでした。わが世の春を謳歌していた団琢磨が何故暗殺されなければならなかったのか?その時代背景を見てみましょう。
 1929年アメリカで端を発した世界恐慌は日本にも影響を与え昭和恐慌と呼ばれる空前の大不況期を迎えていました。現在の日本も苦しんでいる深刻なデフレです。世界各国は自国経済を守るためにブロック経済を進め、持たざる国日本はさらに苦境に追い込まれます。企業倒産は相次ぎ、東北などでは生きるために娘を奉公人や売春婦として売らざるを得なかったのです。
 しかし、日本国内でも財を持っている者には関係なく庶民の苦しみとは無縁の生活を続けていました。彼らは庶民の憎しみを買います。日蓮宗の僧侶だった井上日召はこのような狂った世の中に義憤を感じ、1931年政治結社『血盟団』を結成しました。血盟団は、財閥から莫大な献金を貰う腐敗した政党政治家、悪徳商人と目された財界の大物たちを、私利私欲で国利民福を思わない極悪人と断じ一人一殺のテロで世の中を変える事を目指します。
 もちろんテロは絶対に容認されるものではありません。ただ、当時の時代背景を考えると庶民の苦しみと特権階級の贅沢な暮しを比べ、怒りを覚える者も多かったはずです。515事件にしても226事件にしても娘を身売りせざるを得なかった東北の貧しい庶民と同じ環境の青年将校たちが義憤を感じるのも理解できるのです。当時の特権階級は確かに腐敗していたと思います。現代でも薄汚い利権政治家とそれに結託した悪徳財界人がいますよね。具体名は挙げませんが、「正社員を廃止して労働者を全員派遣にしてしまえ」とほざいた売国奴(いや日本人ですらないが…)などすぐ頭に浮かびます。このような屑は天誅を受けて当然なのです。
 団琢磨が、今の某財界人や当時の政商のように悪逆非道な手段で金儲けをしていたかどうかは知りません。ただそういう連中の代表格と見られていたのは事実でしょう。血盟団はテロ対象として三井財閥総帥団琢磨の他に、犬養毅、西園寺公望、井上準之助など政財界の大物を選んでいました。
 最初の犠牲者は前蔵相で民政党幹事長の井上準之助でした。これが1932年2月。三井財閥はドル買いで巨利をあげていたため井上日召の怒りを買っていたといいます。団琢磨が暗殺対象に入っている事は本人の元にも届いていました。
 これを聞いた側近は、団に外出を極力控えるよう進言したそうです。ところが団は武士出身らしく命惜しさで逃げ隠れることに恥を感じこれを拒否します。そして1932年3月5日、三井本館に入ろうとした団は、血盟団員菱沼五郎の放った凶弾に倒れました。享年73歳。
 団琢磨暗殺は、当時のすさんだ世相の象徴でした。まもなく警察は井上準之助と団琢磨暗殺が血盟団の犯行であると突き止めます。関係者14名が逮捕され井上日召ら三名が無期懲役、それ以外も実刑が科せられました。当時の日本の刑法を知らないので想像でしかありませんが、彼らが死刑にならなかったのは庶民の無言の同情があったからかもしれません。
 時代は戦争への道を進んで行きます。血盟団の残党は515事件にも関与したそうです。テロは絶対に容認できませんが、今の世相を考えると天誅という言葉は有り得ると思うのは私だけでしょうか?

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