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2015年3月 1日 (日)

清教徒革命Ⅰ  スチュアート朝の成立

 前回、フランスの中世から近世に脱皮するための産みの苦しみとしてユグノー戦争を描きました。清教徒革命とそれに連なる名誉革命は同じくイギリスが近世に突入するための産みの苦しみでした。フランスはユグノー戦争の後もフランス革命・ナポレオン戦争という大動乱を経て近代国家の礎を築きますが、イギリスは清教徒革命から名誉革命によってほぼ近代国家へと脱皮することに成功します。
 しかも、イギリスの場合は名誉革命の後議会制民主主義が確立し国王は「君臨すれども統治せず」という立憲君主制へと移行していきます。ナポレオン戦争時代、英王室が表に出てこず小ピットなど首相が対仏戦争を主導したのもそのためです。
 ただイギリスの一連の動乱の終息は、大きな犠牲なくしては成しえなかったものでした。中でも国王チャールズ1世の処刑は欧州各国に大きな衝撃を与えます。おそらくフランス革命後のルイ16世夫妻処刑に優るとも劣らない出来事だったと思います。
 それでは、まず清教徒革命に至ったイギリスの状況をスチュアート朝成立の過程を踏まえて説明したいと思います。一応断っておきますが、イギリスとはイングランド一国の意味ではなくユナイテッドキングダム(連合王国)全体を指すものと思ってください。なぜならスチュアート朝はイングランドとスコットランドを同君連合で支配した初めての王朝だからです。
 イギリスを列強の一角に押し上げたチューダー朝5代女王エリザベス1世は、生涯独身を貫き1603年69歳で永眠します。これによりヘンリー7世より始まったチューダー朝は断絶、エリザベス1世の生前の指名により姻戚関係にあったスコットランド王ジェームズ6世が後継者とされました。
 ところがジェームズの母スコットランド女王メアリーは、かつてエリザベス1世が庶出だとしてイングランド王位を主張して戦争になり両国の関係は冷え切っていました。ですから、エリザベス1世の遺言というのは怪しい話ではあります。おそらく国王不在となるのを恐れたイングランド側とジェームズの利害が一致しての王位継承だったと思います。
 1603年7月、ジェームズ6世はイングランド国王として即位しジェームズ1世と名乗りました。イングランドとスコットランドは同君連合となります。スチュアート朝の成立です。ちなみにスチュアートというのはスコットランド語で宮宰の意味で、ジェームズの父ダーンリー卿ヘンリー・スチュアートの家門名でした。
 ジェームズの母、メアリー・スチュアートも波乱の生涯を送った人です。彼女の母はフランスの有力貴族ギーズ家の出身で彼女自身も最初の結婚相手はフランス国王フランソワ2世でした。もちろん政略結婚です。ところがフランソワ2世は病弱で結婚4年目で病死。18歳の幼妻メアリーは若くして未亡人となります。
 メアリーはスコットランド女王でしたから再婚話が相次ぎますが、フランソワの母で摂政のカトリーヌ・ド・メディシスは新たな政略結婚によってフランスが不利になる事を恐れことごとく邪魔しました。結局メアリーはスコットランドの有力貴族ダーンリー卿ヘンリー・スチュアートと再婚します。二人の間に初めて子供ができ、ジェームズと名付けられました。
 ここまで読むと彼女を運命に翻弄された薄幸の女性だと思いがちですが、実際はとんでもない女傑でした。隣国イングランドでエリザベス1世が即位すると自分もチューダー家の血を引くという理由で王位継承権を主張しエリザベスと戦争します。国内でも寵臣を寵愛し高い地位を与えた事から門閥貴族と対立し、最後はスコットランドを叩き出され、事もあろうにライバル、エリザベス1世のイングランドに亡命するという離れ業まで演じます。ここで静かな余生を送れば良かったはずですが、なんとエリザベス廃位の陰謀に加担、女王の逆鱗に触れ処刑されてしまいました。
 実は、息子ジェームズもダーンリー卿との間の子かどうか怪しいという説もあります。史家の中には当時の寵臣・秘書のダヴィット・リッチオとの間に生まれた子なのではないかという者もいるほどです。噂は当時からあったらしく、女王の権力によって性格の弱い夫ダーンリー卿に実子だと認めさせたといわれます。とんでもない女性ですが、私は嫌いではないです(笑)。ただし自分の親類縁者にこんな人がいるのはご勘弁願いますが…。
 ともかく、スコットランドからイングランドに入って王位を継いだジェームズ1世(在位1603年~1625年)は、イングランド生え抜きではないということで国民の尊敬を受けにくかっただろうと想像します。そしてそれが清教徒革命へと繋がったのでしょう。
 次回清教徒とはどのような存在か、そして国王と議会の対立から清教徒革命勃発に至る歴史を記します。

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