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2015年3月 1日 (日)

清教徒革命Ⅵ  護国卿クロムウェル

 イングランド国王チャールズ1世の処刑は欧州中に衝撃を与えました。なかでもフランスはアンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスがチャールズの正室となっていたため激しく反発します。さらにはオランダもチャールズ1世の娘メアリー・ヘンリエッタ・スチュアートがオランダ総督ウィレム2世に嫁いでいたためスチュアート王家に同情的でした。
 またイングランド国内でも、公然たる非難こそないものの一般大衆は議会派が国王を処刑した事を支持していませんでした。そんな中、革命を成功させた議会派内部では熾烈な権力闘争が起こりました。新模範軍という強力な軍隊を擁する独立派の指導者オリバー・クロムウェルは軍の力を背景に穏健な長老派を追放、独立派から別れた急進左派の水平派も弾圧します。
 イングランド王国は、1649年5月イングランド共和国(コモンウェルス)と成りました。実はその前の3月、議会は正式に君主制の廃止を決議していました。さらには貴族院が君主制と密接に結びつき人民に無用有害として解散させています。それを踏まえての共和制でした。ただしその実態は独立派を指導するクロムウェルを最高権力者とした独裁国家だったと言えます。
 共和国の指導者となったクロムウェルは、中産階級の権益を保護する姿勢をみせ重商主義を推し進めます。まさに彼の権力基盤が中産階級だったからです。ところで国王チャールズ1世を処刑された後のスチュアート王家はどうなっていたでしょうか?実はチャールズ1世の息子で王太子のチャールズ(のちの2世)は1646年母の実家があるフランスに亡命していました。これには国王である父を除く家族全員が付き従ったそうです。1648年には義弟のオランダ総督ウィレム2世を頼ってオランダ、ハーグに移り住みました。
 ちなみに、時のフランス国王ルイ14世も母方の従兄弟にあたります。イングランド国内で議会派が勝利を収めたとはいえアイルランドやスコットランドはまだまだ国王派が多く潜在的脅威となっていました。この中でアイルランドは特殊な地位だったので簡単に歴史を説明しておきましょう。
 アイルランドはもともとケルト系民族の独立国でした。ところが8世紀頃からブリテン島と同様ノルマン人(ヴァイキング)の侵略を受けその後もイングランドから入植者が相次ぎ特にアイルランド東岸のウォーターフォードから東アルスターにかけてはアイルランド卿領としてイングランドの封建支配を受けます。この後何度かアイルランド人がイングランド支配からの脱出を図って蜂起しますがそのたびに強大なイングランドの軍事力に圧殺されました。
 イングランド国王はアイルランド現地諸侯が認めないにもかかわらず勝手にアイルランド国王の称号を唱えます。イングランドによるアイルランド支配はエリザベス1世の時代に完成したといわれます。ですからアイルランドは連合王国に参加してまだ日が浅い状況でした。スコットランドもスチュアート朝成立で初めて同君連合になったので同じ国民という意識は薄かったはずです。もともとカトリック教徒の多いアイルランドは、イングランドで起こった清教徒革命には反発していました。そこへ戦争に敗れた国王派が多数流れ込んだのです。
 アイルランドの情勢をみたオランダのチャールズは1648年ダブリンに上陸します。ところが準備不足だった事もありこの時は撤退しました。1649年には最後までイングランドに留まっていた父チャールズ1世が処刑されます。クロムウェルは後顧の憂いを断つため自らアイルランドに遠征、これを平定しました。この時多くのアイルランド人が虐殺されたといわれます。以後アイルランドはイングランドの完全な植民地となりました。さらにクロムウェルはオランダ議会に圧力を掛けチャールズを追放させます。フランスに移ったチャールズは、1649年2月5日スコットランドが彼を国王に推戴すると宣言した事で6月にスコットランド上陸。1651年1月1日スクーンで戴冠式を挙げ正式にスコットランド王になりました。
 この動きに危機感を抱いたクロムウェルは自ら軍を率いスコットランドへ遠征します。1651年9月3日、クロムウェル率いるイングランド軍はチャールズのスコットランド軍をウスターの戦いで撃破、チャールズは再び大陸に逃げ戻りました。
 1652年に始まった第一次英蘭戦争は1654年ウェストミンスター条約で終結、講和条件の一つとしてスチュアート家に対するオラニエ・ナッサウ家(オランダ総督家)の援助停止が盛り込まれていました。おかげで兄チャールズを援助していた妹メアリー(総督ウィレム2世妃)さえもが1654年から3年間オランダ国内からの退去という厳しい処分を受けます。フランスも両ハプスブルク(スペイン、オーストリア)との戦争を抱えていたためイングランド共和国と結ぶ必要性があり、結局チャールズ一家はドイツのケルンに亡命宮廷を設けることになりました。
 着々と権力基盤を固めたクロムウェルは、1653年議会を解散させて終身護国卿となります。反対者は軍の力を背景に徹底的な弾圧を加えました。護国卿とは共和政ローマ時代の護民官の意味ですが、完全なる軍事独裁制で事実上国王と変わらぬ権力を有していました。
 クロムウェル時代は、フランス、オランダと結びスペイン・ハプスブルク家との対立を外交方針とします。英西戦争では艦隊を派遣しスペインからジャマイカ島を奪取しました。全国を11の軍管区に分け、軍政長官を派遣して支配します。反対者は弾圧を恐れ沈黙しました。ある意味王政時代よりも一般庶民にとっては暗黒時代だったかもしれません。
 クロムウェルは、お手盛りの議会から2度にわたって国王就任を求められますがこれを拒否、最後まで護国卿としてイギリスを支配しました。1658年インフルエンザを悪化させたクロムウェル死去。享年59歳。後を継いだ息子のリチャード・クロムウェルには父のようなカリスマ性はありませんでした。
 器量のない人間にありがちですが、第2代護国卿に就任したリチャードは父以上の権力を欲して議会を解散しようとします。ところがかえって議会の反発を受けわずか就任8カ月で辞任を余儀なくされました。辞任後は父の部下だったフリートウッド、ランバートらと議会で争いますが所詮小者同士、最終的に海軍司令官として戦功をあげ政治家に転身したジョージ・マンク(のちの初代アルべマール公)に敗れます。
 マンクは、王太子チャールズをイングランドへ迎え入れ1660年王政復古を実現させました。イングランド共和政はここに崩壊します。報復を恐れたリチャードはフランスに亡命、1680年イングランドに戻って余生を過ごしました。無能な人間は長生きするといわれますが彼も例外ではなく1712年85歳まで生きます。時の権力も人畜無害なリチャードを無視したため生き延びられたのだと思います。その意味では、器量のなさが長生きさせたのですから歴史の皮肉です。
 次回は、王政復古後のイギリスの混乱そして名誉革命によって一連の動乱が終わるまでを描きます。最終回名誉革命にご期待ください。

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