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2015年3月 1日 (日)

清教徒革命Ⅲ  革命勃発

 イングランド議会が力を持ったのは税を審議できたからだと言われます。国王は国内統治するためにも戦争するためにも資金がなければ何もできません。チャールズ1世は議会が関与しない新税を創設したりしましたが国家予算の主要な財源は議会を通してしか得る事が出来ず彼らの力を削ぐまでには至りませんでした。
 まだこの時は庶民院の優越は確立していませんでしたが、地方の有力者であるジェントリー(郷紳)と都市の有力市民から成る庶民院は力をつけつつありました。当時のイングランドでは地方行政を担当する治安判事をジェントリーの中から選びました。チューダー朝末期にこれらジェントリー階級の治安判事がイングランド全土で700人もいたとされます。驚くのは彼らが無給で働いていた事でした。むしろ名誉と思っていたのです。彼らから選ばれる庶民院議員も当然無給でした。
 国王から給料をもらっているわけではないので、彼らの立場が強くなるのも当然でした。コモン・ローに絶対の忠誠を誓い、国王がそれに反したら遠慮なく批判できました。これは貴族院議員である有力貴族たちには出来ないことでした。多かれ少なかれ彼らは王権によって既得権益を与えられていたのですから。
 ジェントリーが始末に負えないのは、彼らの大半が清教徒(ピューリタン)である事でした。カルヴァン派プロテスタントは当時西ヨーロッパ世界を席巻しオランダ、フランスでも革命や反乱、戦争を巻き起こしていました。ここイングランドも例外ではなく、新興勢力であるジェントリーや都市の有力市民は皆カルヴァン派プロテスタントである清教徒となっていったのです。労働の尊さとそれによって得られる報酬は正当な権利だというカルヴァン派の考えが彼らに受け入れられたのは自然だったと言えます。
 自分たちを無視し続けるチャールズ1世に業を煮やした議会は、1628年国王に対して「権利の請願」を提出します。一応請願の形をとってはいますが、実体は人権の宣言でアメリカ独立宣言やフランス人権宣言にも大きな影響を与えました。この時はチャールズ1世も渋々受け入れたものの、怒りが収まる事はなく結局1629年議会を解散しました。チャールズ1世は、どうもフランス絶対王政を模範にしていたふしがありますがフランスとイングランドでは国王と議会の関係が決定的に違っていました。13世紀のマグナ・カルタ(大憲章)以来、イングランド王権は他国と比べて制限されていたのです。エリザベス1世のように、それを十分承知して議会を操縦できるなら問題なかったのですが、悲しいかなチャールズには器量がありませんでした。
 国王と議会の対立が決定的になったのはスコットランド問題でした。同君連合としてスコットランド王も兼ねていたチャールズ1世は、スコットランド教会にイングランドと同様イングランド国教会の勢力を植え付けようとします。その方が支配に都合が良かったからです。国教会の長は国王ですから。ところがこれにカルヴァン派の多かったスコットランド教会は猛反発し盟約を結んで兵力を集め始めます。チャールズ1世は、反乱を鎮圧するために軍を派遣しようとしますが、経費の捻出に苦慮しやむなく1640年11年ぶりに議会を招集しました。
 ところが、議員の堪りに堪った不満が爆発し国王のエゴによる出兵に猛反発、議会は大荒れになります。止むなく国王は3週間で議会を解散しました。これを短期議会と呼びます。再び選挙がおこなわれ新たな議会が招集されました。今回の議会は1653年クロムウェルによる解散まで12年半続いたのでこちらを長期議会と呼びます。ただし議員の頭を挿げ替えても結果は同じでした。
 国王と議会の対立は、議員たちに「王の側近たちを退けて悪政を改めさせる」という考えをもたらします。これは大半の穏健派の意見でしたが中には「国王そのものを除いて革命を起こすしかない」と主張する過激派も出現しました。議会の不穏な空気を悟ったチャールズ1世は、1642年王妃と共にロンドンを脱出しヨークに赴きます。議会は、国王に「公共の関する事は議会において決定する」という要求を出し、国王はこれを拒否しました。
 チャールズ1世は、ヨークからノッチンガムに移り軍隊を招集して力ずくで議会を制圧しようとします。議会側も対抗するため兵を集めました。革命の勃発です。議会勢力に清教徒(ピューリタン)が多かったためこれを清教徒革命と呼びます。
 中世では絶対に起こり得ない事件でした。というのもプロの軍隊である騎士を擁する国王の力は絶対で庶民がいくら集まっても無力だったからです。ところがマスケット銃の登場はこの図式を一変させます。ある程度訓練を積めばマスケット銃は誰でも扱えしかも集団で使用すれば騎士軍に十分対抗できました。当時は騎兵の力よりマスケット銃を使用する歩兵の力が上回り始めた時代だったと言えるでしょう。
 国王チャールズ1世を支持する勢力を国王派、清教徒を中心とした勢力を議会派と呼びます。国王派を構成したのはイングランド国教会(一部カトリック勢力も含む)に属する貴族たちでした。王権と自分たちの既得権益は不可分だったからです。彼らは既得権益が破壊されるのでジェントリーたち新興勢力が国を支配する事を恐れました。注意しなくてはならないのは、この争いは貴族やジェントリーたち国家の上層部に属する者たちのみで一般庶民にはまったく無関係だった事です。そのため戦闘の規模も小さく、戦場で万単位の軍隊を動員することは稀でした。だいたい数千人規模の戦いが続くと思ってください。
 最初は、常備軍を持つ国王派が優勢でした。いくら数が多いとはいえ議会派は戦争の素人。議会派が負けるのは時間の問題だったと思います。ところが議会派に一人の男が登場します。その名をオリバー・クロムウェル(1599年~1658年)といいました。
 イングランド東部ハンティンドンシャー州出身の熱心な清教徒。ケンブリッジ大学に学び1628年庶民院議員。1629年の議会解散後は故郷に帰り1640年の短期議会、長期議会ではケンブリッジから再び庶民院議員に選出されました。クロムウェルは1642年エッジヒルの戦いで議会派が敗北した直後に現れます。
 次回は、クロムウェルの活躍と清教徒革命を決定付けたネースビーの戦いを描きます。

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