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2015年4月

2015年4月 2日 (木)

バーブルとムガール朝興亡史Ⅴ 北インドの覇者(終章)

 1206年、ゴール朝のマムルーク(軍人奴隷)あがりアイバクのデリー征服から始まったデリースルタン朝は、アイバクの奴隷王朝からハルジー朝、トゥグラル朝、サイード朝と続き1520年代には最後の王朝ロディ朝が君臨していました。デリーを都としその版図は北インド全域に広がります。
 彼らは皆、トルコ系かアフガン系のイスラム教徒でしたから国民の大多数を占めるヒンズー教徒にとっては同じような征服王朝だと映っていたに違いありません。当時のインド亜大陸は騎兵が活躍できる北インドのヒンドゥスタン平原だけがイスラム勢力に征服されただけで、デカン高原以南はドラヴィダ系のヴィジャヤナガル王国などが栄えた別天地でした。デカン高原の山岳地帯や南部の熱帯地方はイスラム勢力の騎兵の侵入を許さない自然の障壁だったのです。
 当時ロディ朝はイブラヒームがスルタンでしたが、彼の叔父でパキスタン中東部ラホール太守だったダウラト・ハンはスルタン位を狙って隣国バーブルに援軍を求めます。自国の権力争いに外国を引き込むのですからとんでもない売国奴ですが、インド進出の機会を狙っていたバーブルにとっては願ってもない好機でした。バーブルは後顧の憂いを断つべく宿敵ウズベク・ウルスに隣接するバダフシャーンの守りを長男フマーユーンに命じます。そして自らは1万2千の兵を率いてカブールを出発しました。時に1525年、バーブル42歳。
 兵力は少なくとも、バーブル軍はこの地では珍しくマスケット銃隊と砲兵隊を擁していました。すでに何度かの遠征でパンジャブ地方の入り口ビーラは占領していたので北インド侵攻は容易でした。一方ロディ朝は間の悪い事に南西に接するラージプート族と戦争の真っ最中でした。反乱者ダウラト・ハンにとってはそこが狙いでしたが、バーブルにとっても同じでした。裏切り者ダウラト・ハンはバーブルの攻撃を受け降伏します。結局外患を誘致しただけの存在でした。
 破竹の勢いで進軍するバーブル軍は、パンジャブ地方を完全に平定し1526年4月デリーの入り口70kmのパーニーパットに布陣します。この頃にはインド土侯が次々と参陣し総勢2万4千に膨れ上がっていました。ロディ朝イブラヒームは12万の大軍を集結させます。
 4月21日早朝、両軍は激突しました。イブラヒームはこの戦いに千頭の戦象を集めたそうですが、おそらく生まれて初めて目にするバーブル軍のマスケット銃と大砲に前に大混乱となり潰走します。戦闘は正午までには決着がついたそうです。この戦いを第1次パーニーパットの戦いと呼びます。なお30年後同じ地でバーブルの孫アクバルが戦いますがこちらは第2次パーニーパットの戦いです。
 北インドの覇権を決める戦いが何度も同じ地で起こるのはそれだけ戦略上の要衝だったからなのでしょう。現在の地図を見てもよく分かりませんが、おそらく日本で言えば関ヶ原のような位置を占めていたと思います。想像ですが、パンジャブ方面からデリーに抜ける街道の山間部を出たところ。デリー側はこの地で防がなければ後はデリーまで平坦地が続き防衛拠点を築けないという要地だったのでしょう。
 ロディ朝最後のスルタン、イブラヒームはパーニーパットで戦死しました。これによってロディ朝は崩壊します。バーブルはデリーに入城しアグラも制圧しました。周囲の勢力は未だ従っていません。バーブルの家臣たちは、半年に及ぶ遠征に疲れインドの暑い気候にも参っていた事からカブール帰還を訴えます。しかしバーブルの決意は固く、苦労して家臣たちにインドを放棄する愚を説きました。この頃からぼつぼつと周辺諸侯が臣従をはじめ、バーブルは彼らを繋ぎとめるために連日大宴会を行います。バーブルは酒好きだったと伝えられますが、同時にそれは政治的意味もあったと私は考えます。
 順調に見えたバーブルの前に1526年12月、事件が起こります。イブラヒームの母親がインド人の料理人に命じてバーブルに毒を盛らせたのです。幸いな事に少量口にして意変に気付いたため死には至らなかったのですが、それでも回復には5日間かかりました。怒りの収まらないバーブルはこの事件に関係した料理人や毒見役を全員処刑しますが、イブラヒームの母親に対しては監視を強めただけでした。これをバーブルの寛大さと取るか、甘さと取るか。どちらにしろ未だバーブルの覇権は不安定で旧支配者に対してもある程度の配慮が必要だった事だけは理解できます。
 1527年、最大の危機が訪れます。ラージプート族の首長ラーナー・サンガーがついに対バーブル戦争に立ち上がったのです。ラージプート族というのは、その起源は5世紀ごろ中央アジアから渡ってきたイラン系、あるいはトルコ系の遊牧民族だとされますがカーストの武士階級クシャトリアの子孫を称する戦闘民族でした。ラーナー・サンガーは二十万の兵力を集めます。
 1527年3月17日バーブルも軍を率いアグラ西方バヤーナ郊外カーヌワーハに布陣してこれを迎え撃ちます。この時のバーブル軍の兵力は不明ですがおそらく数万。ラージプート軍と比べると著しく劣勢でした。バーブルはこの戦いで、オスマン軍がイスマイール1世のサファビー軍を破った時の戦法を採用します。中軍の前面に連結した荷車を並べその後ろにマスケット銃隊や砲兵隊を並べました。騎兵は両翼に配します。
 カーヌワーハの戦いは、パーニーパット以上の激戦だったと伝えられますが、ここでもマスケット銃と大砲が威力を発揮します。ラージプート軍は大損害を出して敗走しました。こうして勝利を得たバーブルはやっと北インドの覇権を手にします。インド最強のラージプート族を破ったという報は北インド各地を駆け巡りそれまで臣従してこなかった諸侯も次々とバーブルの元に参集しました。ラージプート族も敗戦後各個撃破され最終的にはバーブルに従います。
 こうしてバーブルは北インドを平定します。彼の帝国は本来ならバーブル朝と言うべきですがインドの人々はティムールとモンゴルを同一視していたためモンゴルのペルシャ語読み『ムグール』が訛ったムガール帝国と呼びました。
 その後もバーブルは帝国を安定させるために各地に遠征します。ところが無理が祟ったのか1530年12月26日アグラで病没しました。享年48歳。あまりにも早すぎる死でした。後を継いだフマーユーンは不肖の息子で、父ほどの器量がなかったため臣下のシェール・シャーに叛かれインドから叩きだされます。15年後亡命先のサファビー朝の援軍とともにシャール・シャー死後乱れたスール朝からデリーを回復し、息子アクバル(バーブルの孫)に継承させました。
 アクバル帝こそバーブルが基礎を築いたムガル帝国を盤石にした人物です。一応書いておくと、サファビー朝の援軍を得る方便としてフマーユーンがシーア派に改宗していたのをインド統治のためにスンニ派に戻したのはアクバル帝です。以後ムガル帝国はジャハンギール、シャー・ジャハンと続きアウラングゼーブ帝の時インド亜大陸のほとんどを領する最盛期を迎えました。
 バーブルは、酷暑のインドより夏涼しいアフガニスタンや中央アジアを懐かしんだと伝えられます。バーブルは自分の遺体をカブールに葬るように遺言しますが、皮肉にもこれを実行したのは簒奪したシェール・シャーでした。1607年ようやく曾孫ジャハンギールによって簡素な墓が作られます。インドにいても最後までサマルカンドへの憧れを持ち続けていたのでしょう。

バーブルとムガール朝興亡史Ⅳ 新天地

1510年メルブの戦いでシャイバーニー・ハンが戦死しウズベク・ウルスはがたがたになりました。あまりにもシャイバーニー・ハンのカリスマに頼りすぎていたために後継者を巡って一族が争いを始めます。間者の報告を受けたバーブルは千載一遇の好機が巡ってきたと感じました。軍を率いカブールを出発したバーブルは厳冬のヒンズークシュ山脈を越えるという無理を重ねて1511年初頭アムダリアの畔クンドゥズに到着します。
 しかしバーブル独力では強大なウズベク・ウルスと戦うことは不可能でした。バーブルはサファビー朝に使者をを送りシャー・イスマイール1世に臣従を誓い援軍を要請します。サファビー朝の援軍を加え6万の大軍に膨れ上がったバーブル軍は、アムダリアを渡河しトランスオクシアナ地方に雪崩れ込みました。最初に攻略したのはブハラでした。同年10月には悲願のサマルカンド回復を果たします。実に9年ぶりの入城です。バーブルは28歳になっていました。(第3次サマルカンド遠征)
 バーブルはシーア派のサファビー朝の援軍を得るためにシーア派に改宗していました。サマルカンド市民は異民族支配からの解放者としてバーブルを迎えますが、彼がシーア派の服装をしていたのをみて愕然とします。スンニ派だったサマルカンド市民は失望し、バーブル歓迎のムードは消えました。1512年、サマルカンドを追われたウズベク族は、再びシャイバーニー・ハンの甥にあたるウバイドゥッラー・ハン(1485年~1540年)のもとに結集します。
 反攻に転じたウズベク軍は、バーブルに奪われたトランスオクシアナの諸都市を攻撃しました。放置できなくなったバーブルは鎮圧のため軍を率い東奔西走します。1512年11月、両軍はブハラ郊外のグジュドゥワーンで激突しました。この戦いでバーブル軍は決定的な敗北を喫します。兵の質でもバーブル軍はウズベク軍に敵わなかったのです。
 サマルカンドは、その支配者を替えます。そしてこれ以後バーブルがサマルカンドを支配する事は二度とありませんでした。トランスオクシアナはウズベク・ウルスの支配下に収まります。以後、この地はウズベキスタンと呼ばれるようになりました。
 諦めきれないバーブルは、1513年、1514年とアフガニスタン北部にとどまり出兵の機会を待ちますが、大勢はすでに決していました。トランスオクシアナの住民もシーア派に改宗したバーブルを顧みる事はありませんでした。1515年、バーブルは失意のうちに本拠地カブールに戻ります。
 バーブルを失望させたのはサファビー朝のオスマントルコに対する敗北でした。1514年8月23日後ろ盾だったシャー・イスマイール1世はアナトリア高原東部チャルディラーンでオスマントルコのセリム1世と戦います。サファビー朝軍6万、オスマントルコ軍12万、数の上でも太刀打ちできませんがサファビー朝軍自慢の騎兵隊もオスマン軍イェニチェリ(キリスト教徒から選抜された精鋭常備歩兵軍団)のマスケット銃と大砲の前に全く歯が立たなかったのです。
 サファビー朝は、この戦いの敗北でメソポタミアを失いシャー・イスマイール1世自身も敗戦のショックで政治に対する関心を失ったそうです。バーブルは、サファビー朝の援軍を期待できなくなりました。ただ、バーブルはチャルディラーンの戦いを研究しマスケット銃と大砲の有効性を認め自軍にも導入します。これだけが唯一の成果だったと言えます。
 サマルカンド回復の夢は実現不可能となりました。バーブルはここにきてようやく南のインドに関心を向けます。当時のインドは、イスラム教徒の征服王朝デリー・スルタン朝末期にあたり政治は乱れていました。北インドの主ロデイ朝は、王朝末期にありがちなお家騒動に揺れていたところです。1518年以降、バーブルはインド遠征を繰り返します。まずはインドの入り口、カイバー峠の向こう側北西インドのパンジャブ地方へ。
 パンジャブ地方は、現在の北西インドからパキスタン北東部にまたがる地域です。パンジャブの語源はペルシャ語で「5つの水」を意味します。高原でありながら大河インダスの上流域にあたりその支流も多くインド有数の穀倉地帯でした。歴史上パンジャブ地方を制した者は北インドを制する事が出来るという要地です。仏教を保護したカニシカ王(カニシュカ1世)で有名なクシャーナ朝も、この地にあるプルシャプラ(現ペシャワール)に都しました。
 バーブルの北インド遠征は成功するのでしょうか?次回、最終回『北インドの覇者』を記します。

バーブルとムガール朝興亡史Ⅲ サマルカンド攻防戦

 バーブルの異母弟ジャハンギール・ミールザーを擁し謀反を起こした臣下スルタン・ムハンマド・タンバルは軍を率いてフェルガナの首都アンディジャンを攻略しました。結局バーブルの援軍は間に合わなかったのです。サマルカンドを失い、今度は本拠地まで失ったバーブルは後にバーブル・ナーマにこの時の心境を記しています。
 「私にとって恐るべき試練だった。私はどうする事もできず号泣した」
 無理もありません。わずか15歳の少年なのです。城を脱出してきた母と祖母を何とか収容したバーブルは、フェルガナ西部ホジャンドに本拠を移し謀反人タンバルと戦いました。落ち目の君主に従う兵はいません。次々と部下が離反しバーブルにとって最悪の時期だったことでしょう。苦境の時期は2~3年続きました。
 そんな中、1499年6月手引きする者があってバーブルはようやくアンディジャンを奪回します。しかしタンバルとの抗争はこの後も続きました。時代はバーブルの預かり知らぬところで動きます。1500年夏ウズベク・ウルスのシャイバーニー・ハンによってサマルカンドが落とされティムール朝サマルカンド政権は崩壊しました。ただ、ティムール朝残党(バーブルもその一人ですが…)との抗争は続きウズベク軍は各地に討伐の遠征を続けます。
 シャイバーニー・ハンが留守の間、サマルカンドでは異民族支配を嫌った町の有力者たちが秘かにバーブルと連絡を取ります。1500年秋、内通者の手引きでバーブル軍は夜半城壁を登り正門を開けました。バーブルの本隊はそれを見て城内に突入、やすやすとサマルカンドを占領します。この時シャイバーニー・ハンは城外にいたそうですが意変に気付きサマルカンドに突入。が、バーブル軍が城内に溢れているのを見て形勢不利を悟り兵を引きます。このあたりの機敏さをみてもシャイバーニー・ハンの将器が分かりますね。
 バーブル時に17歳。これがバーブルの第2次サマルカンド遠征です。前回の失敗に懲りたバーブルは今度こそ安定した支配を築こうと城の防備を固めます。一方、シャイバーニー・ハンもサマルカンドを諦めたわけではなく両者の決戦は避けられませんでした。ウズベク・ウルスの挑発に乗ったバーブルは自ら軍を率い1501年5月サマルカンドとブハラの中間にあるサリ・プルでウズベク軍と激突します。最初は互角の戦いを演じていたバーブル軍ですが、味方のモグリスタン軍の裏切りもありシャイバーニー・ハンに散々に撃ち破られました。
 潰走するバーブル軍は命からがらサマルカンドに逃げ込みます。ウズベク軍はこれを追ってサマルカンドを包囲しました。籠城戦は4カ月以上も続きまず兵糧が不足します。援軍も期待できず絶望した城内の兵は次々と逃亡しました。ほとほと困り果てたバーブルはシャイバーニー・ハンに和を請います。結局バーブルの姉ハンザーダ・べギムをシャイバーニー・ハンに差し出すという屈辱的条件で許されバーブルは少数の部下を率いサマルカンドを脱出しました。この時のサマルカンド支配もわずか1年。そのほとんどが籠城戦という悲惨な結果です。
 トランスオクシアナ地方の一大支配者となったシャイバーニー・ハン。バーブルは絶望のあまり支那方面への脱出を考えたとも伝えられます。1503年にはモグリスタン汗国のスルタン・マフムード・ハンもウズベク軍に敗北しタシュケントが奪われます。翌1504年にはバーブルの生まれ故郷ファルガナも占領されました。
 絶体絶命のバーブル。最初は親族のいるアフガニスタンのヘラートに亡命しようと考えます。この時彼に従う兵はわずか3百あまりでした。そこへ、シャイバーニー・ハンに追われたモグリスタンの敗残兵が合流します。これで気をよくしたバーブルは行く先を南のカブールに変えました。そこはヘラート政権スルタン・フサイン・ミールザーの部下アルグン部のミールザー・ムキームの領地でした。今から頼ろうとする勢力の家臣の領地に攻め込むのですからバーブルもいい根性してますがそれだけ追い詰められていたという事でしょう。幸いな事にムキームは抵抗せずカブールの支配権を譲り渡し臣従します。
 が、山間部のカブールは貧しく大勢の部下を養うことはできませんでした。バーブルは豊かなインドに目を付け1505年1月略奪を目的とした第1次インド遠征を行いました。これがバーブルがインドと関わりを持つ端緒となります。しかしこの時はまだインド征服などという野望はなかったはずです。
 1506年、ヘラートのスルタン・フサイン・ミールザーは宿敵シャイバーニー・ハンとの全面対決を決意し各地の一族を招集しました。バーブルもこれに応じ軍を率いてヘラートに向かいます。ところが肝心のスルタン・フサイン・ミールザーが病没しティムール一族の対ウズベク・ウルス共同戦線はぐだぐだのうちに消滅しました。ヘラートで歓待されたバーブルですが、何ら得ることなく本拠カブールに戻ります。
 1507年6月、ヘラート政権もまたシャイバーニー・ハンに滅ぼされました。こうなるとティムール一族で生き残りはバーブル一人となります。シャイバーニー・ハンはあまりにも巨大となりました。ところが捨てる神あれば拾う神ありで、隣国ペルシャにサファビー朝が勃興します。シャー・イスマイール1世(在位1501年~1524年)はトランスオクシアナに出現したウズベク・ウルスに脅威を感じました。強敵を倒すために目をつけたのがカブールのバーブル政権。イスマイール1世は、バーブルのサマルカンド奪還作戦の際には援軍を送ると約束しました。
 イスマイール1世とシャイバーニー・ハンの対立は回避不可能なところまできます。サファビー朝がシーア派、ウズベク・ウルスがスンニ派という宗派対立もあったのでしょう。両者は互いに信仰を非難しあい1510年ついにイスマイール1世は軍を率いホラサン地方(現在のペルシャ北東部からトルクメニスタンあたり)に進出しました。シャイバーニー・ハンはサファビー軍が大軍であったため決戦を避けホラサン地方の主要都市メルブに籠城します。イスマイール1世は、これを見ると退却に見せかけ軍を引きました。ウズベク軍はサファビー朝に戦意なしと判断し追撃します。ところが待ち伏せていたサファビー軍の伏兵に襲われ壊滅的打撃を受け敗北しました。総指揮官シャイバーニー・ハンも戦死します。
 イスマイール1世は余程憎しみが強かったのでしょう。シャイバーニー・ハンの首に金箔をはって酒杯にしたと伝えられます。なにか織田信長のエピソードのようですが髑髏杯というのは遊牧民族特有の文化です。ウズベク族もサファビー朝も同じトルコ系。金箔の髑髏杯はのちにオスマントルコのバヤジット2世に贈られたそうですが、同じ遊牧民とはいえ文化の違う(オスマン家はたぶんに西欧化していた)オスマン朝は、こんなものを貰ってとまどったと想像されます。
 シャイバーニー・ハンを失ったウズベク・ウルスはガタガタになっているはずでした。イスマイール1世も援軍を約束しバーブルに出兵を催促します。ようやくバーブルの悲願が達成されようとしていました。次回、新天地にご期待ください。

バーブルとムガール朝興亡史Ⅱ ウズベク・ウルス

 バーブルの生涯に関わる世界史級の重要人物が三人います。一人はサファビー朝の創始者イスマイール1世(在位1501年~1524年)。バーブルのサマルカンド奪還を助け軍隊を送ったりもしています。この関係はバーブルの息子フマーユーンとイスマイール1世の息子タフマースブ1世の代になっても変わらず、フマーユーンがスール朝のシェール・シャーに敗北しインド亜大陸から叩きだされた時も亡命を受け入れ15年後のインド奪還を助けています。
 もちろんサファビー朝側に善意があってのことではありません。多少の善意はあったとしても自国イランの東方国境を安定させ属国(バーブルの事)支配で守ろうという意図が大きかったと思います。実際、ササン朝ペルシャは中央アジアに興った遊牧騎馬民族エフタルの侵攻に悩まされ衰退したのですからこの地方の安定は王朝の存立にかかわる最重要課題でした。
 いま一人は言うまでもなくスール朝を興したシェール・シャー(在位1539年~1545年)。バーブル存命時はバーブルに仕え息子フマーユーンの代に牙をむきます。有能な将軍でありまたたく間にムガール勢力を駆逐北インドを平定しました。わずか5年の治世でしたが、現代に繋がる貨幣制度ルピーを創設するなど政治的経済的にも後のインドに大きな影響を与えます。もし彼が長命であったらムガール帝国の復活はありえなかったはずです。
 最後の一人こそ、ウズベク・ウルス(シャイバーニー朝)の実質的創業者ムハンマド・シャイバーニー・ハン(1451年~1510年)です。ムガール生涯の好敵手、というよりムガールが一度も勝てない大きな壁と言ってもよい存在でした。
 シャイバーニー・ハンは分裂状態にあったウズベク族を再統一した人物です。もともとジュチ・ウルス(キプチャク汗国)治下でモンゴル化したトルコ族の一団を15世紀前半に纏め上げたのはシャイバーニーの祖父アブル=ハイル・ハン(在位1428年~1468年)でした。ジュチの五男シバンの子孫だと言われます。アブル=ハイル・ハンは衰退したサライ政権(ジュチ・ウルス)から独立しキプチャク平原東部を統一しました。キプチャク平原あるいはキプチャク草原と言ってもピンとこないかもしれませんが、簡単に説明すると西はウクライナ平原から東は天山山脈北麓、カザフ平原東部まで。南はパミール高原、トランスオクシアナ地方、北部はシベリア凍土の南までという広大な地域を指します。11世紀から13世紀にかけてキプチャク族(別名クマン族)が活躍した地域である事からそう呼ばれました。支那の歴史書では欽察草原と記されます。
 アブル=ハイル・ハンの勢力はウズベク族と呼ばれますが間もなく分裂し、一部はトカ・テムル家のケレイとジャニベク・ハンに率いられモグリスタン北辺に移住しました。この一団は後にカザフ族となります。アブル=ハイル・ハンの死後ウズベク族は崩壊し孫のシャイバーニー・ハンも各地を転々とする惨めな亡命生活を味わいました。後にシャイバーニー・ハンはシルダリア中流域に定住しウズベク族再統合に成功します。バーブルが父の死を受けてフェルガナの君主になったのはちょうどこの時期でした。
 ようやく独り立ちしたバーブルに1495年チャンスがやってきます。といっても彼はまだ12歳。臣下の補佐がなければ何もできない存在ではありましたが。従兄弟のバイスングルがサマルカンドの支配者の地位を継いだ時お家騒動が起こります。バイスングル支持者と彼の弟スルターン・アリーを支持する一派に分裂し互いに争い始めたのです。
 スルターン・アリー一派はバーブルと同盟し援軍を要請しました。おそらくバーブルの意思というより取り巻きの臣下たちの意思だったでしょうが、1496年要請を承諾しフェルガナ軍はサマルカンドに入ります。これが第1次サマルカンド遠征。しかしこれはバイスングル一派の抵抗に遭い失敗しました。翌1497年にもバーブルは第2次サマルカンド遠征を敢行しますが、窮乏したバイスングルは北方ウズベク・ウルスのシャイバーニー・ハンに援軍を要請しました。
 ただ、バイスングル支持者の間で一族の争いに外国を引き入れるのはどうかという疑問の声が上がりバイスングルは結局ウズベク族の援軍を断ります。ところがサマルカンド近郊まで来ていたシャイバーニー・ハンは当然ですが怒ります。もちろん多分に演技ではあったと思いますが…。間もなくサマルカンドはウズベク軍に包囲されました。7か月の攻囲の末陥落、バイスングルはクンドゥーズに逃亡します。シャイバーニー・ハンはこれを追撃しサマルカンドは一時的に無主となりました。
 この隙をついてバーブルはやすやすとサマルカンドを占領します。1497年11月バーブルはサマルカンドでスルタンに即位しました。バーブル14歳の時です。が、棚ぼた式の幸運は長く続きませんでした。臣下のスルタン・ムハンマド・タンバルがフェルガナの首都アンディジャンで反乱を起こします。タンバルはバーブルの異母弟ジャハンギール・ミールザーを擁していました。首都にいるバーブルの母と祖母は至急援軍を求め1498年2月バーブルはサマルカンドを出発せざるを得なくなります。わずか100日のサマルカンド統治でした。サマルカンドは間もなく反乱軍の手に落ちます。
 次回は、バーブルとシャイバーニー・ハンのサマルカンドを巡る攻防戦を描きます。

バーブルとムガール朝興亡史Ⅰ バーブルの出自

 ムガール朝の創始者ザヒールッディーン・ムハンマド・バーブル(1483年~1530年)の肖像画が残されています。それをみると本を読み思索にふけるおよそ王朝の創始者とは思えない繊細なイメージを持ちます。ちなみにバーブルというのは現地語(トルコ/モンゴル語)で虎を意味します。
 王朝の創始者なら武人という事を強調しがちですが、彼がそうしなかったのは詩を愛し時には自ら詩作しバーブル・ナーマ(バーブルの書)という長編の回想録を記した文人でもあったからです。バーブルは15世紀中央アジアの一大帝国を建設したティムールの子孫です。
 ティムールの三男ミーラーン・シャーから始まる家系でバーブルはティムールから数えて6代目に当たります。血統的には申し分ない出自でしたが、ティムールの帝国は彼の死後大きくサマルカンド政権とアフガニスタンのヘラート政権に分裂します。そこからさらに分かれてバーブルの父ウマル・シャイフはわずかにフェルガナ地方を領する一地方君主に過ぎませんでした。フェルガナ盆地といえば、世界史に詳しい方なら御存じでしょうが汗血馬の故郷大宛のことです。
 余談を続けると、汗血馬とは漢書などで記された血のような汗を流して一日千里を走る名馬の事で三国志演義で出てくる呂布の愛馬赤兎馬も汗血馬の子孫ではないかと言われます。この地方に現存するアハルテケが汗血馬あるいはその後裔だとされます。ということでフェルガナ地方は名馬の産地でした。良馬は多く産しただろうと思いますが、如何せん国土は小さくとても中央アジアに覇を唱える実力はありませんでした。
 彼が少なくとも一方の雄に押し出るには、アラル海にそそぐ二つの大河シルダリアとアムダリアに挟まれた肥沃な河間地方、ギリシャ人が記すところのトランスオクシアナ(オクサス河=アムダリアの向こうの地)地方の中心都市サマルカンドを制しなければなりませんでした。しかし、それをするにはトランスオクシアナ各地に割拠する同族を抑えるか滅ぼすかしなければいけません。小国フェルガナではほとんど不可能とも言える難事業でした。
 バーブルの父ウマルは、まず政略結婚による勢力拡大を考えます。そこで目をつけたのが隣国東トルキスタンのモグリスタン汗国でした。実はこの国、東西に分裂したチャガタイ汗国の東半分の後身でそこの王女を妻に迎えバーブルが生まれます。ですからバーブルは父方でティムールの血を、母方でチンギス汗の血を引いていた事になります。
 小国の王子として順風満帆に思えたバーブルですが11歳の時思わぬ不幸に見舞われます。父ウマルの死です。ウマルは鳩の飼育が趣味で断崖の上に鳩小屋を作っていましたが、崖ごと崩れてシルダリアに落ち溺死するのです。おそらく伝書鳩でしょうから趣味と実益を兼ねていたはずですがそれが死の原因になったのは皮肉なものです。
 時は、戦国乱世。親戚でも隙あらば領土を奪うのが日常でした。フェルガナ君主ウマルが死に後継ぎがわずか11歳の少年だと知った母方の叔父モグリスタン汗国の君主マフムード・ハンはフェルガナを占領すべく軍隊を送りました。この時は祖母エセン・ダウラト・べグムと臣下たちの活躍で何とか撃退に成功します。少年バーブルは早くも世間の厳しさを嫌というほど思い知りました。この戦争の後やっと父の葬儀を終える事が出来たくらいです。
 力無き者はいずれ滅ぼされる、バーブルは悟りました。おそらくこの時から少なくとも生き残るためにサマルカンド奪取を秘かに誓ったのではないかと考えます。ところが、同時期彼の前半生に立ちはたがる宿敵が台頭しようとしていました。次回は、バーブル最大の宿敵シャイバーニー・ハンとウズベク族について語ります。

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