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2015年4月 2日 (木)

バーブルとムガール朝興亡史Ⅰ バーブルの出自

 ムガール朝の創始者ザヒールッディーン・ムハンマド・バーブル(1483年~1530年)の肖像画が残されています。それをみると本を読み思索にふけるおよそ王朝の創始者とは思えない繊細なイメージを持ちます。ちなみにバーブルというのは現地語(トルコ/モンゴル語)で虎を意味します。
 王朝の創始者なら武人という事を強調しがちですが、彼がそうしなかったのは詩を愛し時には自ら詩作しバーブル・ナーマ(バーブルの書)という長編の回想録を記した文人でもあったからです。バーブルは15世紀中央アジアの一大帝国を建設したティムールの子孫です。
 ティムールの三男ミーラーン・シャーから始まる家系でバーブルはティムールから数えて6代目に当たります。血統的には申し分ない出自でしたが、ティムールの帝国は彼の死後大きくサマルカンド政権とアフガニスタンのヘラート政権に分裂します。そこからさらに分かれてバーブルの父ウマル・シャイフはわずかにフェルガナ地方を領する一地方君主に過ぎませんでした。フェルガナ盆地といえば、世界史に詳しい方なら御存じでしょうが汗血馬の故郷大宛のことです。
 余談を続けると、汗血馬とは漢書などで記された血のような汗を流して一日千里を走る名馬の事で三国志演義で出てくる呂布の愛馬赤兎馬も汗血馬の子孫ではないかと言われます。この地方に現存するアハルテケが汗血馬あるいはその後裔だとされます。ということでフェルガナ地方は名馬の産地でした。良馬は多く産しただろうと思いますが、如何せん国土は小さくとても中央アジアに覇を唱える実力はありませんでした。
 彼が少なくとも一方の雄に押し出るには、アラル海にそそぐ二つの大河シルダリアとアムダリアに挟まれた肥沃な河間地方、ギリシャ人が記すところのトランスオクシアナ(オクサス河=アムダリアの向こうの地)地方の中心都市サマルカンドを制しなければなりませんでした。しかし、それをするにはトランスオクシアナ各地に割拠する同族を抑えるか滅ぼすかしなければいけません。小国フェルガナではほとんど不可能とも言える難事業でした。
 バーブルの父ウマルは、まず政略結婚による勢力拡大を考えます。そこで目をつけたのが隣国東トルキスタンのモグリスタン汗国でした。実はこの国、東西に分裂したチャガタイ汗国の東半分の後身でそこの王女を妻に迎えバーブルが生まれます。ですからバーブルは父方でティムールの血を、母方でチンギス汗の血を引いていた事になります。
 小国の王子として順風満帆に思えたバーブルですが11歳の時思わぬ不幸に見舞われます。父ウマルの死です。ウマルは鳩の飼育が趣味で断崖の上に鳩小屋を作っていましたが、崖ごと崩れてシルダリアに落ち溺死するのです。おそらく伝書鳩でしょうから趣味と実益を兼ねていたはずですがそれが死の原因になったのは皮肉なものです。
 時は、戦国乱世。親戚でも隙あらば領土を奪うのが日常でした。フェルガナ君主ウマルが死に後継ぎがわずか11歳の少年だと知った母方の叔父モグリスタン汗国の君主マフムード・ハンはフェルガナを占領すべく軍隊を送りました。この時は祖母エセン・ダウラト・べグムと臣下たちの活躍で何とか撃退に成功します。少年バーブルは早くも世間の厳しさを嫌というほど思い知りました。この戦争の後やっと父の葬儀を終える事が出来たくらいです。
 力無き者はいずれ滅ぼされる、バーブルは悟りました。おそらくこの時から少なくとも生き残るためにサマルカンド奪取を秘かに誓ったのではないかと考えます。ところが、同時期彼の前半生に立ちはたがる宿敵が台頭しようとしていました。次回は、バーブル最大の宿敵シャイバーニー・ハンとウズベク族について語ります。

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