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2015年5月

2015年5月 3日 (日)

水戸藩の幕末維新Ⅳ  水戸藩の終焉(終章)

 烈公水戸斉昭の第7子一橋慶喜(1837年~1913年)は、安政の大獄での謹慎処分後どうなったでしょう?1858年将軍継嗣問題は大老井伊直弼を中心とする紀州派(南紀派)が政争に勝ち徳川第14代将軍には紀州慶福(よしとみ)が決定します。慶福は13代家定の死去を受けて1858年10月25日第14代将軍となりました。名を改めて家茂(いえもち)と名乗ります。

 謹慎生涯隠居という厳しい処分を受けていた慶喜ですが、1860年(安政七年)3月3日桜田門外の変で大老井伊直弼が横死したことで運命が大きく変わりました。家定同様家茂も病弱だったためどうしても慶喜の力が必要だったのです。当時慶喜は実父斉昭譲りの俊英という評価がされていました。同年9月4日謹慎解除。1862年(文久二年)には将軍後見職に就任します。
 実質的には慶喜が江戸幕府を主催していると言ってもよい状態でした。そんな中水戸天狗党の乱が勃発します。当時京都にいて朝廷との折衝にあたっていた慶喜は、実家水戸藩の尊王攘夷の思想を忘れ幕権保持に力を尽くしていました。天狗党は慶喜なら理解してくれると思い京都に向かったそうですが、実際は天狗党討伐を強力に推進したのは慶喜自身でした。ここに慶喜と水戸藩攘夷派との大きな感情的行き違いが生じます。
 残酷な処刑を受け天狗党は壊滅。一方、本国の水戸藩は家老市川三左衛門を中心とする諸生党が実権を握っていました。将軍後見職の慶喜と佐幕派の水戸藩諸生党の利害は一致するはずでした。が、水戸藩内には弾圧を潜り抜けた攘夷派も生き残っていましたし中立派も多く、水戸藩の藩論として全面的に慶喜をバックアップする体制にはなりませんでした。おそらく藩内の感情として水戸学から逸脱した(と見られた)慶喜と距離を置こうという思いが強かったのでしょう。
 結局、慶喜は家格は高くとも大した実力のない養家の一橋家しか頼るものはなかったのです。現水戸藩主が実兄慶篤だということも微妙な関係に拍車を掛けたと思います。
 時代は大きくうねり始めていました。1864年7月禁門の変。同年8月第一次長州征伐。そして1866年(慶応二年)7月20日第二次長州征伐のさなか徳川幕府第14代将軍家茂は大阪城で病死します。享年21歳。他に強力なライバルもなく慶喜は徳川幕府第15代、そして最後の将軍に就任しました。すでに薩長同盟は成り、倒幕派の動きは激しくなる一方です。慶喜は頭が良すぎるために幕府の将来を悲観し1867年(慶応三年)10月14日政権返上を朝廷に申し出ました。明治天皇は翌日これを勅許され、大政奉還が実現します。
 ところが、幕府内では会津藩桑名藩などの強硬派が弱腰の慶喜を突き上げ1868年(慶応四年)1月鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争へ突入するのです。倒幕派の優勢を見てもっともはやく反応したのは慶喜に従って京都本国寺に詰めていた水戸藩兵でした。彼らは朝廷に東下を請う始末です。徳川宗家を守るはずの御三家が酷い話だと思われるでしょうが、実は他の御三家尾張藩も紀州藩も同様でした。これが時代の流れなのです。あれほど攘夷派を弾圧していた彦根藩でさえ孤立して滅ぼされる事を恐れ朝廷側に寝返りました。実際、江戸より西にある諸藩は、強固な佐幕派である桑名藩など一部の例外を除いて江戸幕府を見限り朝廷に付きます。例を上げると、時の老中だった稲葉氏の淀藩でさえ藩主の意向を無視し鳥羽伏見から敗走する幕府軍に門を閉ざし官軍(すでに錦旗を持っていた)に開城するほどでした。伊勢津藩(藤堂家)も一夜にして寝返り天王山上からそれまでの味方だった幕府軍を砲撃しました。
 最後まで幕府に殉じようとした奥羽越列藩同盟の純真さは涙を誘います。もっともこれも官軍の対応次第では抵抗は避けられたと考えます。奥羽諸藩の蜂起は多分に奥羽鎮撫総督下参謀・世良修蔵の高飛車な態度で怒らせたのが主因ですから。関ヶ原で豊臣恩顧の大名がことごとく徳川方に付いたのとは全く逆の現象でした。時代の流れの恐ろしさを感じますね。
 幕末維新の動きにまったく積極的関与をしなかった水戸藩ですが、藩論を勤皇に統一するようにという勅書を受け藩主慶篤も朝廷への協力を決めました。こうなると藩でそれまで実権を握っていた市川三左衛門ら諸生党は孤立します。自分たちが追い詰められていくのに焦った諸生派は一時水戸城を占拠しますが、藩主を始め藩の大半が勤皇に傾くと不利を悟って退去、会津藩を中心とする佐幕軍に加わります。この間、藩主慶篤は没し水戸藩最後の藩主昭武(慶篤の弟)が立ちました。
 会津戦争は、佐幕派の市川率いる諸生党と征東軍に参加した水戸藩兵のまたしても同胞同士の凄惨な殺し合いになります。征東軍にはそれまで諸生党に弾圧され逼塞していた攘夷派も加わり激しく戦いました。まもなく会津藩の降伏で東北の戦争は終わります。しかし、降伏しても水戸藩攘夷派の復讐を受け皆殺しになると分かっている諸生党は藩兵が官軍に加わって手薄になっていた水戸城に秘かに舞い戻り城を奪取するのです。そこで武器弾薬を奪った諸生党は藩校弘道館に立て籠もりました。
 戊辰戦争の大勢とは全く関係ない水戸藩内の争いは自分たちで解決するしかありませんでした。水戸藩は家老山野辺義芸(よしつね)が藩兵を率い水戸城でこれと対峙します。弘道館の戦いは水戸藩最後の内戦でした。1868年10月、結局市川派は敗れ江戸方面に潰走します。そこから銚子、八日市場(千葉県)に逃れました。この一連の戦闘を松山戦争と呼ぶそうですが追手のために敗残兵はことごとく打ち取られます。その中にはかつて栄華を極めた市川三左衛門の姿はありませんでした。市川は戦いから巧みに逃れ江戸に潜伏しますが悪運は長く続かず1869年(明治二年)2月、江戸で捕えられ水戸に護送されました。市川は藩内攘夷派の激しい恨みを買っていたためその処刑も凄惨なものだったそうです。
 こうして水戸藩の維新は終わりました。いち早く尊王攘夷を唱えながら藩内の内訌のために時局に何ら寄与する事なく最後まで内輪だけの争いに終始します。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県によって徳川御三家の一つ水戸藩はその役割を終えました。すでに歴史的使命を果たした水戸徳川家出身の最後の将軍慶喜も隠棲先の静岡で余生を過ごしていました。こうして日本は明治の文明開化へと進んで行くのです。

水戸藩の幕末維新Ⅲ  水戸天狗党の乱

 桜田門外の変の後、水戸藩自体にはほとんどお咎めなしと書きましたがその分事件の関係者に対しての幕府の処断は苛烈を極めました。
 まず事件の首謀者関鉄之助は直接襲撃には加わっていなかったものの事件の首魁と目され京に向かって諸国潜伏中捕縛、斬罪されます。享年39歳。同じく岡部忠吉も捕縛斬罪。黒澤忠三郎ら襲撃犯は自訴の後斬首。生き残ったのは潜伏に成功した2名のみ。
 当然ながら烈公斉昭蟄居後の水戸藩は、佐幕恭順派が実権を握っていましたから事件の報告を受け驚愕しました。あくまで犯行は過激化した脱藩浪士攘夷派であり水戸藩はまったく関係ない事、それを証明するために藩内の攘夷派を弾圧する事を幕府に弁明します。これには藩内の守旧派だけでなく中立派も同調しました。水戸藩が生き残るにはそれしかなかったでしょう。弾圧によって多くの攘夷過激派藩士は脱藩し小川、玉造、潮来などの南部に潜伏、近在の富豪から軍資金を挑発し領内の郷士、村役人、神官などを集め軍事訓練を施します。尊王攘夷を唱える彼らは水戸藩内でさながら独立国を形成する勢いでした。
 このような攘夷過激派で指導的立場にあった者に藤田小四郎(1842年~1865年)がいました。名前で分かる通り藤田東湖の四男です。当時23歳。兄健(たける)が水戸学教授の藤田家を家督を継いでおり部屋住みの身分だったことも過激化した原因の一つだったのでしょう。佐幕恭順派は彼らの事を軽蔑して天狗になっていると罵りましたが、小四郎らは逆に自ら天狗党と名乗ります。
 1864年(元治元年)、小四郎らは筑波山に拠ってついに挙兵しました。攘夷派の中でも穏健派の重鎮だった武田耕雲斎は、最初「軽挙妄動である」として彼らの行動を諫めます。小四郎らは逆に耕雲斎を説得し天狗党の首領になってくれるよう懇願しました。想像では穏健派であっても攘夷派は水戸藩内で居場所が無くなっていたのでしょう。ついに耕雲斎も小四郎たちの熱意に負け参加を決意するのです。
 武田耕雲斎の名前は水戸藩だけでなく天下に鳴り響いていました。最初は不平浪士の集まりだった天狗党は諸国の攘夷志士や近在の勤皇の志を持つ庶民をあつめ1000名以上の大勢力に膨れ上がります。こうなると幕府も無視できず近在の諸藩に討伐を命じました。ところが諸藩は藩内に同じ攘夷派を抱えていただけにやる気がなく、嫌々出兵してもちょっと反撃を受けるとすぐ撤退します。一番本気になったのは、幕府から疑いの目を向けられている水戸藩でした。かつての同胞同士の殺し合いは凄惨を極めます。
 水戸藩の主流になったのは佐幕恭順派の家老市川三左衛門ら諸生党でした。諸生党は水戸城を占拠し天狗党の家族を虐待します。幕府も若年寄田沼意尊(おきのり。意次の孫)を総大将とする諸藩の大軍を派遣し筑波山を包囲しました。天狗党は戦っても利あらずとして筑波山を撤退、水戸藩領に舞い戻り水戸城を巡って諸生党と激しく戦います。天狗党、諸生党は水戸の外港那珂湊で激しく激突、天狗党はついに敗れました。
 1864年(元治元年)10月下旬、天狗党は北方の久慈郡大子に集結、善後策を協議します。色々な意見が噴出しますが、京都に登って朝廷に天狗党の心情を訴えるべしという意見が大勢になりました。ここが運命の分かれ目でした。同じような立場に置かれた長州藩は、高杉晋作らがあくまで藩内の実権を取り戻そうと功山寺決起を実行し革命に成功しました。地理的要因、人材の違いなどはありますが、天狗党のこの決定はやはり判断を誤ったとも言えます。
 事を起こすにはそれを裏打ちする経済力が必要です。その意味ではあくまで藩内で実権を握る方向に進むべきでした。天狗党の面々はあまりにも純粋だったのでしょう。1000名を超える兵力でも、京都に向かうには途中幕府の追討軍と戦わざるを得ないし軍費もないので挑発か略奪しか手段がありません。そうなると庶民の支持を受けることはできなくなります。匪賊と変わらなくなるわけですから。
 実際、天狗党は常陸を発し、下野、上野、信濃、美濃、近江と進み越前敦賀で力尽きました。幕府に降伏した天狗党は加賀藩に預けられます。加賀藩は最初丁重に彼らを扱ったそうですが、幕府は関東で天狗党の起こした戦乱の惨禍を許さず、彼らを敦賀の鰊蔵(にしんぐら)に監禁、手枷足枷をはめ下帯以外はすべてはぎ取るという人を人とも思わない残酷な処遇をしました。それだけ幕府の憎しみが強かったのでしょう。
 1865年(慶応元年)2月、武田耕雲斎、藤田小四郎ら352名斬罪、その他の者は遠島、追放に処されます。耕雲斎、小四郎ら幹部4名の首は水戸に送られ晒されました。処分はこれだけでは終わらず武田耕雲斎の家族は三歳の幼児も含めてすべてが殺害されるという凄惨な結末に終わります。
 明治大正期になって殉難者と認定された天狗党の数1492名。水戸脱藩浪士が主力ですが、他藩の攘夷浪士や勤皇の志を持つ百姓、町民も半数近くを占めていたそうです。一連の天狗党事件によって水戸藩は維新の主役から脱落しました。以後、水戸藩は薩長を中心とする維新の動きに取り残され、逆に幕府に対する複雑な感情から佐幕派としての積極的動きもありません。太平の眠りを貪る他藩と同様、激動の時代に翻弄されるだけの存在に落ちぶれました。
 水戸藩は維新の時代をどのように過ごすのでしょうか?次回最終回、水戸藩の終焉に御期待ください。

水戸藩の幕末維新Ⅱ  桜田門外の変

 近江彦根藩三十五万石第十五代藩主井伊直弼(1815年~1860年)。井伊家は初代直政以来徳川譜代の筆頭で西国外様大名の謀叛に備えもっとも重要な近江国彦根領を与えられていました。そのため外様大名に比べ低く抑えられていた譜代大名の石高としては井伊家は破格でした。
 安政の大獄の張本人として後世のイメージが悪い直弼ですが、おそらく幕権が強かった江戸時代初期なら問題にならなかったはずだと思います。よく調べると江戸初期幕府の朝廷圧迫策は幕末に比べより酷い印象があるくらいです。禁中並公家諸法度はその典型でしょう。直弼自身も私は徳川家に対する忠誠心で安政の大獄を起こしたのだと考えています。実際、尊王攘夷思想は幕藩体制の根幹を揺るがすような重大事でした。
 が、時代はそのような幕藩体制維持で乗り切れるような生易しいものではありませんでした。欧米列強の植民地政策で東洋の小国日本は生きるか死ぬかの瀬戸際だったのです。それをよく理解している先駆者は特権階級よりは下級武士や自らの意思で教育を受けた庶民(地主階級)に多くいました。幕末維新期に活躍した志士たちは主にこれらの階級出身です。水戸学の総本山水戸藩、そして危機感を共有していた烈公徳川斉昭に世間の輿望が集まったのも頷けます。ところが大老井伊直弼は、危機感が決定的に欠落していました。攘夷派を徳川幕藩体制を揺るがす逆賊と捉え(それは多分に真実でしたが…)、徹底的な弾圧を加えます。
 直弼の憎しみの対象は第一に水戸藩でした。これが外様なら即改易ですが、まさか御三家に適用できるはずもなく斉昭の永久謹慎、攘夷改革派の家老安島帯刀(たてわき)と水戸藩士茅根伊予之介には切腹を命じます。さらには現藩主(斉昭の嫡男)慶篤にさえ登城禁止と言う厳しい処分を下しました。
 これは、天下の副将軍と自認していた水戸藩士のプライドを酷く傷つけます。慶篤に対する処分は後に撤回されますが、直弼に対する藩士の恨みは残り続けました。親藩の中でも特に格式高い徳川御三家が徳川家の家来にすぎない井伊ごときに侮辱されたと捉えたのです。これは当事者でないと理解できない心情でした。私はこの恨みが桜田門外の変に繋がった大きな要因だと思います。
 安政の大獄が始まって、水戸藩に降って湧いた孝明天皇の攘夷決行密勅問題で藩論は二つに割れます。直弼の処分に怒りを覚える攘夷派は、これを諸藩に配布し幕府に攘夷を決行させるべしと訴えます。一方、藩主さえ処分を受けたのだから密勅を朝廷に返上し幕命に従うべしという保守恭順派は真っ向から反対しました。攘夷派と佐幕派の対立は多かれ少なかれどの藩でもありました。水戸藩の場合は、大老井伊直弼の処断で死者まで出ているのですから対立はより先鋭化します。
 攘夷派の中でも、穏健派の武田耕雲斎(1803年~1865年、水戸藩参政)らはむしろ密勅を幕府に献上して幕府がどういう態度を取るか見極めるべしという意見でした。実はこれこそ幕府が最も嫌がる対応でした。攘夷を決行しなければ違勅になるし、実行すれば攘夷派の方が正しい事になって幕府の責任問題に発展するからです。直弼は水戸藩が最悪の対応をする事を恐れ密勅の朝廷への返上を厳命しました。この事が水戸藩内の両派の対立を修復不可能なまでに悪化させます。
 当然ながら、保守恭順派は既得権益を持つ上級藩士が多く攘夷過激派は現状に不満を持つ下級藩士が大半でした。過激派は同じ攘夷派でも武田ら穏健派を臆病者と罵り暴走します。そして、ついにはこの事態の元凶である赤鬼大老井伊直弼暗殺へと思い至るのです。ただ、水戸藩士の身分のままでの襲撃は藩改易の危険性があり彼らも脱藩して実行するという最低限の良識は持ち合わせていました。攘夷思想は当時の世論の主流で、水戸脱藩浪士の他にも薩摩藩らの脱藩藩士が加わります。
 襲撃計画の中心は、高橋多一郎・金子孫二郎らでした。襲撃の実行犯は18名。ほかに計画に参加した者13名。それ以外にも何人かの関与者がいました。1860年(万延元年)3月3日、江戸は春先には珍しい昨夜来の雪で深く積っていたそうです。この日は上旬の節句で江戸城に登って賀詞を言上する日でした。大老であった井伊直弼も彦根藩江戸本邸を午後9時ころ出発します。直弼の駕籠を警護する彦根藩士は士分26名、他に足軽を含めて総勢60名余だったと伝えられます。雪水で刀が濡れるのを恐れ一行は柄袋を付けていました。とっさの際に直ちに応戦することができない危険性はありましたが、まさか大老の行列を襲う者はおるまいと油断していました。
 事件は、一行が本邸を出て500mくらい進んだところで起きます。場所は江戸城桜田門近く。関鉄之助をはじめとする18名の実行犯は直弼の行列めがけて一直線に襲いかかりました。彦根藩士は、柄袋のためにとっさに刀を抜く事が出来ずまたたく間に直弼の駕籠は斬りつけられ首を打たれます。わずか煙管で三服するくらいの短い時間だったそうです。彦根藩側は当主直弼の他に藩士4名が即死、傷を負った者も4名が後に死に8名の被害者を出します。浪士側は1名死亡、深手を負って後に4名が亡くなりました。
 白昼の大老暗殺という大事件は当時の日本を震撼させます。特に彦根藩は水戸討伐を唱えるほど激高しました。安政の大獄で水戸に永久蟄居していた烈公斉昭は、この事件の衝撃で同年8月15日に急逝しました。世間では彦根藩に暗殺されたとも噂しますが真相は分かりません。時に井伊直弼46歳、徳川斉昭61歳。佐幕派と攘夷派の巨頭は奇しくも同じ年に亡くなりました。
 世情はこの事件の後騒然とします。1861年(文久元年)の英国公使館襲撃、1862年の坂下門外の変(老中安藤信正襲撃事件、正し一命は取りとめる)にも水戸脱藩浪士が関与したと言われます。彦根藩は、さすがに当主が暗殺されたと言われるのは世間の恥と思い(士道不覚悟として改易の危険がある)病死と届け出ました。事なかれ主義の幕府は、このままでは水戸藩と彦根藩の戦争になりかねないと恐れ御三家の水戸藩はほぼお咎めなし、被害者の彦根藩に対しては襲撃で殺された醜態を罪に問い十万石減知という厳しい処分を下します。そういう対応をせざるを得なかったのは、直弼が攘夷派を厳しく弾圧していた事に対する世間の反発を考慮しての事でした。
 水戸藩内部の事件に対する衝撃も大きいものでした。当時藩の実権を握っていた保守恭順派は幕府の報復を恐れますます藩内の攘夷派を弾圧します。こうして水戸藩の攘夷派も次第に追い詰められていきました。そして、天狗党事件が起こります。
 次回は水戸天狗党事件の顛末を語る事にしましょう。

水戸藩の幕末維新Ⅰ  安政の大獄

 嘉永6年(1853年)6月3日、浦賀沖に出現したペリー率いる米国艦隊黒船四隻。彼らの出現によって幕末維新の歴史は始まったとも言われます。徳川御三家の一つ常陸国水戸藩も、太平洋鹿島灘に面していることもありその危機感は他人事ではありませんでした。しばしば沖合に異国船が出現していたからです。
 もともと水戸学によって尊王思想を醸成していた藩論は、異国への敵愾心から攘夷思想を加えていく事になります。これは1840年に起こったアヘン戦争の情報もある程度入ってきておりイギリスに敗れた清国の悲惨な状況を知っていたからだと言われています。水戸藩には藤田東湖(1806年~1855年)という傑物がいました。藤田家は水戸藩で水戸学を教授する家柄で、彼の父藤田幽谷も他藩に知られた高名な学者でした。
 東湖は、アヘン戦争や北海道のゴローニン事件(1811年)や九州のフェートン号事件(1808年)の情報を得ており外国が危険な存在だと痛感していたのです。水戸徳川家第9代藩主徳川斉昭(烈公、1800年~1860年)は、東湖を登用し藩政改革に乗り出します。東湖は頑迷固陋な攘夷論者ではなく、異国に対抗するには近代装備が必要だと痛感していました。斉昭は東湖や武田耕雲斎、戸田忠太夫ら有能な士を抜擢し領内に反射炉を建設し大砲を鋳造するなど、経済軍事に成果を上げました。
 江戸幕府は、ペリー来航を受け困難な時局を打開するため斉昭に海防参与就任を依頼します。ところが危機感の薄い幕閣と気性の激しい斉昭では合うはずもなくいたずらに対立を深めるだけでした。そんな中、病弱な第13代将軍家定の後継者問題が噴出します。
 その有力候補として斉昭の七男で一橋家に養子に入っている慶喜に白羽の矢が立ったのです。これには幕政改革で斉昭に同心する薩摩の島津斉彬ら有力外様大名が味方に付き一橋派と称されました。しかし慶喜が将軍になれば斉昭に幕府が牛耳られると恐れた反対派は紀州慶福(よしとみ。後の14代将軍家茂)を擁立し対抗しようとします。こちらの陣営を紀州派(南紀派)と呼びます。斉昭の激しい性格を嫌った大奥が紀州派をバックアップしたとも言われます。
 日米通商条約の勅許問題でも両派は対立し、幕政は混乱します。一橋派は改革派だが思想は保守(尊王)、一方紀州派は思想は保守ながらも開国を支持するという複雑な関係であったことも事態をより混迷化しました。このままでは、親藩や有力外様など西国雄藩を味方につけた一橋派の勝利はほぼ決定していました。ところが紀州派は譜代の筆頭、彦根藩主井伊直弼を擁立し巻き返しにかかりました。直弼は久しく途絶えていた大老職に就任します。
 こうなると御三家ながらあくまで幕府の顧問にすぎない斉昭と実際の幕政の主導者大老では勝負になりませんでした。斉昭は海防参与から1855年には軍制改革参与になっていましたが、井伊直弼が斉昭の主張を無視して勝手に日米修好通商条約を調印した事に怒り水戸藩士を率いて江戸城に登城、勅許を待たずに条約を調印した直弼を「違勅の大罪人」と詰り責任を追及します。条約調印と同時に将軍後継を紀州慶福に決めたと公表したことも斉昭の怒りを増幅しました。これを後世「斉昭の押懸登城あるいは不時登城」と呼びます。
 ところがこれは大失敗でした。大老井伊直弼は逆に幕府を脅迫する意図を持って登城したと斉昭の罪を追求し登城禁止処分にします。関係者も処罰されました。斉昭の政治生命はこれでほぼ断たれました。1859年には尊王攘夷の総本山とも言うべき水戸藩に孝明天皇から攘夷決行の密勅が下ります。水戸藩では、これを盾に幕府に圧力を掛けようとする尊王攘夷派と、密勅を朝廷に返上して幕命に従うべしという保守門閥派が激しく対立しました。そしてこの動きに危機感を覚えた大老井伊直弼は斉昭に蟄居謹慎処分を下します。政治生命の断たれた斉昭に抵抗する力はありませんでした。すでに藩主の地位も息子慶篤に譲っており1855年の安政大地震で股肱の臣藤田東湖を失っていた事も大きかったと思います。東湖の死は水戸藩のその後の運命を決したとも言われます。
 1858年9月、井伊直弼は徳川斉昭に味方した尊王攘夷派の大弾圧を開始します。所謂安政の大獄です。斉昭の息子一橋慶喜はじめ尾張藩主徳川慶勝、福井藩主松平春嶽、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内容堂らを謹慎処分、長州藩士吉田松陰、福井藩士橋本佐内、京の儒者頼三樹三郎ら死罪、水戸藩家老安島帯刀切腹など処分は過酷を極めました。
 世間は尊王攘夷派に厳しい処分を下す井伊直弼を赤鬼(井伊家の赤備えに由来)と呼んで恐れ忌み嫌いました。徳川御三家水戸藩の処分はことのほか厳しく、一時は現藩主の慶篤さえも謹慎登城禁止となるほどでした。当然、水戸藩士は激高します。それが1860年3月3日の桜田門外の変へと繋がるのです。
 次回は桜田門外の変を描きます。

伊奈忠次と水戸藩

 徳川家譜代、伊奈氏と言えばその名前から分かる通り信州伊奈郡の出身です。伊奈熊蔵忠基の時代に三河に流れてきて徳川家(当時は松平家)に仕えたそうです。伊奈氏と聞いて戦国ファンはすぐ伊奈図書(ずしょ)昭綱を連想する事でしょう。
 伊奈図書は山城国日岡関の関守の時、福島正則と揉めます。正則は当時伏見に居た徳川家康への使者として家老の佐久間嘉右衛門を派遣しました。ところが嘉右衛門が通行証を持っていなかったため図書は通過を認めず、嘉右衛門は広島に帰り面目を失ったとして自害するのです。これに烈火のごとく怒った正則は、家康に図書の処刑を要求、一歩も引かなかったため家康は仕方なく図書に自害を命じその首を正則に送って宥めました。一説ではこの事件が後の福島正則改易の遠因になったとも言われます。
 伊奈図書昭綱は子供がいなかったためお家断絶になりました。今回紹介する伊奈備前守忠次は昭綱の曾祖父貞正(初代忠基の子)の弟忠家の子に当たります。幕府草創期、武功派の大久保忠隣などは幕府内の権力争いに巻き込まれ没落、忠隣を陥れた策謀家の本多正信、正純父子も他人の憎しみを買って失脚します。戦乱が終わり平和な時代になると軍人や謀臣などより有能な官僚が必要になってくるのです。
 伊奈忠次(1550年~1610年)は、そんな有能な官僚の一人です。初代関東郡代となり代々その子孫が世襲しました。もっとも最近の研究では関東郡代は伊奈氏の自称らしく関東代官と言うのが正しいそうです。忠次は、関東郡代に就任すると水利土木、新田開発と活躍します。ある時、忠次は家康から関ヶ原の後出羽に転封になった佐竹氏の旧領常陸国の検地を命じられました。
 忠次は、家康の期待に応え隠し田などもどしどし摘発し表高(公式な石高)と内高(実質的な石高)がほぼ一緒になるくらいの成果を上げます。常陸が天領となっていればそれで問題なかったのですが、常陸国水戸には最初家康の五男信吉が、彼が夭折すると十男頼宣が封じられ、最終的には十一男頼房が入って御三家のひとつ水戸徳川家を形成しました。
 水戸藩は最初二十八万石でしたが、伊奈忠次が厳しく検地したため表高=内高という恐ろしい状況に置かれます。表高は大名の格式を決めるものですが、同時に軍役や参勤交代の負担にも影響するためできることなら表高と内高に差がある方が有難かったのです。水戸徳川家は参勤交代を免除された代わりに江戸定府を命じられます。これが天下の副将軍と水戸家が称する根拠なのですが、他の御三家尾張徳川家六十二万石、紀伊徳川家五十五万石と比べて差があることは明らかでした。官位も尾張家、紀州家が極官権大納言なのに対して権中納言止まり。ちなみに中納言の唐名が黄門(正式には黄門侍郎)です。これに我慢ならなかった水戸家は幕府に運動して三十五万石に石高を上げてもらいますが、新田開発もままならない現状では藩財政を悪化させるだけでした。個人的感想ですが精神性が盛岡藩南部家と似てるかも?(苦笑)
 江戸定府も参勤交代しなくて良いというメリットはありましたが、逆に江戸屋敷の藩士を増やさなければならず水戸藩は創設当時から慢性的な赤字に悩まされます。このコンプレックスが原動力となり学問を奨励し水戸学を発展させました。そしておそらく自分たちを差別する(たぶんに被害妄想でしたが…)徳川宗家(と徳川幕府)への秘かな反発から勤皇思想を醸成させ、それが幕末維新へと繋がるのです。
 その意味では、伊奈備前守忠次が明治維新を起こした遠因とも言えますね。忠次にとっては不本意でしょうけど。昭綱にしても忠次にしても伊奈氏は融通が利かない一族だったのかもしれませんね。御子孫の方からは怒られるかもしれませんが(苦笑)。

鎮台と師団 近代知識人の反軍的体質

  俗謡に「またも負けたか八連隊、これじゃ勲章九連隊」というものがあります。これは京都・大阪という当時の都市圏から徴兵された兵士は東北や九州の田舎から徴兵された兵士と違って我慢心もなく一旦不利になったらすぐに逃げ出す弱兵であると馬鹿にしたものです。

 ところが、近代戦史を調べてみると第八連隊や第九連隊が属した第四師団は弱兵ではなく帝国陸軍最精鋭部隊の一つだった事が分かります。第四師団はもともと大阪鎮台がベースになっていました。鎮台について簡単に説明すると、明治の健軍時全国に六つの鎮台を置いたのが始まりです。
 すなわち東京鎮台、仙台鎮台、名古屋鎮台、大阪鎮台、広島鎮台、熊本鎮台。鎮台というのは守りを基本とする組織で明治初期続発した士族反乱に対処するためのものでした。ところが、日本が近代軍制を学ぶために招聘したドイツの軍事顧問クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル少佐によって鎮台制は近代軍制に合わないと助言されより近代的で機動力のある師団制に改められます。近代戦史に詳しい方ならすぐピンと来たと思いますが
東京鎮台→第一師団
仙台鎮台→第二師団
名古屋鎮台→第三師団
大阪鎮台→第四師団
広島鎮台→第五師団
熊本鎮台→第六師団
となりました。近代日本最初の対外戦争だった日清戦争では基本この6個師団で戦います。ちなみに第四師団の戦歴を書くと、大阪鎮台時代の西南戦争では薩軍の攻撃で大きな損害を出しながらも奮戦し明治天皇から感状さえ頂いています。日露戦争では奥 保鞏(おくやすかた)率いる第二軍に属し(他に第一師団、第三師団、騎兵第一旅団)南山の戦い、遼陽会戦沙河会戦奉天会戦に参加した歴戦師団です。支那事変でも第一次長沙作戦など中支方面の重要な作戦に参加しました。
 大東亜戦争では比島攻略戦に参加、コレヒドール要塞一番乗りなど武勲を立てています。その後ビルマ方面に転用され第15軍隷下タイのランパンで終戦を迎えました。
 これらの戦闘で第四師団が特別弱かったわけではなく、むしろ活躍さえしています。ですから軍関係者の間で冒頭の「またも負けたか~」などという俗謡は生まれるはずないのです。これはどういう事か、私なりに考えてみました。
 するとおぼろげながら見えてきた見たくない現実があったのです。どうも日本人は、欧州のような国民全員が国家と運命共同体となって戦う国家総力戦の実感が無かったのではないかと考えます。特に、知識人と言われる連中は、戦争を他人事のようにとらえていたふしがあります。これは軍学者兵頭二十八氏が言うところの町人根性なのでしょう。
 欧米では、王族や貴族層は自ら進んで軍に入ります。イギリスのウィリアム王子やヘンリー王子もそうですよね。中東でも欧米化されたヨルダンのアブドラ国王が空軍パイロットであることは一連のISIL事件で皆さんご存じでしょう。欧米人の考えでは、恵まれた環境にある者は率先して危険を冒し他の人の見本にならなければならないという考え方が徹底しています。すなわち軍に入って自ら国家の防衛に寄与しなければ国家の指導的立場に就くことはできないと思っています。
 さらに市民も、兵役という義務を果たさねば権利を主張できないという考えが徹底しています。故に国家総力戦が成り立つのです。翻って日本を見てみましょう。さすがに皇室は欧米的な考えを実践し軍に身を投じましたが、華族と呼ばれる連中でどれくらいの人間が軍に入ったかお考えください。むしろ軍に入った華族を変わり者と珍しがる風潮があったことは否めない事実です。日本で言う市民と欧米(というより国際標準)の市民で意味は全く違います。義務なくして権利なし、これが国際標準の市民。義務は果たさないくせに権利だけ主張する、これは国際標準では市民ではなく薄汚い性根を持った町人です。
 このような社会では、軍が軽んじられ知識人と称する層は軍を批判する事がカッコよいと勘違いするようになります。戦後は特にそうですが、私は戦前にもそういう風潮があったと思っています。戦前軍部が暴走した背景にはこのような風潮も影響したはずです。
 そこから考察していくと、冒頭の「またも負けたか~」は、これら知識人が軍を馬鹿にするために流した可能性があります。さすがに九州や東北の兵士は朴訥なのでせめて都会育ちの第八連隊や第九連隊を馬鹿にすることで軍全体を嘲笑してやろうという意図が無かったかどうか?私は確実にあったと思います。
 これは「輜重輸卒が兵隊ならば、チョウチョウトンボも鳥のうち」という俗謡にも当てはまります。以前記事にしたので読んだ記憶のある方もおられると思いますが旧日本軍は補給を軽視していたわけではなく出来る限りの努力を払ったが(でないと近代戦は戦えません!)国力の限界で兵站が破綻したと書きました。
 これも最初は無知な兵士が歌いだしたことを知識人と称する連中が面白がって、あるいは悪意を持って世間一般に流布させたのだと思います。ですから売国奴は戦前から居たのです。
 日本が今後生き残るには、町人では駄目で真の意味での国際標準の市民にならなければならないと思うのは私だけでしょうか?

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