2022年1月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »

2015年6月

2015年6月 3日 (水)

北畠親房と常陸の南北朝Ⅴ   親房常陸を去る (終章)

 1341年小田城開城時、北畠親房は関城に、春日顕国は大宝城(下妻市大宝町)に移っていました。小田城内の不穏な空気を悟ってか、それとも作戦上の都合かは分かりません。だだ、親房らの不在が小田治久をして北朝方に降伏するハードルを下げたのは事実でしょう。もし親房らが城内に居たら良心の呵責から降伏を決断できなかったかもしれません。

 常陸南朝方最大の勢力であった小田氏の背信は常陸南朝方を決定的に不利にしました。北朝方の常陸方面総大将高師冬にとっては残敵掃討の段階に入ったとも言えます。大宝城の城主は下妻政泰でした。この下妻氏は小山一族とされます。大掾氏族にも下妻氏がいてややこしいのですが両者の関係は不明です。どちらかが養子に入って家督を継いだか、最初大掾氏系の下妻氏を小山氏系の下妻氏が滅ぼしたかのどちらかでしょう。足利氏に藤原秀郷流と源氏系がいるくらいですからね。
 1341年12月、降伏した小田治久を従えた高師冬は兵を二分して関城・大宝城を攻めました。両城の連絡を絶たれることは南朝方にとって致命的でしたので常陸国司(南朝の)春日顕国が出撃して幕府軍を牽制します。しかし多勢に無勢で失敗してしまいました。この間南朝にとって衝撃的な報告が入ります。長年の南朝方だった陸奥の白河結城親朝が北朝方に寝返り挙兵したのです。
 今まで南朝方で働いてきた小田治久や白河結城親朝の変節を酷いと思われる方も多いかもしれません。ですが彼らとて生き残らないといけないのです。それほど南朝方は各地で追い詰められていたとも言えます。一時、常陸に入っていた親房の次男顕信ですが、本来の鎮守府将軍・陸奥介の職責を果たすため再び奥州へ戻っていきました。この間の顕信の動きははっきりしませんが、1339年陸奥多賀城を一時占領するも北朝方の反撃を受けて失敗。陸奥南部の霊山に拠点を移し周辺の足利方と必死に戦っていました。その後1347年霊山落城を受けて活動の拠点を出羽に移し1351年には出羽に居た事が分かっています。顕信は1362年までは奥州で活動していたようです。その最期もはっきりせず、吉野に戻って右大臣になったとも九州に下向して征西将軍宮壊良親王を補佐したとも言われます。あるいは、陸奥津軽地方に落ちて浪岡氏の祖となったという説もあります。
 白河結城氏は、八戸南部氏・伊達氏と並ぶ陸奥南朝方の柱石でした。北畠顕家の二度の上洛戦にも常に白河結城氏の軍勢が付き従っていました。親房は戦いのさなか白河結城親朝に参陣を促す書状を何通も送ったそうですが、すべてが徒労となります。常陸南朝方最期の時は刻一刻とせまっていました。
 幕府軍の包囲網はより厳しくなります。霞ケ浦を利用した水上連絡線も断たれました。1343年3月大宝城が落ち春日顕国は関城に移ります。ただこの時包囲軍の中に突入し下総結城直朝(結城本家)と佐竹義篤(佐竹氏九代、貞義の子)の軍勢百余人を討ち取った事がせめてもの救いでした。この戦いで下総結城直朝は戦死します。
 同年4月、幕府軍は関城の堀から坑道を掘って水を抜きそこを草や土で埋め足場を作って攻め立てました。関城に達する坑道も掘られたそうですから本格的な城攻めです。これを察知した南朝方は、こちらからも穴を掘り敵の坑道を潰しました。そうこうしているうちに関城の兵糧が尽きます。11月11日関城は最後の戦闘を迎えました。関城主関宗祐・宗政親子、大宝城から移っていた下妻政泰戦死。北畠親房は間一髪危機を脱し、どのルートを辿ったかは不明ですが(おそらく海路)吉野へ戻りました。
 春日顕国は、なおも常陸に留まりゲリラ戦を展開しますが1344年3月大宝城で殺害、首級は京に送られ晒されました。こうして常陸の南北朝時代は終わります。常陸守護佐竹氏は、常陸の北半国を制しますが一円支配には至りませんでした。一族の悲願が達成されるのは戦国末期佐竹義重・義宣父子まで待たなければなりません。小田氏は、ぎりぎりで幕府方に降伏し滅亡は免れますが以後常陸西部の地方勢力に落ちぶれます。真壁氏らも同様、各々の所領を守りながら戦国時代に至りました。宗家が滅び一族が分裂して戦国時代を迎えた大掾氏は最終的には豊臣秀吉の小田原陣に出頭しなかった罪をとがめられ秀吉の意を受けた佐竹義宣に滅ぼされます。
 北畠親房のその後を記しましょう。常陸入りしたのが1338年、脱出が1343年、足かけ5年の活動でしたが、その間に神皇正統記と職源鈔を記すという文化的に大きな功績を残しました。しかし政治的軍事的には常陸南朝方を壊滅に追い込むという大失敗を犯します。ただ親房が下向していようといまいと常陸南朝方は最終的に滅ぼされていたと思います。
 親房は、吉野に戻り後醍醐天皇崩御後後村上天皇(かつての義良親王)を補佐し北朝との戦いを指導しました。親房は、吉野朝廷から准三后(太皇太后皇太后皇后三后【三宮】に准じた処遇)の待遇を受け位人臣を極めます。これは彼の権勢を現すとともに南朝に人材が払底していた証拠とも言えるでしょう。北朝方の内紛観応の擾乱を利用して一時は京都と鎌倉を回復しますがこれが南朝最後の輝きでした。
 1354年4月親房は隠棲先の賀名生(あのう、奈良県五條市)で亡くなります。享年62歳。主戦派の急先鋒として南朝を指導した親房の死によって、吉野宮廷は人材がいなくなり南北朝合一に向けて動き出しました。南北朝合一は1392年のことです。

北畠親房と常陸の南北朝Ⅳ   小田城攻防戦

 1337年北畠親房が常陸入りした時、北朝方の盟主佐竹貞義は瓜連城に入っていた楠木正成の甥(弟という説もあり)楠木左近蔵人正家を攻め城を攻略していました。これでほぼ常陸北半国は北朝方が制圧します。北朝方の勢力は鹿島方面にも伸びていたため、小田氏を中心とする常陸南朝方は常陸の西南部に押し込められる形でした。
 常陸で古くからの宮方、那珂通辰も瓜連城落城に関する一連の合戦で一族郎党が討ち取られ滅亡します。那珂氏の旧領はこの時の戦いで功績を上げた佐竹一族の小瀬義春(貞義の子)に与えられました。常陸南朝方の劣勢を知った奥州南朝勢は当時下野国宇都宮にいた鎮守府副将軍春日少将顕国を常陸国府に近い南郡大枝に移動させます。その頃笠間城を攻めていた北朝方は、城攻めを中断しこれを迎撃しました。1337年10月27日茨城郡小河郷大塚原・橋爪あたりで両軍は激戦を繰り広げます。
 常陸の旧族大掾氏は、一族が南朝方(真壁、下妻など)と北朝方(鹿島、宮崎など)に分裂し互いに争いました。このような情勢を見て小田城に入った北畠親房は、陸奥白河郡を領する奥州結城親朝に常陸出陣を求める督促状を多数送りますが、陸奥結城氏自身領国を守るのが精一杯でこれは実現しませんでした。
 1339年春日顕国と合流した親房は、下野・陸奥への連絡路を確保すべく中郡(ちゅうぐん)城(西茨城郡岩瀬町)を攻略、顕国をこの城に入れました。親房の次男陸奥介・鎮守府将軍の顕信は父を助けるべく陸路南下しようとしますがこれは叶わず結局海路から鹿島郡に至りそこから霞ケ浦の水路を通って小田城に入ります。こうして小田城を中心に常陸南朝方は徐々に勢力を拡大しました。
 京都の室町幕府(尊氏の将軍宣下は1338年)は、常陸南朝の動きに危機感を抱き関東執事高師冬(師直の子)を総大将とする追討軍を派遣します。幕府軍は1339年10月下総国結城郡から鬼怒川を渡り南朝方の中御門少将実寛が籠る駒館城(下妻市黒駒)を攻撃しました。意外に城の守りは固く、南朝方は関城の関宗祐と小田城から春日顕国を派遣し後方撹乱に努めたため戦闘は膠着状態に陥ります。
 5月27日、師冬は夜襲を敢行し城将中御門実寛を捕えますが南朝の逆襲を受けせっかく占領した城を放棄、下総古河に撤退しました。親房も春日顕国も中御門実寛も公卿で戦闘経験はないはずですが、武士顔負けの活躍に驚かされます。師冬は単独での南朝討伐を諦め佐竹氏の助力を得るべく下野を北上、北から常陸に入り瓜連城に入城しました。
 ここで勢力を回復した幕府軍は、佐竹貞義軍を加え南下します。師冬は南朝方だった府中城(石岡市)の大掾高幹の所領を安堵して寝返らせ万全の態勢をもって小田城に迫りました。北畠親房は、この小田在城中に有名な神皇正統記を記したと言われますが、困難な戦闘を指導しながらこのような大著を記していた事に驚かされます。
 高師冬率いる幕府の大軍が小田城を囲んだのは1341年5月でした。この前の失敗に懲りた師冬は城を厳重に囲み長期戦を覚悟します。その間、小田城の支城群を攻略し本城を丸裸にする作戦でした。兵糧攻めを受けた小田城の士気は見る見る低下します。籠城半年、11月10日城将小田治久は師冬に好を通じ18日には城を出て幕府軍に降伏しました。
 常陸南朝方の主将小田治久の降伏は酷い話ですが、一応彼にも同情すべき点があります。当時南朝は和平派と主戦派で分裂し主戦派の急先鋒北畠親房が常陸に釘付けになっている間に吉野の朝廷は和平派が優勢になっていたのです。主戦派親房の地位を否定する吉野朝廷の使者律僧浄光が小田城に下向していた事も治久降伏の大きな動機でした。親房が当時小田城から関城に移っていたのが悪い方向に進んだのでしょう。
 結局小田治久は、強固な南朝方ではなく宿敵佐竹貞義への対抗心から宮方に転じたに過ぎなかったとも言えます。自分の本領が安堵されるならどちらについても構わなかったのです。梯子を外された格好の北畠親房はこの後どういう行動をしたでしょうか?
 次回、最終回「親房常陸を去る」で語る事にしましょう。

北畠親房と常陸の南北朝Ⅲ   北畠親房の常陸下向

 義良親王を奉じて陸奥守・鎮守府将軍を拝命していた北畠顕家の活躍で南朝方は1336年(建武三年)京都から足利尊氏を叩き出す事に成功します。おそらくこのまま顕家の奥州勢が敗走する足利軍を追っていれば尊氏の息の根を止めることは可能だったでしょう。楠木正成も追撃策を支持していたといいます。ところが京の都を回復して安心したのか宮方は致命的な失策を犯しました。
 敗走する足利軍は放っておいてもじり貧になって壊滅すると考え、それよりも全国の支配権を確立することが優先するとして再び顕家を任地の奥州に戻したのです。実際尊氏が命からがら九州に辿り着いた時足利勢は数百にも満たなかったそうです。ところが建武政権は、鎌倉幕府討伐に功績を上げた一部の者を除いて多くの武士たちの恨みを買っていました。
 建武政権は、鎌倉幕府から彼らが保障されていた本領にまで手を付けどんどん没収して倒幕にまったく寄与していない公家や寺社に与えたのです。これでは恨みを買わないはずはありません。もともとそこが貴族や寺社の荘園だったとしても、鎌倉武士が幕府から恩賞として賜り一所懸命と守ってきた土地です。尊氏は、そのような全国の武士の不満を上手く掬いあげ自分の勢力拡大に利用しました。尊氏の政治力が勝ったと言えばそれまでですが、南朝が次第に不利になって行った背景には自らの失政が大きかったと思います。
 風前の灯だった尊氏は、これら武士団の協力を得て急速に勢力を回復します。まずは筑前多々良浜において宮方の菊池武敏の大軍を撃破、これで九州・四国・中国の武士団が尊氏になびきました。尊氏が巧妙なのは、後醍醐天皇に皇位を奪われて不満を持っていた持明院統の光厳上皇を味方につけた事です。ここで両者の対立は北朝(持明院統)と南朝(大覚寺統)の対立に変わりました。すなわち南北朝時代の始まりです。
 尊氏は西国の大軍を率いて上洛作戦を開始、1336年5月25日には摂津湊川の合戦で宮方を破り楠木正成を敗死させています。尊氏の九州落去から半年も経っていません。後醍醐天皇は京都を脱出し比叡山に籠りました。その後、一時和睦、後醍醐天皇幽閉、吉野脱出で本格的な南北朝時代が到来します。
 1337年(建武四年、以後南北両朝の年号があるので西暦のみ記す)、劣勢に陥った吉野の南朝は再び奥州の北畠顕家に上洛を命じました。ところがその頃顕家は多賀城を追われ南陸奥(福島県)の霊山に本拠を移していました。奥州でも北朝方の勢力が拡大し苦戦していたのです。吉野朝廷の悲鳴にも似た上洛要請に8月11日顕家もついに重い腰を上げます。
 顕家は奥州五十四郡から十万騎の大軍を集めたと太平記に記してありますがもとより誇張でしょう。十万も兵力があれば奥州は完全に平定できます。といっても顕家の武名は全国に轟わたっており数万の兵力を集めたのは確実だと思います。今回は白河関から下野に入り下野守護小山氏を撃破、鎌倉では足利方の東国における総大将斯波家長を自害に追い込んでいます。破竹の勢いで東海道を進み美濃青野原の合戦で高師冬、土岐頼遠、上杉憲顕らが率いる足利方の大軍を撃破しました。
 ところがこの戦いで北畠軍は大きな損害を出し、越前で戦っている新田義貞との連携は断念せざるを得なくなります。伊勢、伊賀と裏手から大和に入った北畠軍ですが、1338年5月22日和泉国石津の戦いでついに決定的敗北を喫し顕家は戦死しました。享年20歳。あまりにも短い名将の最期でした。
 顕家の父、北畠親房は吉野の朝廷にあって後醍醐天皇を補佐していましたが、顕家の戦死で劣勢に陥った態勢を立て直すため伊勢に入ります。これが北畠氏と伊勢が関係を持つ最初でした。ちなみに、南朝の伊勢国司として親房の三男顕能(あきよし)が任ぜられ伊勢北畠氏の祖となります。伊勢北畠氏は、伊勢国南部を支配し八代具教(とものり)が戦国時代末期織田信長に滅ぼされるまで続きます。
 伊勢国である程度の地盤を築いた親房は、次男の顕信(1320年~1380年)が戦死した兄顕家に代わって鎮守府将軍に就任し奥州に赴任していたのを補佐するため東国下向を考えました。親房は、北朝と南朝の勢力が拮抗する常陸に入って支配を固め陸奥の顕信と連携することを図ります。1338年義良親王・宗良親王を奉じて伊勢大湊を出港した親房ですが、途中暴風雨に遭い両親王と分かれ単身常陸に上陸しました。
 この時義良親王は伊勢に吹き戻され吉野に帰還、そのまま皇太子となりのち後村上天皇として即位されます。宗良親王は暴風雨で遠江に漂着、地元の宮方井伊谷の井伊道政を頼り東海、甲信越方面の宮方を指揮しました。宗良親王は劣勢の宮方を指揮され大変苦労を重ね、最後は信濃大河原(正し異説あり)で寂しく亡くなられたそうです。後醍醐天皇の皇子は大塔宮護良親王、征西将軍宮壊良親王始め皆波乱の生涯を送られていますね。
 ここで当時の常陸の情勢を記しましょう。甕(みか)ノ原合戦の敗退後自領の奥地に隠れた佐竹貞義は、常陸の北朝方の半数が尊氏に従って畿内に出陣していたため、正面からの対決を避け要害金砂山、武弓山を拠点としてゲリラ戦を挑んでいました。南朝方は、なんといっても頼みの綱の奥州北畠顕家がいなくなったため単独で佐竹勢と戦わざるを得なくなります。一応、南陸奥には南朝方の奥州結城氏(結城氏の庶流)がいましたが、結城氏自身も主力を各地に転戦させていたため力にはなりませんでした。

 逆に北朝方は、奥州に足利一族の吉良・畠山・石塔・斯波(大崎)氏を派遣し着々と支配を固めます。関東にも尊氏の嫡子義詮が尊氏の弟直義の補佐で鎌倉に赴任していました。こうした情勢は、常陸の南朝方小田氏らを精神的にも物理的にも圧迫し、佐竹氏には優位をもたらします。親房が常陸に上陸したときには、佐竹氏はほとんど旧領(奥七郡)を回復し、南下の気配を見せていました。

 最初、親房は小田治久の属城神宮寺城(茨城県稲敷市)に入ります。ところがすぐに佐竹氏に攻められ落城小田氏の本拠小田城(茨城県つくば市)へ移りました。親房は、この城から関東の南朝方に檄を飛ばし南朝勢力の結集を訴えます。

 次回、小田城の攻防戦を描きます。

北畠親房と常陸の南北朝Ⅱ   甕(みか)ノ原合戦

 1333年5月鎌倉幕府滅亡、1335年7月中先代の乱(北条得宗家【嫡流】最後の当主高時の遺児時行の起こした乱)という関東の戦乱は、ほぼ上野、武蔵、相模という関東の南北を結ぶ線を中心に展開しました。そこから外れる常陸や下野はほとんど戦禍を受けていません。
 中先代の乱を鎮圧した足利尊氏がそのまま鎌倉に居座り建武政権に反旗を翻すと同年12月には新田義貞率いる討伐軍を箱根竹ノ下合戦で撃破、足利軍は勢いを駆ってそのまま上洛します。建武政権下で義良(よしなが)親王(のちの後村上天皇)を奉じ陸奥守、鎮守府将軍として陸奥多賀城に赴任していた北畠顕家(1318年~1338年)は、奥羽の軍勢を募り尊氏が留守を任せた嫡子の義詮(よしあきら、二代将軍)と弟直義の守る鎌倉を背後から攻めるために挙兵しました。
 顕家率いる奥州勢は勿来(なこそ)の関(福島県いわき市)を通って海沿いのルートで関東に雪崩れ込んだため、北関東の玄関口常陸は初めて本格的戦闘に巻き込まれる事になりました。
 鎌倉府を守っていた足利直義は、常陸守護佐竹貞義(1287年~1352年)にこれを防ぐよう命じます。佐竹氏は頼朝に反抗し鎌倉時代は冷遇されていただけに今回の戦いを絶好の機会と捉えていました。もともと常陸奥七郡に地盤を持つとともに関東各地や南陸奥にまで一族が広がっていた佐竹氏は、この戦いで功績を上げ地位を盤石にすべく張り切ります。各地から一族郎党を集め中には南陸奥からも参加していたそうです。これを見ても分かる通り奥州は南朝一色ではありませんでした。逆に関東からも北畠軍に参加した者がいたそうですから、勢力は錯綜していました。
 ちなみに、この時佐竹軍に参加した奥州武士で名前が分かっている一人は好島(よしま)荘預所伊賀左衛門三郎盛光です。佐竹勢の総数は分かりませんがおそらく二万はくだらなかったろうと思います。一方、北畠勢も二万程度だったと推定されます。なぜなら大軍であったら堂々と白河の関から南下し下野・武蔵・相模というコースを辿るはずだからです。沿海ルートを選択したのは、敵を前方と右翼だけに限定するためだろうと推定します。
 佐竹勢は、多賀山地と太平洋に挟まれた隘路石名坂の出口小沢野(常陸太田市)に布陣します。南下してきた北畠勢がこの地に至ったのは1335年12月も暮れようとしている時でした。両軍は泉が森から久慈浜に至る海岸段丘面上の原野甕(みか)ノ原で激突します。甕ノ原のすぐ南は久慈川まで湿地帯が続き道は石名坂に続く多賀山地南麓を通る一本のみ。地の利に明るい佐竹氏は絶好の迎撃地点を選んだ事になります。
 緒戦は長途の遠征で疲れの見える北畠軍を休養十分で待ち構えていた佐竹軍が一方的に押しまくったそうです。このまま佐竹軍の勝利が見え始めたその時でした。常陸の国人で那珂川中流の在地武士那珂通辰(みちとき)が、在地の反佐竹勢力を集め突如背後から襲いかかったのです。おそらく彼らは心からの宮方ではなかったでしょう。想像ですが、鎌倉幕府に与し足利政権下で冷や飯を食っていた連中だと思います。佐竹氏がいちはやく足利方に付き優遇されたのと逆に親鎌倉幕府勢力は冷遇されていたはずです。その恨みがこの時爆発したのでしょう。
 前方に注意を向けていた佐竹軍の背後はがら空きでした。前後から敵に攻め立てられた佐竹軍は一気に優勢から劣勢に転じます。が、佐竹貞義も流石でした。陣容を整えると一時後退し再び反撃に転じます。ところが戦いというのは勢いです。戦闘の主導権を奪われれば再び取り戻すのは至難の業でした。
 結局佐竹軍は、勢いを増した北畠軍に敗北します。大きな損害を出しますが壊滅はせず地の利に明るい事を良い事に各々落ちて行きました。鎌倉幕府草創期に頼朝の追討軍に敗れた時と同様、こういった歴史ある一族は意外としぶといものです。また、上洛を急ぐ北畠軍も佐竹軍の残党を追撃する余裕はありませんでした。北畠軍は風のように常陸を駆け抜けます。
 顕家は足利直義を鎌倉に破ると敗走する直義を追って上洛、尊氏・直義兄弟はたまらず九州に落ちのびました。しかし、今度は九州の武士団を纏めた足利尊氏の逆襲が始まるのです。わずか数年のめまぐるしい歴史の動きでした。
 常陸では、有力な北朝方佐竹氏の没落で小田、真壁、笠間、下妻、関という南朝方が優勢になります。この顔ぶれを見ても分かる通り最初からの南朝方というよりはもともと鎌倉方で足利政権下では冷や飯を食っていた連中でした。
 次回はいよいよ、本シリーズの本題北畠親房の常陸下向と劣勢になった佐竹氏の戦いを描きます。

北畠親房と常陸の南北朝Ⅰ    鎌倉末期の常陸

 日本人の八割は源平藤橘の四大姓のどれかに属するそうです。私の個人的感想ではもっといそうな感じはします。むしろそれ以外の姓の方が貴重で、例えば古代豪族日下部(くさかべ)氏系の朝倉氏などは誇って良い家系だと思います。フィギュア選手の村主(すぐり)氏もおそらく百済系渡来人の末裔だと思うのである意味羨ましいと個人的には思います。
 前置きが長くなりましたが、もう少し余談が続きます。源氏の中で一番の家格を誇るのは村上源氏で、そのトップは清華家の久我(こが)氏です。懐かしの大女優久我美子は村上源氏久我氏の末裔だそうで、世が世なら女優などという賤業に就くのは家門の恥だったでしょう。戦前は侯爵家のお姫様だったそうですよ。有名な清和源氏は、源氏一族のなかでは家格が低く当初は源氏の氏長者は久我氏が務めていたそうです。ところが清和源氏は武力を持って氏長者の地位を強奪し武家源氏の最初の氏長者は足利三代将軍義満でした。以後源氏氏長者は足利将軍、徳川将軍が独占しますがこれは名目だけで、実質的には久我氏が源氏氏長者としての祭祀を取り行っていたそうです。教養のない武家源氏に有職故実など理解できるはずもありませんからね。
 ちなみに清華家というのは最上位の摂家に次ぐ家格で極官太政大臣にまで昇る事の出来る家柄です。久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川の七家が清華家でしたがのちに広幡、醍醐が加えられます。
 北畠氏は、村上源氏七代源(久我)通親の時、四人の子供がそれぞれ堀川氏(通具)、久我氏(通光)、土御門氏(定通)、中院氏(通方)を称した事から始まります。中院(なかのいん)通方の子雅家が洛北の北畠に住んだ事から北畠氏を称しました。村上源氏嫡流は通光の子孫の久我氏ですが、北畠氏は雅家の曾孫親房の時後醍醐天皇の側近となった事から急速に家格を上げ嫡流久我氏に匹敵するまでなります。
 北畠親房(1293年~1354年)といえば、神皇正統記を記した人、鎮守府将軍北畠顕家の父として有名ですがどのような事績を残した人かあまり知られていません。ですが調べてみると、意外とも思えるほどダイナミックな生涯を送った人なんです。今回のシリーズでは北畠親房と常陸国(現茨城県の大部分。南部は下総の北半分が含まれる)の関わりを中心に記したいと思います。
 常陸国における南北朝時代の幕開けは1335年(建武二年)の甕(みか)ノ原合戦だと言われます。これも説明が必要で、当時の常陸の状況を記さなければなりません。鎌倉時代初期、清和源氏の名門新羅三郎義光流常陸源氏の佐竹氏は、頼朝の鎌倉政権と敵対し一時滅亡の危機に陥ります。というのも平清盛の源氏分断策で源三位頼政や足利氏と同様平氏政権に優遇されていたからです。
 ただ常陸奥七郡(多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡)に勢力を持つ佐竹氏を滅ぼすことはできず、結局許され鎌倉幕府の一御家人として冷遇されました。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて常陸で最大の勢力を誇っていたのは大掾(だいじょう)氏でした。平将門の乱を鎮圧した平貞盛(伊勢平氏の祖)の弟繁盛から始まる家系で代々常陸国の大掾職(国司の三等官)を世襲した事から大掾氏を称します。
 ところがこうした変革期には急速に台頭する一族が出るもので、宇都宮一族八田知家から始まる小田(おだ)氏は頼朝の鎌倉政権に急接近しまんまと常陸守護職を得ます。小田氏の家祖知家は、陰謀の限りを尽くして大掾氏に巧みに陰謀の嫌疑を掛け勢力を奪いました。知家は、この他にも常陸・下総・下野で古くから勢力を張る藤原秀郷流小山(おやま)氏を圧迫し常陸で最大の勢力を誇るまでになります。幸いにして小山一族には頼朝の側近で寵遇されていた結城(小山)朝光がいたため、大掾氏のように多くの所領を奪われる事だけは免れました。
 小田氏は鎌倉時代を通じて常陸で一番勢いのある一族でしたが、鎌倉幕府が滅亡するとそれまでの立場が逆転します。鎌倉時代に冷遇されていた恨みから佐竹氏はいち早く宮方に転じ足利尊氏が台頭するとすぐさまこれに乗り替えました。佐竹氏は尊氏から常陸守護に任命されます。小山氏も八代秀朝が新田義貞の討幕軍に加わり下野守護職を得ました。小山氏の分家結城氏は朝祐が足利尊氏の六波羅探題攻めに参加し本領安堵を獲得しています。
 この間小田氏は迷走を続けました。最初は当然鎌倉方でしたが、元弘の変で常陸に流されていた万里小路藤房を小田治久が預かっていたことから、藤房を奉じて上洛し辛くも滅亡を免れます。ただ建武政権と足利尊氏の対立が始まると強固な足利方の佐竹氏への対抗心から宮方に留まるのです。
 ここまでの前提条件を踏まえながら、甕(みか)ノ原合戦へと筆を進める事にしましょう。

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »