北畠親房と常陸の南北朝Ⅳ 小田城攻防戦
1337年北畠親房が常陸入りした時、北朝方の盟主佐竹貞義は瓜連城に入っていた楠木正成の甥(弟という説もあり)楠木左近蔵人正家を攻め城を攻略していました。これでほぼ常陸北半国は北朝方が制圧します。北朝方の勢力は鹿島方面にも伸びていたため、小田氏を中心とする常陸南朝方は常陸の西南部に押し込められる形でした。
常陸で古くからの宮方、那珂通辰も瓜連城落城に関する一連の合戦で一族郎党が討ち取られ滅亡します。那珂氏の旧領はこの時の戦いで功績を上げた佐竹一族の小瀬義春(貞義の子)に与えられました。常陸南朝方の劣勢を知った奥州南朝勢は当時下野国宇都宮にいた鎮守府副将軍春日少将顕国を常陸国府に近い南郡大枝に移動させます。その頃笠間城を攻めていた北朝方は、城攻めを中断しこれを迎撃しました。1337年10月27日茨城郡小河郷大塚原・橋爪あたりで両軍は激戦を繰り広げます。
常陸の旧族大掾氏は、一族が南朝方(真壁、下妻など)と北朝方(鹿島、宮崎など)に分裂し互いに争いました。このような情勢を見て小田城に入った北畠親房は、陸奥白河郡を領する奥州結城親朝に常陸出陣を求める督促状を多数送りますが、陸奥結城氏自身領国を守るのが精一杯でこれは実現しませんでした。
1339年春日顕国と合流した親房は、下野・陸奥への連絡路を確保すべく中郡(ちゅうぐん)城(西茨城郡岩瀬町)を攻略、顕国をこの城に入れました。親房の次男陸奥介・鎮守府将軍の顕信は父を助けるべく陸路南下しようとしますがこれは叶わず結局海路から鹿島郡に至りそこから霞ケ浦の水路を通って小田城に入ります。こうして小田城を中心に常陸南朝方は徐々に勢力を拡大しました。
京都の室町幕府(尊氏の将軍宣下は1338年)は、常陸南朝の動きに危機感を抱き関東執事高師冬(師直の子)を総大将とする追討軍を派遣します。幕府軍は1339年10月下総国結城郡から鬼怒川を渡り南朝方の中御門少将実寛が籠る駒館城(下妻市黒駒)を攻撃しました。意外に城の守りは固く、南朝方は関城の関宗祐と小田城から春日顕国を派遣し後方撹乱に努めたため戦闘は膠着状態に陥ります。
5月27日、師冬は夜襲を敢行し城将中御門実寛を捕えますが南朝の逆襲を受けせっかく占領した城を放棄、下総古河に撤退しました。親房も春日顕国も中御門実寛も公卿で戦闘経験はないはずですが、武士顔負けの活躍に驚かされます。師冬は単独での南朝討伐を諦め佐竹氏の助力を得るべく下野を北上、北から常陸に入り瓜連城に入城しました。
ここで勢力を回復した幕府軍は、佐竹貞義軍を加え南下します。師冬は南朝方だった府中城(石岡市)の大掾高幹の所領を安堵して寝返らせ万全の態勢をもって小田城に迫りました。北畠親房は、この小田在城中に有名な神皇正統記を記したと言われますが、困難な戦闘を指導しながらこのような大著を記していた事に驚かされます。
高師冬率いる幕府の大軍が小田城を囲んだのは1341年5月でした。この前の失敗に懲りた師冬は城を厳重に囲み長期戦を覚悟します。その間、小田城の支城群を攻略し本城を丸裸にする作戦でした。兵糧攻めを受けた小田城の士気は見る見る低下します。籠城半年、11月10日城将小田治久は師冬に好を通じ18日には城を出て幕府軍に降伏しました。
常陸南朝方の主将小田治久の降伏は酷い話ですが、一応彼にも同情すべき点があります。当時南朝は和平派と主戦派で分裂し主戦派の急先鋒北畠親房が常陸に釘付けになっている間に吉野の朝廷は和平派が優勢になっていたのです。主戦派親房の地位を否定する吉野朝廷の使者律僧浄光が小田城に下向していた事も治久降伏の大きな動機でした。親房が当時小田城から関城に移っていたのが悪い方向に進んだのでしょう。
結局小田治久は、強固な南朝方ではなく宿敵佐竹貞義への対抗心から宮方に転じたに過ぎなかったとも言えます。自分の本領が安堵されるならどちらについても構わなかったのです。梯子を外された格好の北畠親房はこの後どういう行動をしたでしょうか?
次回、最終回「親房常陸を去る」で語る事にしましょう。
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