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2015年7月

2015年7月 5日 (日)

房総戦国史Ⅸ  房総戦国時代の終焉

 第二次国府台合戦の敗北で里見氏の拡大路線は終わりました。逆に勝った北条氏康は下総・上総方面へと進出します。その頃関東管領上杉謙信は北条方に寝返った下野の小山氏、常陸の小田氏を攻めていました。北条氏康と同盟していた甲斐の武田信玄は北信濃・西上野方面に進出し謙信の背後を脅かします。そして1564年(永禄七年)4月、信玄と謙信の対決した最後の戦い第五次川中島合戦が起こるのです。

 北条氏康は、上杉謙信と一度もまともに戦おうとしませんでした。おそらく謙信は戦国時代でも一二を争う戦上手で、そんな相手と直接ぶつかる愚を避けたのです。一方、謙信は政略の面では氏康にかなり劣りました。氏康は、謙信が関東に居る間はおとなしく小田原城に引きこもり、謙信が本国越後に戻った冬の間に謙信に奪われた城を奪い返すと言う事を繰り返します。同時に調略も進め関東管領陣営の切り崩しを行いました。

 結果、謙信は戦では勝っても領土を獲得することが難しくなっていきます。まさに氏康政治力の勝利でした。武蔵の成田氏、下野の小山氏、常陸の小田氏らが次々と氏康に寝返ります。そんな中、里見氏は行きがかり上謙信に属し続けました。ところが氏康と謙信が対武田信玄で同盟を結ぶと里見氏は孤立します。そこへ調略の手を差し伸べたのは武田信玄でした。結局越相同盟は決裂し、里見氏は再び謙信と結ぶのですがおそらく当時の関東で反北条氏を貫いたのは安房の里見氏と常陸の佐竹氏だけだったでしょう。どちらも本国への北条軍の侵攻を撃退したという共通点があります。

 1567年(永禄十年)8月、北条軍は上総に侵攻し里見義弘の本拠佐貫城の北方5キロの地点三船山に布陣します。ここは義弘の父で隠居していた義堯の籠る久留里城からも17キロしか離れていませんでした。里見氏絶体絶命の危機です。氏康の長子氏政が指揮した大軍でした。おそらく三万近い数だったと思います。すでに里見氏の重臣正木時忠も夷隅郡の土岐為頼も北条軍に降っていました。

 義弘は、重臣の正木憲時(時茂の養嗣子)とともに出撃し三船山の北条氏政本陣に襲いかかります。地の利を知りつくした里見軍の攻撃に北条軍は慌てふためきこれを支えきることができませんでした。北条軍は敗走し殿をつとめた太田氏資が戦死するほどの大敗北を喫します。海上でも里見水軍が北条水軍を撃破したため北条勢は上総を撤退しました。こうして里見氏は九死に一生を得、滅亡を免れます。

 ただ北条氏は、この時150万石から200万石に膨れ上がっており30万石前後の里見氏が太刀打ちできるはずはありませんでした。ではなぜ滅亡を免れたかというと、上杉謙信のおかげなのです。謙信は生涯で32回も遠征を行っていますがそのうちの半分以上の17回は関東への遠征でした。残りは6回が北信濃、9回が北陸方面です。

 上杉軍に背後を衝かれる事を恐れ、北条氏康は本格的な下総・上総侵攻ができませんでした。同じ事は常陸の佐竹氏にも言え謙信のおかげで家を保つことができたと思います。謙信自身は関東遠征でほとんど得ることはありませんでしたが、佐竹氏と里見氏にとっては救世主に等しかったのでしょう。

 氏康が1571年(元亀二年)56歳で死去し長男氏政が家督を継いだことも里見氏を楽にしました。武将としての器量が父と子で大きく違ったからです。1578年(天正六年)、北条氏に奪われた上総の失地を回復中だった里見義弘は48歳の生涯を終えます。後を継いだのは弟(庶長子という説もあり)義頼(1543年~1587年)でした。

 里見義頼の家督相続にはひと悶着があり、もともとは義頼が受け継いだのは安房一国のみ。上総の里見領は義弘の遺言で義弘の嫡男義重が受け継ぐはずでした。分割相続に不満を持つ義頼は、あろうことか北条氏政と結んでしまいます。北条氏の援軍を得た義頼は、甥の義重を上総に攻め捕えて出家させました。その際、この暴挙に反抗した里見家の柱石ともいうべき重臣正木憲時を粛清しています。

 血なまぐさい手段で里見氏の家督を奪った義頼は、目的を達成するとあっさりと北条氏を裏切りました。戦国の習いなのでしょうが、私はこの信義に反する行動が後の里見氏滅亡につながったのだと思います。

 
 時代は、里見氏や北条氏の預かり知らぬところで大きく動いていました。中央では織田信長の後を受けた豊臣秀吉がすでに九州から中部地方まで統一しています。最後に残った北条氏を屈服させるため秀吉は氏直(氏政の嫡子。家督を継いでいた)に上洛を命じました。ところが、氏政(隠居していたが権力は維持していた)は時代の流れを読むことができず、これを拒否。当然北条氏のこのような反応は織り込み済みの秀吉は、30万とも号する天下の大軍を率いて1590年(天正18年)小田原攻めを開始します。

 里見家は義頼の長男義康(1573年~1603年)の時代でしたが、さすがに北条氏よりは天下の情勢を読む事が出来ました。北条氏と常に敵対していたことが幸いしたのです。義康は、いち早く徳川家康に接近し、家康の斡旋で秀吉に拝謁、遅参を咎められるも最終的には安房一国と上総の所領を安堵され安房守の官位と羽柴姓まで与えられる厚遇を受けます。

 北条氏は本拠小田原城に籠りますが、秀吉の本隊に城を囲まれ関東各地の支城群は各個撃破されました。房総方面を担当したのは徳川家康で、下総千葉氏、上総の酒井氏、土岐氏など最後まで北条方だった諸氏がこの時滅ぼされます。完全に孤立した小田原城は開城し、氏政、氏照切腹、氏直は助命されたものの高野山に追放されました。

 小田原陣の後、上総・下総を含めた北条氏の旧領は徳川家康のものとなります。その石高250万石にも及びました。里見氏は、同じ新田源氏出身という誼で(どちらの出自も怪しいものですが…)徳川家に付き従います。

 しかし、自分の本領の目と鼻の先に外様の有力大名がいることは徳川家にとっては目障りで、結局関ヶ原の合戦後里見家は大久保忠隣失脚事件に連座、本領安房国九万石を召しあげられ常陸鹿島三万石に転封されました。しかし処分はこれでは終わらず伯耆国倉吉に移されますがここで改易を申し渡されます。

 結局新田源氏の誼は何の力も発揮できなかったのです。里見氏の滅亡で房総半島は徳川氏の完全な領土となりました。房総地方の戦国時代は小田原陣と共に終わりを告げ、以後この地方は天領と譜代大名の領地に細かく分割されます。江戸時代は一大消費都市江戸の食糧基地として発展していくこととなりました。

房総戦国史Ⅷ  第二次国府台合戦

 第一次国府台(こうのだい)合戦(1538年)に勝利した相模の北条氏綱(1487年~1541年)は兵を率いてそのまま下総、上総方面に侵攻しました。私は第一次国府台合戦の時の北条勢二万という数に疑問を持っていて、当時の領土を考えると北条氏単独でこれだけの兵力を集められるはずはないと考えています。
 というのも、当時の北条領は伊豆・相模で30万石弱。武蔵国には宿敵山内・扇谷両上杉家を抱えこちらにも兵力を割かねばならなかったはずですから一万も動員できたら理想的だったと思うんです。では、二万という兵力はどこから来たかと想像すると、古河公方の命令で北条勢に加勢した武蔵、下総の豪族たちの兵力を合わせたものだったのでしょう。
 よそ者の北条氏に対し、小弓御所義明は一応主筋。一方、兄の古河公方高基にとって自分の地位を狙う弟義明は敵。共通の敵に対する利害から高基が氏綱を加勢するよう配下の武士たちに命じたのでしょう。そう考えるとまだ武蔵国にも進出していない北条氏綱が長駆下総・上総方面に侵攻した理由も納得できます。おそらくこれは古河公方高基の要請だったのでしょう。
 氏綱は討ち取った小弓御所義明父子の首を古河公方に送り、亡命していた真里谷武田信隆を擁し小弓御所方の真里谷武田信応を追放。小弓城には氏綱に味方した元の城主原氏を入れます。土気(とけ)、東金方面を領する酒井氏も服属させました。上総武田氏の嫡流庁南武田氏も降ります。
 上総は上総武田氏やこの酒井氏(遠江出身というから徳川譜代酒井氏と同族か?)、夷隅郡の土岐氏(美濃の土岐氏と同族とされる)など外から入ってきた豪族が支配する土地でした。おそらく旧来の支配者であった下総千葉氏などの衰退に付け込んで領土を強奪したのでしょう。ちなみに土気・東金はもともとは千葉一族の領地でした。
 北条氏綱は、上総大多喜城を上総支配の拠点に定め帰還します。ところがこの機会を虎視眈々と待っていた者がいました。安房の里見義堯です。義堯は1544年(天文十三年)重臣正木時茂・時忠兄弟を大将とする軍勢を派遣し北条軍のいなくなった大多喜城を攻めます。この正木氏も相模の三浦氏出身の出でした。三浦時高には嗣子がなく、扇谷上杉家から養子を貰い家督を継がせます。これが三浦氏最後の当主義同(よしあつ。出家して道寸)でした。ところが隠居していた時高に晩年実子時綱が生まれます。
 こうなると実子に家督を継がせたくなるのは人情で、時高は義同を疎んじるようになりました。義同はこれを恨み義父時高を殺害します。まだ幼少だった時綱は侍女に守られ海路安房に逃れました。時綱は安房国平郡正木郷に隠れ里見氏に保護されました。成長した時綱は正木氏と名乗り里見氏の重臣となります。その子供が時茂・時忠兄弟でした。
 大多喜城主真里谷武田朝信(真里谷庶流)は、苅谷原の合戦で敗北し自害。正木時茂はやすやすと大多喜城を占領、城主となります。これが里見氏上総侵攻の始まりでした。正木氏は、大多喜城を拠点に東岸沿いに下総にまで進出、香取神社に放火するほどになります。下総では千葉胤富の軍勢を破り正木氏を先鋒とした里見氏の上総・下総侵攻は着々と進んで行きます。正木氏は里見氏配下であまりにも大きくなり過ぎ時には主君里見氏に反抗することもありました。ただ、最終的には難敵北条氏に対抗するため里見方に留まるのです。
 上総をほぼ平定した里見義堯は上総久留里城に本拠を移し里見氏の最盛期を築きました。下総では北条氏と結んだ下総千葉氏を攻めます。そんな中、関東を揺るがす大事件が起こりました。
 1546年(天文十六年)河越夜戦です。北条家では父氏綱の死を受け北条氏康(1515年~1571年)が家督を継いでいました。当時北条氏は駿河・遠江・三河を領する今川義元と対立しており、義元の扇動で関東管領・山内上杉憲政と扇谷上杉朝定、そして古河公方足利晴氏(高基の子)の秘密同盟が結成されます。
 三者連合は、若年の氏康を侮り北条氏に奪われた武蔵河越城を奪回すべく八万もの大軍を集めました。河越城を守るのは氏康の重臣北条綱成。ただし城兵はわずか三千。綱成がいくら武勇の将とはいえ落城は時間の問題でした。急報を受けた氏康は、八千の手勢を率いて河越城に来援します。十倍以上の兵にまともに戦っても勝ち目がないと悟った氏康は、最初連合軍に降伏を求め交渉します。氏康が弱気になっていると油断していた連合軍は、夜陰を衝いた北条軍の奇襲を受け大混乱に陥りました。河越城の綱成もこれに呼応して討って出たため連合軍は潰走、扇谷上杉朝定が混乱の中で討ち取られ名門扇谷上杉家は滅亡します。
 関東管領山内上杉憲政も、この敗北により武蔵における領土をことごとく失い上野一国に押し込まれました。関東の勢力図は一気に変わり北条氏一強時代が到来します。6年後の1552年(天文二十一年)憲政は、本拠上州平井城を北条氏に奪われ越後の長尾景虎を頼り亡命しました。憲政は景虎を養子とし家督と関東管領職を譲ります。これがのちの上杉謙信(1530年~1578年)です。家督を譲られた当時は上杉政虎と名乗りました。後上洛して将軍足利義輝から一字拝領して輝虎と改名。出家して謙信と号しますが、紛らわしいので以後上杉謙信と記します。上杉謙信は憲政の亡命を受け入れた瞬間から関東と関わるようになりました。
 里見氏は、こういった戦国時代の歴史に大きく翻弄されていくこととなります。甲斐の武田信玄が勢力を拡大し信濃、西上野と進出しつつありました。一般には武田・上杉・北条の関東を巡る抗争を関東三国志と呼びますが里見氏は完全に脇役に追いやられます。そんな中、古河公方家にまたしても家督争いが勃発しました。古河公方晴氏には、正室北条氏綱の娘との間に義氏、側室梁田氏との間に藤氏、藤政、家国の三人の男子がおり、義氏と藤氏との間に家督相続問題が起こったのです。
 里見義弘(義堯長男、1530年~1578年)の後室も藤氏と同腹の妹だったため、義氏には北条氏康が味方に付き、藤氏は里見義弘が支援しました。1562年(永禄五年)、業を煮やした氏康は三男氏照に軍勢を与え古河城を攻撃させます。藤氏は、里見義弘を頼って上総久留里城に逃げました。翌年関東管領上杉謙信の調停で藤氏は古河城復帰が成りますが、上杉勢が越後に帰ると北条氏康は約束を反故にし古河城を攻めて藤氏を捕え伊豆に幽閉します。
 怒った謙信は、再び軍を率いて三国峠を越え上野国厩橋城(前橋市)に入りました。里見義弘も謙信の要請を受け出陣、1564年(永禄七年)下総国府台に至ります。ここはかつて父義堯が北条氏綱に敗北した因縁の古戦場でした。義弘は、上杉方の武蔵岩槻城主太田資正に兵糧を送り支援しようとします。
 北条氏康は、この動きを受け難敵上杉謙信と決戦する前に小うるさい里見義弘を叩いておこうと二万の軍勢を率いて江戸城に入りました。ですから里見氏にとっては決戦ですが北条氏にとっては決戦の前の前哨戦にすぎなかったのです。里見勢は太田資正勢を含めて一万二千だったと伝えられます。
 1月7日、決戦の火ぶたは切られました。数の上からは北条軍が有利でしたが太田資正の作戦指揮と里見勢の奮戦で北条軍は苦戦します。もしかしたら敵を侮っていたのかもしれません。遠山直景など北条方の有力武将が次々と討たれその日の戦闘は終わりました。勝利を確信した里見方は休息を取って酒を酌み交わします。しかしまだ戦いは終わっていません。にも関わらずの油断。これが致命的な判断ミスとなります。
 里見勢が酒宴をしているという報告を受けた北条氏康は、その夜のうちに北条綱成勢を松戸方面から迂回させ国府台東方真間の森に伏せさせました。夜が明けると北条軍は江戸川を渡河し里見勢を攻撃します。必死に防ぐ里見勢ですが、突如背後から北条綱成勢が襲いかかりました。前後から迫られた里見軍はこれを支えることができず潰走、里見義弘は馬を射られ家臣の馬に乗せられ命からがら上総に逃れます。太田資正も負傷し岩槻城に帰還しました。
 第二次国府台合戦は、房総半島の勢力図を北条方に大きく傾けます。以後里見氏は、北条軍の侵攻に悩まされ続けることになりました。次回、最終回房総戦国時代の終焉に御期待下さい。

房総戦国史Ⅶ  小弓御所

 関東武士を二分した大乱亨徳の乱が終結しても関東が平和になる事はありませんでした。直後に関東管領山内上杉氏と有力庶家扇谷上杉氏の争い長享の乱(1487年~1505年)が勃発するのです。扇谷上杉氏が急速に台頭してきた理由は、家宰太田道灌(持資、1432年~1486年)の存在でした。

 

 

 道灌は、江戸城を築城し寡兵をもって山内上杉軍をしばしば破ります。文化人としても第一級で都にも鳴り響くほどでした。主君扇谷上杉定正はそんな道灌に嫉妬し疑いを抱くようになります。そこに山内上杉方がうまく讒言し道灌は定正によって暗殺されてしまいました。その際、道灌が「当方滅亡!」と叫んだエピソードは有名です。

 

 

 道灌は相模守護扇谷上杉氏の家宰として、幕府の命で駿河・遠江守護今川氏の家督争いにも介入調停しています。今川家では第六代義忠が遠江の反乱鎮圧の際、反乱軍の残党に帰途を襲われ暗殺されました。残された子供はわずか6歳の龍王丸のみ。龍王丸の家督相続に異を唱えた一族の小鹿範満は妻が堀越公方の執事上杉政憲の娘だったこともあって強気に出ます。

 

 

 道灌は、兵を率いて駿河に入り龍王丸の正当性を確認。その母北川殿(義忠側室)の兄伊勢宗瑞が龍王丸成人まで後見するという事で纏めました。家督はそれまでの間小鹿範満が預かる事に決まります。戦国時代に詳しい方ならお分かりだと思いますが、この伊勢宗瑞こそ後の北条早雲(1432年~1519年)です。太田道灌と伊勢宗瑞、戦国時代を代表する両雄が初めて会ったわけです。

 

 

 今川家の家督争いは、龍王丸が元服するまで一時家督を預かる約束だった範満が、龍王丸元服後も返さなかったため宗瑞が兵を率いて範満を討ち解決しました。龍王丸は元服し今川氏親と名乗ります。この功績により宗瑞は伊豆国境に近い興国寺城を賜りました。その後、堀越公方政知が亡くなり後を幼少の茶々丸が継ぐとこれを騙し討ちして伊豆を横領、関東の戦国史に関わる事になっていきます。

 

 

 

 その頃古河公方家はどうなっていたでしょうか。1489年(長享三年)成氏は家督を嫡男政氏に譲り隠居します。その後1497年まで生き64歳で波乱の生涯を閉じました。古河公方政氏は長享の乱にも積極的に介入、最初は扇谷上杉氏を支持していましたが扇谷上杉定正の死で山内上杉氏に乗り換え、今度は1504年(永正元年)武蔵立河原の合戦で扇谷上杉方の伊勢宗瑞、今川氏親と戦うなど乱脈を極めます。

 

 

 そのため、嫡男高基と不和を生じ合戦騒ぎまで起こす始末でした。これを永正の乱と呼びます。両者の争いの中、政氏の次男義明(不明~1538年)は鎌倉雪の下八正寺で僧をしていましたが還俗し古河に戻っていました。政氏は、対立する長男高基に代わり次男の義明を後継者にするつもりでした。ところが政氏は義明とも不和を生じ義明は古河を出奔、上総の真里谷武田信清の支援を受け千葉氏の重臣原氏の居城である下総国小弓城を攻撃占拠してしまいます。

 

 

 

 下総千葉氏もずいぶん舐められたものですが、それだけ弱体化していたのでしょう。当時千葉氏は本拠千葉城を捨て佐倉に移り衰退に拍車がかかっていたのです。義明の暴挙にも形ばかりの抗議をするのみでした。その後義明は、後援者の真里谷武田信清とも不和を生じ、彼の死後は真里谷武田氏の家督争いに介入するようになります。信清の庶長子信隆を追放し次子の信応(のぶまさ)を家督に据えました。庶子とはいえ正式な家督は信隆に決められていたにも関わらずの横紙破りです。おそらく性格も粗暴だったのでしょう。しかし、武勇はあったため房総の武士たちに一定の信頼はありました。小弓城占領後の義明を小弓御所と呼びます。真里谷武田家を追われた信隆は小田原城を占領し相模、武蔵に進出しつつあった北条氏綱(早雲の子)を頼って亡命しました。

 

 

 古河公方家の家督争いは、結局1512年(永正九年)宇都宮成綱の支援を受けた高基が勝利し政氏は引退を余儀なくされます。古河公方の地位を狙っていた小弓御所義明は兄高基とも対立しました。相模の北条氏綱は、小弓御所義明という共通の敵を持つ古河公方高基と結びます。

 

 

 北条氏綱は、反小弓御所陣営の盟主になりつつありました。実力が他者と違いすぎていたからです。古河公方高基、下総千葉氏、小弓城を奪われた原氏らが味方です。一方、小弓御所側は真里谷武田信応はじめ酒井、土岐ら上総の豪族、安房の里見義堯(1507年~1574年)らでした。義明は里見義堯に命じ江戸湾を渡海鎌倉の鶴岡八幡宮を焼かせます。これは嫌がらせ以上の意味はありませんでしたが、北条方も対抗して水軍を派遣して安房を襲いました。

 

 

 両者の対立は次第に深刻化します。そしてついに1538年(天文七年)第一次国府台(こうのだい)合戦へと至るのです。北条方は兵力二万、一方小弓御所側は一万だったと伝えられます。合戦の経緯は過去記事で触れたので書きませんが、国府台は江戸川河口の東岸、下総国にあり現在の千葉県松戸市。江戸川を挟んで両軍は対峙します。軍議の席で、里見義堯は兵力の劣る自軍の不利をカバーするため敵の渡河中に攻撃を仕掛けるよう建策しますが、自分の武勇に自信のある小弓義明はこれを一蹴。北条軍を舐めていた事もあり自ら先に攻撃を仕掛け大敗してしまいました。小弓義明はこの戦いで討死、里見義堯は自分の建策が容れられなかった時点で義明を見限り、ろくに戦闘に参加しないままさっさと撤退しました。

 

 

 後ろ盾を失った真里谷武田信応は、北条氏の支援を受けた異母兄信隆に敗れ安房の里見義堯を頼ります。義堯にとっては上総侵攻の大義名分を得た形です。以後里見氏は露骨に上総下総方面へ進出を開始します。敗北した小弓御所陣営で唯一最大の利益を得たのは里見氏でした。

 

 

 

 次回、里見氏の上総侵攻そして小田原北条氏との最後の決戦第二次国府台合戦を描きます。

房総戦国史Ⅵ  里見氏と上総武田氏

 亨徳の乱は1455年から1483年まで30年近く続きました。古河公方足利成氏は1438年生まれですから実に17歳から45歳までという人生の活動期のほとんどを戦争に費やした事になります。関東を二分し古河公方と関東管領が争うという泥沼の合戦は双方が疲弊したためにようやく1483年(文明十四年)和議が成立しました。これで古河公方成氏は朝敵の汚名を返上することはできましたが、上杉氏が認めなかったために鎌倉復帰は叶いませんでした。古河公方は一応の権威だけは残りますが実質下総の一地方勢力に落ちぶれます。古河公方に代わって幕府から派遣された堀越公方家も同様でした。こちらも伊豆一国に押し込められ実質的な関東の主人は関東管領上杉氏になったのです。
 といっても、上杉氏内部でも嫡流山内家と有力庶家扇谷家の対立が深刻になり合戦沙汰を繰り返します。古河公方が関東管領上杉氏を倒せなかったのは、上杉氏が幕府の関東における代官として陰に陽に支援を受けていた事、そして古河公方陣営が必ずしも一枚岩でなかったことが挙げられます。例えば下野守護小山氏、下野の有力大名宇都宮氏、同那須氏、下総守護千葉氏は一族が古河公方派と関東管領派に分かれ争い家督相続問題も絡まって団結できませんでした。常陸守護佐竹氏は内部分裂こそありませんでしたが自国の勢力拡大を優先し積極的には亨徳の乱に関与していません。むしろ佐竹氏は、弱小勢力がひしめく陸奥南部に矛先を向けつつありました。佐竹氏の本心としては、関東管領方に味方して公方方に背後から攻められるのを防ぐための名目だけの参加だったように思えるのです。
 一つの例として下総千葉氏を見てみましょう。当時の当主は千葉氏16代胤直(1419年~1455年)でした。関東有数の歴史を誇る下総千葉氏でしたが、有力庶家が分裂し宗家は権威だけの存在になっていました。胤直の重臣原越後守胤房は古河公方成氏を推し、もう一人の重臣円城寺下野守尚任(ひさとう)は関東管領方に味方して互いに争います。当主の胤直はこれを制御できず、千葉家はまさに下剋上の様相を呈するようになりました。原と円城寺の争いの酷さは、その時々の情勢によって公方方と関東管領方を往来していた事です。これをみてもどちらに味方するかは単に自分の都合だけで、忠誠心など欠片もなかった事が分かります。両重臣の合戦は千葉一族も巻き込み、このために千葉氏の勢力は大きく衰えました。
 亨徳の乱は、千葉氏の例を見ても分かる通りこれまでの権威を否定し実力本位の戦国時代の到来を現していましたが、こういった混乱期には新興勢力が台頭するものです。房総でも安房の里見氏、上総の上総武田氏がその典型例でした。
 まず里見氏について見てみましょう。里見氏は新田源氏一族で上野国碓氷郡里見郷を領した里見義俊(新田義重の子)の子孫だとされます。ところが、実質的な安房里見氏初代里見義実(よしざね、1412年~1488年)までの系譜が良く分かっていないのです。というより義実の前半生さえ謎につつまれています。新田氏の子孫を称するのは出自の怪しい者が権威付けのためによくとる手段で、徳川家康の祖父松平清康も新田一族世良田氏を称しています。こういった怪しさが、滝沢馬琴の南総里見八犬伝に主要人物として登場する理由かもしれません。
 一応義実の生涯を千葉県の歴史(山川出版)などで追っていくと、もともと里見氏は常陸国小原を領する小領主で、義実の父家基は結城合戦に公方方として参戦討死しています。遺児義実は最初三浦氏に匿われその支援で江戸湾を押し渡り安房国白浜に上陸して勢力を拡大したそうです。これだけでも疑問がいくつも浮かびます。そもそも三浦氏は幕府方で謀反人の子義実を匿う理由がないばかりかもし発覚したら謀叛に加担したとしてお家取り潰しの危険性さえあります。そして義実を支援して安房に上陸させても三浦氏には何の利益もないばかりか逆に安房の豪族たちの反発を食らい深い恨みを買う。戦国時代のような勝手な領土の切り取りは、大義名分なしでとてもできるものではないし、曲がりなりにも旧来の権威が残っていた当時これを理由に討伐を受けます。
 里見義実が、最初安房国平郡領主安西氏の客将になった事はどうやら史実みたいです。当時安房国には安西氏の他に長狭郡の東条氏、朝夷郡の丸氏、安房郡の神余(かなまり)氏の四氏が並立していました。神余氏の重臣山下定兼が主の神余景貞を弑殺し独立すると安西氏と丸氏は連合して謀叛人山下定兼を滅ぼします。すると今度は両者が対立するようになりました。当時安西景春の元に身を寄せていた里見義実は、まず安西氏を助けて丸氏を倒し、その後安西氏を裏切ってこれを滅ぼします。最後に残った東条氏を討って1445年(文安二年)頃安房国を平定したそうです。まさに下剋上の典型でした。
 上総武田氏は里見氏よりは出自がはっきりしています。こちらは甲斐武田氏12代武田信満の子信長(不明~1477年)が始祖です。武田信満が上杉禅秀の乱に上杉方で参戦し敗死したことで一時甲斐国は守護がいない無主の国になって混乱します。甲斐国は京都にいた信長の兄信重が幕府の命で甲斐に入り家督と甲斐守護職を継いだことで命脈を保ちますが、信長は最初甲斐国で武田家に反抗した跡部氏、逸見氏らと戦い続け情勢が不利になると京都に行き将軍義教に仕えました。
 結城合戦が始まると、信長は幕府方に従軍し功績をあげて相模国に所領を得ます。足利成氏が鎌倉公方に就任すると信長は側近となりました。そのまま成氏に仕え続け、各地を転戦最後は上総国を横領し成氏から上総守護代に任ぜられました。何故守護ではなく守護代かですが、どうも当時上総国は扇谷上杉氏の名代(家督代行)上杉定頼が守護だったらしいのです。いくら古河公方成氏でも、武田信長をいきなり上総の守護に任命するのは余計上杉氏を怒らせ火に油を注ぐだけだと悟ったのでしょう。
 武田信長は、上総国庁南(長南、千葉県長生郡長南町)に城を築き本拠と定めました。信長は他に真里谷(まりがやつ、千葉県木更津市真里谷)にも城を築きます。信長の孫の時代、二代信高の長男道信が庁南城を受け継ぎ嫡流の庁南武田氏となりました。一方信興(信高次男?)は真里谷城に拠り真里谷武田氏を興します。
 上総武田氏の場合は、庁南武田氏と真里谷武田氏に分裂したために里見氏ほど強大化することはありませんでした。ただ後に述べる小弓御所足利義明の乱には真里谷武田氏が大きな役割を果たします。次回小弓御所義明の乱と第一次国府台(こうのだい)合戦を描きます。

房総戦国史Ⅴ  亨徳の乱

将軍足利義教の横死によって奇跡的に死罪を免れた成氏(しげうじ)。今度は運命の変転によって第五代鎌倉公方となることができました。しかし、父と兄たちを死に追いやった上杉一族に対する恨みは消えておらず、関東管領上杉憲忠(憲実の長男)を疎んじます。ばかりか、兄たちを守って滅亡した下総結城氏の遺児成朝(持朝四男)を取り立て結城家を再興させました。
 当時関東管領山内(やまのうち)上杉氏は上野・武蔵の守護、庶流の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏も相模・伊豆の守護をしており関東最大の勢力でした。当時の石高は分かりませんが参考までに太閤検地(1598年)の数値を紹介すると上野国四十九万六千石、武蔵国六十六万七千石、相模国十九万四千石、伊豆国六万九千石と伊豆以外は豊かな国です。これとは別に越後も同族の越後上杉氏が守護でした。鎌倉公方足利成氏の気持ちは理解できますが、上杉一族の棟梁憲忠を蔑ろにするのは自殺行為に等しかったのです。
 さすがに山内上杉憲忠は、不満は抱きつつも直接行動すれば再び大乱が起こるという自制心は持ち合わせていました。しかし主君の心を臣下は理解していなかったものと思われます。関東公方が主君憲忠を蔑ろにしていると怒った家宰の長尾景仲は同じく扇谷上杉家の家宰太田資清と語らって1450年(宝徳二年)4月、突如鎌倉の成氏邸を襲いました。不意を突かれた成氏は、慌てふためき海路房総半島に逃れます。
 まもなく鎌倉近郊で下総守護千葉胤将(千葉氏17代、不明~1454年)の軍が長尾・太田連合軍を撃破したことで和議が成立、8月成氏は鎌倉に帰る事が出来ました。以後鎌倉公方と上杉一族は冷戦状態に陥ります。そして1454年(亨徳三年)12月、成氏は突如結城・里見・印東・武田の諸氏に命じ鎌倉における上杉憲忠の屋敷西御門の館を襲わせました。不意を突かれた憲忠は抵抗むなしく殺害されます。
 これで上杉一族は鎌倉公方成氏と完全に敵対関係になりました。関東の武士たちは鎌倉公方方と関東管領方に分かれて互いに争います。だいたいの勢力分けは西半分(上野・武蔵・相模)が関東管領方、東半分(安房・上総・下総・常陸・下野)が鎌倉公方方でした。関東管領山内上杉憲忠の横死は京都の室町幕府に衝撃を与えます。幕府は鎌倉公方よりも関東管領を信頼しており、むしろ鎌倉公方の暴走を抑える役目を負わせていました。
 幕府は、駿河守護今川範忠に命じ成氏を討たせます。関東の騒乱によく駿河の今川氏が出てきますが、幕府は足利一門の今川氏に関東の目付役を任せていたからでした。関東と違い今川氏の駿河支配は安定しておりこういった幕府の命令にも応えることができたのでしょう。今川氏が戦国時代強大化した理由も分かりますね。
 今川軍は、箱根を越え1455年(康正元年)6月鎌倉に乱入します。関東の方が兵力も多く有利なはずですが、こうも簡単に敗れるのは今川軍が統一された精強な軍なのに対し公方軍は各豪族の寄せ集めだったからでしょう。鎌倉を失った成氏は、下総古河に逃亡します。そして古河を本拠として活動し鎌倉復帰を願って戦い続けますがついに実現しませんでした。以後の成氏とその子孫を古河公方と呼びます。
 成氏が起こした戦乱を亨徳の乱と呼びますが、この戦いは長引きついに決着を見ることはありませんでした。史家の多くは亨徳の乱が関東における戦国時代の幕開けだと考えています。成氏の古河逃亡に先立つ1455年(亨徳四年)3月、八代将軍足利義政は、憲実の次男で上洛して近臣として仕えていた山内上杉房顕(1435年~1466年)を兄憲忠の後を受けた関東管領に任命し関東に下向させました。
 本国上野の平井城に入った房顕は、兄の敵古河公方成氏と戦います。本来なら宗家山内家と対立関係にあった扇谷上杉氏も共通の敵古河公方に対しては共同して当たりました。今回は成氏にも結城氏や下総千葉氏ら強力な味方がおり戦いは一進一退を続けます。
 京の幕府は、謀叛人成氏を鎌倉公方と認めず義政の異母兄政知(1435年~1491年)を新たな鎌倉公方として派遣しました。1458年(長禄二年)のことです。しかし鎌倉は古河公方方と関東管領方の激しい争奪戦が繰り返されており政知は関東に入ることができず伊豆国堀越に留まり仮の御所を設けました。ところが戦乱は収まらなかったため堀越御所は永続します。これを堀越公方と呼びます。
 関東には古河と堀越の二人の公方が並び立つ異常事態になりました。さらに、古河公方方との戦闘が一段落つくと今度は山内上杉氏と扇谷上杉氏が関東の覇権を巡って争い始めます。関東の秩序はこれによって崩壊、下剋上の戦国時代が到来しました。その典型的な例が上総武田氏と安房里見氏です。
 次回は上総武田氏と里見氏の台頭を描きます。

房総戦国史Ⅳ  結城合戦

 永享の乱で敗れ自害した鎌倉公方足利持氏。後を継ぐべき嫡男義久も父と運命を共にします。義久の最後には異説があり父と共に永安寺で自害したという説と、父の死の四日前に三浦・上杉・二階堂勢に攻められ報国寺で自害したという説、あるいは幕府方の長尾芳傳に降伏するも義教が許さなかったため父の仏前で焼香しそこで自刃したという説がありはっきりしません。どちらにしろ将軍義教は持氏の一族を生かすつもりはなかった事が分かります。当然残党狩りも苛烈を極めました。
 ここまで厳しい敗戦処理がなされると、持氏方に付いていた諸将は生きた心地がしません。絶望的な状況から自暴自棄になる者も当然出てきました。それは幕府方に降伏していた者たちも同様です。そういう環境が結城合戦を生んだのだと私は思います。
 持氏には義久の他に幼い三人の子供がいました。すなわち春王丸、安王丸、永寿丸です。1440年(永享十二年)追い詰められた持氏方の残党は持氏の遺児春王丸、安王丸を擁して常陸において挙兵します。これはすぐさま討伐すれば簡単に鎮圧できるくらい小規模なものでした。ところが下総結城城主結城氏朝(1402年~1441年)は、二人の遺児を結城城に迎えこれを庇護します。
 最初は氏朝も、鎌倉公方の遺児を擁して幕府に対し反乱を起こそうなどという大それた野心はなかったと思います。ただ結城氏は永享の乱では最初鎌倉公方持氏方に与し、その後幕府に降伏して許された家でしたので、潜在的に幕府からは猜疑の目で見られていたと想像します。それに加え、義教の持氏一族に対する仕打ちに義憤を抱いていたのかもしれません。安王丸は御教書を関東の諸将に下したとされますが、10歳にも満たない少年にそれができるはずはありません。おそらく付き従った持氏の遺臣たちが行ったとは思いますが、鎌倉府再興を願う関東諸将の心を打つには十分でした。
 御教書に共鳴して、里見修理亮、大須賀越後守、宇都宮等綱、小山広朝らが参陣し結城城に拠ります。近くの下総古河城には野田右馬助氏行、関宿城には下河辺一族が籠って氏朝に呼応しました。時の関東管領は山内上杉憲実でした。実は憲実は永享の乱の後幕府に隠居願いを出していたのですが許されず弟上杉清方を管領代とし後見する事を命じます。
 この時も、実質的に関東の幕府方を動かしたのは憲実でした。その他、義教は駿河守護今川範忠、信濃守護小笠原政康に命じて追討軍を進発させます。下総結城城を囲んだ幕府の大軍は実に十万騎を数えたと言います。もちろん誇張でしょうが少なくとも関東では見た事もない大軍であった事は間違いありません。総大将は管領代上杉清方。
 結城方は、当主氏朝、嫡男持朝らが頑強に抵抗します。結城城は田川と鬼怒川によって形成された河岸段丘上に位置する平城で、空堀と水堀で囲まれた難攻不落の城でした。しかも籠城する諸将は救援の当てもなく絶体絶命の死地でしたので激しく抵抗し幕府方は攻めあぐねたそうです。しかし結局は多勢に無勢、城は落城し主将結城氏朝は嫡男持朝と共に討死しました。これで関東の名門下総結城氏は一時断絶します。
 春王丸、安王丸は捕えられ京都に送られました。幼い二人は京都に向かう途中美濃垂井において将軍義教の命で斬られます。持氏の末子でまだ幼児だった永寿丸も隠れていたところを発見され捕えられました。彼の運命も兄たちと同様死罪は確実でしたが、間もなく勃発した嘉吉の乱で将軍義教が横死したため奇跡的に死を免れます。
 将軍を暗殺した赤松満祐が義教を自邸に招いた口実が結城合戦戦勝の祝いだった事が何とも皮肉です。永寿王は助命され管領細川持之が養育する事になりました。これで鎌倉府は完全に滅亡した形でしたが、広い関東を関東管領上杉氏だけで統轄するのはむずかしかったのでしょう。1449年(宝徳元年)上杉一族、常陸守護佐竹氏、下総守護千葉氏、下野守護小山氏らが連名で持氏の遺児永寿王を迎えて新しい関東の主とすべく幕府に願い出ました。時の将軍足利義政はこれを許し14歳になっていた永寿王を関東に下向させます。
 鎌倉に到着した永寿王は、同年11月元服し成氏(しげうじ)と名乗り、関東管領には山内上杉憲実の長子憲忠が登用され、鎌倉府は復活したかに見えました。ところが鎌倉公方足利成氏は自分の父と兄たちを死に追いやった上杉一族への恨みを忘れていなかったのです。成氏と関東管領上杉一族との対立は必至でした。
 次回、成氏と上杉一族の対立から全関東を巻き込む大乱となった亨徳の乱、古河公方家の成立を描きます。

房総戦国史Ⅲ  永享の乱

 足利尊氏が京都室町に幕府を開くと、関東の重要性を考え次男(正室の子として次男。庶子も含めると四男)基氏(1340年~1367年)を関東管領として鎌倉に置きました。関東管領の職掌は関東と陸奥・出羽。ところが幕府中央で管領の制度(それまでは執事)が確立すると斯波・細川・畠山三氏が独占することとなったため尊氏の直系である基氏の子孫との間に呼称問題が生じ、それまでの関東管領を鎌倉公方、鎌倉府執事を昇格させ関東管領と呼ぶようになりました。
 鎌倉公方・関東管領の呼称が確立したのは鎌倉府三代満兼(1378年~1409年)の時代だったと言われます。関東管領は上杉氏が独占しました。ここで上杉氏について簡単に説明しましょう。上杉氏は元藤原北家観修寺流の公家でした。重房の代に宗尊親王が鎌倉将軍として赴任してきたときに同行、そのまま武士化します。歴代足利家と婚姻関係を結び重房の子頼重の娘清子が足利家に嫁いで尊氏・直義兄弟を生みました。
 上杉氏は、清子の兄で尊氏・直義からは伯父に当たる憲房はじめ一族を挙げて足利氏の幕府創設に貢献します。そのため関東管領という重職をもって報われたのです。ところで上杉氏は大きく分けて四つの系統に分かれました。
 一つは、憲房の子憲顕の子孫で嫡流の山内(やまのうち)上杉氏、同じく憲房の子憲藤の子孫犬懸上杉氏、観修寺道宏の実子重兼に始まり憲顕の子能憲(よしのり)が養子に入って継いだ詫間上杉氏、憲顕の弟重顕を祖とする扇谷(おうぎがやつ)上杉氏です。
 最初に勢力を拡大したのは詫間上杉能憲でしたが、観応の擾乱に巻き込まれ失脚殺害。嫡流の山内家と犬懸家が並び立つ形で当時関東管領を歴任します。扇谷家は遅れて関東に入ったため当時は目立たぬ存在でした。鎌倉公方四代持氏(1398年~1439年)の時代、関東管領だった犬懸上杉禅秀(ぜんしゅうは道号。本名氏憲)は持氏の不興を買い関東管領を解任されます。後任には政敵の山内上杉憲基が就任したため不満を抱き本国上総から兵を呼び寄せ挙兵、一時は鎌倉を制圧し持氏、憲基を駿河に追放するほどの勢いでした。これが上杉禅秀の乱です。
 反乱は足利四代将軍義持の怒りを買い、駿河守護今川範政らを大将とする幕府の大軍が派遣され鎮圧されました。禅秀は鶴岡八幡宮雪の下の坊で自害、その他の同調者も次々と捕えられて斬られます。この反乱で犬懸上杉氏の勢力はほぼ滅亡しました。
 ところが鎌倉公方持氏は、今度は憲基の後を継いで関東管領に就任した上杉憲実とも対立し始めたのです。上杉憲実(のりざね。1410年~1466年。関東管領・上野・武蔵・伊豆守護)は足利学校を創設、金沢文庫を再興するなど文化人として有名ですが、温厚篤実な性格で最初持氏との不和を気に病んだそうです。持氏は、関東公方が足利将軍に取って代わろうという野望を持ち反幕府的行動を繰り返します。憲実がこれを諌めたのが不和のきっかけだったと言われます。
 対立は激しくなり、命の危険を感じた憲実は関東管領職を辞し病気と称して本国上野に逃げ帰りました。扇谷上杉持朝、下総守護千葉胤直はこの事態を憂慮し両者の間を取りなしますが逆に持氏の怒りを買っただけでした。こうして鎌倉公方足利持氏は関東武士の人望を失います。1438年(永享十年)、持氏による追討軍出発の噂を聞いた憲実は、ついに幕府に救援を請いました。
 鎌倉公方持氏の動きを警戒し疎ましく思っていた六代将軍義教(1394年~1441年)は、絶好の好機を見逃しませんでした。日ごろ持氏は義教の事を籤引きで選ばれた還俗将軍と馬鹿にしており自分が将軍になる事を夢見ていたそうです。義教は関東の武士に持氏追討令を発したばかりか朝廷に依頼して朝敵にするほどの徹底ぶりでした。翌1439年(永享十一年)、幕府軍の主力駿河守護今川範忠を大将とする大軍が足柄峠を越え関東に雪崩れ込んだことで勝負ありました。
 各地で敗北し、自軍の武将が次々と寝返る中持氏は抵抗の愚を悟り同年11月4日鎌倉称念寺に入って出家、幕府軍に降伏します。持氏反乱のきっかけを作った自責の念から山内上杉憲実は将軍義教に持氏の助命を嘆願したそうですが、怒りの収まらない義教は憲実にさえ疑いの目を向け討伐しようとしました。仕方なく憲実は兵を率いて永安寺に幽閉されていた持氏を攻め、持氏は自害しました。亨年41歳。これを永享の乱と呼びます。
 持氏に従った近臣たちも降伏して処刑されるか、攻められて自害し基氏以来四代の歴史を誇る鎌倉府は一時滅亡しました。山内上杉憲実は、鎌倉府滅亡の結果に衝撃を受け関東管領職を辞し息子たちと出家したそうです。関東管領は憲実の弟清方が継承します。将軍義教は、政治姿勢が苛烈すぎたため守護大名の間に恐慌状態を生みました。そして1441年(嘉吉元年)播磨守護赤松満祐によって暗殺されます。
 鎌倉府はこのまま滅亡したのでしょうか?実はそうではありません。形を変えて生き残りました。ただしその前に大きな騒乱が起こります。次回、結城合戦を描くこととしましょう。

房総戦国史Ⅱ  千葉氏一族の盛衰

 村岡五郎(平)良文といえば平将門の叔父に当たる人物ですが、平将門の乱にほとんど名前が出てこない事から私は実在を疑っています。であるにも関わらず関東におけるほとんどの平氏の祖となっています。これはあくまで私の個人的見解で何ら資料的裏付けがないので与太話の類として聞いてほしいのですが、数少ない良文の『将門記』における記述を見るとどうも将門に味方したらしいのです。どういう事かというと、関東では平将門が英雄で鎮圧した側の良兼流上総平氏や良正(ともに将門の叔父)流平氏の子孫と称するのは具合が悪かったのかもしれません。
 さらに言うと良兼流上総平氏のはっきりと分かっている子孫が、源氏の嫡流源義朝を尾張で騙し討ちした長田忠致(おさだだだむね)だったことも、子孫たちが良兼流を名乗れなかった理由かもしれません。
 良文流でもっとも大きな勢力になったのは上総に土着した上総介忠常(良文の孫)でした。忠常の曾孫の時代、常兼と常時の兄弟がそれぞれ下総介、上総介を世襲し分裂します。一応常兼が兄常時が弟とされますが、本領と上総介の官位を受け継いだ常時の方が嫡流となりました。ちなみに常時の孫が広常で、頼朝の挙兵を助けるも驕慢の振る舞いから粛清され滅ぼされました。
 この常兼が千葉氏の祖です。上総一円を支配した上総介家と違い下総介の官位は世襲したものの支配領域は千葉郡(現在の千葉市あたり)とその周辺部に留まり一国支配には至りませんでした。ここから千葉大介を名乗り千葉氏と称します。
 千葉氏の地位を確立したのは上総介広常と又従兄弟にあたる千葉氏三代常胤(1118年~1192年)でした。頼朝挙兵時には三百騎を率いて参陣し数々の戦に一族を挙げて加わります。本領安堵を保障されたほか下総介の官位はそのまま初代下総守護に任命され奥州など各地に地頭職を得ました。
 常胤が獲得した所領は、死後六人の息子たちに分割相続されます。嫡男胤正が千葉介となって千葉庄を受け継ぎ、次郎師常は下総国相馬郡を相続して相馬氏と称しました。三郎胤盛は千葉庄武石郷他奥州三郡を領し武石氏、四郎胤信は下総国香取郡大須賀と奥州岩城郡を領して大須賀氏、五郎胤通は下総国葛飾郡国分郷と香取郡の一部を受け継いで国分(こくぶん)氏、六郎胤頼は香取郡東荘三十三郷と三崎庄五十五郷を領して東(とう)氏を称しました。これを千葉六党と呼びます。
 千葉常胤の子孫は下総各地に勢力を扶植しますが、分裂の傾向が目立ち一族としての大きな勢力にはなりませんでした。ただこのために鎌倉時代、北条氏の警戒を受ける事なく一族滅亡は避けられたので何が幸いするか分かりません。とはいえ、三浦氏・安達氏などと姻戚関係のあった一部の一族は連座して滅ぼされます。
 千葉氏の運命が大きく変動するのは元寇とその後に続く南北朝時代でした。千葉氏八代頼胤(1239年~1275年)は、肥前小城郡に所領を持っていたため元寇時北九州を防衛すべく幕府の命で関東から下向します。その戦いで負傷した頼胤は肥前小城の地で亡くなりました。家督を継いだその子宗胤(1265年~1295年)も引き続き九州防衛のため現地に残留しました。これは鎌倉幕府の方針で、九州に所領を持つ関東御家人(宇都宮、相良など)は防衛のため強制的に下向させられました。
 例え九州にあっても千葉氏の家督は宗胤が継いでいたので本領千葉庄も千葉介の官位も受け継がれるはずでしたが、長らく本国を留守にしていた関係で下総における支配力を弱めます。宗胤が死に、子の胤貞(1288年~1336年)が家督を継いだことで、下総本国で波乱が起ころうとしていました。宗胤の弟で胤貞にとっては叔父に当たる胤宗(1268年~1312年)は、兄宗胤に代わって本国下総の留守を守っていた関係から次第に勢力を拡大し千葉一族最大の実力者となります。
 胤宗は執権北条氏に巧みにとり入り、千葉介を名乗るようになりました。面白くないのは本来の当主である胤貞です。千葉介は本来千葉氏当主しか名乗ることのできない称号(もともとは朝廷の官位だが有名無実化していた)でした。宗胤の後を息子の胤貞(1292年~1351年)が千葉介として継ぐと本来の当主貞胤との対立が決定的になります。
 胤宗だの宗胤だの胤貞だの貞胤だの似たような名前で混乱すると思いますが、要するに肥前に下向した本来の嫡流家とそれを簒奪しようとする庶流の対立と大雑把に理解して下さい。
 下総の貞胤は1333年(元弘三年)新田義貞の鎌倉攻めに参加、肥前の胤貞は尊氏についてその後上洛します。胤貞が尊氏に付きそのまま北朝に属した事に反発した貞胤は下総における胤貞の領地千田庄を横領するなどやりたい放題でした。尊氏の命を受けた胤貞は本領を奪回すべく下総に下向、一族の相馬親胤と共に1335年貞胤の本拠千葉庄を攻めますが上手くいきませんでした。
 その間貞胤は南朝方新田義貞軍に属し各地を転戦しました。そして越前において主将新田義貞が討ち取られた事から、北朝方の斯波高経(当時越前守護)に降伏、本領安堵と下総守護職を得ました。こうなると尊氏にずっと付き従ってきた胤貞は馬鹿を見ることになります。千葉氏の家督争いは南北朝とまったく関係ない事になったため慌てて下総に下向しようとした胤貞は、1336年三河で病没。結局千葉氏家督は貞胤の子孫が継承し嫡流となりました。
 胤貞の子孫は、肥前小城郡に土着し肥前千葉氏となります。胤貞の子孫のうち下総の旧領千田(ちだ)庄に戻った一族が千田氏を称しました。ここらあたり複雑なので説明は避けます。
 南北朝時代の下総は北朝方の胤貞、南朝方の貞胤の両陣営に一族や国中の武士たちが分かれ対立抗争を繰り返し荒廃しました。千葉氏宗家を継いだ貞胤がいかに北朝側に転じたとしても両陣営の対立はその後も根深く続いたと言います。
 千葉一族の国分氏、相馬氏らはますます独立の傾向を強め宗家の統制力は弱まりました。そのため千葉氏は下総一国を支配する守護大名には成長できませんでした。こうした歴史を抱えつつ千葉一族は戦国時代へと突入して行くのです。
 次回は、房総半島を戦国時代に突入させた上杉禅秀の乱と、それに続く関東公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立に端を発し全関東を巻き込んだ永享の乱を描きます。

房総戦国史Ⅰ  戦国時代に至るまでの房総半島

 現在の千葉県にあたる房総半島の名前は、千葉県最南端の安房国と中部の上総、北部の下総から来ています。安房国の名前の由来は四国の阿波国(徳島県)です。ここあたり音が一緒なら漢字は適当なのはよくあることで、『古語拾遺』という古典によると阿波国で穀物や麻を栽培していた天富命が配下の忌部(いんべ)氏などを率い海路黒潮に乗って半島南端に至り開発したのでその故郷に名前から阿波→安房になったのだそうです。
 一方、上総下総はあわせて総(ふさ)の国と呼ばれていました。総とは麻のことで、ここも忌部一族の麻栽培と関係しています。古代の関東地方は、上野、下野(古代毛野【けぬ】国に由来)、常陸といった北関東と相模、房総半島南部が開けていて、関東の中心部である武蔵国(埼玉県、東京都、神奈川の一部)は一番開発が遅れました。武蔵国は武蔵野の言葉通り一面の原野が広がっていたと言われています。ちなみに、古代の東海道は相模から武蔵には至らずに海路上総、安房方面に伸びていたそうです。

 最初に関東地方に根を下ろした武士団は桓武天皇を祖とする平氏でした。ところが平将門の乱(939年~940年)、ついで平忠常(上総氏、千葉氏の祖)の乱(1028年)で勢力をすり減らし鎮圧した清和源氏の家人に落ちぶれます。ただし平忠常の乱を鎮圧した河内源氏の源頼信(陸奥守頼義の父)と忠常一族との間には密約があったらしく忠常が罪に服すかわりに一族に累は及ばない事を約束したのではないかと思います。実際忠常の子孫から上総介氏、千葉(介)氏が誕生しました。

 忠常の子孫のうち、千葉介は千葉郡(現在の千葉市あたり)を支配する下総介(国司の次官)でしたが、上総介氏に至っては介職を世襲しながら上総一国を支配するほどの大勢力に成長します。実際、上総介氏三代の上総介広常は源頼朝挙兵時二万騎という大兵力を率いて参陣するほどでした。二万騎というのは上総の石高(太閤検地で三十七万八千石)からいっても考えられない数字ですが(国中から徴兵しても当時の人口からいって3000~4000人くらいが限界)、それだけ他を圧倒する大勢力だったのでしょう。広常はその大勢力を背景に頼朝に対して驕慢な振る舞いが目立ちついには頼朝に警戒されて粛清されてしまいます。

 その後上総国は、大勢力が誕生せず戦国期に至ります。一方、下総は平野が多く開発すれば大人口を養えるだけのポテンシャルを持っていました。太閤検地時代で三十九万石と上総とほとんど変わりませんが江戸末期には六十八万石にまでなりました。このため、古代からこの地に根付く千葉氏も一国支配はできず、下総のうち千葉県からはなれ茨城県に編入された結城郡、豊田郡、猿島郡、岡田郡などの所謂常総地区には小山氏の一族結城氏が興ったほか数々の御家人領となりました。

 安房国は戦国初期に里見氏が土着するまでが良く分かっておらず、長狭郡に東条氏、朝夷郡に丸氏、安房郡に神余(かなまり)氏、平(へい)郡に安西氏がそれぞれ割拠していたようです。鎌倉時代に誰が守護をしていたかさえはっきりしていません。


 地理に目を転じると、坂東太郎といわれる日本第二の大河利根川(一位は信濃川。流域面積なら利根川が日本一)は中世までは江戸湾に注いでいました。現在の銚子が河口になったのは江戸期で徳川家康が治水工事を命じたと言われています。中世当時の房総半島北東部銚子方面は霞ヶ浦水系と鬼怒川河口で複雑な地形を形成する大湿地帯だったそうです。これらの基本知識を前提として書き進む事にしましょう。

 ただしまだ戦国時代には突入しません。房総半島の歴史に大きくかかわる千葉一族の事を語らねばならないからです。次回、千葉氏の盛衰について記します。

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