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2015年7月 5日 (日)

房総戦国史Ⅵ  里見氏と上総武田氏

 亨徳の乱は1455年から1483年まで30年近く続きました。古河公方足利成氏は1438年生まれですから実に17歳から45歳までという人生の活動期のほとんどを戦争に費やした事になります。関東を二分し古河公方と関東管領が争うという泥沼の合戦は双方が疲弊したためにようやく1483年(文明十四年)和議が成立しました。これで古河公方成氏は朝敵の汚名を返上することはできましたが、上杉氏が認めなかったために鎌倉復帰は叶いませんでした。古河公方は一応の権威だけは残りますが実質下総の一地方勢力に落ちぶれます。古河公方に代わって幕府から派遣された堀越公方家も同様でした。こちらも伊豆一国に押し込められ実質的な関東の主人は関東管領上杉氏になったのです。
 といっても、上杉氏内部でも嫡流山内家と有力庶家扇谷家の対立が深刻になり合戦沙汰を繰り返します。古河公方が関東管領上杉氏を倒せなかったのは、上杉氏が幕府の関東における代官として陰に陽に支援を受けていた事、そして古河公方陣営が必ずしも一枚岩でなかったことが挙げられます。例えば下野守護小山氏、下野の有力大名宇都宮氏、同那須氏、下総守護千葉氏は一族が古河公方派と関東管領派に分かれ争い家督相続問題も絡まって団結できませんでした。常陸守護佐竹氏は内部分裂こそありませんでしたが自国の勢力拡大を優先し積極的には亨徳の乱に関与していません。むしろ佐竹氏は、弱小勢力がひしめく陸奥南部に矛先を向けつつありました。佐竹氏の本心としては、関東管領方に味方して公方方に背後から攻められるのを防ぐための名目だけの参加だったように思えるのです。
 一つの例として下総千葉氏を見てみましょう。当時の当主は千葉氏16代胤直(1419年~1455年)でした。関東有数の歴史を誇る下総千葉氏でしたが、有力庶家が分裂し宗家は権威だけの存在になっていました。胤直の重臣原越後守胤房は古河公方成氏を推し、もう一人の重臣円城寺下野守尚任(ひさとう)は関東管領方に味方して互いに争います。当主の胤直はこれを制御できず、千葉家はまさに下剋上の様相を呈するようになりました。原と円城寺の争いの酷さは、その時々の情勢によって公方方と関東管領方を往来していた事です。これをみてもどちらに味方するかは単に自分の都合だけで、忠誠心など欠片もなかった事が分かります。両重臣の合戦は千葉一族も巻き込み、このために千葉氏の勢力は大きく衰えました。
 亨徳の乱は、千葉氏の例を見ても分かる通りこれまでの権威を否定し実力本位の戦国時代の到来を現していましたが、こういった混乱期には新興勢力が台頭するものです。房総でも安房の里見氏、上総の上総武田氏がその典型例でした。
 まず里見氏について見てみましょう。里見氏は新田源氏一族で上野国碓氷郡里見郷を領した里見義俊(新田義重の子)の子孫だとされます。ところが、実質的な安房里見氏初代里見義実(よしざね、1412年~1488年)までの系譜が良く分かっていないのです。というより義実の前半生さえ謎につつまれています。新田氏の子孫を称するのは出自の怪しい者が権威付けのためによくとる手段で、徳川家康の祖父松平清康も新田一族世良田氏を称しています。こういった怪しさが、滝沢馬琴の南総里見八犬伝に主要人物として登場する理由かもしれません。
 一応義実の生涯を千葉県の歴史(山川出版)などで追っていくと、もともと里見氏は常陸国小原を領する小領主で、義実の父家基は結城合戦に公方方として参戦討死しています。遺児義実は最初三浦氏に匿われその支援で江戸湾を押し渡り安房国白浜に上陸して勢力を拡大したそうです。これだけでも疑問がいくつも浮かびます。そもそも三浦氏は幕府方で謀反人の子義実を匿う理由がないばかりかもし発覚したら謀叛に加担したとしてお家取り潰しの危険性さえあります。そして義実を支援して安房に上陸させても三浦氏には何の利益もないばかりか逆に安房の豪族たちの反発を食らい深い恨みを買う。戦国時代のような勝手な領土の切り取りは、大義名分なしでとてもできるものではないし、曲がりなりにも旧来の権威が残っていた当時これを理由に討伐を受けます。
 里見義実が、最初安房国平郡領主安西氏の客将になった事はどうやら史実みたいです。当時安房国には安西氏の他に長狭郡の東条氏、朝夷郡の丸氏、安房郡の神余(かなまり)氏の四氏が並立していました。神余氏の重臣山下定兼が主の神余景貞を弑殺し独立すると安西氏と丸氏は連合して謀叛人山下定兼を滅ぼします。すると今度は両者が対立するようになりました。当時安西景春の元に身を寄せていた里見義実は、まず安西氏を助けて丸氏を倒し、その後安西氏を裏切ってこれを滅ぼします。最後に残った東条氏を討って1445年(文安二年)頃安房国を平定したそうです。まさに下剋上の典型でした。
 上総武田氏は里見氏よりは出自がはっきりしています。こちらは甲斐武田氏12代武田信満の子信長(不明~1477年)が始祖です。武田信満が上杉禅秀の乱に上杉方で参戦し敗死したことで一時甲斐国は守護がいない無主の国になって混乱します。甲斐国は京都にいた信長の兄信重が幕府の命で甲斐に入り家督と甲斐守護職を継いだことで命脈を保ちますが、信長は最初甲斐国で武田家に反抗した跡部氏、逸見氏らと戦い続け情勢が不利になると京都に行き将軍義教に仕えました。
 結城合戦が始まると、信長は幕府方に従軍し功績をあげて相模国に所領を得ます。足利成氏が鎌倉公方に就任すると信長は側近となりました。そのまま成氏に仕え続け、各地を転戦最後は上総国を横領し成氏から上総守護代に任ぜられました。何故守護ではなく守護代かですが、どうも当時上総国は扇谷上杉氏の名代(家督代行)上杉定頼が守護だったらしいのです。いくら古河公方成氏でも、武田信長をいきなり上総の守護に任命するのは余計上杉氏を怒らせ火に油を注ぐだけだと悟ったのでしょう。
 武田信長は、上総国庁南(長南、千葉県長生郡長南町)に城を築き本拠と定めました。信長は他に真里谷(まりがやつ、千葉県木更津市真里谷)にも城を築きます。信長の孫の時代、二代信高の長男道信が庁南城を受け継ぎ嫡流の庁南武田氏となりました。一方信興(信高次男?)は真里谷城に拠り真里谷武田氏を興します。
 上総武田氏の場合は、庁南武田氏と真里谷武田氏に分裂したために里見氏ほど強大化することはありませんでした。ただ後に述べる小弓御所足利義明の乱には真里谷武田氏が大きな役割を果たします。次回小弓御所義明の乱と第一次国府台(こうのだい)合戦を描きます。

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