2023年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 房総戦国史Ⅱ  千葉氏一族の盛衰 | トップページ | 房総戦国史Ⅳ  結城合戦 »

2015年7月 5日 (日)

房総戦国史Ⅲ  永享の乱

 足利尊氏が京都室町に幕府を開くと、関東の重要性を考え次男(正室の子として次男。庶子も含めると四男)基氏(1340年~1367年)を関東管領として鎌倉に置きました。関東管領の職掌は関東と陸奥・出羽。ところが幕府中央で管領の制度(それまでは執事)が確立すると斯波・細川・畠山三氏が独占することとなったため尊氏の直系である基氏の子孫との間に呼称問題が生じ、それまでの関東管領を鎌倉公方、鎌倉府執事を昇格させ関東管領と呼ぶようになりました。
 鎌倉公方・関東管領の呼称が確立したのは鎌倉府三代満兼(1378年~1409年)の時代だったと言われます。関東管領は上杉氏が独占しました。ここで上杉氏について簡単に説明しましょう。上杉氏は元藤原北家観修寺流の公家でした。重房の代に宗尊親王が鎌倉将軍として赴任してきたときに同行、そのまま武士化します。歴代足利家と婚姻関係を結び重房の子頼重の娘清子が足利家に嫁いで尊氏・直義兄弟を生みました。
 上杉氏は、清子の兄で尊氏・直義からは伯父に当たる憲房はじめ一族を挙げて足利氏の幕府創設に貢献します。そのため関東管領という重職をもって報われたのです。ところで上杉氏は大きく分けて四つの系統に分かれました。
 一つは、憲房の子憲顕の子孫で嫡流の山内(やまのうち)上杉氏、同じく憲房の子憲藤の子孫犬懸上杉氏、観修寺道宏の実子重兼に始まり憲顕の子能憲(よしのり)が養子に入って継いだ詫間上杉氏、憲顕の弟重顕を祖とする扇谷(おうぎがやつ)上杉氏です。
 最初に勢力を拡大したのは詫間上杉能憲でしたが、観応の擾乱に巻き込まれ失脚殺害。嫡流の山内家と犬懸家が並び立つ形で当時関東管領を歴任します。扇谷家は遅れて関東に入ったため当時は目立たぬ存在でした。鎌倉公方四代持氏(1398年~1439年)の時代、関東管領だった犬懸上杉禅秀(ぜんしゅうは道号。本名氏憲)は持氏の不興を買い関東管領を解任されます。後任には政敵の山内上杉憲基が就任したため不満を抱き本国上総から兵を呼び寄せ挙兵、一時は鎌倉を制圧し持氏、憲基を駿河に追放するほどの勢いでした。これが上杉禅秀の乱です。
 反乱は足利四代将軍義持の怒りを買い、駿河守護今川範政らを大将とする幕府の大軍が派遣され鎮圧されました。禅秀は鶴岡八幡宮雪の下の坊で自害、その他の同調者も次々と捕えられて斬られます。この反乱で犬懸上杉氏の勢力はほぼ滅亡しました。
 ところが鎌倉公方持氏は、今度は憲基の後を継いで関東管領に就任した上杉憲実とも対立し始めたのです。上杉憲実(のりざね。1410年~1466年。関東管領・上野・武蔵・伊豆守護)は足利学校を創設、金沢文庫を再興するなど文化人として有名ですが、温厚篤実な性格で最初持氏との不和を気に病んだそうです。持氏は、関東公方が足利将軍に取って代わろうという野望を持ち反幕府的行動を繰り返します。憲実がこれを諌めたのが不和のきっかけだったと言われます。
 対立は激しくなり、命の危険を感じた憲実は関東管領職を辞し病気と称して本国上野に逃げ帰りました。扇谷上杉持朝、下総守護千葉胤直はこの事態を憂慮し両者の間を取りなしますが逆に持氏の怒りを買っただけでした。こうして鎌倉公方足利持氏は関東武士の人望を失います。1438年(永享十年)、持氏による追討軍出発の噂を聞いた憲実は、ついに幕府に救援を請いました。
 鎌倉公方持氏の動きを警戒し疎ましく思っていた六代将軍義教(1394年~1441年)は、絶好の好機を見逃しませんでした。日ごろ持氏は義教の事を籤引きで選ばれた還俗将軍と馬鹿にしており自分が将軍になる事を夢見ていたそうです。義教は関東の武士に持氏追討令を発したばかりか朝廷に依頼して朝敵にするほどの徹底ぶりでした。翌1439年(永享十一年)、幕府軍の主力駿河守護今川範忠を大将とする大軍が足柄峠を越え関東に雪崩れ込んだことで勝負ありました。
 各地で敗北し、自軍の武将が次々と寝返る中持氏は抵抗の愚を悟り同年11月4日鎌倉称念寺に入って出家、幕府軍に降伏します。持氏反乱のきっかけを作った自責の念から山内上杉憲実は将軍義教に持氏の助命を嘆願したそうですが、怒りの収まらない義教は憲実にさえ疑いの目を向け討伐しようとしました。仕方なく憲実は兵を率いて永安寺に幽閉されていた持氏を攻め、持氏は自害しました。亨年41歳。これを永享の乱と呼びます。
 持氏に従った近臣たちも降伏して処刑されるか、攻められて自害し基氏以来四代の歴史を誇る鎌倉府は一時滅亡しました。山内上杉憲実は、鎌倉府滅亡の結果に衝撃を受け関東管領職を辞し息子たちと出家したそうです。関東管領は憲実の弟清方が継承します。将軍義教は、政治姿勢が苛烈すぎたため守護大名の間に恐慌状態を生みました。そして1441年(嘉吉元年)播磨守護赤松満祐によって暗殺されます。
 鎌倉府はこのまま滅亡したのでしょうか?実はそうではありません。形を変えて生き残りました。ただしその前に大きな騒乱が起こります。次回、結城合戦を描くこととしましょう。

« 房総戦国史Ⅱ  千葉氏一族の盛衰 | トップページ | 房総戦国史Ⅳ  結城合戦 »

 日本史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 房総戦国史Ⅲ  永享の乱:

« 房総戦国史Ⅱ  千葉氏一族の盛衰 | トップページ | 房総戦国史Ⅳ  結城合戦 »