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2015年7月 5日 (日)

房総戦国史Ⅶ  小弓御所

 関東武士を二分した大乱亨徳の乱が終結しても関東が平和になる事はありませんでした。直後に関東管領山内上杉氏と有力庶家扇谷上杉氏の争い長享の乱(1487年~1505年)が勃発するのです。扇谷上杉氏が急速に台頭してきた理由は、家宰太田道灌(持資、1432年~1486年)の存在でした。

 

 

 道灌は、江戸城を築城し寡兵をもって山内上杉軍をしばしば破ります。文化人としても第一級で都にも鳴り響くほどでした。主君扇谷上杉定正はそんな道灌に嫉妬し疑いを抱くようになります。そこに山内上杉方がうまく讒言し道灌は定正によって暗殺されてしまいました。その際、道灌が「当方滅亡!」と叫んだエピソードは有名です。

 

 

 道灌は相模守護扇谷上杉氏の家宰として、幕府の命で駿河・遠江守護今川氏の家督争いにも介入調停しています。今川家では第六代義忠が遠江の反乱鎮圧の際、反乱軍の残党に帰途を襲われ暗殺されました。残された子供はわずか6歳の龍王丸のみ。龍王丸の家督相続に異を唱えた一族の小鹿範満は妻が堀越公方の執事上杉政憲の娘だったこともあって強気に出ます。

 

 

 道灌は、兵を率いて駿河に入り龍王丸の正当性を確認。その母北川殿(義忠側室)の兄伊勢宗瑞が龍王丸成人まで後見するという事で纏めました。家督はそれまでの間小鹿範満が預かる事に決まります。戦国時代に詳しい方ならお分かりだと思いますが、この伊勢宗瑞こそ後の北条早雲(1432年~1519年)です。太田道灌と伊勢宗瑞、戦国時代を代表する両雄が初めて会ったわけです。

 

 

 今川家の家督争いは、龍王丸が元服するまで一時家督を預かる約束だった範満が、龍王丸元服後も返さなかったため宗瑞が兵を率いて範満を討ち解決しました。龍王丸は元服し今川氏親と名乗ります。この功績により宗瑞は伊豆国境に近い興国寺城を賜りました。その後、堀越公方政知が亡くなり後を幼少の茶々丸が継ぐとこれを騙し討ちして伊豆を横領、関東の戦国史に関わる事になっていきます。

 

 

 

 その頃古河公方家はどうなっていたでしょうか。1489年(長享三年)成氏は家督を嫡男政氏に譲り隠居します。その後1497年まで生き64歳で波乱の生涯を閉じました。古河公方政氏は長享の乱にも積極的に介入、最初は扇谷上杉氏を支持していましたが扇谷上杉定正の死で山内上杉氏に乗り換え、今度は1504年(永正元年)武蔵立河原の合戦で扇谷上杉方の伊勢宗瑞、今川氏親と戦うなど乱脈を極めます。

 

 

 そのため、嫡男高基と不和を生じ合戦騒ぎまで起こす始末でした。これを永正の乱と呼びます。両者の争いの中、政氏の次男義明(不明~1538年)は鎌倉雪の下八正寺で僧をしていましたが還俗し古河に戻っていました。政氏は、対立する長男高基に代わり次男の義明を後継者にするつもりでした。ところが政氏は義明とも不和を生じ義明は古河を出奔、上総の真里谷武田信清の支援を受け千葉氏の重臣原氏の居城である下総国小弓城を攻撃占拠してしまいます。

 

 

 

 下総千葉氏もずいぶん舐められたものですが、それだけ弱体化していたのでしょう。当時千葉氏は本拠千葉城を捨て佐倉に移り衰退に拍車がかかっていたのです。義明の暴挙にも形ばかりの抗議をするのみでした。その後義明は、後援者の真里谷武田信清とも不和を生じ、彼の死後は真里谷武田氏の家督争いに介入するようになります。信清の庶長子信隆を追放し次子の信応(のぶまさ)を家督に据えました。庶子とはいえ正式な家督は信隆に決められていたにも関わらずの横紙破りです。おそらく性格も粗暴だったのでしょう。しかし、武勇はあったため房総の武士たちに一定の信頼はありました。小弓城占領後の義明を小弓御所と呼びます。真里谷武田家を追われた信隆は小田原城を占領し相模、武蔵に進出しつつあった北条氏綱(早雲の子)を頼って亡命しました。

 

 

 古河公方家の家督争いは、結局1512年(永正九年)宇都宮成綱の支援を受けた高基が勝利し政氏は引退を余儀なくされます。古河公方の地位を狙っていた小弓御所義明は兄高基とも対立しました。相模の北条氏綱は、小弓御所義明という共通の敵を持つ古河公方高基と結びます。

 

 

 北条氏綱は、反小弓御所陣営の盟主になりつつありました。実力が他者と違いすぎていたからです。古河公方高基、下総千葉氏、小弓城を奪われた原氏らが味方です。一方、小弓御所側は真里谷武田信応はじめ酒井、土岐ら上総の豪族、安房の里見義堯(1507年~1574年)らでした。義明は里見義堯に命じ江戸湾を渡海鎌倉の鶴岡八幡宮を焼かせます。これは嫌がらせ以上の意味はありませんでしたが、北条方も対抗して水軍を派遣して安房を襲いました。

 

 

 両者の対立は次第に深刻化します。そしてついに1538年(天文七年)第一次国府台(こうのだい)合戦へと至るのです。北条方は兵力二万、一方小弓御所側は一万だったと伝えられます。合戦の経緯は過去記事で触れたので書きませんが、国府台は江戸川河口の東岸、下総国にあり現在の千葉県松戸市。江戸川を挟んで両軍は対峙します。軍議の席で、里見義堯は兵力の劣る自軍の不利をカバーするため敵の渡河中に攻撃を仕掛けるよう建策しますが、自分の武勇に自信のある小弓義明はこれを一蹴。北条軍を舐めていた事もあり自ら先に攻撃を仕掛け大敗してしまいました。小弓義明はこの戦いで討死、里見義堯は自分の建策が容れられなかった時点で義明を見限り、ろくに戦闘に参加しないままさっさと撤退しました。

 

 

 後ろ盾を失った真里谷武田信応は、北条氏の支援を受けた異母兄信隆に敗れ安房の里見義堯を頼ります。義堯にとっては上総侵攻の大義名分を得た形です。以後里見氏は露骨に上総下総方面へ進出を開始します。敗北した小弓御所陣営で唯一最大の利益を得たのは里見氏でした。

 

 

 

 次回、里見氏の上総侵攻そして小田原北条氏との最後の決戦第二次国府台合戦を描きます。

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