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2015年7月 5日 (日)

房総戦国史Ⅱ  千葉氏一族の盛衰

 村岡五郎(平)良文といえば平将門の叔父に当たる人物ですが、平将門の乱にほとんど名前が出てこない事から私は実在を疑っています。であるにも関わらず関東におけるほとんどの平氏の祖となっています。これはあくまで私の個人的見解で何ら資料的裏付けがないので与太話の類として聞いてほしいのですが、数少ない良文の『将門記』における記述を見るとどうも将門に味方したらしいのです。どういう事かというと、関東では平将門が英雄で鎮圧した側の良兼流上総平氏や良正(ともに将門の叔父)流平氏の子孫と称するのは具合が悪かったのかもしれません。
 さらに言うと良兼流上総平氏のはっきりと分かっている子孫が、源氏の嫡流源義朝を尾張で騙し討ちした長田忠致(おさだだだむね)だったことも、子孫たちが良兼流を名乗れなかった理由かもしれません。
 良文流でもっとも大きな勢力になったのは上総に土着した上総介忠常(良文の孫)でした。忠常の曾孫の時代、常兼と常時の兄弟がそれぞれ下総介、上総介を世襲し分裂します。一応常兼が兄常時が弟とされますが、本領と上総介の官位を受け継いだ常時の方が嫡流となりました。ちなみに常時の孫が広常で、頼朝の挙兵を助けるも驕慢の振る舞いから粛清され滅ぼされました。
 この常兼が千葉氏の祖です。上総一円を支配した上総介家と違い下総介の官位は世襲したものの支配領域は千葉郡(現在の千葉市あたり)とその周辺部に留まり一国支配には至りませんでした。ここから千葉大介を名乗り千葉氏と称します。
 千葉氏の地位を確立したのは上総介広常と又従兄弟にあたる千葉氏三代常胤(1118年~1192年)でした。頼朝挙兵時には三百騎を率いて参陣し数々の戦に一族を挙げて加わります。本領安堵を保障されたほか下総介の官位はそのまま初代下総守護に任命され奥州など各地に地頭職を得ました。
 常胤が獲得した所領は、死後六人の息子たちに分割相続されます。嫡男胤正が千葉介となって千葉庄を受け継ぎ、次郎師常は下総国相馬郡を相続して相馬氏と称しました。三郎胤盛は千葉庄武石郷他奥州三郡を領し武石氏、四郎胤信は下総国香取郡大須賀と奥州岩城郡を領して大須賀氏、五郎胤通は下総国葛飾郡国分郷と香取郡の一部を受け継いで国分(こくぶん)氏、六郎胤頼は香取郡東荘三十三郷と三崎庄五十五郷を領して東(とう)氏を称しました。これを千葉六党と呼びます。
 千葉常胤の子孫は下総各地に勢力を扶植しますが、分裂の傾向が目立ち一族としての大きな勢力にはなりませんでした。ただこのために鎌倉時代、北条氏の警戒を受ける事なく一族滅亡は避けられたので何が幸いするか分かりません。とはいえ、三浦氏・安達氏などと姻戚関係のあった一部の一族は連座して滅ぼされます。
 千葉氏の運命が大きく変動するのは元寇とその後に続く南北朝時代でした。千葉氏八代頼胤(1239年~1275年)は、肥前小城郡に所領を持っていたため元寇時北九州を防衛すべく幕府の命で関東から下向します。その戦いで負傷した頼胤は肥前小城の地で亡くなりました。家督を継いだその子宗胤(1265年~1295年)も引き続き九州防衛のため現地に残留しました。これは鎌倉幕府の方針で、九州に所領を持つ関東御家人(宇都宮、相良など)は防衛のため強制的に下向させられました。
 例え九州にあっても千葉氏の家督は宗胤が継いでいたので本領千葉庄も千葉介の官位も受け継がれるはずでしたが、長らく本国を留守にしていた関係で下総における支配力を弱めます。宗胤が死に、子の胤貞(1288年~1336年)が家督を継いだことで、下総本国で波乱が起ころうとしていました。宗胤の弟で胤貞にとっては叔父に当たる胤宗(1268年~1312年)は、兄宗胤に代わって本国下総の留守を守っていた関係から次第に勢力を拡大し千葉一族最大の実力者となります。
 胤宗は執権北条氏に巧みにとり入り、千葉介を名乗るようになりました。面白くないのは本来の当主である胤貞です。千葉介は本来千葉氏当主しか名乗ることのできない称号(もともとは朝廷の官位だが有名無実化していた)でした。宗胤の後を息子の胤貞(1292年~1351年)が千葉介として継ぐと本来の当主貞胤との対立が決定的になります。
 胤宗だの宗胤だの胤貞だの貞胤だの似たような名前で混乱すると思いますが、要するに肥前に下向した本来の嫡流家とそれを簒奪しようとする庶流の対立と大雑把に理解して下さい。
 下総の貞胤は1333年(元弘三年)新田義貞の鎌倉攻めに参加、肥前の胤貞は尊氏についてその後上洛します。胤貞が尊氏に付きそのまま北朝に属した事に反発した貞胤は下総における胤貞の領地千田庄を横領するなどやりたい放題でした。尊氏の命を受けた胤貞は本領を奪回すべく下総に下向、一族の相馬親胤と共に1335年貞胤の本拠千葉庄を攻めますが上手くいきませんでした。
 その間貞胤は南朝方新田義貞軍に属し各地を転戦しました。そして越前において主将新田義貞が討ち取られた事から、北朝方の斯波高経(当時越前守護)に降伏、本領安堵と下総守護職を得ました。こうなると尊氏にずっと付き従ってきた胤貞は馬鹿を見ることになります。千葉氏の家督争いは南北朝とまったく関係ない事になったため慌てて下総に下向しようとした胤貞は、1336年三河で病没。結局千葉氏家督は貞胤の子孫が継承し嫡流となりました。
 胤貞の子孫は、肥前小城郡に土着し肥前千葉氏となります。胤貞の子孫のうち下総の旧領千田(ちだ)庄に戻った一族が千田氏を称しました。ここらあたり複雑なので説明は避けます。
 南北朝時代の下総は北朝方の胤貞、南朝方の貞胤の両陣営に一族や国中の武士たちが分かれ対立抗争を繰り返し荒廃しました。千葉氏宗家を継いだ貞胤がいかに北朝側に転じたとしても両陣営の対立はその後も根深く続いたと言います。
 千葉一族の国分氏、相馬氏らはますます独立の傾向を強め宗家の統制力は弱まりました。そのため千葉氏は下総一国を支配する守護大名には成長できませんでした。こうした歴史を抱えつつ千葉一族は戦国時代へと突入して行くのです。
 次回は、房総半島を戦国時代に突入させた上杉禅秀の乱と、それに続く関東公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立に端を発し全関東を巻き込んだ永享の乱を描きます。

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