房総戦国史Ⅷ 第二次国府台合戦
第一次国府台(こうのだい)合戦(1538年)に勝利した相模の北条氏綱(1487年~1541年)は兵を率いてそのまま下総、上総方面に侵攻しました。私は第一次国府台合戦の時の北条勢二万という数に疑問を持っていて、当時の領土を考えると北条氏単独でこれだけの兵力を集められるはずはないと考えています。
というのも、当時の北条領は伊豆・相模で30万石弱。武蔵国には宿敵山内・扇谷両上杉家を抱えこちらにも兵力を割かねばならなかったはずですから一万も動員できたら理想的だったと思うんです。では、二万という兵力はどこから来たかと想像すると、古河公方の命令で北条勢に加勢した武蔵、下総の豪族たちの兵力を合わせたものだったのでしょう。
よそ者の北条氏に対し、小弓御所義明は一応主筋。一方、兄の古河公方高基にとって自分の地位を狙う弟義明は敵。共通の敵に対する利害から高基が氏綱を加勢するよう配下の武士たちに命じたのでしょう。そう考えるとまだ武蔵国にも進出していない北条氏綱が長駆下総・上総方面に侵攻した理由も納得できます。おそらくこれは古河公方高基の要請だったのでしょう。
氏綱は討ち取った小弓御所義明父子の首を古河公方に送り、亡命していた真里谷武田信隆を擁し小弓御所方の真里谷武田信応を追放。小弓城には氏綱に味方した元の城主原氏を入れます。土気(とけ)、東金方面を領する酒井氏も服属させました。上総武田氏の嫡流庁南武田氏も降ります。
上総は上総武田氏やこの酒井氏(遠江出身というから徳川譜代酒井氏と同族か?)、夷隅郡の土岐氏(美濃の土岐氏と同族とされる)など外から入ってきた豪族が支配する土地でした。おそらく旧来の支配者であった下総千葉氏などの衰退に付け込んで領土を強奪したのでしょう。ちなみに土気・東金はもともとは千葉一族の領地でした。
北条氏綱は、上総大多喜城を上総支配の拠点に定め帰還します。ところがこの機会を虎視眈々と待っていた者がいました。安房の里見義堯です。義堯は1544年(天文十三年)重臣正木時茂・時忠兄弟を大将とする軍勢を派遣し北条軍のいなくなった大多喜城を攻めます。この正木氏も相模の三浦氏出身の出でした。三浦時高には嗣子がなく、扇谷上杉家から養子を貰い家督を継がせます。これが三浦氏最後の当主義同(よしあつ。出家して道寸)でした。ところが隠居していた時高に晩年実子時綱が生まれます。
こうなると実子に家督を継がせたくなるのは人情で、時高は義同を疎んじるようになりました。義同はこれを恨み義父時高を殺害します。まだ幼少だった時綱は侍女に守られ海路安房に逃れました。時綱は安房国平郡正木郷に隠れ里見氏に保護されました。成長した時綱は正木氏と名乗り里見氏の重臣となります。その子供が時茂・時忠兄弟でした。
大多喜城主真里谷武田朝信(真里谷庶流)は、苅谷原の合戦で敗北し自害。正木時茂はやすやすと大多喜城を占領、城主となります。これが里見氏上総侵攻の始まりでした。正木氏は、大多喜城を拠点に東岸沿いに下総にまで進出、香取神社に放火するほどになります。下総では千葉胤富の軍勢を破り正木氏を先鋒とした里見氏の上総・下総侵攻は着々と進んで行きます。正木氏は里見氏配下であまりにも大きくなり過ぎ時には主君里見氏に反抗することもありました。ただ、最終的には難敵北条氏に対抗するため里見方に留まるのです。
上総をほぼ平定した里見義堯は上総久留里城に本拠を移し里見氏の最盛期を築きました。下総では北条氏と結んだ下総千葉氏を攻めます。そんな中、関東を揺るがす大事件が起こりました。
1546年(天文十六年)河越夜戦です。北条家では父氏綱の死を受け北条氏康(1515年~1571年)が家督を継いでいました。当時北条氏は駿河・遠江・三河を領する今川義元と対立しており、義元の扇動で関東管領・山内上杉憲政と扇谷上杉朝定、そして古河公方足利晴氏(高基の子)の秘密同盟が結成されます。
三者連合は、若年の氏康を侮り北条氏に奪われた武蔵河越城を奪回すべく八万もの大軍を集めました。河越城を守るのは氏康の重臣北条綱成。ただし城兵はわずか三千。綱成がいくら武勇の将とはいえ落城は時間の問題でした。急報を受けた氏康は、八千の手勢を率いて河越城に来援します。十倍以上の兵にまともに戦っても勝ち目がないと悟った氏康は、最初連合軍に降伏を求め交渉します。氏康が弱気になっていると油断していた連合軍は、夜陰を衝いた北条軍の奇襲を受け大混乱に陥りました。河越城の綱成もこれに呼応して討って出たため連合軍は潰走、扇谷上杉朝定が混乱の中で討ち取られ名門扇谷上杉家は滅亡します。
関東管領山内上杉憲政も、この敗北により武蔵における領土をことごとく失い上野一国に押し込まれました。関東の勢力図は一気に変わり北条氏一強時代が到来します。6年後の1552年(天文二十一年)憲政は、本拠上州平井城を北条氏に奪われ越後の長尾景虎を頼り亡命しました。憲政は景虎を養子とし家督と関東管領職を譲ります。これがのちの上杉謙信(1530年~1578年)です。家督を譲られた当時は上杉政虎と名乗りました。後上洛して将軍足利義輝から一字拝領して輝虎と改名。出家して謙信と号しますが、紛らわしいので以後上杉謙信と記します。上杉謙信は憲政の亡命を受け入れた瞬間から関東と関わるようになりました。
里見氏は、こういった戦国時代の歴史に大きく翻弄されていくこととなります。甲斐の武田信玄が勢力を拡大し信濃、西上野と進出しつつありました。一般には武田・上杉・北条の関東を巡る抗争を関東三国志と呼びますが里見氏は完全に脇役に追いやられます。そんな中、古河公方家にまたしても家督争いが勃発しました。古河公方晴氏には、正室北条氏綱の娘との間に義氏、側室梁田氏との間に藤氏、藤政、家国の三人の男子がおり、義氏と藤氏との間に家督相続問題が起こったのです。
里見義弘(義堯長男、1530年~1578年)の後室も藤氏と同腹の妹だったため、義氏には北条氏康が味方に付き、藤氏は里見義弘が支援しました。1562年(永禄五年)、業を煮やした氏康は三男氏照に軍勢を与え古河城を攻撃させます。藤氏は、里見義弘を頼って上総久留里城に逃げました。翌年関東管領上杉謙信の調停で藤氏は古河城復帰が成りますが、上杉勢が越後に帰ると北条氏康は約束を反故にし古河城を攻めて藤氏を捕え伊豆に幽閉します。
怒った謙信は、再び軍を率いて三国峠を越え上野国厩橋城(前橋市)に入りました。里見義弘も謙信の要請を受け出陣、1564年(永禄七年)下総国府台に至ります。ここはかつて父義堯が北条氏綱に敗北した因縁の古戦場でした。義弘は、上杉方の武蔵岩槻城主太田資正に兵糧を送り支援しようとします。
北条氏康は、この動きを受け難敵上杉謙信と決戦する前に小うるさい里見義弘を叩いておこうと二万の軍勢を率いて江戸城に入りました。ですから里見氏にとっては決戦ですが北条氏にとっては決戦の前の前哨戦にすぎなかったのです。里見勢は太田資正勢を含めて一万二千だったと伝えられます。
1月7日、決戦の火ぶたは切られました。数の上からは北条軍が有利でしたが太田資正の作戦指揮と里見勢の奮戦で北条軍は苦戦します。もしかしたら敵を侮っていたのかもしれません。遠山直景など北条方の有力武将が次々と討たれその日の戦闘は終わりました。勝利を確信した里見方は休息を取って酒を酌み交わします。しかしまだ戦いは終わっていません。にも関わらずの油断。これが致命的な判断ミスとなります。
里見勢が酒宴をしているという報告を受けた北条氏康は、その夜のうちに北条綱成勢を松戸方面から迂回させ国府台東方真間の森に伏せさせました。夜が明けると北条軍は江戸川を渡河し里見勢を攻撃します。必死に防ぐ里見勢ですが、突如背後から北条綱成勢が襲いかかりました。前後から迫られた里見軍はこれを支えることができず潰走、里見義弘は馬を射られ家臣の馬に乗せられ命からがら上総に逃れます。太田資正も負傷し岩槻城に帰還しました。
第二次国府台合戦は、房総半島の勢力図を北条方に大きく傾けます。以後里見氏は、北条軍の侵攻に悩まされ続けることになりました。次回、最終回房総戦国時代の終焉に御期待下さい。
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