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2015年8月

2015年8月 6日 (木)

藤姓(秀郷流)足利氏滅亡の謎

 皆さんは藤姓(秀郷流)足利氏といっても御存じないでしょう。「足利氏?清和源氏の子孫じゃないの?」という反応が大半だと思います。
 ところが、実際下野国(栃木県)足利地方には源姓足利氏と藤姓足利氏が平安中期から鎌倉初期まで並立していたのです。というより、最初は田原藤太秀郷の子孫藤姓足利氏の方が勢力は大きかったはず。足利郡内を中心に数千町という広大な所領を持ち同じ秀郷流の小山氏と『一国之両虎』と称されるほどの力を持っていました。
 源姓足利氏は、あとから足利地方に入ってきたので藤姓足利氏に押され気味だったと思います。歴史の歯車がちょっと狂ったら藤姓足利氏が生き残り源姓足利氏が滅んだのかもしれないのです。では藤姓足利氏はどのように滅んだのでしょうか?
 じつはこれ、清和源氏の嫡流争いに巻き込まれたとも言えるのです。ここに志田三郎先生(せんじょう)義広という人物が登場します。源為義の子で為義の次男義賢とは同腹の兄弟。先生といっても教師という意味ではなくれっきとした官位です。正しくは帯刀先生(たてわきせんじょう)といい春宮(皇太子)を護衛する帯刀舎人(たてわきのとねり)の長官の事です。といっても当時の武士が任官するくらいですから高い身分ではなく従五位下~従六位相当の官位だったそうです。
 義広は、関東に下向し常陸国信太荘を開墾して土着したため志田(信太)三郎先生と呼ばれます。甥に当たる頼朝(為義長男義朝の子)が挙兵した時これに従いませんでした。というのも兄義朝の庶長子悪源太義平が実兄義賢を殺害していたからです。ちなみに、義賢の遺児は信濃国木曽谷に逃れ成長します。すなわち木曽義仲です。
 兄義朝一族に恨みを持つ義広は、頼朝挙兵に協力するどころか対立します。一方、下野国に大きな勢力を張る藤姓足利氏の棟梁忠綱も平家との深いつながりから頼朝に従いませんでした。同族の小山氏が早くから頼朝挙兵に参加したのとは対照的でした。
 1183年(寿永二年)、常陸南部に勢力を持つ志田義広はついに頼朝討伐を目指し挙兵します。挙兵に際し義広は関東各地の豪族に使者を送り自分に味方するよう促しました。真っ先に参加したのは足利忠綱です。忠綱は同族の小山朝政も誘いますが、朝政は頼朝に従うことを決めるも、孤立して攻められるのを恐れ曖昧な返事をしました。それでも志田義広・足利忠綱勢は三万騎を集めたと言います。当然誇張はあるでしょうが出来たばかりの鎌倉政権を脅かすだけの力は十分ありました。
 志田・足利連合軍は下野に進軍します。小山朝政は主力が在京中だったので義広を野木宮に誘い伏兵を持ってこれを討ちました。これを野木宮合戦と呼びますが、朝政の乗馬が義広に射られ落馬するほどの激戦だったと伝えられます。
 合戦は小山方が勝ちますが、この戦いで藤姓足利一族の足利七郎有綱とその嫡男佐野太郎基綱(佐野氏の家祖)、四男阿曽沼四郎広綱(阿曽沼氏祖)、五男木村五郎信綱、太田行朝らは小山朝政に従っています。ですから佐野氏、阿曽沼氏は藤姓足利氏の子孫なのです。
 足利忠綱は野木山合戦敗北後、一次上野国山上郷に籠りますが家臣桐生氏の勧めで平家に味方すべく西国に去りました。頼朝は忠綱の父俊綱追討を命じ和田義茂らを足利庄に向かわせます。ところがすでに桐生六郎によって俊綱は殺されており、ここに藤姓足利氏嫡流は滅亡しました。桐生氏は最初から裏切るつもりで忠綱に西国行きを勧めたのかもしれません。一人生き残った忠綱の最期ははっきりと分かっておらず平家に殉じて戦死したとも言われます。
 志田三郎先生義広はどうなったかというと、野木山合戦の後同腹の兄義賢の遺児義仲の軍に参加し、義仲が頼朝に攻められて討死すると伊勢国羽取山に籠りました。ここで頼朝の命を受けた波多野盛通、大井実春、山内首藤経俊、大内惟義らに攻められ斬首されたそうです。
 足利庄と両足利氏の関係ですが、源姓足利氏が預所職(本所【領家】の補任を受けて在地を統括した職)で藤姓足利氏が下司職(本所の補任を受けて現地で年貢・公事・夫役など実務を担当した職。荘園の開発領主が就任するケースが多い)で住み分けしていたようです。素人目には似たような役職に見えますが(苦笑)。最初は両足利氏は協力して荘園の経営に当たっていたようですが、志田三郎義広の乱における対応で明暗が分かれました。
 藤姓足利氏の所領は没収され、この戦いで功績のあった源姓足利氏に与えられます。鎌倉幕府が成立すると、源姓足利氏は足利庄地頭職に任命され勢力を拡大し後に幕府を開く基となるのです。
 私は、藤姓足利氏の滅亡には同族小山氏の動向がカギを握ったと思います。結局小山氏は秀郷流の嫡流争いで藤姓足利氏に協力するわけにはいかなったのでしょう。その判断は間違っておらず小山氏は下野国守護職を賜り繁栄を極めます。同族の結城氏も下総や陸奥南部に勢力を張りました。

房総戦国史外伝Ⅲ  下総千葉宗家の領地

 本編九話で飽き足らず外伝を三本も書いたのはおそらくこのシリーズが初かも?一般読者の方は興味がないと思うのでスルー推奨です。

 最初に修正報告。外伝Ⅱ記事の下総高城氏の項修正しました。あと鏑木氏・木内氏の項を追加しました。結局千葉氏四天王は木内・原・鏑木・円城寺で確定みたい。
 本稿は千葉宗家は戦国期いったいどれくらいの領地を持っていたかという疑問に対する私なりの答えです。千葉一族は下総国(現在の千葉県北部)一帯に広がっていましたが、ほかに結城氏や古河公方、梁田氏など他家の領地もかなりあり一円支配というわけではありませんでした。一方、上総にも領土が広がっていましたがこちらは酒井氏や、里見氏による蚕食でほとんど奪われます。
 千葉氏の城跡(千葉城・本佐倉城)を見てみると、宗家は千葉郡と印旛郡あたりが本領だったと思われます。その他は一族支配で宗主権だけが及んでいた模様。しかも、肝心の千葉郡・印旛郡も有力家臣原氏が半分くらいの所領をもっていたようで宗家の領地はますます少なくなります。
 参考までに太閤検地時の石高を見てみると千葉郡が3万3千石、印旛郡が4万5千石で合わせて8万石弱。そのうち半分を宗家が直接支配していたとして4万石弱。一方、一族の下総相馬氏の領地相馬郡は5万石もあり、相馬郡全土を支配していたとは言えないとしても宗家に匹敵する力を持っています。香取郡は10万石もありますが、こちらは多くの勢力が入り乱れて統一勢力はありませんでした。
 これでは千葉宗家が一族から軽んじられるはずですよ。しかも馬加千葉氏が乗っ取ってからは尚更です。元嫡流家の肥前千葉氏が小城郡5万石(ちなみに庶流の下総相馬氏も6万石)ですから下総千葉宗家の領地としてはちょっと情けないですね(苦笑)。真面目に調べたわけではありませんが常陸国の大掾氏や下野国小山氏も似たような状況だったのかなと想像します。
 平安以来の古き伝統を誇る一族は、歴史が古いだけに分割相続を繰り返して宗家がだんだん小さくなっていくんでしょうね。

房総戦国史外伝Ⅱ  下総千葉一族のその後

 下総千葉氏に関しては、膨大すぎてその全体像を把握できません。さすがに本シリーズの基本資料『千葉県の歴史』(山川出版)にも、その時々の歴史的事件に登場した場合の記述だけでした。私はとことんまで突き詰めなければ気が済まない性格。ということでネット中心の薄い情報にはなりますが千葉一族のその後を分かる範囲で書き記しておきます。

◇千葉六党
『下総相馬氏』
 下総国相馬郡を領す。基本的に千葉宗家と行動を共にするが古河公方家成立とともに奉公衆となって独立傾向を見せる。古河公方が小田原北条氏の傀儡となり相馬氏も北条氏に仕える。ただ関東管領上杉謙信の関東進出の際は微妙な立場になる。秀吉の小田原の陣では北条方として相馬秀胤が小田原籠城。本拠の守谷城は徳川家康に攻略され、小田原城も降伏。相馬氏は所領没収されるが徳川家康により旗本に取り立てられる。
『武石氏』
 千葉郡武石郷を領す。小弓御所義明に従った事から千葉宗家と険悪になる。第一次国府台合戦も小弓御所側に武石胤親が参戦して討死。武石一族はその後安房里見氏に従った模様。重用されるも里見家改易の時に帰農。胤親の嫡男胤康は浪人して稲家浅間神社布施氏に婿養子入りし布施氏を継ぐ。その子孫は今でも続いている模様。
『大須賀氏』
 千葉宗家に従う。領地は香取郡大須賀。松子と助崎に分裂しさらに弱体化。戦国期の動向は不明。松子大須賀氏は千葉宗家から独立傾向、助崎大須賀氏は宗家と行動を共にする。秀吉小田原陣の際千葉宗家と運命をともにし領地没収で滅亡。
『下総国分(こくぶん)氏』
 下総国葛飾郡国分寺領主。宗家千葉満胤と共に国分忠胤が上杉禅秀の乱に加担。敗北し足利持氏に降伏。その後は宗家と共に関東管領上杉氏に属し、千葉一族の馬加康胤、千葉家重臣の原胤房と対立。千葉宗家の胤直が馬加・原らに滅ぼされた時は生き残り家督を継いだ馬加千葉氏に従った。小田原征伐では徳川勢に本拠矢作城を攻略され開城。領地没収の後、子孫が水戸徳川家や譜代土井氏などに仕えた。
『東(とう)氏』
 下総国東庄を領す。ただし下総での東氏の動向は不明。承久の乱の戦功で美濃国上郡山田庄を賜る。以後美濃東氏のほうが有名になりこちらは1559年ころ内紛で滅亡。下総東氏は、馬加・原の乱の時宗家と運命をともにし滅亡か?良く分からないので情報求む!
◇有力庶家
『陸奥相馬氏』
 陸奥相馬氏に関しては、いずれ独立して記事を書く予定。本拠は陸奥国行方(なめかた)郡。陸奥相馬氏は誰を初代にするか難しいが、下総相馬四代胤村の庶子師胤が祖か?福島浜通りの行方、標葉(しねは)、宇多の三郡に勢力を広げ、伊達氏、佐竹氏と抗争。小大名ながら伊達輝宗を破ったこともある。関ヶ原の合戦では中立を保ち一時改易。訴訟を起こし旧領を回復し相馬中村藩六万石の大名として明治維新を迎える。千葉一族では一番の勝ち組(笑)。
『陸奥国分氏』
 独眼竜政宗の国分盛重(イッセー尾形)しか浮かんでこないが、れっきとした千葉一族。陸奥宮城郡を領す。国分氏七代盛胤のときに宮城郡居住か?伊達晴宗(政宗の祖父)の五男盛重が養子に入って家督を継ぐ。別名お家乗っ取りともいう。政宗と対立して出奔、最後は佐竹氏に仕え久保田(秋田)藩士となる。
『肥前千葉氏』
 詳細は本編参照。もと嫡流家。肥前小城郡(五万石)を領す。面積の割には豊かで室町時代が全盛。亨徳年間(1452年~1454年)の胤鎮の時代は肥前国主と称されるほど。戦国時代初期に東西に分裂。少弐氏の介入を受けその養子を迎えるほど衰退。宗家の祇園千葉氏(東千葉氏)は胤頼の代に実兄小弐冬尚と運命を共にする。
 西千葉氏は、竜造寺氏、鍋島氏に仕え江戸時代には鍋島姓を与えられ家老となった。
『陸奥千葉氏』
 詳細不明。馬籠千葉氏の事か?他にも桃生千葉氏、気仙千葉氏、鬼死骸・片馬合千葉氏、下油田千葉氏、揚生千葉氏、布佐千葉氏、下折壁千葉氏などが分立した(武家家伝陸奥千葉氏参照)。葛西氏や大崎氏に仕えた模様。
◇重臣
『下総原氏』
 平常長(千葉氏祖常兼の父)の四男頼常が下総国香取郡千田庄原郷を領し原氏を称す。代々千葉宗家の筆頭家老を務める。小弓御所義明の乱の時一族が甲斐に逃れ甲斐原氏となる。信玄の侍大将原虎胤はその子孫といわれる。胤房の代に、千葉宗家を滅ぼすほどの力を持つ。原宗家は臼井城・小弓城を有し、本佐倉城には千葉氏執権として仕え、他に一族が森山城に拠った。
 原氏の祖先に関しては異説もあり、原氏の所領下総国千田庄・八幡庄・臼井庄がもともと肥前千葉氏の所領であることから肥前千葉氏系ではないかとも言われる。そうであれば千葉宗家を滅ぼした理由も納得できるが…。
 原氏は、千葉宗家から次第に独立し北条氏配下の独立大名化している。千葉宗家と運命をともにし小田原陣で滅亡。子孫は徳川幕府に旗本として取り立てられた。
『下総円城寺氏』
 千葉常胤(宗家三代)の子、園城寺律静坊日胤が始祖。以仁王に従い平家に反乱を起こすが戦死。父常胤は、日胤の死を悼んで下総国印旛郡に園城寺にちなんだ円城寺を建立。その子孫が円城寺氏を称す。こちらも代々千葉宗家の宿老として重きをなす。一族のうち千葉胤貞に従って肥前に下向した者が肥前円城寺氏になる。竜造寺四天王円城寺美濃守信胤はその子孫。
 円城寺嫡流も代々千葉宗家四天王の第四席となる。尚任の時、原胤房、馬加康胤に攻められ千葉宗家と共に自刃、円城寺氏は衰退する。その後千葉氏が下総と武蔵に分裂すると武蔵千葉氏の家老となる。小田原陣で滅亡か?
『下総高城氏』
 千葉宗家家老。その出自には様々な説がありはっきりしないが一説では肥前千葉氏初代胤貞の次男高胤が肥前高木城を領した事から最初高木氏を称すという。その後関東に移り上総生実臼井原に城を築き高城氏と称するようになった。ただ二階堂氏説もあり断定はできない。
 戦国時代は千葉宗家筆頭家老原氏の寄騎となる。下総国小金城(千葉県松戸市)に拠る。原氏と共に古河公方、北条氏に属す。最後の当主高城胤則は小田原城に籠城し秀吉軍を迎え撃つ。北条氏滅亡後降伏し蒲生氏郷に預けられる。徳川家康にお家再興を願い出るが叶わぬまま1603年京都伏見で没す。嫡男胤重が元服後家康に旗本として取り立てられた。
『鏑木氏』
 千葉四天王の一家。千葉氏四代胤正の八男胤時の子九郎胤定が下総国香取郡鏑木郷を領したことから鏑木氏を称す。馬加、原の乱の時の動向は不明だが最終的に馬加千葉氏の家老に落ち着いた模様。秀吉小田原陣の際は、鏑木胤家、嫡子成胤共に本拠の鏑木城(千葉県香取郡干潟町鏑木)に籠城。北条氏滅亡後開城する。鏑木氏は千葉宗家と運命を共にし滅亡。ただし命だけは助けれたようで胤家、成胤共に隠棲。その子孫が徳川五代将軍綱吉の時召しだされて旗本になったそうだが、実子に恵ませず養子が継いでいたが最終的に断絶した。
『木内氏』
 千葉四天王の一家。千葉六党東胤頼の次男胤朝が下総国香取郡木内郷を領したのが始まり。木内氏は千葉氏四天王筆頭で馬加・原の乱では木内胤儀は宗家の千葉胤直に殉じて自害。その後子の胤敬が新しく宗家を継いだ馬加千葉康胤に召しだされてお家再興を果たす。
 馬加千葉氏の時代は三家老(原・鏑木・木内)と称された。木内氏は米野井城(千葉県香取市)に拠る。第一次国府台合戦で当主の木内胤邦が戦死したため勢力が衰える。鏑木氏と共に対里見氏戦の最前線を受け持った。そのため木内氏代々の当主に里見氏との合戦での戦死者が目立つ。最後は小田原合戦で千葉宗家と共に北条氏に味方し敗北。武士を捨てて帰農したという。
 
 以上千葉氏の主要な一族を紹介しましたが、資料不足で勘違いや明らかな間違いがあるかもしれません。その際は内緒コメントでお知らせいただけば助かります。

房総戦国史外伝  房総武士の最期

 房総戦国史を書き終えた今、まだ余韻が冷めません。最後のほうはしょりすぎて千葉氏などの滅亡の様子をあっさり書きすぎたと反省し、此処で補足的に記す次第です。

『下総千葉氏』
 実は千葉氏宗家は、重臣原胤房と円城寺尚任の対立の時滅びています。原氏が古河公方成氏に付き、円城寺氏が関東管領上杉氏に味方して合戦し、宗家十六代の胤直をどちらの陣営に取り込むか争ったと書きましたが、結局胤直は円城寺陣営が取り込みました。原陣営の千葉一族馬加(まくわり)康胤・孝胤父子は、千葉城の胤直・宣胤父子を襲撃、敗れた胤直は志摩城に、息子の宣胤は多胡城に脱出しますが、馬加・原連合軍は追撃の手を緩めず結局ここも落とされて胤直・宣胤共に自害、千葉宗家は滅亡します。1455年の事です。
 古河公方成氏は馬加康胤を新たな千葉家督に据え、以後康胤の系統が嫡流になりました。ですから他の千葉一族はますます千葉宗家を軽んじるようになり衰退に拍車がかかります。一方関東管領上杉氏は、馬加康胤の千葉宗家継承を認めず胤直の弟賢胤の子実胤を取り立て市川城に置き千葉宗家を継がせました。これが武蔵千葉氏です。ですから千葉氏は大きく下総千葉氏と武蔵千葉氏に分裂したわけです。
 千葉氏が、千葉城を捨て佐倉に本拠を移した理由は馬加千葉氏が宗家を継いだからです。千葉氏の新たな本拠本佐倉城は馬加康胤の子輔胤が築城したと言われます。
 結局武蔵千葉氏も北条氏に属し、北条氏から婿養子に入った直胤に乗っ取られます。宗家を継いだ馬加千葉氏ですが、古河公方陣営から北条氏に素直に移行し最後まで運命を共にします。秀吉の小田原攻めの際には、千葉一族で3千の兵をあつめ小田原城に籠城したそうです。この時、上総・下総で小田原入城した主な武士を記すと、東金酒井氏150、土気酒井氏300、庁南武田一族1500、臼井原氏1500、万木土岐氏1500、小金高木氏700、下総相馬氏(千葉一族)100などでした。
 もともと千葉氏の重臣だった原氏は、宗家を凌ぐ勢いになり北条氏に直属する独立勢力になります。千葉氏がいかに弱体化したか分かりますね。多くの関東武士が小田原城に入城したのは当主を人質に取られていたからでした。千葉氏も例外ではなく、最後の当主重胤(三十一代、1576年~1633年)も幼少の身を小田原城で人質同然の境遇に置かれていました。
 名家好きの徳川家康は、小田原攻めの前秘かに千葉氏に使者を送り「千葉氏が北条の姻戚とはいえ、家をまっとうするためには良く考えた方がいい。秀吉による天下統一の動きを理解すべきである」と告げさせました。動揺する千葉家中でしたが、当主重胤を人質に取られている現状ではどうにもならず結局北条氏を運命を共にします。北条氏が滅亡すると千葉氏も同罪とされ領地没収。重胤は諸国を放浪し1633年江戸で亡くなったそうです。享年58歳。平安時代からの長い歴史を誇る名族千葉氏はここに完全に滅亡します。千葉一族では庶流の陸奥相馬氏が関ヶ原のごたごたも上手く凌ぎ切り相馬中村藩六万石を明治維新まで維持させた事と比べると大違いでした。
『上総酒井氏』
 実は酒井氏の出自についてはよく分かっていません。遠江出身で徳川譜代の酒井氏と同族という説もあれば、上杉氏説、千葉氏説、波多野氏説、土岐氏説があってそれぞれ一長一短あるそうです。上総酒井氏は、里見氏と北条氏の抗争に翻弄され最後は北条方に属し小田原陣を迎えます。徳川譜代の酒井氏と同族という線を強調しうまく立ち回って生き残る道もありましたが田舎豪族にそこまで求めるのは酷でしょう。結局領地没収で滅びました。ただ子孫は徳川家の旗本として取り立てられ生き残ったそうです。
『上総武田氏』
 上総武田嫡流庁南武田氏の最後の当主は、甲斐の武田信玄の子豊信だという説があります。私には資料的裏付けがないので何とも言えませんが、豊信は信玄の三男で庁南武田家に養子に入って家督を継いだとされます。他の上総武士と同様北条氏に属し徳川家康の大軍に攻められ落城、自害したと言われます。異説としては城を逃れ信濃松代に至りそこで余生を過ごしたそうです。松代は武田氏所縁の真田氏が領主でしたのであり得る話ではあります。
 有力庶家真里谷武田氏最後の当主信高(信応の息子)も、北条方として徳川勢に攻められ真里谷城開城。下野の那須氏を頼って亡命、その地で没したと伝えられます。息子たちは後に徳川氏に仕えたそうです。最盛期には二十八万石にも及んだ上総武田氏ですが、その滅亡はあっけないものでした。
『万木土岐氏』
 実は万木土岐氏に関しては過去記事『万木城のお福女さま』で触れています。覚えていらっしゃる方はほとんどいないと思いますが…。ちなみにアドレスはこちら↓
 最盛期には夷隅郡十万石とも称する勢力を誇りましたが、里見方から北条方に乗り換えたのが命取りになりました。といっても当時の里見氏は滅亡寸前で、まさか巨大勢力北条氏が滅ぶとは思えませんから、土岐氏の判断を責めることはできません。土岐氏も美濃土岐氏の同族と言われますが分かりません。
 万木土岐氏最後の当主頼春(1546年~1590年)は、小田原の陣の時小田原城に籠城していたという説、本拠万木城に居たという両方の説がありますが、里見氏と徳川家康の先鋒本多忠勝勢に攻められ滅ぼされました。頼春の最期に関しても諸説があり落城時に自害したという説、生き延びて小浜海岸から小舟で脱出、三河に落ちのびて余生を送ったという説があります。
 私としては、本人が生き残るくらいなら娘のお福女さまを生かしてほしかったと心の底から思います。過去記事を読まれた方なら共感していただけると思います。彼女の最後はあまりにも可哀想でしたから。
 以上、房総の主要な武家の最期を描きました。九州に住む私にとっては遠い世界ですが、伝統を誇る千葉氏の興亡、里見氏や上総武田氏に代表される新興武士の歴史を眺めると感慨深いものがありますね。

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