房総戦国史外伝Ⅲ 下総千葉宗家の領地
本編九話で飽き足らず外伝を三本も書いたのはおそらくこのシリーズが初かも?一般読者の方は興味がないと思うのでスルー推奨です。
最初に修正報告。外伝Ⅱ記事の下総高城氏の項修正しました。あと鏑木氏・木内氏の項を追加しました。結局千葉氏四天王は木内・原・鏑木・円城寺で確定みたい。
本稿は千葉宗家は戦国期いったいどれくらいの領地を持っていたかという疑問に対する私なりの答えです。千葉一族は下総国(現在の千葉県北部)一帯に広がっていましたが、ほかに結城氏や古河公方、梁田氏など他家の領地もかなりあり一円支配というわけではありませんでした。一方、上総にも領土が広がっていましたがこちらは酒井氏や、里見氏による蚕食でほとんど奪われます。
千葉氏の城跡(千葉城・本佐倉城)を見てみると、宗家は千葉郡と印旛郡あたりが本領だったと思われます。その他は一族支配で宗主権だけが及んでいた模様。しかも、肝心の千葉郡・印旛郡も有力家臣原氏が半分くらいの所領をもっていたようで宗家の領地はますます少なくなります。
参考までに太閤検地時の石高を見てみると千葉郡が3万3千石、印旛郡が4万5千石で合わせて8万石弱。そのうち半分を宗家が直接支配していたとして4万石弱。一方、一族の下総相馬氏の領地相馬郡は5万石もあり、相馬郡全土を支配していたとは言えないとしても宗家に匹敵する力を持っています。香取郡は10万石もありますが、こちらは多くの勢力が入り乱れて統一勢力はありませんでした。
これでは千葉宗家が一族から軽んじられるはずですよ。しかも馬加千葉氏が乗っ取ってからは尚更です。元嫡流家の肥前千葉氏が小城郡5万石(ちなみに庶流の下総相馬氏も6万石)ですから下総千葉宗家の領地としてはちょっと情けないですね(苦笑)。真面目に調べたわけではありませんが常陸国の大掾氏や下野国小山氏も似たような状況だったのかなと想像します。
平安以来の古き伝統を誇る一族は、歴史が古いだけに分割相続を繰り返して宗家がだんだん小さくなっていくんでしょうね。
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