2023年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ

« 房総戦国史外伝Ⅲ  下総千葉宗家の領地 | トップページ | 下野における大鳥圭介の戦い »

2015年8月 6日 (木)

藤姓(秀郷流)足利氏滅亡の謎

 皆さんは藤姓(秀郷流)足利氏といっても御存じないでしょう。「足利氏?清和源氏の子孫じゃないの?」という反応が大半だと思います。
 ところが、実際下野国(栃木県)足利地方には源姓足利氏と藤姓足利氏が平安中期から鎌倉初期まで並立していたのです。というより、最初は田原藤太秀郷の子孫藤姓足利氏の方が勢力は大きかったはず。足利郡内を中心に数千町という広大な所領を持ち同じ秀郷流の小山氏と『一国之両虎』と称されるほどの力を持っていました。
 源姓足利氏は、あとから足利地方に入ってきたので藤姓足利氏に押され気味だったと思います。歴史の歯車がちょっと狂ったら藤姓足利氏が生き残り源姓足利氏が滅んだのかもしれないのです。では藤姓足利氏はどのように滅んだのでしょうか?
 じつはこれ、清和源氏の嫡流争いに巻き込まれたとも言えるのです。ここに志田三郎先生(せんじょう)義広という人物が登場します。源為義の子で為義の次男義賢とは同腹の兄弟。先生といっても教師という意味ではなくれっきとした官位です。正しくは帯刀先生(たてわきせんじょう)といい春宮(皇太子)を護衛する帯刀舎人(たてわきのとねり)の長官の事です。といっても当時の武士が任官するくらいですから高い身分ではなく従五位下~従六位相当の官位だったそうです。
 義広は、関東に下向し常陸国信太荘を開墾して土着したため志田(信太)三郎先生と呼ばれます。甥に当たる頼朝(為義長男義朝の子)が挙兵した時これに従いませんでした。というのも兄義朝の庶長子悪源太義平が実兄義賢を殺害していたからです。ちなみに、義賢の遺児は信濃国木曽谷に逃れ成長します。すなわち木曽義仲です。
 兄義朝一族に恨みを持つ義広は、頼朝挙兵に協力するどころか対立します。一方、下野国に大きな勢力を張る藤姓足利氏の棟梁忠綱も平家との深いつながりから頼朝に従いませんでした。同族の小山氏が早くから頼朝挙兵に参加したのとは対照的でした。
 1183年(寿永二年)、常陸南部に勢力を持つ志田義広はついに頼朝討伐を目指し挙兵します。挙兵に際し義広は関東各地の豪族に使者を送り自分に味方するよう促しました。真っ先に参加したのは足利忠綱です。忠綱は同族の小山朝政も誘いますが、朝政は頼朝に従うことを決めるも、孤立して攻められるのを恐れ曖昧な返事をしました。それでも志田義広・足利忠綱勢は三万騎を集めたと言います。当然誇張はあるでしょうが出来たばかりの鎌倉政権を脅かすだけの力は十分ありました。
 志田・足利連合軍は下野に進軍します。小山朝政は主力が在京中だったので義広を野木宮に誘い伏兵を持ってこれを討ちました。これを野木宮合戦と呼びますが、朝政の乗馬が義広に射られ落馬するほどの激戦だったと伝えられます。
 合戦は小山方が勝ちますが、この戦いで藤姓足利一族の足利七郎有綱とその嫡男佐野太郎基綱(佐野氏の家祖)、四男阿曽沼四郎広綱(阿曽沼氏祖)、五男木村五郎信綱、太田行朝らは小山朝政に従っています。ですから佐野氏、阿曽沼氏は藤姓足利氏の子孫なのです。
 足利忠綱は野木山合戦敗北後、一次上野国山上郷に籠りますが家臣桐生氏の勧めで平家に味方すべく西国に去りました。頼朝は忠綱の父俊綱追討を命じ和田義茂らを足利庄に向かわせます。ところがすでに桐生六郎によって俊綱は殺されており、ここに藤姓足利氏嫡流は滅亡しました。桐生氏は最初から裏切るつもりで忠綱に西国行きを勧めたのかもしれません。一人生き残った忠綱の最期ははっきりと分かっておらず平家に殉じて戦死したとも言われます。
 志田三郎先生義広はどうなったかというと、野木山合戦の後同腹の兄義賢の遺児義仲の軍に参加し、義仲が頼朝に攻められて討死すると伊勢国羽取山に籠りました。ここで頼朝の命を受けた波多野盛通、大井実春、山内首藤経俊、大内惟義らに攻められ斬首されたそうです。
 足利庄と両足利氏の関係ですが、源姓足利氏が預所職(本所【領家】の補任を受けて在地を統括した職)で藤姓足利氏が下司職(本所の補任を受けて現地で年貢・公事・夫役など実務を担当した職。荘園の開発領主が就任するケースが多い)で住み分けしていたようです。素人目には似たような役職に見えますが(苦笑)。最初は両足利氏は協力して荘園の経営に当たっていたようですが、志田三郎義広の乱における対応で明暗が分かれました。
 藤姓足利氏の所領は没収され、この戦いで功績のあった源姓足利氏に与えられます。鎌倉幕府が成立すると、源姓足利氏は足利庄地頭職に任命され勢力を拡大し後に幕府を開く基となるのです。
 私は、藤姓足利氏の滅亡には同族小山氏の動向がカギを握ったと思います。結局小山氏は秀郷流の嫡流争いで藤姓足利氏に協力するわけにはいかなったのでしょう。その判断は間違っておらず小山氏は下野国守護職を賜り繁栄を極めます。同族の結城氏も下総や陸奥南部に勢力を張りました。

« 房総戦国史外伝Ⅲ  下総千葉宗家の領地 | トップページ | 下野における大鳥圭介の戦い »

 日本史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 藤姓(秀郷流)足利氏滅亡の謎:

« 房総戦国史外伝Ⅲ  下総千葉宗家の領地 | トップページ | 下野における大鳥圭介の戦い »