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2015年9月

2015年9月 3日 (木)

足利基氏の入間川在陣と新田義興の最期

 過去記事で新田一族の悲劇に関して簡単に触れました。今回「東京都の歴史」(山川出版)で新田義貞の次男義興の悲劇的最後の関して詳しい記述を見つけましたので紹介させていただきます。
 その前に新田義貞について知らない人はいないと思いますが(もし知らなかったらググってください)、義興(1331年~1358年)は義貞の次男です。義貞の長男義顕は1337年越前金ヶ崎の戦いで父義貞を逃がすために戦死していました。父義貞も同じく越前国藤島で翌1338年足利軍に攻められ討死しています。
 新田宗家は、正室の子である三男義宗(1331年~1368年)が継ぎました。義興は母の身分が低かったため新田氏の棟梁になれなかったのです。ただ武将としての器量は兄義興が上だったらしく実質的に新田軍を指揮していたのは義興でした。二人の関係、織田信長の子信雄、信孝の兄弟と似ていますね。
 足利幕府内部の争い観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は尊氏の弟直義の毒殺で幕を閉じました。それまで越後の新田一族に匿われていた新田義興、義宗兄弟は幕府の混乱に付け込み秘かに本拠上野国に戻って1352年挙兵します。義興らは後醍醐天皇の子宗良(むねなが)親王を奉じ、義貞の弟脇屋義助も加わるという新田一族総力を挙げた挙兵でした。
 これには幕府内の勢力争いに敗れた直義派も加わったため関東の幕府勢力にとって危機でした。足利尊氏は初代鎌倉公方(当時は関東管領)の次男(庶子も入れると四男)基氏と共に鎌倉を拠点に挙兵した新田軍と戦います。一時は武蔵野合戦で敗れるほど新田軍の勢いは強く後方の鎌倉も一時南朝勢力に占領されました。
 ただ地力に勝る足利方は次第に盛り返し武蔵中部入間川の線で両軍は対峙します。いつまでも関東の局地戦に関わっておれない尊氏は息子基氏に入間川在陣を命じ重臣畠山国清をその補佐に残しました。国清は鎌倉府執事(後の関東管領)に就任します。尊氏と基氏はここが生涯の別れになりました。基氏の入間川在陣は1353年から1359年まで6年続き、14歳から20歳という多感な時代を戦場で過ごします。
 基氏の重要な任務は新田軍の撃退、具体的には新田義興の排除です。ただ基氏は若年、国清も独断専行が多く関東の武士の支持は必ずしも高くなかったため合戦で勝つことは困難でした。そこで国清は謀略を持って義興を倒そうと画策します。足利方の有力武将江戸一族のうち武蔵野合戦では新田方に奔った竹沢右京亮に因果を含め偽って新田方に降伏させました。
 ただこれだけでは義興は信用しなかったので、他の江戸一族にも協力させます。国清は江戸氏の所領を没収したためようやく義興も信じました。内応を約束した江戸遠江守らは「畠山国清を討つ」と称し挙兵、義興に援軍を要請します。新田陣営にあった竹沢も積極的に義興に働きかけました。
 1358年10月10日、義興は鎌倉を突くべく多摩川矢口の渡しに達します。竹沢は準備した渡し船を勧め義興は近習13名と共に船に乗り込みました。ところがその船には細工がしてあり多摩川の中ほどに達すると穴があき浸水し始めます。浸水があまりにも急だったため重い甲冑を脱ぐ暇もなく義興主従は溺死しました。義興亨年28歳。
 江戸遠江守は、義興の首を取り入間川の基氏陣所に参上します。この功により遠江守は数か所の所領を恩賞に与えられました。喜び勇んだ遠江守は獲得した領地を見分すべく再び矢口の渡しに至ります。ところが天候が急変し落雷を受けてしまいます。遠江守はそこでは死にませんでしたが寝込み7日後狂死したと伝えられます。世間では裏切った報いだと噂したそうです。これは史実ではないかもしれませんが、江戸氏が義興に内応の約束をし、裏切ったところまでは事実だったと思います。
 畠山重忠謀殺後秩父平氏の嫡流として武蔵国で大勢力を誇った江戸氏は、この時を境に没落します。不思議としか言いようのない出来事でした。
 義興の死は新田一族そして関東の南朝勢力衰退の始まりでした。棟梁義宗の最期もまた1358年上野国沼田荘で戦死したという説、あるいは阿波に落ちのびたという説があってはっきりしません。義宗の子貞方は奥州の南朝方を頼りますが、その後嫡子貞邦と共に関東に戻って挙兵の準備をしているところを幕府方に察知され捕えられます。1409年祖父義貞所縁の鎌倉七里ヶ浜で親子ともども斬られました。新田氏の嫡流はこれで滅びます。南北朝合一から17年後の出来事でした。

真田氏の上州侵攻   後編

 真田幸隆は正室恭雲院(真田家老河原隆正娘)との間に四人の男子をもうけます。すなわち信綱、昌輝、昌幸、信尹(のぶただ)です。家督を継いだのは長男信綱。次男の昌輝も武田家中の有力家臣でした。三男昌幸は幼少期武田家に人質として出されそのまま信玄の母系大井氏の支族武藤氏の養子になり武藤喜兵衛と名乗ります。昌幸は信玄の奥近習衆から足軽大将になっていました。
 真田家は長男信輝を柱に兄弟が結束し安泰かと思われました。ところが、1575年(天正三年)長篠合戦(設楽ヶ原合戦)で当主の信綱、次男の昌輝が戦死するという悲劇に見舞われます。三男昌幸は、何事もなければ武藤家を継ぐはずでしたが、勝頼の命により真田宗家を継ぎ信濃国小県郡真田庄、上野国吾妻郡を領することとなりました。
 長篠合戦で織田徳川連合軍に敗北した武田勝頼は、1578年(天正六年)越後の上杉謙信没後に起こった御館の乱で謙信の養子景勝に味方し甲越同盟を結びます。この時の武田上杉の話し合いにより当時北条氏政が上杉家から奪っていた東上野、沼田領を武田家が攻略しても良い事になりました。上杉家としては景勝が継承したばかりで上野にかまっている余裕がなかったのでしょう。
 勝頼は、昌幸に沼田領攻略を命じます。昌幸は沼田城を攻略する前進基地として1579年(天正七年)沼田城を望む利根川上流右岸にあった北条方の名胡桃城(利根郡みなかみ町下津)を奪取します。もともと沼田城は国人領主沼田氏の城でした。ところが御館の乱の時、実弟の上杉景虎(謙信養子)を助けるため北条氏政が攻め落とし、城将として猪俣邦憲、藤田信吉らを置きます。ちなみにこの藤田信吉という人物、北条→武田→上杉→徳川と渡り歩き江戸初期に大名となる面白い人物です。
 当時昌幸は安房守と名乗り始めます。もちろん自称ですが真田安房守昌幸の武名はここから始まりました。昌幸は名胡桃城を戦略拠点とし伯父矢沢綱頼(幸隆弟)に沼田城を攻めさせます。これと併せ得意の調略を駆使し城将の藤田信吉らを寝返らせ沼田城を落としました。同時に利根郡新治村の猿ヶ京城も攻略します。
 1581年(天正九年)昌幸が勝頼の命で甲斐新府城築城に出向くと、会津に亡命していた沼田城の元領主沼田景義が旧領奪回をはかり蜂起します。沼田城の在番衆にも景義の親戚金子泰清がいたため昌幸は危機を迎えました。ところが昌幸は、金子泰清に莫大な恩賞を約束し景義を謀殺させ事なきを得ます。
 
 危機はこれで去らず、今度は北条氏政が沼田在番衆の海野幸光を内通させ蜂起させました。海野氏は真田氏の本家で幸光も海野宗家そして真田家に近い人物だったと伝えられます。昌幸は伯父矢沢綱頼と協力して海野幸光を自害に追い込みようやくこれを収めました。
 衰亡する武田家の中で真田安房守昌幸は上野北部吾妻郡、利根郡をほぼ掌握するという大功を上げます。しかし1582年(天正十年)、主家武田家が織田信長の大軍に攻められ滅亡するという大事件が起こりました。昌幸は、主君勝頼へ自領の上野国岩櫃城に籠城するよう勧めますが勝頼はこれを断り小山田信茂の岩殿城(山梨県大月市)へ向かいました。ところが小山田信茂はすでに織田家に内通しており織田軍先鋒滝川一益の軍勢が背後に迫る中、小山田軍にも行く手を塞がれ武田勝頼は近臣と共に天目山で自害して果てます。
 この時、勝頼が昌幸の勧めに従っていたらもしかしたら武田家は滅亡しなかったかもしれません。そのすぐ後に織田信長が家来の明智光秀に叛かれ本能寺で横死するのですから。ともかく武田家の滅亡で真田氏は戦国の荒波に単身放り出される事になりました。
 選択を誤ると滅亡します。昌幸は頼る先を織田信長の重臣滝川一益に決めました。織田家としても、信濃、上野に隠然たる勢力を持つ真田氏と敵対するのは得策でないとの判断から昌幸の降伏を容れます。昌幸は本領安堵され滝川一益を補佐し関東経略に協力することとなりました。
 その直後の同年6月2日、本能寺の変が起こります。後ろ盾を失った滝川一益は慌てて本国伊勢長島に逃げ帰りまたしても昌幸は孤立します。武田旧領は力の空白を生み周辺の北条氏政、徳川家康、上杉景勝の草刈り場となりました。この三者の争いを天正壬午の乱と呼びます。
 昌幸はまず北条氏に属しました。ところが北条氏政は沼田領への執着を捨てておらず、昌幸は今度は徳川家康に寝返ります。徳川方からも誘いがあったのでしょう。昌幸はいずれ沼田領を巡って騒乱が起こると考え1583年(天正十三年)本拠小県郡上田の地に城を築きました。すなわち上田城です。
 昌幸の予想通り、徳川と北条は間もなく和睦しその条件の一つとして沼田領の引き渡しを求めました。家康は真田家に使者を送り沼田領を北条方に引き渡すように命じますが、自らの血で勝ち取った沼田領は手放せないと昌幸はこれを拒否します。そして越後の上杉景勝に使者を送り服属しました。この時人質として昌幸の次男信繁(一般には幸村の名で有名。ただし生前幸村と名乗った事実はない)を送りました。
 怒った家康は、1585年(天正十三年)大久保忠世、平岩親吉、鳥居元忠らを大将とする七千の兵を送り上田城を攻めさせます。これが第一次上田合戦です。真田勢はわずか千二百の小勢でしたが、地形を巧みに利用し上田城の近くまで徳川勢を引きつけてから神流川に設けた堤防を決壊させました。多くの溺死者を出した徳川勢は一旦後退しますが、そこを待ち構えていた真田勢は昌幸が上田城から、長男の信之(当時は信幸)が戸石城から従兄弟の矢沢頼康は矢沢城から討って出、徳川軍の背後から襲いかかりました。
 徳川勢は散々に撃ち破られ戦死者千三百名という大きな損害を出しました。一方真田勢の損害はわずか四十名、昌幸の一方的勝利です。これに懲りた家康は、上田城攻めを手控えます。上州沼田城に攻め込んだ北条勢も撃退した昌幸は、日の出の勢いの豊臣秀吉に使者を送り服属しました。
 こうして昌幸は、秀吉から信濃小県郡、上野吾妻郡、利根郡沼田領の本領安堵を勝ち取ります。寡兵を持って徳川の大軍を打ち破った昌幸の武名は天下に轟きました。
 1590年(天正十八年)の北条征伐は、氏政・氏直の上洛問題と共に上州沼田領の帰属問題がきっかけでした。北条と秀吉の話し合いで、沼田領は真田家が沼田城を明け渡し名胡桃城以西を保持するという約束でしたが、北条方が約束を破って名胡桃城まで奪った事で征伐の理由となったのです。
 昌幸は本領の信濃国小県郡を保ち、沼田領は長男の信之に任せました。1600年に関ヶ原合戦の時、再び上田城を巡る徳川方との合戦(第二次上田合戦)が起き、ここでも昌幸は次男信繁と共に二千の兵で徳川秀忠率いる三万八千の大軍を翻弄しました。
 しかし関ヶ原の合戦は西軍が敗北、徳川方に属した長男信之の嘆願で昌幸、信繁は命だけは助けられますが本領は没収され紀州九度山に追放されます。1611年(慶長十六年)昌幸は紀州九度山で波乱の生涯を閉じました。享年65歳。
 次男信繁は父昌幸の遺志を継ぎ大坂城に入城、真田家の武名を後世に残しました。長男信之は、家名を残す道を選び信州松代十万石、上州沼田三万石(こちらは後に改易)を獲得します。松代藩真田家は明治維新まで続きました。

真田氏の上州侵攻   前編

 群馬県と新潟県の境三国山系大水上山に源を発し南流、伊勢崎市付近で神流川と合流し東南に向きを変え太平洋にそそぐ日本第二(流域面積は日本一)の大河利根川。群馬県の中部、利根川を挟んで西に榛名山、東に赤城山という日本有数の名山を抱く眺めは壮観です。かつて上野国と呼ばれたこの地は、榛名山、赤城山を境に北は山間部、南は平野と対照をなします。
 日本内陸交通の大動脈中山道も、上野では山間部を避け碓氷峠から榛名山の南麓を通り関東に至ります。では榛名山の北には道がなかったかというとそうでもなく鳥居峠から高崎に至る信州街道、草津峠から入って信州街道と合流する善光寺道がありました。ただこれらの道は、榛名山に近づくと大戸関から南に進路を変え、榛名山北麓を通って吾妻、沼田方面に至る道は裏道という扱いでした。
 しかし、この道は戦国時代真田氏が上野国に進出した道でもありました。真田氏は本拠信濃国小県(ちいさがた)郡から鳥居峠を越え吾妻川沿いに東進、沼田に至ります。沼田藩は真田信之に始まり長男信吉が継ぎ、信吉の息子信利の代に改易されました。真田本家は信之の次男信政が継ぎ信州松代十万石として幕末まで続きます。信吉と信政の真田領継承はそれだけで一本記事が書けるほど複雑なのでここでは触れません。ただ、真田氏がどのように沼田城を奪い領土化したか興味深いのでご紹介しましょう。
 真田氏は、信州から上州に広がる滋野一族の嫡流海野氏、根津氏、望月氏のうち海野氏の出身だと言われます。滋野氏の出自に関しては清和天皇の第四皇子貞保親王説、紀氏と同族説などあってはっきりしません。ただ信濃国小県郡を中心に信州、上州に拡大したのは確かです。
 真田氏は、実質的初代幸隆(1513年~1574年)に始まります。信濃国小県郡真田郷の国人(小領主)だった幸隆は1541年(天文十年)甲斐守護武田信虎(信玄父)、諏訪頼重、村上義清が連合して海野一族を攻めた海野平合戦で敗北、故郷を追われ上州に逃れます。この時滋野一族のネットワークが役立ったに違いありません。
 後、信虎の子晴信(出家して信玄)に仕えた幸隆は、信濃先方衆として主に信濃国人の調略を担当大きな功績を上げます。真田氏が複雑な婚姻関係を信濃の豪族たちと結んでいた事が大いに役立ちました。例えば幸隆の長男信綱の正室は北信濃の豪族高梨政頼の娘で、政頼の妹は村上義清の側室です。
 幸隆の滋野一族ネットワークは武田信玄の信濃侵略に大いに役立ち信玄が上野に目を付けると、またしても幸隆が起用されます。信玄は兵を率い碓氷峠を越え松井田城、箕輪城と攻略を進めると同時に幸隆に上野の豪族たちの調略を任せたのです。
 幸隆は、おもに鳥居峠を越えて滋野一族が多い榛名山の北側の国人たちに働きかけました。郡で言えば吾妻郡、利根郡です。幸隆の上野国における本格的活動は第四次川中島合戦(1561年)の後だと言われます。当時上州吾妻郡では海野一族の内紛が起こっていました。かつて幸隆が故郷を追われた時保護してくれた羽尾氏が鎌原氏と争い、その鎌原氏が幸隆を頼ってきたのです。羽尾氏の背後には岩櫃城(吾妻郡吾妻町)主の斎藤氏がいました。
 幸隆は鎌原氏を支援し、1563年(永禄六年)武田家の援軍も含めた三千の兵で斎藤氏、羽尾氏が籠る岩櫃城を攻略、この戦いで幸隆の恩人羽尾幸全(ゆきてる)は討死します。岩櫃城主斎藤憲広は上杉謙信を頼り越後に逃亡しました。戦国の世の習いとはいえ悲惨な話です。この戦いは武田氏と上杉氏の代理戦争という側面もあり、海野一族はそれに巻き込まれたのです。
 真田幸隆は、以後この岩櫃城を根拠地に北上野調略を進めます。幸隆は、根津氏、海野氏とともに武田家の西上野在番衆となりました。怒った謙信は、川中島合戦の最中にも関わらず重臣の藤田信吉らに二千の兵を授け真田氏を攻めさせます。幸隆は手元に千の兵しかありませんでしたが、地形を巧みに利用しこれを防ぎ切りました。
 幸隆は1565年(永禄八年)岳山城、1567年(永禄十年)白井城を攻略し西上野に着々と浸透します。幸隆は外様ながら功績を重ね武田家の譜代同然の扱いにまでなっていました。幸隆は1567年(永禄十年)病気のため家督を嫡男信綱に譲って隠居します。そして1574年(天正二年)信濃国戸石城で亡くなりました。享年62歳。

古代街道の勘違い 群馬編

 最近の歴史記事、ちょっとディープなものばかりでしたので軽い話題でも♪
 いま、山川出版・県史シリーズで関東各県のやつを読んでいます。茨城、千葉、栃木、群馬は読了。埼玉県の歴史に入ったばかり。このところの歴史シリーズ、関東ネタが多かったのはそのためです(笑)。
 それはともかく、群馬の歴史を読んでいて疑問というか目から鱗なネタがありました。古代から中世までの
街道と、現在の道路・鉄道ってだいたい同じところを走ってると思いがちじゃないですか。私もそう信じていました。例えば関東から越後に抜ける三国街道。JRの上越新幹線とか上越線、あるいは関越自動車道と国道291号線は高崎、前橋方面から沼田を通って三国峠越えで越後湯沢に至りますよね。
 当然、古代~中世の三国街道もそのあたりだと思いがち。ところが全然違ったんですよ。高崎までは一緒。そこから現県庁所在地の前橋はスルーして金古、渋川、中山、布施、猿ヶ京と沼田の山を隔てた西を走っていたんです。沼田を通るのは三国街道の東に並走する沼田道、沼田からは会津街道になって会津盆地に入ります。
こちらのルートは基点が武蔵本庄(埼玉県本庄市)。北上して前橋(当時は厩橋)、沼田に至ります。
 どうも江戸時代までは、前橋より高崎が中心だったらしく中山道も高崎を通っているし、高崎から烏川沿いに信州街道が延びています。中山道のちょっと南には鏑川沿いに下仁田街道、藤岡から分岐してさらに南の神流川を通る十国街道が、これも信濃国まで延びています。
 今でも前橋より高崎の方が交通の要衝ですよね。人口も群馬県一でしょ。昔はさらにそれが顕著だったようなんです。そのため明治の廃藩置県後合併して群馬県になった時最初の県庁所在地は高崎だったとか。それを前橋市があこぎな政治力で奪ったので当時は恨みが相当深かったそうですよ。今は知りませんが(苦笑)。
 他の県でも似たような話が多そうですよね。ちなみに我が熊本県も薩摩から肥後を縦断して筑後、筑前、豊前に至る豊前街道は現在の国道208号線→3号線と微妙に違います。特に熊本県北部から熊本に入る道は、高瀬(現玉名市)から植木、熊本というルートじゃなくて、途中の木葉からより金峰山寄りの田原坂を通って熊本市街に下ってました。ですから西南戦争でも田原坂の隘路が激戦地になったんです。
 古代の街道って、調べれば面白そうですね♪

下野における大鳥圭介の戦い

 皆さん、大鳥圭介(1833年~1911年)に関してどんな印象をお持ちでしょうか?私は司馬遼太郎『坂の上の雲』のやくざな(それでいて有能な)駐清国特命全権公使兼朝鮮公使のイメージが強烈です(笑)
 ある程度幕末維新史をかじった人なら、大鳥が緒方洪庵の適塾に学びその後軍学・工学に身を投じ洋式装備の幕府陸軍伝習隊の指揮官陸軍奉行として戊辰戦争を迎えた事を御存じだと思います。伝習隊はフランス式調練を施された幕府きっての精鋭部隊で、その装備もフランス皇帝ナポレオン3世から徳川慶喜に贈られた当時最新のボルトアクション式歩兵銃シャスポー銃だったと伝えられます。2個大隊基幹で定数1400名。1867年に創設されたばかりでした。
 ただ伝習隊に関しては異説もあり、博徒、やくざ、火消しなど無頼の徒を兵士に採用したためそれほどの精鋭ではなかったという説もあります。
 幕府が鳥羽伏見の戦いに伝習隊の投入を惜しみ少数しか参加させなかったことも敗因の一つだと言われます。余談ですが小銃の話をすると官軍(薩長中心)の主力銃はスナイドル銃で元込式は共通ですが単発でボルトアクション式のシャスポー銃とは発射速度が違いすぎました。シャスポー銃は、当時2000挺もあり(他に幕府がフランスに10000挺発注していたがどうなったか不明)まともなら幕府軍は負けようがなかったと思います。それを指揮する連中が門閥だけで選ばれ全く無能だったのが敗因なのでしょう。たたき上げの大鳥圭介のような現場指揮官を抜擢するだけの度量が幕府になかったのです。
 兵器の性能では幕府洋式装備軍が圧倒していましたが、実はスナイドル銃は構造が簡単で日本のような湿気の高いところでも故障が少なく、しかも簡単な改造キットで当時大量に輸入されていた先込式のエンフィールド銃をスナイドル銃に改造可能でした。一方、シャスポー銃は構造が複雑で日本のような高温多湿の土地での使用を想定しておらずしばしば故障したそうです。専用の弾丸も輸入以外では手に入れることできず消耗したらそれまでという状況でした。
 1868年(慶応四年)4月11日江戸開城の日、主戦論者だった大鳥は伝習隊を率いて江戸を脱出します。この時一部は江戸に残り官軍に編入されました。播磨国赤穂郡赤松村の医者の子である大鳥の気概を幕臣たちが少しでも持っていれば戊辰戦争の行方は違っていたかもしれません。
 大鳥は、土方歳三や松平太郎らと合流し下総、下野を転戦します。大鳥が直接率いた伝習隊は500名にすぎなかったと言われますが、下野小山において幕府の追討軍を3度にわたって撃破します。ようやく大鳥の戦上手の片鱗が見えたわけですが、幕府にとってはあまりにも遅すぎました。この時下野で活躍した旧幕軍は会津藩兵、立見鑑三郎(後の尚文)率いる桑名藩兵、土方ら新撰組残党、幕府が組織した諸隊でした。
 当時、幕末騒乱に影響され農民一揆も続発していましたから下野国は収拾のつかない状況に陥ります。下野の要衝宇都宮は徳川譜代戸田家7万7千石の領地でした。宇都宮藩も大政奉還、官軍による東征という衝撃から勤皇派と佐幕派の激しい対立の渦中にありました。結局宇都宮藩では勝ち組に乗るのが得策と勤皇派が勝ち官軍部隊を城に迎え入れることに決めます。親藩の尾張や紀州、そして水戸、さらには譜代筆頭の彦根藩井伊家までもが官軍になっている現状ではその選択は正解でした。しかし、幕府軍残党がひしめく下野での決断は、彼らの攻撃対象になるという不幸に見舞われます。
 1868年5月4日、大鳥圭介を軍総監、土方歳三を軍参謀とする旧幕府軍2200は、南下してきた会津藩兵と呼応し新政府軍に味方した宇都宮城を攻撃しました。タイミングの悪い事に、宇都宮城にいた新政府軍は日光から宇都宮にかけて蜂起した農民一揆鎮圧のために主力が出払っていて城内に宇都宮藩兵を含めてもわずか600しかいませんでした。
 第1次宇都宮城攻防戦は、当然のごとく旧幕府軍の勝利に終わり城は占領されます。新政府軍を指揮していた香川敬三は撤退し下野南部まで来ていた東山道総督府の主力軍と合流し反撃に移る計画でした。この戦いで城はもちろんのこと平安以来の歴史を誇る二荒山神社も灰燼に帰したと言われます。
 東山道総督府軍を実際に指揮する参謀は土佐の板垣退助でした。板垣は、手元にあった土佐藩兵を派遣し旧幕府軍を防がせる一方、各地から新政府軍を糾合させ最終的には2万も集めたそうです。板垣も戊辰戦争で将器を発揮させた一人です。
 数に限りがある旧幕府軍と違って、新政府軍はいくらでも援軍を送り込める点有利でした。新政府軍の精鋭である薩摩藩兵、長州藩兵も下野戦線に投入されます。下総古河に集結中の新政府軍を見て宇都宮の旧幕府軍は機先を制すべく壬生城攻略を目指し南下しました。最初は優勢に戦いを進める旧幕府軍でしたが、折からの豪雨で兵士の疲労が蓄積し河田佐久馬率いる鳥取藩兵の反撃に遭い攻撃が頓挫、宇都宮城に撤退します。
 1868年5月14日、大山弥助(後の厳。陸軍元帥)らが率いる東山道総督府救援隊軍(薩摩・長州・大垣藩)250が壬生城に入城、河田隊と合流し宇都宮城奪回をはかりました。ただ河田隊は壬生の戦いで総勢550名のうち100名以上の死傷者を出し疲弊していたので、新政府軍は河田隊を壬生城に残しました。
 この時新政府軍は大山らが率いる250と伊地知正治率いる別働隊もあったため総勢は不明ですがおそらく1000名は超えなかったはず。これで2000名以上が籠る宇都宮城を攻撃するのは自殺行為に思われますが、すくなくとも薩摩と長州の兵は戊辰戦争を戦い抜いていた精鋭で新式装備も有していたため自信があったのでしょう。
 旧幕府軍にとって不幸だったのは、大鳥圭介がこの時体調を崩し満足に指揮できなかった事です。5月15日第2次宇都宮城攻防戦は開始されました。新政府軍は大山弥助率いる洋式砲兵隊を持っていました。最終的にはこれが猛威をふるいます。大鳥も伝習隊を率い新政府軍の後方を脅かしますが新政府軍の猛烈な火力に圧倒され籠城を断念、宇都宮城を放棄しました。旧幕府軍は八幡山、日光方面に撤退します。
 旧幕府軍は、徳川家の聖廟がある日光山で最後の決戦をするつもりでした。新政府軍は宇都宮城を拠点とし旧幕府軍と対峙します。新政府軍の先鋒は、日光の手前今市まで進出していました。日光山を巡って小競り合いが続く中、渦中の日光山では中禅寺の使僧が今市の新政府軍指揮官谷干城(土佐藩)と交渉します。
 谷は、徳川家神廟を戦禍から守りたいという使僧の願いを聞き入れ大鳥圭介に使者を送り日光を出て戦争するか撤退するよう説得しました。大鳥も日光を戦禍に及ぼさないため同意して撤退します。再編成した旧幕府軍は今市で新政府軍に戦いを挑みますが、すでに戦機は去っていました。敗れた旧幕府軍は下野を去り会津に向かいます。
 日光山を戦禍から救ったとして板垣退助(実際は谷干城だが)の銅像が神橋のたもとに建てられているそうです。
 その後大鳥率いる伝習隊は、会津母成峠の戦いで壊滅的打撃を受けます。大鳥は会津藩が陥落すると蝦夷地に向かい箱館戦争を戦いました。明治2年(1869年)五稜郭で降伏、東京に護送され収監されます。明治5年特赦により出所、北海道開拓使などを歴任し外交官となり日清戦争で活躍した事は有名です。

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