古代街道の勘違い 群馬編
最近の歴史記事、ちょっとディープなものばかりでしたので軽い話題でも♪
いま、山川出版・県史シリーズで関東各県のやつを読んでいます。茨城、千葉、栃木、群馬は読了。埼玉県の歴史に入ったばかり。このところの歴史シリーズ、関東ネタが多かったのはそのためです(笑)。
それはともかく、群馬の歴史を読んでいて疑問というか目から鱗なネタがありました。古代から中世までの
街道と、現在の道路・鉄道ってだいたい同じところを走ってると思いがちじゃないですか。私もそう信じていました。例えば関東から越後に抜ける三国街道。JRの上越新幹線とか上越線、あるいは関越自動車道と国道291号線は高崎、前橋方面から沼田を通って三国峠越えで越後湯沢に至りますよね。
当然、古代~中世の三国街道もそのあたりだと思いがち。ところが全然違ったんですよ。高崎までは一緒。そこから現県庁所在地の前橋はスルーして金古、渋川、中山、布施、猿ヶ京と沼田の山を隔てた西を走っていたんです。沼田を通るのは三国街道の東に並走する沼田道、沼田からは会津街道になって会津盆地に入ります。
こちらのルートは基点が武蔵本庄(埼玉県本庄市)。北上して前橋(当時は厩橋)、沼田に至ります。
どうも江戸時代までは、前橋より高崎が中心だったらしく中山道も高崎を通っているし、高崎から烏川沿いに信州街道が延びています。中山道のちょっと南には鏑川沿いに下仁田街道、藤岡から分岐してさらに南の神流川を通る十国街道が、これも信濃国まで延びています。
今でも前橋より高崎の方が交通の要衝ですよね。人口も群馬県一でしょ。昔はさらにそれが顕著だったようなんです。そのため明治の廃藩置県後合併して群馬県になった時最初の県庁所在地は高崎だったとか。それを前橋市があこぎな政治力で奪ったので当時は恨みが相当深かったそうですよ。今は知りませんが(苦笑)。
他の県でも似たような話が多そうですよね。ちなみに我が熊本県も薩摩から肥後を縦断して筑後、筑前、豊前に至る豊前街道は現在の国道208号線→3号線と微妙に違います。特に熊本県北部から熊本に入る道は、高瀬(現玉名市)から植木、熊本というルートじゃなくて、途中の木葉からより金峰山寄りの田原坂を通って熊本市街に下ってました。ですから西南戦争でも田原坂の隘路が激戦地になったんです。
古代の街道って、調べれば面白そうですね♪
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