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2015年10月 3日 (土)

日本の戦争Ⅰ  張鼓峰事件1938年

 昨今のテレビメディアの動き、私は本当に憂いています。毎年8月15日前後になると決まって反戦番組が流れるのですが、戦後70年の今年は特に酷かった。戦争は悲惨だ、だから平和が一番。これは分かるんです。しかし先の戦争はすべて日本が悪かった。日本が起こさなければ戦争は起こらない。こんな結論で良いんですか?
 日本が起こさなくても戦後いくつも戦争は起きてますよ。その中には現在進行形のものもある。平和ボケが深刻になると現実的思考ができず逆に自ら戦争を呼び込む事になります。安保法制反対の動きなどまさにそう。普通に考えれば戦争を避けるための抑止力としての集団的自衛権なのに、何も考えず(知ろうともせず)反対するのは異常です。
 思想的フィルターをなくして冷静に考えるなら、戦争が悲惨なのではなく敗戦が悲惨。であるならば次は負けないように軍事外交的に準備して戦争を起こさせない仕組みを作ることが最優先です。そして万が一戦争になっても万全の態勢で敵の侵略を防ぐ。そう考えるのが普通の反応だと思います。そこで本シリーズでは、大東亜戦争の何がいけなかったのか?失敗の原因、そしてどの部分は評価できるのか?というところを論じ、将来の教訓にしようと考えています。そもそも自衛権は独立国家が有する自然権。何者にも犯すことは許されません。本シリーズが戦争の実態を知る一助になれば幸いです。
 参考文献を最初に紹介しておくと、ベースになるのは「近代日本戦史総覧」(秋田書店)です。加えて「太平洋戦争(上下)」(児島襄著、中央公論社)と「太平洋戦争戦闘地図」(別冊歴史読本戦記シリーズ)を基本資料とし、さらに独自の見解、歴史解釈を入れようと思います。
 前置きが非常に長くなりましたが、第1回は張鼓峰事件です。朝鮮北東部豆満江流域はソ連、満洲、朝鮮の三カ国の国境が入り混じり複雑な地形を形成していました。豆満江東岸ソ連領との国境線は低い丘陵が連なっておりその主峰が標高149メートルの張鼓峰です。ソ連極東艦隊の根拠地ウラジオストックにも近くソ連兵の越境沙汰が絶えませんでした。
 当時この地の防衛を担当するのは朝鮮軍(大日本帝国陸軍の組織。軍編制)に属する第19師団(秘匿名:虎兵団)でした。1938年7月6日ソ連の騎兵が張鼓峰に出現し、そのまま山頂西麓に居座り陣地を構築します。この時のソ連軍の目的は不明ですが、この辺りは国境線が確定しておらず日本軍は兵を配置していませんでした。そこを付け込まれたのだと思います。
 報告を受けた大本営は当時支那事変最中で漢口作戦準備中という事もあり、極東ソ連軍の反応を見るための威力偵察として限定作戦を考えました。ところがソ連との全面戦争に発展する可能性を危惧した外務省と海軍が反対し、当初は外交交渉での解決を図りました。が、ソ連は強硬で交渉は難航します。その間も張鼓峰近辺では日ソ両軍の小競り合いが続き、業を煮やした大本営(というより陸軍参謀本部)は当事者である朝鮮軍に越境ソ連軍の撃退を命じました。
 しかし当時第19師団は平時編制のままで本格的準備ができていません。そこで板垣陸相(当時)は天皇陛下に若干の動員をする旨上奏、陛下からソ連との本格戦争に発展する恐れありとお叱りをうけました。困った大本営は攻撃実施を延期せざるをえませんでした。日本国内の混乱を見透かすように、ソ連軍は張鼓峰北側の沙草峰を占領します。

 ここに至って、尾高(すえたか)第19師団長は独断で隷下の佐藤幸徳歩兵第75連隊長に攻撃命令を下しました。ただし不拡大方針の大本営が25門の砲兵の他は戦車航空機の使用を禁じていたため苦戦は必至でした。日本側が対処方針を巡って混乱している中、ソ連軍は着々と陣地構築します。極東ソ連軍第39狙撃軍団は2個狙撃師団、戦車200両、航空機100機、火砲100門という大兵力をこの地に投入して来ました。

 本格的戦闘開始が7月30日。第19師団は師団兵力の2割を失うという大きな犠牲を払いながらも張鼓峰、沙草峰を奪取、8月11日の停戦まで維持します。ノモンハンと違い陣地戦だったため火力の違いが表面化せず、また日本軍の夜襲戦術が功を奏し互角の戦いを演じました。

 ところが停戦後日本軍が撤退すると、ソ連軍は再び張鼓峰を占領します。日本側が猛抗議し停戦協定を順守させました。張鼓峰事件は、日本側の準備不足・戦争方針の混乱、現地部隊の独断専行など数々の問題をはらみます。しかし、最大の失策はソ連が信用出来ない国だと考えず準備を怠った事だと私は思います。満洲にあった関東軍は対ソ戦を想定し準備していたはずですが、後方の朝鮮軍にはその意識が低かったのではないでしょうか?

 すくなくともソ連の国境侵犯に対する基本方針を最初から決めておけば混乱しなかったと考えます。それから全面戦争も辞さずという不退転の覚悟を日ごろから示しておけばもしかしたら起こらなかったかもしれません。ソ連は日本が支那事変で動けないと舐めて張鼓峰を占領したのでしょう。東日本大震災の時もロシアと支那の領空侵犯が頻発しましたからね。このようにソ連(ロシア)は昔から信用も信頼もできないならず者国家なのです。日本人は肝に銘じるべきでしょう。

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