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2015年10月

2015年10月 3日 (土)

日本の戦争Ⅴ  蘭印作戦1942年2月~1942年3月

 日本がこの戦争で長期不敗の態勢を整えるには南方資源地帯をいかに早く抑えられるかにかかっていました。そのための真珠湾攻撃でありマレー作戦だったのです。オランダ領インドネシア(通称蘭印)とイギリス領ボルネオは石油の宝庫でした。とくに蘭印はスマトラ島パレンバンとボルネオ島のバンジェルマシン、バリクパパンという大油井を抱え日本軍がここを制圧できるかどうかが戦争の帰趨を握っているといっても過言ではありません。
 陸軍は蘭印を攻略するため第16軍(今村均中将、第2師団基幹、第38師団は南方軍直轄から、第48師団は比島方面第14軍からそれぞれ転用、南海支隊【第55師団歩兵第144連隊基幹】、坂口支隊【第56師団歩兵第146連隊基幹】、川口支隊【歩兵第35旅団司令部および歩兵第124連隊基幹】)を編成します。ただし、マレー作戦がプノンペンの陸軍航空隊、仏印サンジャックの海軍航空隊から手厚い航空支援を受けていたのと比べると、制空権もなくいきなり敵前上陸しなければならない不利がありました。航空部隊が進出するにしてもまず上陸して敵地を占領しなければならなかったのです。
 海軍はこの方面に機動部隊を派遣する余裕はなく、重巡主力(妙高型重巡4隻、妙高、那智、羽黒、足柄)の第3艦隊(他に軽巡×5、駆逐艦×29、軽空母龍驤ほか)を派遣しました。一方、連合軍はABDA艦隊(アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアの連合艦隊)を編成しこれに対抗します。主戦場が蘭印という事で司令長官はオランダのドールマン少将に決まります。旗艦は軽巡デ・ロイテル。日本にとって幸いなことは、米海軍は真珠湾の痛手が回復しておらず空母は東太平洋に、イギリスも温存するため空母をインド洋においていた事でした。各地で敗退し蘭印に逃れてきた艦がほとんどでろくに共同訓練もできず、オランダ人のドールマン少将が英語を解さない(他の3国は当然英語で話す)という統帥上の不利もありました。

 第16軍のジャワ島上陸に先駆けてのバリ島上陸作戦途上の制海権を巡る戦いがバリ島沖海戦(1942年2月22日)です。陸軍の上陸部隊(金村支隊)を乗せた輸送船2隻を守っていたのはわずか駆逐艦4隻の第8駆逐隊(阿部俊雄大佐)でした。そこへドールマン少将率いるABDA艦隊(軽巡×3、駆逐艦×7)の大部隊が襲いかかったのです。まともに戦えば勝てるはずのない不利な状況でしたが、敵艦隊の連携の不備を衝き駆逐艦1隻大破、駆逐艦1隻小破という我が軍の損害に対し、駆逐艦1隻撃沈、軽巡1隻中破、駆逐艦1隻小破という互角以上の戦いを見せました。このあたり日本海軍の錬度の高さが想像できますね。

 次のスラバヤ沖、バタビア沖海戦は1942年2月27日から3月1日にかけて第16軍のジャワ島上陸を連合軍が阻止しようとして連続で起こります。第3艦隊は重巡×4、軽巡×2、駆逐艦×14、軽空母×1とこの方面に展開できる全力でこの戦いに臨みました。対する連合軍ABDA艦隊も重巡×2、軽巡×3、駆逐艦×9と稼働できる全兵力でぶつかります。

 一時は軍司令官今村均中将の座乗する輸送船が敵魚雷で撃沈され司令部全員が水浸しになるほどの危機でしたが、錬度に勝る日本艦隊は必殺の九三式酸素魚雷の威力も相まって敵の蘭軽巡デ・ロイテル、同ジャワ、蘭駆逐艦コルテノール、英駆逐艦エレクトラを撃沈するという大勝利をあげました。敵司令長官ドールマン少将も旗艦デ・ロイテルと運命を共にします。我が軍の損害は駆逐艦1隻大破のみ(スラバヤ沖海戦)。

 3月1日のバタビア沖海戦は夜戦で行われ残敵掃討のような戦いでした。ただこの戦いでは日本軍の損害も多く駆逐艦3隻大破、輸送船も撃沈されるなど少なくない被害を受けます。しかしABDA艦隊も重巡1、軽巡1、駆逐艦1を撃沈されほぼ壊滅、残存部隊はオーストラリアに逃亡します。こうして制海権を握った日本軍はようやく上陸作戦を開始しました。

 第16軍は、ジャワ島西部から第2師団が、東部からは第48師団が上陸しオランダ現地軍司令部があるジャワ島中部バンドンを目指します。これに先立ちスマトラ島パレンバンには陸軍の第1挺身団(空挺部隊)が、ボルネオ島には川口支隊と坂口支隊が、セレベス島には海軍陸戦隊が、それぞれ上陸占領していました。特にパレンバンの落下傘降下は有名で「空の神兵」と持て囃されたほどです。ただし空挺降下はセレベス島メナドの海軍陸戦隊の方が早く(1月11日)、陸軍は2月14日ですから海軍の方にももっと注目してほしいと個人的には思います。

 ジャワ島の陸戦自体は、一旦上陸してしまえば相手はオランダの現地軍だけでしたのでそれほど難しい戦いではありませんでした。3月1日上陸で、はやくも3月7日にはバンドン要塞攻略、3月8日オランダ軍降伏とスピード決着します。蘭印各地の石油施設もそれほど破壊されておらず修復可能で、蘭印の石油資源は日本の戦争継続に大きく寄与することとなります。ところが、生産はできても日本本土まで輸送するには莫大な輸送船量が必要で、連合軍の中でも特に米海軍はこの日本の弱点を見抜き潜水艦による通商破壊に全力を注ぎます。

 こうなると造船能力に不安のある日本は、しだいに損害を回復できなくなっていきました。輸送船団を護衛しようにもあまりにも戦線を広げすぎて回せる護衛艦艇が少なかったのです。通商破壊はボディブローのように日本の首を絞めていきます。蘭印作戦はもしかしたら日本の終わりの始まりだったのかもしれません。

日本の戦争Ⅳ  マレー作戦1941年12月~1942年2月

 真珠湾攻撃に関しては、こうすればよかったという意見が多いですがすべては結果論だと考えています。港湾施設の破壊、重油タンクへの攻撃などできれば理想でしょうが、失敗したら虎の子の機動部隊が壊滅し日本は何もしないうちに降伏を余儀なくされていたわけでそういうぎりぎりの緊張感の中で戦った南雲中将以下第一航空艦隊の面々を後付けで批判する事は避けたいと思います。
 真珠湾攻撃の意味は、日本が生きるために南方資源地帯を占領するまでの時間を稼ぐ事でした。アメリカ軍の本格的反攻が半年遅れたことで、戦略的にはまずまずの成功と見て良いでしょう。南方資源地帯占領の焦点はシンガポールでした。シンガポールには英東洋艦隊の根拠地があり、ここを制圧できるかどうかが南方作戦の成否を左右する最重要課題だったのです。
 陸軍は、シンガポールに至るマレー半島攻略にエースとも言うべき山下奉文(ともゆき)中将率いる第25軍(第5師団、第18師団、近衛師団基幹)を投入します。海軍は上陸作戦支援のために小沢治三郎中将率いる南遣艦隊を派遣しました。ところが南遣艦隊は主力が高速戦艦金剛であったため、英東洋艦隊の主力戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスとの砲戦には不利でした。海軍は水上部隊の不利をカバーするためメコンデルタ地帯近くにあるサンジャック航空基地の第一航空部隊(松永貞市少将)を使う事を決めます。
 第一航空部隊の戦力は次の通り。
◇第一航空部隊
◆第二二航空戦隊 九六中攻×72機
◆第二三航空戦隊 零戦二一型×23機、九六艦戦×12機
◆第二一航空戦隊 一式陸攻×27機
 1941年12月8日早朝、真珠湾攻撃より70分早く第25軍はタイ国境に近いマレー領コタバルに上陸します。実はその前から日本軍輸送船団はオーストラリア空軍の偵察機に察知されていました。英領マレー半島に日本軍上陸という報を受けシンガポールからフィリップス中将率いるZ部隊(プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス、駆逐艦×4)を出撃させます。
 第25軍の上陸を支援していた南遣艦隊小沢中将は、Z部隊北上の報告を受け上陸中の輸送船団を退避させ、まともに戦っても勝てないので夜戦を覚悟しました。一方、英軍は日本軍の航空戦力を侮っていたためエアカバーなしでZ部隊を突入させます。サイゴンにあった松永少将は南遣艦隊が夜戦に突入する前に少しでも有利にするために航空攻撃を決意します。
 当時は天候不良で航空作戦には不利でしたが、敵艦隊との距離300海里、このまま出撃すれば薄暮攻撃ができると踏んでの松永少将の決断でした。最初に出撃したのは鹿屋空(第二一航空戦隊)の陸攻18機、次が元山空(第二二航空戦隊所属)の陸攻17機、最後が美幌空(第二二航空戦隊所属)の陸攻18機です。
 Z部隊のフィリップス中将は、日本海軍索敵機を発見し奇襲攻撃の機会を失った事を悟りました。そのころ日本軍がマレー半島のクワンタンに上陸中との報告を受け日本軍輸送船団を攻撃すべくZ部隊は方向転換します。ところがこれは誤報でした。海軍航空隊は、Z部隊の迷走で発見に手間取りましたが、ようやく元山空の第3中隊がこれを発見し駆逐艦に魚雷一発を発射しますが命中しませんでした。Z部隊本隊に最初に到達したのは美幌空です。高度3000メートルから250キロ爆弾を投下、レパルスの煙突部に命中しました。その後後続部隊が続々と到着しプリンス・オブ・ウェールズ、レパルスに次々と魚雷を命中させます。Z部隊も必死に対空射撃を繰り返しますが、ほとんど効果はありませんでした。
 結局数時間の戦闘でチャーチルが不沈艦と豪語した新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルス撃沈、艦隊司令長官フィリップス中将は艦と運命を共にします。撃沈の報告を受けたチャーチルはショックのあまりベッドで寝込んだそうです。この戦いをマレー沖海戦と呼びます。航空攻撃だけで航行中の戦艦を沈めた世界初の海戦でした。真珠湾攻撃、マレー沖海戦で航空機の優位を世界に示した日本海軍。にもかかわらず大艦巨砲主義を最後まで引きずります。一方、真珠湾で主力戦艦をほとんど失った米海軍は必然的に空母中心の機動部隊戦術に移行せざるをえませんでした。
 
 英東洋艦隊を壊滅させた日本軍は、マレー半島を破竹の勢いで南下します。守るのはパーシヴァル中将の英極東軍(豪第8師団、インド第3軍、マレー義勇軍【2個旅団基幹】)です。戦力的には第25軍と大差ない数でしたが、英東洋艦隊壊滅のショックが抜けきれず各地で敗退を繰り返します。日本軍は最重要戦線であるマレー半島に虎の子の自動車化歩兵師団である第5師団、近衛師団とそれに準ずる第18師団を投入したのですから本気度が違いました。
 マレー作戦の成功はイギリスが半島各地にガソリンスタンドを設置し、それを補給しながら南下できたのが大きかったと思います。これが日本軍の兵站だけだったとしたらマレー一千キロ踏破はもっと時間がかかっていたでしょう。欧州戦線においてフランスで電撃戦が成功したのと同じ理由です。第25軍がシンガポール島を臨むジョホールバルに到着したのは上陸55日目の1月31日でした。英極東軍は東洋最大の要塞シンガポール要塞での抵抗に一縷の望みを託します。
 ところが海に向けての抵抗力は強くても、背後の内陸に対する備えは案外弱いものでした。それでもシンガポール島中央のブキテマ高地の攻防戦はマレー作戦中最大の激戦になります。ブキテマ高地失陥、シンガポール市街を潤す水道が破壊された事によりパーシヴァル中将はこれ以上の抵抗を断念しました。2月15日、白旗を掲げた英軍の軍使がやってきます。有名な山下中将の「イエスかノーか」という発言は降伏条件を巡っての山下・パーシヴァル会見での出来事です。
 会見場が薄暗くカメラマンがコマ送りで撮影したのをノーマルな回転で映写したのでせっかちで高飛車な態度に映ったとされます。実際の山下中将は紳士であったと伝えられています。シンガポール占領に関しては反日華僑の大量処刑などが問題視されますが、占領政策を妨害し破壊工作をしていたのなら処刑されても文句言えますまい。山下中将は、シンガポール占領後も憲兵隊と各隊から選抜された補助憲兵しか市内に入れないほど気を使い、不祥事を避けるために入城式も選抜隊だけで行ったほどでした。「イエスかノーか」という世間のイメージといかにかけ離れているか理解できると思います。
 ともかく、シンガポール攻略で南方作戦の峠は過ぎました。後は南方資源地帯を占領するのみ。次回はその代表としてバリ島沖、スラバヤ沖、バタビア沖の三海戦と蘭印攻略作戦を紹介することとしましょう。

日本の戦争Ⅲ  真珠湾攻撃1941年12月8日

 1941年12月8日と言えば日本人のほとんどが対米開戦の日だと知っています。日本が何故対米戦を決意したかさまざまな理由が語られていますから改めて私が述べる事はありません。ただ支那事変の収拾に手間取りアメリカに付け入る隙を与えたという事実は指摘しておかなければなりますまい。
 アメリカは、1939年に勃発した第2次世界大戦に参加してこそいなかったものの露骨にイギリスを支援し支那にも軍事援助を与えていました。その意味では最初から当事者だと言ってもいいでしょう。にも関わらず中立を装い日米交渉で日本を一方的に侵略国と決めつけ対日石油禁輸など真綿で首を絞めるように日本を追い詰めていきました。当時のアメリカの外交戦略を調べていくと用意周到に日本を追い詰め戦争を決断させた事が分かります。ですから、対米開戦は日本の意志というより追い詰められた結果として窮鼠猫を噛むという自存自衛の戦争だったと私は思います。先の戦争を日本の侵略戦争だと断罪する人は、その根拠を示してください。納得のいく理由を示さずに一方的に糾弾するのは卑怯極まりない態度だと思います。言いかえれば国賊です。


 永野修身海軍軍令部総長が開戦に向けての会議での発言

戦わざるも亡国、戦うも亡国。しかし戦わざるの亡国は精神の亡国である。最後まで戦う精神を見せての亡国なれば、いずれ子子孫孫が再起三起するであろう」

という言葉が当時の日本人全員の共通した思いであったと私は考えます。でなければお国のために散って行った何百万もの英霊の皆さんが浮かばれません。実際日本は負けはしましたが、その敢闘精神はアメリカはじめ各国を恐れさせ、いざとなったら日本は国民一丸となってやる国だという潜在的脅威を与える事は出来ました。


 ともかく、まともに戦ったらアメリカには勝てないという事は陸海軍は当然認識していました。山本五十六連合艦隊司令長官は、開戦劈頭アメリカ太平洋艦隊に痛撃を食らわせ数ヶ月間身動きが取れない状態にし、その間に南方資源地帯を占領して不敗の大勢を作り講和に持ち込むという考えを持っていました。そのためには米太平洋艦隊の根拠地真珠湾奇襲攻撃しかないと心に決めていたのです。もちろんリスクは高く万が一日本艦隊がハワイ沖で待ち構えられ撃滅されればそのままなし崩しに敗北するという大ばくちでした。ただ海軍軍令部が出張するような南太平洋の漸減作戦ののち日本近海で艦隊決戦に持ち込むという伝統の作戦案では開戦半年であそこまで大成功をおさめられたかどうか分かりません。
 山本は、従来の戦艦中心の戦術ではなく空母を中核とした世界初の機動部隊を編成しハワイを叩く事を考えていました。難航する日米交渉の間にも日本海軍は猛訓練を続けました。そして1941年11月26日ハルノートが出された事により戦争は不可避となります。択捉島単冠(ヒトカップ)湾に集結した世界初の機動部隊「第一航空艦隊」は11月26日未明出港、12月2日には「ニイタカヤマノボレ」の開戦を意味する暗号電文を受け取るのです。
 第一航空艦隊の編制は次の通り
◇旗艦 正規空母「赤城」
◇第一航空戦隊 正規空母「赤城」「加賀」
◇第二航空戦隊 正規空母「飛龍」「蒼龍」
◇第五航空戦隊 正規空母「翔鶴」「瑞鶴」
◇第一水雷戦隊(警戒隊)旗艦 軽巡「阿武隈」
                駆逐艦「浦風」「磯風」「谷風」「浜風」「霞」「霰」「陽炎」「不知火」「秋雲」
◇第三戦隊   高速戦艦「比叡」「霧島」
◇第八戦隊   重巡「利根」「筑摩」
◇第二潜水隊(哨戒隊) 潜水艦「伊19」「伊21」「伊23」
 1941年12月8日(現地時間12月7日)未明、ハワイ近海に達した日本機動部隊は二波にわたる航空攻撃を仕掛けます。完全に奇襲になった真珠湾では、戦艦5隻撃沈、戦艦2隻中破、航空機188機撃滅など大きな戦果をあげました。ルーズベルト大統領は、実は真珠湾奇襲を事前に知っていたという説もあります。しかし日本を戦争に引きずり込むためわざと見逃したと言われ、肝心の空母は偶然にもこの時真珠湾にいなかった事が傍証ともされますが真相は不明です。
 ともかく戦争は始まったのです。次回は真珠湾攻撃と時を同じくして始まったマレー半島上陸作戦、マレー沖海戦を描きます。

日本の戦争Ⅱ  ノモンハン事件1939年

 モンゴル高原は東へ行くとなだらかに下り興安嶺山脈まで同じようなステップ地形が続きます。これが興安嶺を過ぎると針葉樹林地帯になり全く気候が変わります。古来興安嶺が遊牧民と狩猟民の生活圏の境でしたが、興安嶺東の針葉樹林地帯に興った半農半牧の満州族が強大化したために興安嶺西部の本来はモンゴル族の土地まで支配するようになりました。そのため、満洲国が成立しても現地の遊牧民は国境線をまたいで生活していたのです。というよりそもそも彼らに近代的概念である国境線という考えはなかったと思います。ここまでが大前提。

 1924年モンゴル高原にソ連の傀儡であるモンゴル人民共和国、1932年満洲に日本の傀儡である満洲国が成立しても、ここホロンバイル草原の遊牧民の生活にはほとんど変化がありませんでした。満蒙国境は曖昧なままでしたから、ソ連/モンゴルはモンゴルと中華民国の国境線、日本/満洲はそれより10~20キロ南方のハルハ河の線を主張します。互いの認識が違うわけですから両国の国境警備隊は越境を繰り返しました。

 ここまで書くと日本側のごり押しという印象をもたれると思いますが、この地帯は砂漠と草原が続くだけの荒漠たる大地で牧畜以外には利用しようのない不毛の土地でした。シベリア出兵時に入手したロシアの地図を見て日本側がハルハ河を国境と認識していただけにすぎなかったのです。ということで、ノモンハン事件は日本とソ連の面子だけの問題だったと私は思います。

 きっかけは些細な事でした。1939年5月12日モンゴル軍の騎兵700が越境し満洲国軍国境警備隊と交戦したという報告を受けた関東軍第6軍隷下の第23師団師団長小松原中将は、これがのちに日ソ両軍合わせて4万人以上の死者を出す大激戦になろうとは思っていなかったでしょう。不法越境も何も両者の認識が違うので水掛け論になってしまいます。

 張鼓峰事件を受けて陸軍中央は不拡大方針を決めますが、現地の関東軍は辻政信参謀らが中心となって「満ソ国境紛争処理要綱」を定め、日本側主張の国境線を軍事力で維持すべしという強硬策を採ります。軍少壮参謀の暴走も問題でしたが、植田関東軍司令官、大本営が黙認した事はそれ以上の大問題でした。結局現地部隊の暴走に中央政府が引きずられるという最悪の状況がノモンハンで起こるのです。

 ノモンハン付近でソ連軍が本格介入してきたという報を受け、関東軍は現地ハイラルの第23師団に断固として阻止するよう命じます。第1次ノモンハン事件は1939年5月11日から31日まで続きました。この戦いは痛み分けに終わります。両軍それぞれ死者行方不明者100名余。空の戦いは日本軍の優勢で制空権を保持しました。

 ソ連政府は、意外な日本軍の抵抗に驚き本格的攻勢を準備し報復攻撃の機会を待ちました。ゲオルギー・ジェーコフ中将を第57軍団長に任命し戦車、火砲、航空機を増強します。この時1個狙撃師団、3個装甲車旅団、1個戦車旅団が新たに送り込まれました。関東軍は、不毛の大地ではろくな補給もできないだろうとこの動きを軽視します。当時の日本軍は鉄道輸送中心でハイラルから200キロも離れているし、ソ連軍はその何倍もの補給線を維持しなければならないというのが理由でした。ところがソ連軍は何万台もの輸送トラックを準備しピストン輸送させることで問題を解決します。両者の認識の違いは現地部隊に大きな影響を与えます。豊富な物量を持って戦ったソ連軍に対し日本軍は乏しい武器弾薬で戦わざるをえませんでした。

 ソ連軍の増強を甘く見た関東軍は、第23師団の他に安岡戦車団(戦車78両と第7師団の歩兵1個連隊)を加えただけでした。航空兵力は第2飛行集団(180機)を中心に集め「鶏を割くに牛刀を用いるようなもの」と豪語したそうですがその自信はまもなく完全に打ち砕かれる事になります。

 7月3日未明ソ連軍大攻勢の意図を挫くべく積極的攻勢に出た第23師団は、たちまち数百両のソ連軍戦車、装甲車の大軍に囲まれました。日本軍は善戦したものの大きな損害を受けて撤退を余儀なくされます。ハルハ河右岸を南進した安岡戦車団も蛇腹式ピアノ線を張り巡らせた防御陣地に引っ掛かったところをソ連軍戦車、対戦車砲の集中砲火を受け壊滅的打撃を受けます。

 俗に日本戦車の装甲が薄く非力だったから負けたという意見がありますが、当時のソ連戦車(T-26、BT-7など)も大差なく正面からぶつかれば互角でした。ソ連軍の方が対戦車戦闘に一日の長があったということでしょう。実際戦後明らかになった情報ではソ連軍戦車もかなり損害を受けています。

 自慢の戦車隊の大損害に驚いた関東軍は、安岡支隊を解体、戦車を前線から引き揚げさせました。これでますます火力を失った現地部隊は苦戦を続ける事になります。ソ連軍は航空戦力も大増強し空戦でも日本軍は苦戦しました。火砲も両軍で10倍近い差があり、日本軍は歩兵による夜襲で局面打開を図ります。これはある程度成功を収めますが、損害も当然多く大勢を覆すには至りませんでした。

 ここに至ってようやく関東軍は事の重大性に気付き、兵力の増強を図ります。ところが泥縄式に決まったため戦力の逐次投入という最悪の選択をしてしまいます。8月に入ると戦局はさらに絶望的になりソ連軍の大攻勢の前になすすべもなく敗退し戦線を大きく引き下げざるを得なくなりました。結局ソ連軍は従来主張する国境線まで進出しそこで留まります。ソ連も日本との全面戦争を望んでおらず、此処に至ってようやく停戦交渉が始まりました。

 9月15日モスクワで停戦交渉がまとまります。ノモンハン事件の主役だった第23師団は実に全兵力の70%という死傷者を出しました。これは近代戦においてほぼ壊滅といっても良く日本側の損害の大きさが分かります。これを見て戦後ノモンハンは日本軍の大敗北だったと評されますが、ソ連崩壊で明らかになった資料を見ると実はソ連軍の損害の方が上回っていた事が分かります。ジェーコフも対独戦よりノモンハンの方が苦しかったと述懐したくらいです。


 では何が問題だったか考えると、私は

①情報の軽視、楽観的見方に引きずられた状況判断の誤り
②軍中央と現地部隊(関東軍)の意思不統一
③補給能力の差
④戦力の逐次投入
⑤責任者処罰の不公平

が挙げらると思います。実は事件後何人かの前線指揮官は敗戦の責任を取って自決を強要されますが、辻政信ら実質的にノモンハン事件を引き起こした参謀たちは何ら責任を取らず対米戦でも作戦指導し、さらに大きな損害を日本軍にもたらしました。信賞必罰の精神が軍のエリートには適用されないダブルスタンダードが私は日本の敗戦の原因の一つになったと考えているのです。そんな中厳しい状況で戦った現地の日本軍将兵には頭が下がります。

日本の戦争Ⅰ  張鼓峰事件1938年

 昨今のテレビメディアの動き、私は本当に憂いています。毎年8月15日前後になると決まって反戦番組が流れるのですが、戦後70年の今年は特に酷かった。戦争は悲惨だ、だから平和が一番。これは分かるんです。しかし先の戦争はすべて日本が悪かった。日本が起こさなければ戦争は起こらない。こんな結論で良いんですか?
 日本が起こさなくても戦後いくつも戦争は起きてますよ。その中には現在進行形のものもある。平和ボケが深刻になると現実的思考ができず逆に自ら戦争を呼び込む事になります。安保法制反対の動きなどまさにそう。普通に考えれば戦争を避けるための抑止力としての集団的自衛権なのに、何も考えず(知ろうともせず)反対するのは異常です。
 思想的フィルターをなくして冷静に考えるなら、戦争が悲惨なのではなく敗戦が悲惨。であるならば次は負けないように軍事外交的に準備して戦争を起こさせない仕組みを作ることが最優先です。そして万が一戦争になっても万全の態勢で敵の侵略を防ぐ。そう考えるのが普通の反応だと思います。そこで本シリーズでは、大東亜戦争の何がいけなかったのか?失敗の原因、そしてどの部分は評価できるのか?というところを論じ、将来の教訓にしようと考えています。そもそも自衛権は独立国家が有する自然権。何者にも犯すことは許されません。本シリーズが戦争の実態を知る一助になれば幸いです。
 参考文献を最初に紹介しておくと、ベースになるのは「近代日本戦史総覧」(秋田書店)です。加えて「太平洋戦争(上下)」(児島襄著、中央公論社)と「太平洋戦争戦闘地図」(別冊歴史読本戦記シリーズ)を基本資料とし、さらに独自の見解、歴史解釈を入れようと思います。
 前置きが非常に長くなりましたが、第1回は張鼓峰事件です。朝鮮北東部豆満江流域はソ連、満洲、朝鮮の三カ国の国境が入り混じり複雑な地形を形成していました。豆満江東岸ソ連領との国境線は低い丘陵が連なっておりその主峰が標高149メートルの張鼓峰です。ソ連極東艦隊の根拠地ウラジオストックにも近くソ連兵の越境沙汰が絶えませんでした。
 当時この地の防衛を担当するのは朝鮮軍(大日本帝国陸軍の組織。軍編制)に属する第19師団(秘匿名:虎兵団)でした。1938年7月6日ソ連の騎兵が張鼓峰に出現し、そのまま山頂西麓に居座り陣地を構築します。この時のソ連軍の目的は不明ですが、この辺りは国境線が確定しておらず日本軍は兵を配置していませんでした。そこを付け込まれたのだと思います。
 報告を受けた大本営は当時支那事変最中で漢口作戦準備中という事もあり、極東ソ連軍の反応を見るための威力偵察として限定作戦を考えました。ところがソ連との全面戦争に発展する可能性を危惧した外務省と海軍が反対し、当初は外交交渉での解決を図りました。が、ソ連は強硬で交渉は難航します。その間も張鼓峰近辺では日ソ両軍の小競り合いが続き、業を煮やした大本営(というより陸軍参謀本部)は当事者である朝鮮軍に越境ソ連軍の撃退を命じました。
 しかし当時第19師団は平時編制のままで本格的準備ができていません。そこで板垣陸相(当時)は天皇陛下に若干の動員をする旨上奏、陛下からソ連との本格戦争に発展する恐れありとお叱りをうけました。困った大本営は攻撃実施を延期せざるをえませんでした。日本国内の混乱を見透かすように、ソ連軍は張鼓峰北側の沙草峰を占領します。

 ここに至って、尾高(すえたか)第19師団長は独断で隷下の佐藤幸徳歩兵第75連隊長に攻撃命令を下しました。ただし不拡大方針の大本営が25門の砲兵の他は戦車航空機の使用を禁じていたため苦戦は必至でした。日本側が対処方針を巡って混乱している中、ソ連軍は着々と陣地構築します。極東ソ連軍第39狙撃軍団は2個狙撃師団、戦車200両、航空機100機、火砲100門という大兵力をこの地に投入して来ました。

 本格的戦闘開始が7月30日。第19師団は師団兵力の2割を失うという大きな犠牲を払いながらも張鼓峰、沙草峰を奪取、8月11日の停戦まで維持します。ノモンハンと違い陣地戦だったため火力の違いが表面化せず、また日本軍の夜襲戦術が功を奏し互角の戦いを演じました。

 ところが停戦後日本軍が撤退すると、ソ連軍は再び張鼓峰を占領します。日本側が猛抗議し停戦協定を順守させました。張鼓峰事件は、日本側の準備不足・戦争方針の混乱、現地部隊の独断専行など数々の問題をはらみます。しかし、最大の失策はソ連が信用出来ない国だと考えず準備を怠った事だと私は思います。満洲にあった関東軍は対ソ戦を想定し準備していたはずですが、後方の朝鮮軍にはその意識が低かったのではないでしょうか?

 すくなくともソ連の国境侵犯に対する基本方針を最初から決めておけば混乱しなかったと考えます。それから全面戦争も辞さずという不退転の覚悟を日ごろから示しておけばもしかしたら起こらなかったかもしれません。ソ連は日本が支那事変で動けないと舐めて張鼓峰を占領したのでしょう。東日本大震災の時もロシアと支那の領空侵犯が頻発しましたからね。このようにソ連(ロシア)は昔から信用も信頼もできないならず者国家なのです。日本人は肝に銘じるべきでしょう。

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