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2015年11月

2015年11月 5日 (木)

日本の戦争Ⅹ  ニューギニアの戦い1942年3月~1945年8月

 ニューギニア島は日本列島の真南に位置し距離5000km。面積は日本のほぼ2倍という大きな島です。島の中央は険しい脊梁山脈が走り西からマケオ山脈、ビスマーク山脈、オーエンスタンレー山脈が連なります。どれも4000mから5000m級の高さを誇ります。高地を除き人跡未踏のジャングルが広がり人々は海岸沿いの町に点在して住みます。まともな道路などありませんから町は陸からは孤立し主な交通手段は海上連絡路のみでした。
 一見すれば、まともに占領もできないし占領しても維持するのが困難だと分かります。日本軍がこの地に目を付けたのは、米豪遮断作戦のためのニューギニア南東の要衝ポートモレスビー占領だけが目的でした。当然最初は海路からの占領を目指しますが、珊瑚海海戦の痛み分けでそれが不可能になります。ならば、ニューギニア進出は諦めて別の方策を見つけるべきでした。4000m級のオーエンスタンレー山脈越えの陸路でのポートモレスビー占領など物理的に不可能です。北岸のラエに上陸するのは可能でしょう。しかし補給はどうしますか?食料にしてもジャングル地帯での現地調達などできません。ラバウルからの海路が頼りです。逆に連合軍は、その輸送船団を空襲で叩けますし潜水艦による通商破壊も容易です。コースが分かっているんですから。
 山脈越えは、重砲は運べないし食料弾薬の携行も制限されます。連合軍はオーストラリア本土からの莫大な補給を受け休養十分でポートモレスビーで待ち受けるだけ。山越えでへとへとになった日本軍を空襲し放題ですし、陸戦になってもおそらくガダルカナル以上の十字砲火を浴びるのは確実です。どう考えても無理な作戦でした。
 この地に投入された日本軍将兵は最初から厳しいハンディキャップを背負っていたとも云えます。ニューギニアの戦いはガダルカナル、インパールと並び三大悲劇と呼ばれますが、戦う前からそうなる事を運命付けられた絶望的な戦場でした。
 1942年3月8日日本軍は英委任統治領ニューギニアのラエ、サラモアを無血占領します。最初に上陸したのは海軍陸戦隊と南海支隊の一部でいずれも数百人という規模でした。南海支隊は山脈に道を切り開く必要から独立工兵第15連隊を加え総勢一万名の兵力でしたが、計算上は部隊維持のために三万名の輜重兵が必要でした。ところがそれは用意されず、最低限の弾薬食料での進撃を強要されたのです。大本営エリート参謀の思い上がりには怒りを感じます。
 それでも南海支隊は、オーエンスタンレー山脈越えの困難な進撃を克服し、一ヶ月後ポートモレスビーまで50kmのイオリバイワまで到達しました。が、ここで補給が尽きます。部隊内にはマラリヤが蔓延していました。堀井支隊長は撤退を決断します。ところが撤退戦の方が困難なのは明らかで、追撃してきたオーストラリア軍のために甚大な損害を出しました。さらに北岸のブナやギルワにも米豪連合軍が上陸し南海支隊は前後を敵に挟み撃ちにされるという危機的状況になりました。
 ニューギニア方面を担当するのは第18軍(安達二十三中将)でしたが、南海支隊を救出するため山県支隊(独立混成第21旅団基幹、兵力一万)を編成し現地に送り込みます。待ち構える米豪連合軍に飛び込んだ形になった日本軍は、十字砲火を浴び玉砕相次ぎました。生き残った南海支隊もこの戦闘でほぼ壊滅します。
 ニューギニア方面を担当した米軍側の司令官はダグラス・マッカーサー大将でした。マッカーサーは指揮下に米第6軍(クルーガー大将、9個歩兵師団、1個空挺師団、1個騎兵師団)と豪陸軍(ブレーミー大将、6個歩兵師団)という大軍を擁します。一方日本軍は安達二十三(はたぞう)中将を司令官とする第18軍(3個歩兵師団、1個混成旅団)の他に第17軍の一部(南海支隊)、のちに増援として第8方面軍などから3個師団が加わったのみでした。数の上からも補給の上からも勝負にならないのは明らかです。おまけに日本軍はラバウルの海軍航空隊とニューギニアに進出した陸軍の第4航空軍で稼働機は500機もなかったように思えます。この辺り資料が少ないのであくまで推定ですが…。一方連合軍はこの方面に1000機を優に超える大航空戦力を投入しました。
 1942年6月の時点で第18軍と米豪連合軍の兵力差は数倍、火力に至っては我が軍が敵の百分の一という絶望的状況になります。無意味な戦場では一刻も早く撤退させるのが常道でしたが、この期に及んでも大本営のエリート参謀は逆転を夢見ていたそうですから正気を疑います。そしてそれはダンピール海峡の悲劇として具現化しました。
 1943年3月、大本営は絶望的なニューギニア方面にまたしても日本軍の悪癖である兵力の逐次投入をすべくラバウルから増援の第51師団を乗せた輸送船団を出港させます。護衛として第3水雷戦隊(木村昌福少将、駆逐艦×8)と軽空母「瑞鳳」(27機搭載+補用3機)、ラバウルの基地航空隊がつきました。輸送船団はニューブリテン島とニューギニアに挟まれたダンピール海峡に差し掛かります。米軍の爆撃機B-24は日本軍の動向を索敵し逐一報告し続けました。ポートモレスビーを発進した戦闘機154機、軽爆34機、中爆41機、重爆39機の合計268機の大編隊が一気に日本軍輸送船団に襲いかかります。直掩の零戦隊はラバウルの基地航空隊を合わせてもわずか60機。
 零戦隊は瞬く間に蹴散らされ、無防備になった輸送船団は連合軍の猛爆撃を受けました。この時敵はスキップ・ボミングという新戦術で攻撃し、我が軍は駆逐艦4隻沈没、輸送船は8隻全部が撃沈されます。完敗でした。連合軍は漂流する日本兵に対して機銃掃射するという鬼畜の行為をします。日本軍はこの戦いで3000名の将兵と2500トンの物資を失いました。
 数倍の敵を受け第18軍は、ニューギニア北岸を海沿いに西に向かって撤退します。といってもジャングルで道はないのですから困難な行軍でした。撤退する日本軍を追うように連合軍は1943年9月16日ラエ奪還、同年12月25日米軍ニューブリテン島西部マーカス岬上陸、1944年3月連合軍ホーランジアの日本軍航空基地空襲、同年4月22日米軍ホーランジアとアイタペに上陸、同年5月17日米軍サルミ上陸、5月22日ビアク島上陸、同年7月30日米軍サンサポール上陸と撤退する日本軍を追い詰めていきました。
 8月15日終戦の時、ニューギニアの日本軍は西部に追い詰められていました。幸いな事に連合軍はその矛先をフィリピン、沖縄と北上させこの方面はオーストラリア軍に任せていたため現地自活を成功させた日本軍は持久戦で持ちこたえます。そして終戦を知らずに戦い続け、第18軍が連合軍に降伏したのは9月13日の事でした。ニューギニア方面に投入された日本軍兵力は20万、そのうち生還できたのはわずか2万名です。
 誰が考えても勝てるはずが無いニューギニアに介入を決断した大本営エリート参謀の罪は重い。そして不利が明らかになっても撤退という選択肢を選ばず兵力を逐次投入して消耗させ続けた事は万死に値すると思います。
 降伏後、第18軍司令官安達二十三中将は戦犯として終身刑の判決を受けます。彼は部下の無実を訴え責任をすべて背負いました。そして拘留中の部下8名の釈放が言い渡されると弁護団に礼を言い戦犯収容所内で割腹自殺を遂げます。すべての責任をかぶって自害した安達中将と、戦後も責任を取らずのうのうと生きながらえた大本営のエリート参謀、立派なのはどちらでしょうか?みなさんにも良く考えてほしいのです。

日本の戦争Ⅸ  ガダルカナル島攻防戦1942年8月~1943年2月

 珊瑚海海戦の痛み分けにより海路からニューギニアの要衝ポートモレスビー攻略は不可能となりました。後はオーエンスタンレー山脈越えの陸路からの攻撃しか選択肢が無くなります。そうなると米軍が機動部隊はもとより陸軍航空隊まで動員して袋叩きに来るのは明らかでした。
 そこにミッドウェー海戦の歴史的敗北が重なり、オーストラリアを脱落させアメリカを孤立させる米豪遮断作戦いわゆるFS作戦が検討されることとなりました。FSとはソロモン諸島のはるか南東にあるフィジー・サモア諸島の事でしたが、現実的にここまで進出するのは困難でしたからソロモン諸島南東の島から二式大艇の哨戒圏内で米豪連絡線を遮断するという方針に落ち着きます。そこで目を付けられたのがガダルカナル島でした。
 ジャングルがうっそうと繁る島でしたが、沿岸部には平野が広がり森林を伐採しさえすれば飛行場が出現するという好条件に恵まれた島でもありました。ここまでは良いんです。占領しても維持できるか、十分な航空支援は得られるかという現実問題はさておき戦理的には何の問題もありません。まずかったのはここからです。飛行場建設の設営隊2000名を守るのはわずか230名の陸戦隊のみ。日本側は米軍の本格的反攻を半年後と考えこのような馬鹿なことをしたのです。
 ところが米軍の反攻は予想外に早く、1942年8月7日午前4時米海兵隊第1海兵師団を主力とする一万余の大部隊が艦砲射撃と空母艦載機の支援を受けガダルカナル島テナル川東岸に上陸します。ほとんど戦闘部隊を持たない日本軍は瞬く間に駆逐され、生存者はジャングルに逃れました。そもそも最初から第2師団が設営隊と共に上陸し強固な防衛陣地を構築していれば防げる戦闘でした。日本軍の情報軽視、米軍の情報重視の姿勢が明暗をはっきり分けたと思います。大本営はこの期に及んでも米軍の上陸を威力偵察だとかなり後々まで誤認していたそうですから救いようがありません。
 米軍上陸の報告を受け、海軍は三川軍一中将率いる第8艦隊を出動させます。第8艦隊の陣容は次の通り。
◇第8艦隊   旗艦:重巡「鳥海」
◆第6戦隊   重巡×4(古鷹、加古、青葉、衣笠)
◆第18戦隊  軽巡×2(天龍、夕張)、駆逐艦×1(夕凪)
 これに対し連合軍はターナー少将に率いられた重巡×6、軽巡×2、駆逐艦×8という大部隊で待ち構えます。昼戦は敵に制空権があり不利だと判断した三川中将は得意の夜戦で戦う事を決意しました。8月8日午後11時、第8艦隊は単縦陣を組みガダルカナル島エスぺランス岬とサボ島に挟まれた狭い海峡に突入します。後にこの海域は日本軍の輸送船や艦船が多く沈み方位磁針が狂うとまで噂され「鉄底海峡」と名付けられますが、その最初の戦闘がこれでした。世に第1次ソロモン海戦と呼びます。
 連合軍は敵がこの狭い海峡を突破して攻撃してくると予想していなかったため大混乱に陥ります。11時33分、上空に展開した味方水偵の照明弾投下を合図に、おぼろげながら浮かび上がった連合軍艦艇の影目指して第8艦隊の砲門が一斉に火蓋を切りました。同時に必殺の九三式酸素魚雷が次々と発射されます。
 この海戦で、我が軍は豪重巡「キャンベラ」米重巡「アストリア」「クインシー」「ビンセンス」を撃沈、米重巡「シカゴ」を大破させるという大戦果を上げました。一方第8艦隊は旗艦「鳥海」が被弾し24名が戦死したほかはほとんど損害がなく完勝という内容です。
 翌5月9日午前零時23分、再突入しての米輸送船団撃滅が検討されましたが三川中将は引き上げを決断、サボ島を反時計回りにぐるっと移動して帰途に就きました。後に「何故敵輸送船団を攻撃しなかったのか?」と三川中将の決断は批判されますが、夜明けの早い南海では午後4時には空が白み始めます。ぐずぐずしていると敵の航空攻撃を受け全滅しかねません。一刻も早く敵航空機の行動半径から離脱しなければならないのです。私は三川中将の判断は妥当だったと思います。そもそも最初のガタルカナル島飛行場建設の時点で間違っていたのです。近代戦では戦略の誤りを戦術でカバーするのは不可能です。
 ガダルカナル島の戦闘を担当するのはラバウルに司令部を置く陸軍の第17軍(百武晴吉中将)でした。米軍のガ島上陸を威力偵察だと誤認していた大本営は、第17軍に一木支隊(一木清直大佐、旭川歩兵第28連隊基幹)派遣を命じます。わずか3000名強の兵力で二万近くまで膨れ上がった米軍を撃退することは物理的に不可能です。しかし一木大佐には最後まで敵兵力が2000名弱だとしか知らされていませんでした。
 一木支隊は、先遣隊900名だけで8月21日未明、第一回総攻撃を敢行します。ところが待ち構えていた米軍の十字砲火を受け戦死者770名という信じられない大損害を受け壊滅。指揮官一木大佐も壮烈な戦死を遂げました。ところが大本営は、兵力の逐次投入という愚を繰り返します。次に投入されたのは川口支隊(川口清健少将、歩兵第35旅団司令部および歩兵第124連隊基幹)でした。川口支隊も6000名ほどしかいません。
 川口支隊は最初から躓き先遣隊の上陸を米軍に察知され激しい空襲を受けます。護衛の駆逐艦1隻沈没、2隻大中破、輸送船も数多く撃沈され多くの兵が海に沈みました。結局川口支隊は兵力の3分の1しか上陸できず、その少ない兵力で攻撃せざるをえませんでした。9月12日夜、川口支隊は総攻撃を開始します。米軍はジャングルに仕掛けた集音マイクで日本軍の接近を察知し待ち構えていました。当然のごとく夜襲は大失敗。戦死者633名、負傷者505名、行方不明者75名という大損害を出します。
 ただ、米軍側も負けると分かっている戦場に鬼気迫る表情で突撃してくる日本兵に対する恐怖から精神に異常をきたすものが続出したと言われます。一木支隊、川口支隊の失敗でようやく大本営は事の重大性を悟りました。それまで両部隊には事態を楽観視し一週間ほどの食料しか持たせていませんでした。生き残った部隊も当然飢え始めます。制海権を奪われていた日本軍は「ネズミ輸送」と呼ばれる駆逐艦による高速突入してのドラム缶(物資を入れている)投下か潜水艦による補給しか手段が無くなります。アメリカは、駆逐艦による突入を「トウキョウ・エクスプレス」と呼び警戒しました。
 大本営は、第2師団のガダルカナル島派遣を決定します。その間ガ島近海では第2次ソロモン海戦(8月23日24日)、サボ島沖海戦(10月12日)、金剛・榛名によるヘンダーソン飛行場砲撃などが起こります。上空でもラバウルの海軍航空隊とガ島に展開した米陸軍航空隊、海軍機動部隊との激しい消耗戦が行われました。
 第2師団は、二万以上の兵力、200門の火砲、1個戦車連隊(75両)を集めて一気に米軍を叩こうとします。ところが時すでに遅く制海権も制空権も奪われヘンダーソン飛行場周辺は要塞化されていました。すでに上陸しジャングルで苦しんでいた川口支隊長は、正攻法では勝ち目が薄いので迂回攻撃を進言しますが大本営の馬鹿参謀辻政信の反対に会い罷免されてしまいます。第2師団の上陸も米軍に妨害され上手くいきませんでした。
 10月24日、日本陸軍の威信を掛けた第2回総攻撃が開始されます。しかしヘンダーソン飛行場の防備は厳重で米海軍の飛行隊が進出していました。日本軍は空陸から猛反撃を食らい3000名上の戦死傷者を出します。この後も大本営は兵力の逐次投入を繰り返し、航空消耗戦にも引きずり込まれました。
 11月12日から15日にかけて行われたガ島への兵力輸送を目的とした第3次ソロモン海戦は戦艦「比叡」「霧島」をはじめとする多くの艦艇を失い大失敗、ガ島の日本軍はますます苦境に立たされます。1942年12月31日、御前会議においてガダルカナルでのこれ以上の戦闘継続は不可能とされようやく撤退が決定しました。初動の判断ミスが巻き起こした悲劇と言い切るにはあまりにも大きな犠牲でした。情報軽視、判断ミスによって多くの死者を出した大本営エリート参謀の罪は重い。ノモンハン事件の責任を取らなかった服部・辻のコンビは第一級の戦犯だと私は考えます。
 ただ、撤退が決定してもすぐ実行できるわけではありません。1943年2月7日、最後の部隊がガダルカナル島を離れた時すでにガ島に上陸した総兵力3万の内2万以上の戦死行方不明者が出ていました。そしてその大半は餓死者と病死者でした。今なお多くの英霊が遺骨となって南海の島に残されています。空と海で散って行った英霊も数知れません。日本軍にとってガダルカナルの戦いとは何だったのでしょうか?私は大本営エリート参謀の暴走によって起こされた悲劇だったと思っています。

日本の戦争Ⅷ  ミッドウェー海戦1942年6月

 ミッドウェー島の名前の由来は北米大陸とユーラシア大陸のちょうど中間にあるからだそうです。太平洋の地図を見てもらうと分かる通り絶海の孤島。ただしハワイ諸島にはより近く2310km。日本がミッドウェー島攻略を決意したのはここから一式陸攻でハワイを爆撃できるからだという説を聞きますが、一式陸攻は爆装したら2500kmしか航続距離がありませんから事実上不可能だと分かります。片道分です。
 とすればミッドウェー島占領の意図が不明です。占領自体は簡単にできるでしょうが、補給線は維持できません。それこそ米潜水艦の通商破壊でぼろぼろになりガ島以上の消耗戦となり全滅は必定です。ミッドウェー作戦の意義を考えるなら、この島を囮にし米機動部隊をおびき出し撃滅するという事以外なかったはず。
 山本五十六連合艦隊司令長官がミッドウェー作戦を主張したとき最初その作戦目的は敵機動部隊撃滅でミッドウェー島攻略は念頭に無かったはず。当然、軍令部は上にあげた理由で山本案に難色を示しました。ところが山本はこれが容れられないなら長官職を辞任すると強硬に主張します。私は、山本がその前のドーリットル爆撃機隊による初の本土空襲(実害はほとんどなかった)に焦っていたとしか思えないのです。さらに不可解なのは山本が自分の作戦意図を軍令部にも実際に部隊を動かす第1航空艦隊にも徹底しなかった事。
 作戦目的も曖昧で敵機動部隊撃滅が主目的かミッドウェー島攻略が主目的か不明でした。しかもアリューシャン作戦まで同時に行うという複雑怪奇なものに発展します。俗に利根の索敵機の遅れが…とか、爆装から雷装への転換の遅れが…とか敗因が取り沙汰されますが、作戦目的が曖昧な以上南雲長官以下現場指揮官に責任を負わせるのは酷だと思います。
 私は、ミッドウェー島は囮で主目的は敵機動部隊だと徹底して示すべきだったと考えています。そして無意味に作戦を拡大せずミッドウェー作戦一本に絞るべきでした。歴史のIFは禁物ですがあえて私は言いたいのです。例えばアリューシャン作戦に向かった角田覚治少将(当時)の第4航空戦隊。軽空母「龍驤」(36機搭載)と商船改造ながら正規空母の「隼鷹」(51機搭載)があり、例え搭載機が96艦戦だとしても急降下爆撃機や雷撃機を撃退するには十分でした。これらがミッドウェー方面に向かった第一航空艦隊に属していたら、敵の攻撃も分散し虎の子の正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)が全滅することはなかったはず。
 作戦は単純明快で、末端の兵士に至るまで作戦目的が理解され意志が統一されているのが理想とされます。ところが今回のミッドウェー作戦は、上級司令部でさえ目的が曖昧なまま戦われました。これでは勝つことは難しい。しかも米軍は暗号解読で日本軍の作戦意図を完全に見抜いていました。
 ともかく様々な問題をはらみながらミッドウェー作戦(MI作戦)は発動します。主力は真珠湾攻撃以来の主役南雲艦隊(第1航空艦隊)。先の珊瑚海海戦で消耗した第5航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)は再編成のため参加せず、正規空母×4、高速戦艦×2、重巡×2、軽巡×1、駆逐艦×12の兵力。ほかにアリューシャン攻略部隊として角田戦隊を含む正規空母×1、軽空母×1、重巡×2、駆逐艦×3の第5艦隊(細萱中将)主力。さらにはキスカ島攻略の舞鶴第3特別陸戦隊、アッツ島攻略の北海支隊を乗せた輸送船団を護衛する軽巡×3、駆逐艦×8、細萱中将直率の重巡×1、駆逐艦×2、その他駆潜艇などは後に続きました。
 そして山本長官は、旗艦戦艦大和に座乗し第1航空艦隊の後方を進みます。その戦力は巨大で戦艦×7(大和、武蔵、長門、伊勢、日向、扶桑、山城)、軽空母×1(鳳翔)、軽巡×3(川内、大井、北上)、駆逐艦×17という陣容でした。さらにはミッドウェー攻略部隊を護衛する近藤信竹中将率いる第2艦隊(高速戦艦×2、軽空母×1、重巡×8、軽巡×2、駆逐艦×20、水上機母艦×2)もあります。御覧の通り大日本帝国海軍連合艦隊の総力を挙げた布陣です。
 日本海軍は、珊瑚海海戦でヨークタウンが損傷したので敵機動部隊が出てくるにしても正規空母は2隻(エンタープライズ、ホーネット)だけだろうと楽観視していました。ならばこちらは4隻もあり楽に勝てると踏んでいたのでしょう。開戦以来連戦連勝で驕りがあったことは否定できません。ところが実際は、応急修理を行ったヨークタウンは出てきました。フレッチャー少将の第17任務部隊、スプルーアンス少将の第16任務部隊合わせて正規空母×3、重巡×7、駆逐艦×15の戦力が日本海軍機動部隊を待ち構えていました。
 1942年6月5日午前1時30分、ミッドウェー島爆撃の第1次攻撃隊108機が発進します。攻撃隊は2時間後ミッドウェー島の航空基地を空襲しますが、「爆撃の効果不十分」として「第2次攻撃の要あり」と発信しました。南雲機動部隊は、索敵しても敵艦隊を捕捉できなかったので「この海域に敵機動部隊は居ない」と誤判断します。ところがスプルーアンス少将の第16任務部隊は、すでに索敵機によって5日午前6時ころには日本艦隊の正確な位置を把握していました。遅れて日本側も敵機動部隊を把握します。第2航空戦隊の山口多聞少将は「直ちに攻撃隊発進の要ありと認む」と打電しました。後に問題となるのは、ここでの爆装から雷装への転換問題です。私は山口少将の言うとおり爆装で敵空母の飛行甲板に穴をあけるだけでも良かったのではと考えます。
 まず第16任務部隊のエンタープライズとホーネットから、次いでフレッチャーの第17任務部隊のヨークタウンから攻撃機隊が発進しました。最初の来襲は第1次攻撃隊収容中でしたが散発的だったため直衛の零戦隊に撃退されます。ところがヨークタウンの雷撃機隊に引きつけられ零戦隊が低空に降りたため上空はがら空きになりました。5日12時20分、空母甲板上に第2次攻撃隊が揃い今にも発進しようとした時、エンタープライズのSBDドーントレス雷撃機隊27機が、まさにがら空きの上空から襲いかかってきたのです。
 ドーントレスの545kg(1200ポンド)爆弾が赤城に2発、加賀に4発、蒼龍に3発直撃し3隻の空母は瞬く間に炎上します。第2航空戦隊司令長官山口多聞少将座乗の飛龍は離れた位置にあったため無事でした。山口少将は、残された攻撃隊でこの時発見していた敵空母ヨークタウンに集中攻撃を掛けます。ヨークタウンは飛龍から発進した攻撃機隊の攻撃を受け魚雷2発被弾し沈没はしなかったものの戦闘能力を失いました。翌日修理のためにハワイに廻航途中、日本の伊168潜水艦が発見し魚雷で撃沈します。
 一方、飛龍は米機動部隊の集中攻撃を受けました。満身創痍の飛龍は山口少将とともに海に沈みます。軍人らしい潔い最期だとは思いますが、有能果断な山口少将の死は日本海軍にとって痛手でした。できれば生き残って後の海戦を指揮してほしかったと思います。日本にとって虎の子の4隻の空母喪失も痛手でしたが、山口少将を失うのはそれに匹敵する痛恨事でした。
 ミッドウェー海戦大敗北、我が軍の正規空母4隻沈没の報を受けた山本連合艦隊司令長官は6月6日午前2時55分、ミッドウェー作戦中止を命じます。山本の主力艦隊は第1航空艦隊の550km後方を進んでおりどちらにしろ間に合いませんでした。もっとも間に合ったところで敵艦載機の餌食になっただけだとは思いますが…。それよりも何度も言いますが角田少将の第4航空戦隊の2隻の空母が戦場にいたら、私はこの事が最大のIFだったと考えます。
 ミッドウェー海戦は、日米が攻勢と守勢を入れ替えた戦いだったと思います。造船能力の劣る日本は以後米海軍に勝る空母戦力を持つ事はありませんでした。一方、アメリカは月産空母とまでいわれた正規空母エセックス級を終戦までになんと17隻(戦後も含めると24隻)も就役させます。その他護衛空母は50隻以上量産されイギリスにレンドリースで貸与されるほどでした。
 守勢に回った日本軍の最初の試練はガタルカナル島攻防戦を含むソロモン諸島の戦いです。この戦いも日本軍のさまざまな弱点が露呈したものでした。まずはガタルカナル島上陸と第1次ソロモン海戦から話を進めていくこととしましょう。

日本の戦争Ⅶ  珊瑚海海戦1942年5月8日

 軍事用語に「攻勢終末点」という言葉があります。もとはクラウゼビッツの「戦争論」が出典ですがその国の補給能力の限界でこれ以上進出するとジリ貧になるというぎりぎりの限界点の事です。私はニューギニアやガダルカナルを含むソロモン諸島はこれに当たると考えています。
 日本の国力の限界を考えると、南方資源地帯と本土を結ぶフィリピン、パラオなどの内南洋、いわゆる絶対国防圏が攻勢終末点ではなかったかと思うのです。その意味では占領しても維持できないミッドウェー作戦もガダルカナル進出も必要無かったし、そこで消耗する兵力を絶対国防圏強化に充てていたら最終的な敗北は変わらなかったにしても米軍に史実以上の出血を強要し万が一の講和の機運も生まれたかもしれないと考えます。
 もちろん歴史にIFは禁物でなるようにしかならなかったと思いますが、このように考える戦史研究家は少なくありません。今回紹介する珊瑚海海戦も第二段階作戦に戦線を拡大する一環として行われたものです。日本海軍の重要拠点、トラック諸島を守るにはニューブリテン島ラバウル占領が必要。そしてラバウルを守るためにはソロモン諸島ガダルカナル島とニューギニア、ポートモレスビー占領が必要だと戦線はどんどん拡大していきます、もちろんガダルカナル島占領は、そこを基地にして二式大艇の哨戒圏内で米豪連絡線を遮断するという戦略的意味もありました。
 ただ占領しても維持できるかどうかは別問題で、オーストラリア本土とニューカレドニアから莫大な補給が期待できる米軍と違い、トラック諸島にしてもラバウルにしても補給の通過点に過ぎない日本軍の不利は戦う前から明らかでした。
 ともかく、珊瑚海海戦はニューギニア島南東の重要拠点ポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)の一環として珊瑚海(オーストラリア、ニューギニア、ニューカレドニア、ソロモン諸島に囲まれた海)の制海権を握る目的で行われます。日本海軍はこの海域に第4艦隊(井上成美中将)を投入しました。
 第4艦隊の陣容は次の通り
◇第4艦隊(司令長官 井上成美中将)
(機動部隊)
◆第5航空戦隊  正規空母「瑞鶴」「翔鶴」
◆第5戦隊     重巡「那智」「羽黒」
◆第7駆逐隊   駆逐艦「曙」「潮」
◆第27駆逐隊  駆逐艦「有明」「夕暮」「白露」「時雨」
(MO攻略部隊)
◆第6戦隊   重巡「古鷹」「加古」「青葉」「衣笠」
◆MO部隊直轄 軽空母「祥鳳」、駆逐艦「漣」
◆第18戦隊  軽巡「天龍」「龍田」
◆第6水雷戦隊 軽巡「夕張」、駆逐艦「追風」「朝風」「睦月」「弥生」「望月」
(ツラギ攻略部隊)
◆第19戦隊  敷設艦「沖島」
◆第23駆逐隊 駆逐艦「菊月」「夕月」
(ただし輸送船、補助艦艇は略)
 一方米海軍はF・J・フレッチャー少将の第17任務部隊を派遣します。正規空母「ヨークタウン」「レキシントン」ほか重巡7、軽巡2、駆逐艦13と日本海軍とほぼ互角でした。このほかニューギニアやソロモン諸島の米陸軍航空隊の支援を得られる分若干米側が有利とも言えます。
 素人考えでも分かる通り、ポートモレスビーとソロモン諸島のツラギを同時に攻略するという戦域も広大、作戦目的も複数で複雑という日本軍の悪癖が出た作戦だったと思います。作戦は単純明快で兵士の末端まで作戦目的を共有し一丸となって戦うのが理想だと言われます。ミッドウェー、レイテ沖と繰り返される失敗の前触れとも言える戦いでした。
 1942年4月30日ラバウルを出港したツラギ攻略部隊は5月3日予定通りツラギを占領、水上機基地を設けます。ところが早くも4日には米空母艦載機の空襲を受け菊月撃沈、沖島、夕月が損傷しました。5月1日トラック環礁を出港したMO機動部隊は、報告を受けツラギ近海を索敵しますが米機動部隊を捕捉できませんでした。そのころポートモレスビー攻略部隊は軽空母祥鳳に守られて南下中、敵飛行艇の接触を受けます。
 日米機動部隊は、互いに索敵機を発進させ敵機動部隊の位置を探りました。発見したのはほぼ同時だったと思います。まず5月7日早朝、孤立していた軽空母祥鳳が米艦載機の攻撃で撃沈されました。翌8日翔鶴索敵機が敵空母2隻を発見、直ちに攻撃隊を発進させます。米空母レキシントンは魚雷2、爆弾5発の直撃を受け撃沈。ヨークタウンも大きな損傷を受けました。一方、我が駆動部隊も翔鶴が米艦載機の攻撃で爆弾3発直撃を受け飛行甲板損傷、着艦不能になります。瑞鶴もたび重なる空戦で航空機と優秀な搭乗員を多数失い五航戦(第五航空戦隊)は次のミッドウェー海戦に参加できなくなりました。
 珊瑚海海戦は、日米痛み分けに終わります。両軍ともにベテラン搭乗員と航空機を多数失います。日本海軍は、今回の戦いで米空母ヨークタウンが損傷したのでしばらく戦闘に参加できないと判断しました。ところが米海軍はヨークタウンをハワイに廻航し急ピッチで修理します。ミッドウェー海戦には、この居るはずのないヨークタウンが加わっていました。まだ完全に修理できたわけではなく応急処置での参加でしたが、これが勝敗を大きく左右する事になるのです。

日本の戦争Ⅵ  インド洋作戦1942年4月

 日本は対米戦を覚悟した時、まず真珠湾を攻撃して米太平洋艦隊を叩きシンガポールを攻略してイギリス極東軍と極東艦隊を叩き南方攻略の邪魔をさせないように排除し、その上でフィリピン、蘭印、ビルマなど南方資源地帯を占領して不敗の態勢を築くという所謂第一段階作戦を策定しました。
 
 それがビルマを除きほとんどの作戦目標を達成し、次に南方の占領地の防備を強化し米豪の連絡線を遮断しハワイ占領でアメリカとの講和を考える第二段階作戦に移行します。米太平洋艦隊は真珠湾の損害をまだ回復していませんでしたが、イギリスは最重要植民地インドを守る英印軍と東洋艦隊が健在でした。正規空母インドミタブル、フォーミタブル、軽空母ハーミズ、戦艦ウォースパイト、レゾリューション、ラミリーズ、ロイヤルソべリン、リベンジ、重巡2隻、軽巡4隻、駆逐艦14隻などかなりの脅威でした。
 英東洋艦隊は、セイロン島のコロンボとモルジブ諸島の最南端にあるアッズ環礁を根拠地としていました。英海軍は、本土のスカパフローに代表されるようにこのような陸地から離れた孤島や環礁に海軍基地を設けるのを好みました。確かに防衛上は有利でしたが海上封鎖されると手も足も出なくなるという欠点がありました。にもかかわらずこのような場所を好んで海軍根拠地にしたのは絶対に海上封鎖されないと自国の海軍力に自信があったのでしょう。日本は、最後まで英海軍の秘密根拠地アッズ環礁の存在を気付かなかったそうです。
 第二段階作戦の目標の一つには当然インド攻略も含まれていました。あくまでも理想的に展開しての話ですが、ビルマ攻略もインド遠征(最低限でも東部の国境地帯占領)も現在戦争中の蒋介石重慶政権を脱落させるために必要だったのです。
 日本海軍は、コロンボに停泊する英東洋艦隊撃滅を目的としたインド洋作戦を発動しました。主力は真珠湾を攻撃した南雲中将の第一航空艦隊(ただし加賀はジャワ空襲時に損傷、佐世保で修理するため脱落)。これにマレー作戦から解放された南遣艦隊の金剛型高速戦艦4隻(金剛、榛名、比叡、霧島)が加わるという帝国海軍始まって以来の大機動部隊でした。軍事や戦史に疎い人は高速戦艦とは何ぞや?と思われるでしょうから簡単に説明するともとは巡洋戦艦と言って主砲は戦艦並みなものの装甲が薄く、その分高速だという艦種です。ところが第1次大戦の戦訓から装甲の薄さが致命的になり改装である程度装甲を強化したものを日本では高速戦艦と呼びました。ですから旧式ではあるのですが、速度が30ノットと機動部隊に随伴できたため重宝され第2次世界大戦では最も活躍した艦種です。アメリカもアイオワ級を高速戦艦と呼び33ノット出せるのですが、こちらは近代砲戦を想定し設計段階から装甲も強化してあるので同じ高速戦艦といっても分けて考える必要があります。
 日本海軍(南雲艦隊)の陣容は、正規空母×5、軽空母×1、高速戦艦×4、重巡×7、軽巡×3、駆逐艦×18という堂々たるものでした。アメリカから英東洋艦隊に1942年4月1日前後日本軍機動部隊がセイロン島攻撃をするらしいという報告が入ります。東洋艦隊司令長官ソマービル中将は指揮下の艦隊主力をコロンボからアッズ環礁に移して日本海軍機動部隊を待ち構えました。
 ところが瑞鶴、翔鶴の合流が遅れたためコロンボ空襲が4月5日にずれ込み、ソマービル中将は「誤報だったかもしれない」と4日一部の艦艇をコロンボに戻します。翌朝、日本海軍機動部隊はコロンボを空襲し飛行機、艦艇、基地施設に大打撃を与えました。この時英重巡2隻を撃沈したそうですが、九九艦爆の爆弾命中率88%という驚異的な数字を叩き出します。いかに当時の日本軍パイロットの技量が優れていたか分かりますね。翌日にはセイロン島東岸トリンコマリ軍港にいた軽空母ハーミズを撃沈、それ以外にもベンガル湾方面に進出し合わせて軽空母×1、重巡×2、駆逐艦×1、その他船舶×48撃沈、航空機120機撃破という大きな戦果をあげました。
 ところがアッズ環礁に逃れていた英東洋艦隊主力を取り逃がしたまま引き揚げるという痛恨のミスを犯します。おそらくこの時の機動部隊の戦力なら英東洋艦隊は撃滅できていたはずで、それが成功すればセイロン島を完全に占領でき、インド洋の制海権を握ってインドへの進出も容易に可能、もしインドを手に入れられれば戦争で勝ったかもしれないと思うと悔やんでも悔やみきれません。イギリスは脱落せざるを得ないし、そうなるとアメリカの大義名分も無くなるからです。
 歴史にたらればは禁物ですが、日本海軍がアッズ環礁の存在を把握していたらと思うと愚痴を言いたくもなります。有名なスカパフロー軍港を考えると英海軍の特性にも気付きそうなものですからね。日本は情報に対する認識が低かったから負けたと言われますが、今もそれが続いているようで日本人特有の欠陥なのかもしれません。それを考えると日露戦争の時の日本人は別民族のようでもあり、不思議でならないんです。戦国時代の日本人も情報を重要視してましたから、単に平和ボケの産物なら良いのですが…。皆さんはどう思われますか?

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