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2015年12月

2015年12月 4日 (金)

日本の戦争15  沖縄決戦1945年3月~6月 (終章)

 これまで大東亜戦争で代表的な戦闘をピックアップして見てきたわけですが、ここである程度軍事知識のある方に質問です。軍事に興味のない方や初心者の方はスルーしてください。
 日本軍が守るA、B、C、Dの島があるとします。守備兵力はそれぞれ1個師団。アメリカ軍の攻撃目標が最重要拠点A島だという情報が入り、A島に他島から増援を送る事になりました。さて皆さんはどのように増援を送りますか?史実通り輸送船も護衛の艦艇もぎりぎり、ただし無理してかき集めれば3個師団程度なら同時に運べるとしましょう。
 各人、増援の仕方を考えられたと思います。ところが当時の大本営陸軍部つまり参謀本部エリート参謀の採った方法は最悪でした。泥縄式にとりあえずA島に近いB島から増援を送ろう。A島の次はB島だからB島にはC島から増援を送ろう。A島にはD島からも増援を送れば良いだろう。これを軍事的には兵力の逐次投入と呼び兵家がもっとも忌む方法です。様々な意見があると思いますが、私ならA島が失陥したらこの地域全体の防衛計画が狂うからA島に全兵力を集めるべきだと考えます。
 兵力の逐次投入はアメリカ軍にその都度迎撃され海没する(史実でもそうなった)から、限られた輸送船団と護衛艦隊はできるだけ集中させたい。そのためには無理してもまずB島にC島、D島の兵力をかき集め合計3個師団で一気にA島に増援を送り込む。ある程度は損害があるだろうが、輸送は一回で済み悪くても6~7割程度は揚陸できるだろう。そうなるとA島は実質3個師団の兵力で守る事が出来る。私の意見が絶対だとは言いませんが、これがロジスティクスの考え方なんです。どのように行動すれば一番効率が良いか、最大の効果を発揮するかという概念です。
 何故最初にこんな事を書いたかと言えば、沖縄戦の前段階での大本営がまさに上記の愚かな決定をしたからです。大本営はアメリカ軍が沖縄に来るか台湾に来るか判断に迷っていました。どちらを優先して守るかも一長一短があり、もし台湾が失陥したら大陸にいる支那派遣軍は完全に孤立します。一方、沖縄を失うとP-40やP-47など比較的航続距離の短い戦闘機も爆撃機のエスコートができ、本土防空戦は非常な困難になります。
 私は、こういうときは優先順位を決めドライに切り捨てる覚悟も必要だったと考えます。台湾を失陥しても沖縄の航空基地が健在なら航続距離の短い戦闘機は爆撃機隊のエスコートができず、硫黄島のP-51マスタングだけに注意を払えばよくなります。大陸の陸軍師団は可及的速やかに満洲や仏印に撤退し、上海からも日本本土に戻すべきだったと思います。当時台湾には3個師団の守備兵力がありましたが、そこに数個師団増援したところで焼け石に水。広大な台湾を守りきれるものではありません。最終的にはフィリピンのように山岳地帯で持久戦をせざるを得ないのです。となれば最初にいた3個師団で十分です。一方、沖縄は狭い島なので1個師団でも増えればそれだけ有効な防衛戦が行えます。実際、最初沖縄の第32軍(牛島満中将)は第9師団、第24師団、第62師団、独立混成第44旅団と十分な防衛兵力を持っていました。
 第32軍は、3個師団、1個旅団で防衛計画を策定し準備します。ところが大本営は台湾防衛の不安から第32軍に最精鋭の第9師団を抽出するよう命じました。第32軍は猛反発しますが、上級組織である大本営には逆らえず泣く泣く第9師団を台湾に送り出します。その代わりとして大本営は第84師団を増援として送ると約束しますが、結局それは履行されませんでした。
 こうして当初の作戦計画を大きく狂わせた第32軍は、2個師団、1個旅団の兵力で陣地構築・変更を急ピッチで進めます。一方アメリカ軍は沖縄戦を戦争の天王山と考え空前の大兵力を集めました。まず海軍スプルーアンス大将率いる第5艦隊から。
◇第5艦隊(スプルーアンス大将)
◆第58任務部隊(ミッチャー中将) 空母×15、戦艦×8、重巡×4、軽巡×11、駆逐艦×48、艦載機×919
◆第54任務部隊(デイヨー少将) 戦艦×10、重巡×9、軽巡×4、駆逐艦×23
◆英機動部隊(ローリングス中将) 空母×4、戦艦×2、軽巡×4、駆逐艦×12、艦載機×244
上陸する陸軍の陣容は
◇第10軍(バックナー中将)
◆第24軍団(ホッジ少将) 第7歩兵師団、第96歩兵師団
◆第3海兵軍団(ガイガー海兵少将) 第1海兵師団、第6海兵師団
◆(軍直轄) 第27歩兵師団、第77歩兵師団、第2海兵師団
総兵力は艦艇1317隻、人員45万2千名という大部隊です。当時これほど大規模な上陸作戦を行えるのはアメリカ軍だけ、おそらく現在でもそうでしょう。対する日本軍は9万弱の兵力で戦わなくてはなりません。大本営は沖縄を本土決戦の時間を稼ぐための捨て石だと考えていました。しかし現地の第32軍は、沖縄の民間人の犠牲を可能な限り少なくするため本土への疎開を大本営に訴えます。ところが輸送船が集まらず、学童疎開の児童を乗せた対馬丸がアメリカ軍潜水艦に撃沈された事もあり断念されました。第32軍は、次善の策として主戦場が沖縄本島南部になる予想から、民間人を北部に移動させようとします。しかし軍を信頼しきっている沖縄県民は軍と行動を共にする決意をしました。これが民間人10万人の犠牲の悲劇となります。
 ですから、軍が強制的に沖縄県民に犠牲を強いたのでは絶対にありません。当時の資料を調べれば簡単に分かる話です。沖縄戦の実態が反日左翼によっていかに歪められたか、これではお国のために死んでいった英霊も、協力した沖縄県民も浮かばれません。私は自分たちの先祖すら冒涜する沖縄左翼を絶対に許しません。
 沖縄戦は、1945年3月末米機動部隊の大空襲から始まりました。沖縄はもとより沖縄に増援を送る可能性のある九州や四国、中国地方の日本軍航空基地、戦略拠点を徹底的に叩きます。これに対し日本軍は海軍の第5航空艦隊(基地航空隊、司令部は鹿屋、宇垣纏中将)を中心に迎撃し敵空母3隻に損害を与えますが、我が方も戦力の過半数を失いました。以後、日本軍は特攻しか手が無くなります。
 1945年4月1日、ついに米軍が沖縄本島に上陸を開始します。上陸当初、日本軍の反撃が無かったので米兵は「エイプリル・フールか?」と怪しんだそうです。ところが内陸に進むにつれ激しい反撃に晒されます。劣勢の第32軍の作戦は内陸持久でした。この時反斜面陣地戦術を駆使し米軍を苦しめます。これは第32軍高級参謀八原博通大佐の考案でした。劣勢の側が取る理想的戦術だと言えます。詳しくは過去記事を参照してください。
 日本海軍も、なけなしの兵力を絞り出し菊水一号作戦と称する水上特攻を開始しました。第2艦隊(伊藤整一中将)の戦艦×1(大和)、軽巡×1(矢矧)、駆逐艦×8が、沖縄に突入し陸上砲台と化して撃ちまくるというものです。栄光の日本海軍で動ける艦艇はもはやこれだけしかありませんでした。伊藤長官は最初この無謀な作戦に大反対していたそうですが、説得に来た軍令部三上参謀の「一億総特攻のさきがけとなってもらいたい」という言葉に「それならばよく分かった」と承知したそうです。海軍でも有数の合理的頭脳の持ち主でかつては連合艦隊参謀長も務めた伊藤長官の胸中は複雑だったと思います。ただ全員を無駄に殺す事に忍びなく、伊藤長官は少尉候補生67名ほか未来を担う若者を中心に退艦させました。
 1945年4月6日、第2艦隊は徳山湾を出航します。豊後水道から九州東海岸沿いに南下、行く先秘匿のため大きく西に向かい甑列島南西に至ります。そこから南下して沖縄に到達する予定でした。ところが4月7日午前8時、第2艦隊は第58任務部隊の索敵機に発見されます。ミッチャーはすぐさま攻撃機隊を発進させ、数百機の艦載機が波状攻撃をしてきました。多勢に無勢、鹿屋や知覧の航空基地からの直掩も間に合わず空前の巨大戦艦大和は軽巡矢矧、駆逐艦4隻と共に満身創痍になりながら沈没します。伊藤長官も運命を共にしました。その位置は徳之島北方200海里、水深340mの地点です。これで日本海軍は事実上壊滅します。沖縄の第32軍も完全に孤立しました。
 それでも日本軍は、嘉数や安里52高地(米軍呼称シュガーローフヒル)の戦いで互角以上の戦いを見せ米上陸軍を苦しめました。そして6月23日沖縄本島南端摩文仁の丘に追い詰められた第32軍司令部は軍司令官牛島満中将、参謀長長勇中将が自決し組織的抵抗は終わります。その後も残存兵は終戦まで戦い続けたそうです。
 沖縄の失陥によって事実上戦争は決着します。その後8月6日広島に原爆投下、8月8日ソ連宣戦布告、8月9日長崎原爆投下でついに日本は力尽き、8月15日ポツダム宣言を受託し降伏するのです。大東亜戦争を後に侵略戦争だと非難する者がいます。しかし、本編では触れませんでしたが私はアメリカに石油を止められこのままでは戦わずして亡国となる、座して死を待つくらいならと起こしたぎりぎりの自衛戦争だったと思います。国際法では自衛戦争に宣戦布告の必要はないそうです。ということは真珠湾の騙し討ちも言いがかりになります。東京裁判でインドのパール判事が述べたそうですが「ハルノートのようなものを突き付けられたらどんな小国でも戦争を決意するだろう」という言葉が真実を語っているような気がします。

日本の戦争14  硫黄島の戦い1945年2月~3月

 マリアナ諸島失陥後、サイパン・テニアンから飛来したボーイングB‐29重爆撃機による日本初空襲は1944年11月24日でした。以後、終戦まで北海道を除く日本本土は米軍の無差別爆撃の餌食となります。軍事施設だけでなく、多くの民間人を対象とした無差別殺人(当然原爆投下も含む)はもちろん国際法違反です。しかし残念ながら世界は勝者を裁くことはできませんでした。非人道的行為を戦後処罰されたのは例外なく敗者であり、それもかなりの部分が無実だったのです。この無差別大量虐殺を指導したのは米空軍のカーチス・ルメイ少将。すべてをルメイの責任に帰すことはできませんし悪いのはそれを容認したアメリカ政府そのものですが、戦後日本は恥知らずにもルメイに対し航空自衛隊創設に貢献したとして勲章を与えるのです。昭和天皇はルメイの所業をご存じで難色を示されたそうですがアメリカとの関係悪化を恐れる政府によって強引に決められました。
 日本は遅ればせながらようやくレーダーによる敵航空機編隊の探知を始めており必死の防空戦を行いましたが、高度1万メートルを飛来するB‐29を有効に迎撃できる航空機を持っておらず苦戦します。高度1万メートルでまともに編隊を組めるのは陸軍の三式戦飛燕二型のみで、しかもわずか99機の生産では追いつくはずもありません。大半の日本軍航空機は、排気タービン(ターボチャージャー)を備えておらず、高度1万メートルではよたよたと上がって満足な行動ができなかったのです。高度6000mまでは米軍機と互角に戦える海軍の紫電改や陸軍の四式戦疾風でさえそうでした。ベテランパイロットの不足も致命的です。太平洋各地の戦闘でこれら歴戦のパイロットは数多く戦死し、日本本土は新人パイロット主力で戦わざるを得なかったのです。これも特攻を選択せざるを得ない厳しい現実の一つでした。
 といってもB-29も無傷でサイパンやテニアンの基地に帰投できるはずもなく、必死の日本軍の迎撃で少なからず被害を受けます。撃墜されなくとも、損傷した機体は途中で不時着しました。そこで米軍はサイパンと東京の中間になる小笠原諸島の硫黄島に目をつけます。硫黄島は東京の南1250km。東西6km、南北3kmのしゃもじ形をした小さな島です。平坦なため飛行場建設の適地でした。米軍は硫黄島をB-29の不時着基地とし、同時にここにP-51マスタングの護衛戦闘機基地を置く事で問題を解決しようとします。もし硫黄島が失陥すれば、米軍は長大な航続距離を誇る高性能戦闘機P-51のエスコートを受ける事が出来、日本側が迎撃がますます困難にななるのは明らかでした。
 硫黄島は日米両軍にとって非常に重要な島となります。1944年6月大本営はこの島に栗林忠道中将を赴任させました。硫黄島を守る兵力は陸軍第109歩兵師団を基幹とする1万5千5百名。これに海軍市丸利之助少将の指揮する海軍部隊7千5百名を加え、小笠原兵団が編成されます。日本軍には珍しく320㎜大型臼砲、15cm沿岸砲をはじめ噴進砲(ロケット砲)、火炎放射器に至る大小さまざまな重火器が集められました。
 まともに戦っては勝ち目が無いと悟った栗林兵団長は、硫黄島の地下に洞窟陣地を張り巡らし持久戦を戦う事を決意します。しかしその工事は難航を極めました。火山ガスが噴出し地下では60度の高温に見舞われる事もしばしば。満足な湧水もなく雨水を溜めて飲用にするという過酷な環境です。米軍が上陸した時も洞窟陣地は未完成だったそうですから、日本軍将兵の苦労がしのばれます。
 米軍は1945年2月19日上陸を開始しました。上陸に先立ってミッチャ―中将の第58任務部隊の空母群から発進した艦載機による激しい空襲を浴びます。同時に戦艦、巡洋艦、駆逐艦を総動員し艦砲射撃、輸送船団からも無数のロケット弾が島に発射されました。通常なら水際撃退をする日本軍はこれだけで壊滅的打撃を受けるはずです。ところが栗林中将は、1日でも長く米軍を引き付けるため水際撃退戦術を採用せず、敵軍を島の奥深くに誘い出し持久戦で苦しめる作戦を選びます。
 米海兵隊第5水陸両用軍団(H・スミス中将、海兵3個師団基幹、兵力7万)の将兵は、上陸した時日本軍から射撃がほとんどなかったので拍子抜けしました。ところが上陸して200mも進むと、島内各地から激しい砲撃が浴びせられ一歩も前に進む事が出来なくなります。日本軍は、島内を座標でわけ正確に射撃してきたそうです。米軍は日没までに3万名の兵力、戦車200両を揚陸しますが、すでに2420名の死者を出していました。
 夜になると、日本軍の夜襲に悩まされます。栗林戦術の特徴は日本軍の伝統であるバンザイ突撃を禁止した事です。無暗に斬り込むのではなく一人十殺を徹底しました。日本軍の持久戦に悩まされた米軍は、島の南端で最高峰(海抜167m)の摺鉢山に攻撃を集中させます。ここは海軍部隊が守っていました。重砲が集中配備されており、米軍は頭上からの砲撃で大きな被害を出していたのです。激しい攻防戦の末、摺鉢山は2月25日陥落しました。山頂で米兵が星条旗を掲げている写真は有名です。
 摺鉢山陣地の陥落で硫黄島の戦いの大勢は決しましたが、その後も日本軍は粘り強く抵抗を続け米軍が硫黄島を完全に制圧できたのは上陸から一ヶ月以上過ぎた3月26日でした。栗林兵団長の最期ははっきりしませんが、最後の突撃に同行し戦死したと伝えられます。硫黄島の戦い、日本軍は21304名と守備隊のほとんどが戦死する激戦でした。しかし、米軍にも5885名の戦死者、48名の行方不明者、17702名の負傷者が出ます。米軍の損害が日本軍を上回った唯一の戦いです。島嶼戦では孤立した守備側が大きな損害を出すのが普通でしたので、いかに栗林中将以下日本軍将兵が奮戦したか分かります。小笠原兵団は見事にその役目を果たしたと言えるでしょう。
 次回は、日本軍最後の戦い『沖縄決戦』を描きます。

日本の戦争13  レイテ沖海戦1944年10月

 サイパン、テニアン、グアムを含むマリアナ諸島の失陥は絶対国防圏の崩壊を意味しました。すでに1944年6月には支那大陸成都を基地としたボーイングB-29重爆撃機による北九州工業地帯への爆撃が始まっていましたが、今後はサイパン、テニアンを基地としたB-29による日本全土への大規模な空襲は必至となります。
 1944年9月15日にはパラオ諸島ぺリリュー島の攻防戦が始まっており中川州男(くにお)大佐の指揮する中川支隊(第14師団歩兵第2連隊基幹、兵力1万)が5万にもおよぶ米軍(第1海兵師団、第81歩兵師団)の大部隊を相手に2ヶ月に渡る激しい攻防戦を戦いました。
 ニミッツラインがマリアナから小笠原に向かうのなら、今度はマッカーサーラインの順番でした。マッカーサーラインの次の目標はフィリピンです。最初米海軍のキング作戦部長は飛び石作戦の考え方からフィリピンをスルーし台湾への上陸を提案しますが、フィリピンに特別の思い入れのあるマッカーサーに拒否されます。
 マッカーサーはまずフィリピン、レイテ島への上陸を企図します。レイテ島はフィリピン群島の中ほど東側にあり機動部隊が現在進行中のパラオ作戦とも連携でき、航空基地を建設すればルソン島への上陸支援に役立つという理由で選ばれました。米海軍は、マリアナ沖海戦を戦ったスプルーアンスの司令部を休養させハルゼーの第3艦隊を投入します。通常は隷下の機動部隊も司令部交代するはずでしたがミッチャー中将が引き続き指揮することとなり第38任務部隊と名称だけ変更しました。
 大本営は、フィリピン方面を担当する第14方面軍を編成します。司令官に選ばれた山下奉文(ともゆき)大将は制海権・制空権の問題からレイテ島に援軍を送っても無駄だと判断しルソン島への集中配備を考えました。ところが大本営は目先のレイテ島にこだわり第14方面軍にレイテ島へ増援を送るよう厳命します。その結果は当初から予想されていた通り輸送船を撃沈され数多くの日本軍将兵が海没しました。結局上陸できた部隊も重火器を海に沈められほとんど防衛力強化はできませんでした。
 海軍は、陸軍のレイテ決戦案に協力し上陸中のマッカーサー輸送船団の撃滅をすべく作戦を開始しました。まともに戦ってはハルゼーの機動部隊に全滅させられてしまいます。そこで考えられたのは日本海軍らしい複雑怪奇な作戦でした。まず小沢中将率いる第3艦隊が空母を囮にしてハルゼーの機動部隊を北方に釣り上げる。その隙に栗田中将率いる戦艦部隊を主力とした第2艦隊がレイテ湾に突入、マッカーサーの輸送船団を撃滅するというものです。ところがここでも作戦目的の不徹底からもし空母部隊を見つけたら輸送船団よりこちらを優先して撃滅して良いという中途半端な命令を下してしまいます。これが栗田艦隊謎の反転の遠因となりました。
 小沢中将は、栗田中将より先任でしたが「今回の作戦は栗田が中心だから」と自ら栗田の指揮下に入ると宣言します。生き残った機動部隊の幕僚たちは「栄光の機動部隊をそこまで惨めにする必要はないのでは?」と嘆きますが、小沢自身今回の作戦目的のためには機動部隊をすべてすり潰す覚悟でした。
 ハルゼーの機動部隊は第38任務部隊(ミッチャ―中将指揮)が空母×15、戦艦×6、重巡×4、軽巡×8、駆逐艦×58という膨大なものでした。それ以外に輸送船団護衛の第77任務部隊(キンケイド中将指揮)の護衛空母×6、戦艦×6、重巡×4、軽巡×4、駆逐艦×24、護衛駆逐艦×5、魚雷艇×39という有力な部隊も編入されています。
 これに対し日本海軍は、小沢中将指揮の第3艦隊が正規空母×1(瑞鶴)、軽空母×3(千代田、千歳、瑞鳳)、航空戦艦×2(伊勢、日向)、軽巡×3(多摩、五十鈴、大淀)、駆逐艦×9というかつての機動部隊の栄光から見るとさびしい陣容でした。一方栗田中将の第2艦隊はさすがに大日本帝国海軍の最後を飾るにふさわしい編制です。具体的に記すと
◇第2艦隊(司令長官:栗田中将)
◆第1遊撃部隊(栗田中将直率)
 第1戦隊  戦艦×3(大和、武蔵、長門)
 第4戦隊  重巡×4(愛宕、高雄、摩耶、鳥海)
 第5戦隊  重巡×2(妙高、羽黒)
 第2水雷戦隊 軽巡×1(能代)、駆逐艦×9
 第3戦隊  戦艦×2(金剛、榛名)
 第7戦隊  重巡×4(熊野、鈴谷、利根、筑摩)
 第10戦隊 軽巡×1(矢矧)、駆逐艦×6
 第2戦隊(西村祥治中将)  戦艦×2(扶桑、山城)、重巡×1(最上)、駆逐艦×4
◆第2遊撃部隊(志摩清英中将)
 第21戦隊 重巡×2(那智、足柄)
 第1水雷戦隊 軽巡×1(阿武隈)、駆逐艦×4
 御覧の通り日本海軍総力を上げたものでした。この作戦は「捷一号作戦」と命名されます。フィリピンの基地航空隊も水上部隊の突撃に合わせ総力を上げて支援します。この時初めて神風特別攻撃隊が作られました。小沢の第3艦隊は瀬戸内海柱島から、栗田艦隊はブルネイから出撃しフィリピンの広大な海域を舞台に戦う事となります。
 1944年10月17日米軍はレイテ島への上陸を開始しました。日本海軍の作戦は最初から無理なものでしたが、はやくも暗雲が立ち込めます。ブルネイを出撃した栗田艦隊の旗艦愛宕がパラワン水道で米潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈されたのです。艦隊司令部は戦艦大和に移乗しますが、ここにはすでに宇垣纏中将の第1戦隊司令部がありぎくしゃくした関係となります。両司令部は同じ艦橋にありながら連絡も不十分だという状態でした。24日、栗田艦隊はようやくパラワン水道、スリガオ海峡を抜けシブヤン海に入ります。
 その頃、小沢第3艦隊はハルゼーの機動部隊を引きつけつつありました。10月24日11時30分、なけなしの攻撃機隊が米機動部隊を攻撃すべく発進します。零戦40機、爆戦28機、彗星艦爆6機、天山艦攻2機です。このほか陸上基地からも航空攻撃が繰り返されました。栗田艦隊をある程度叩いていたハルゼーは、小沢艦隊を日本海軍の主力と考え今度こそ日本機動部隊の息の根を止めようと北上します。
 当時の海軍の常識として空母を囮にすることなど考えられなかったからです。それだけ日本軍が追い詰められていたとも言えます。小沢中将はハルゼーを引き付けるためわざと平電で連絡していました。まんまと騙されたハルゼーは小沢艦隊に攻撃を集中させ、そのために貴重な正規空母「瑞鶴」はじめすべての空母と軽巡多摩、駆逐艦2隻を失います。小沢長官は「我敵機動部隊北方釣り上げに成功せり」と栗田艦隊に悲痛な電文を打電しました。ところがこの電文はなぜか栗田艦隊司令部には伝わらず、栗田中将は最後までハルゼー機動部隊の位置が分からぬまま作戦行動し続け、これもまた神経をすり減らし謎の反転の遠因になったと言われます。

 ハルゼーの機動部隊主力はレイテ島の北東沖に去りましたが、まだまだ護衛空母17隻の巨大な航空戦力は残されており栗田艦隊は連日猛爆撃に悩まされます。10月24日、戦艦武蔵が米艦載機の集中攻撃を受け沈没、25日未明には西村艦隊がスリガオ海峡海戦でオルデンドルフ少将率いる米艦隊と遭遇し全滅しました。志摩艦隊も連日の戦闘で軽巡阿武隈と2隻の駆逐艦を失います。

 
 満身創痍の栗田艦隊は、10月25日サンベルナルジノ海峡を抜けサマール島沖に到達しました。栗田艦隊の戦力は戦艦×4、重巡×6、軽巡×2、駆逐艦×11にまで減少します。その時水平線上にマストを発見しました。これはスプレイグ少将第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(護衛空母×6、駆逐艦×3、護衛駆逐艦×5)でしたが、栗田艦隊はハルゼー機動部隊主力の正規空母だと誤認し砲撃を開始します。2時間の戦闘で敵護衛空母1隻、駆逐艦2隻を撃沈し2隻の護衛空母にも損傷を与えました。ところが米艦隊はスコールに紛れ逃亡します。
 分散した艦隊を纏めた栗田中将は本来の目的であるレイテ湾突入を命じました。すると南西方面艦隊司令部から「栗田艦隊の北100キロの地点に敵機動部隊が存在する」という電文が入ります。実は、南西方面艦隊はこの電文を発しておらず誰の仕業か謎になっています。私は米軍による謀略ではなかったかと睨んでいます。
 先のサマール沖海戦で敵正規空母を討ち漏らしたと痛恨の念を抱く栗田中将はこの電文を信じ、存在しない敵機動部隊を目指し再び北上しました。これが後世「栗田艦隊謎の反転」と呼ばれる事件です。私の個人的考えでは、17万にも及ぶ米軍レイテ上陸部隊を満載した敵輸送船団を叩くのが優先だったとは思います。しかし、ハルゼー機動部隊の位置を最後まで分からず行動し神経をすり減らしていた栗田中将の判断を責めることはできないと考えるのです。そもそも最大の問題点は複雑な作戦で作戦目的を徹底させなかった海軍軍令部エリート参謀の責任だと思います。無理な作戦はいずれどこかで破綻するものです。日本軍の悪癖である複雑な作戦が一番の敗因だったのでしょう。
 栗田艦隊の北上によって戦機は去りました。日本海軍は大きな犠牲を払いながらも制空権・制海権を奪えずレイテ島は孤立します。第14方面軍はレイテ島の第35軍に5個師団(1、16、26、30、102)と1個旅団を送り込みますが、8万4千の全兵力のうち実に7万9千という夥しい戦死者を出しました。しかもかなりの数が、上陸すらできず海没します。であるなら、最初から山下大将の主張通りルソン島へ集中配備すべきだったと思います。そうすれば史実以上の損害を米軍に与えもしかしたら沖縄戦は無かったかもしれないのです。
 レイテ島への戦力の増援はいたずらに犠牲者を生みだすだけでした。戦力の逐次投入という兵家のもっとも忌む行動を繰り返し続けた愚かな大本営のエリート参謀たち。山下大将ら現場のベテラン指揮官たちはどのように感じたでしょうか?しかし悲しいかな軍隊は最高司令部の作戦通りに動かざるを得ないのです。沖縄戦でもこの愚行は繰り返されます。
 レイテ島の日本軍が組織的抵抗を止めたのは1945年1月。その後も残存部隊は終戦まで戦い抜きました。米軍がルソン島に上陸を開始したのは1945年1月9日。レイテ島の戦いで有力部隊を数多く引き抜かれた第14方面軍に残された戦法は持久戦しかありませんでした。そして第14方面軍は大きな犠牲を出しながらも終戦まで戦い続けます。米軍はマニラやクラークフィールドなど重要拠点を占領すると、掃討作戦より硫黄島、沖縄への侵攻を優先させました。日本本土へと戦いの主舞台は近付きつつあります。次回は硫黄島の戦いを描くこととしましょう。

日本の戦争12  マリアナ沖海戦1944年6月

 ガダルカナル島を巡る戦いに敗れソロモン群島やニューギニア各地でアメリカ軍の猛攻を受ける日本軍。島嶼部では孤立した守備隊がマキン・タラワやアッツ島に始まる凄惨な玉砕戦を繰り広げていました。ミッドウェー海戦で虎の子の正規空母4隻を失った日本海軍は、2年を掛けて空母機動部隊の再建に力を入れます。ところが、ベテランのパイロットはラバウルの航空消耗戦に引き抜かれ新人パイロットの教育もままならず再建は遅々として進みませんでした。肝心の正規空母も装甲空母「大鳳」が1944年3月に竣工したばかり。改飛龍型の「雲龍型」はまだ建造中(「雲龍」「天城」は1944年8月竣工、「葛城」が1944年10月竣工、「笠置」は84%完成状態で戦後解体)、大和型戦艦から改装した「信濃」も1944年11月就航でマリアナ沖海戦には間に合いませんでした。
 何よりの問題は、空母に着艦できるベテランパイロットが少ないのと搭載する航空機の不足です。航空機とパイロットは今現在航空消耗戦を戦っているラバウルが優先で、いつ動くか分からない機動部隊に回す余裕は無かったのです。アメリカ軍がパイロットを戦場と後方勤務でローテーションさせ、後方で新人パイロットの教育をさせていたのとは雲泥の違いです。改めて日米の国力の差を思い知らされますね。
 ちなみに、このローテーション制度は機動部隊の指揮スタッフにも適用され、同じ艦隊をハルゼー中将が指揮する場合は第3艦隊、スプルーアンス中将が指揮する場合は第5艦隊と呼びました。隷下の機動部隊もハルゼーの時はシャーマン少将が担当して第38任務部隊と呼び、スプルーアンスの時はミッチャ―少将が指揮し第58任務部隊と呼びます。ですから第38任務部隊と第58任務部隊は指揮スタッフが違うだけで同じ艦隊です。機動部隊が58個あったわけではないので誤解しないように。
 日本の厳しい実情は、本来格納庫面積から75機搭載できるはずの「大鳳」にわずか53機しか搭載できなかった事からも分かります。しかも中には発艦はできても着艦はできないという新人パイロットまでいたそうですから絶望的です。
 大本営は、ガダルカナル戦敗北を受け1943年9月30日「絶対国防圏」を策定しました。日本と南方資源地帯、それを結ぶフィリピン、内南洋の防備を強化し戦略的持久しようという考えです。そのためにはサイパンとパラオの要塞化が絶対条件でした。しかし、本来なら内南洋の要塞化は開戦初頭から考えておくべきだったと私は思います。どうせ日本の国力からハワイ占領はできても維持できない(通商破壊でぼろぼろになる)し、唯一のチャンスはインドを攻略してイギリスを戦争から脱落させる事だけでしたが、インド洋海戦で英東洋艦隊主力を捕捉できなかった時点で夢と終わりました。
 とすれば、いずれ日本軍の攻勢は攻勢終末点を越えて頓挫しアメリカ軍の反攻に晒されることは必定。あとはアメリカ軍に多大の出血を強い万に一つの講和の機運を掴むしかありません。それ以外には勝たないにしても負けを少しでも少なくする方法はなかったように考えます。ですから戦争の先行きが読める人間なら一刻も早く内南洋の要塞化を実行すべきでした。ところが日本軍の悪癖として攻撃に関する意見は称賛されても、防御に関しては「戦意なし」として逆に非難される風潮がありました。それがサイパンやパラオの防備の遅れとなったのです。
 マリアナ沖海戦は、サイパン・グアムを含むマリアナ諸島を攻略しようと来襲した米機動無隊と、それを阻止しようと立ちふさがった日本機動部隊の間で戦われました。日本海軍機動部隊は、ようやく航空戦の第一人者小沢治三郎中将が指揮するようになりました。それまでは先任主義で出世が遅れたのです。有能な人物を抜擢したアメリカ軍との顕著な違いです。非常時には先任とか先例などと言っている場合ではありません。負ける組織は負けるべくして負けたと言えるかもしれませんね。
 日本海軍の総力を挙げた第1機動艦隊の陣容は次の通り。
◇第1機動艦隊(司令長官:小沢治三郎中将)
◆第1航空戦隊 正規空母「大鳳」「瑞鶴」「翔鶴」
◆第5戦隊    重巡「妙高」「羽黒」
◆第10戦隊   軽巡「矢矧」駆逐艦「霜月」
           駆逐艦「朝雲」「浦風」「磯風」「雪風」「初月」「若月」「秋月」「五月雨」
◆第2航空戦隊 正規空母「隼鷹」「飛鷹」軽空母「龍鳳」戦艦「長門」重巡「最上」
◆第4駆逐隊  駆逐艦「野分」「山雲」「満潮」
◆第27駆逐隊 駆逐艦「時雨」「浜風」「早霜」「秋霜」
このほか栗田健男中将指揮する戦艦「大和」「武蔵」を中心とする艦隊も前衛部隊として参加します。日本海軍は、小沢機動部隊の航空戦力だけでは不安を感じ、テニアン島に司令部を置く角田覚治中将指揮の基地航空隊第1航空艦隊を今作戦に編入しました。
 米海軍は、ミッチャ―提督を司令官とする第58任務部隊を投入します。その戦力は搭載機891機、正規空母×7、軽空母×8、戦艦×7、重巡×8、軽巡×12、駆逐艦×67という史上空前の大機動部隊です。まともに戦っては勝てない事を小沢長官は痛感していました。そこで、日本機の長大な航続力を生かし敵機動部隊の行動半径の外から第一撃を加える、いわゆる「アウトレンジ戦法」を考えます。
 1944年6月13日、米機動部隊はサイパンに艦砲射撃を浴びせました。6月17日、囮の栗田艦隊に米機動部隊の航空攻撃を集中させその後方から我が軍の航空攻撃で叩こうとします。ところがレーダーで日本航空部隊の接近を知った米機動部隊は、直掩のF6Fヘルキャット数百機を飛ばし待ち構えました。決戦開始は6月19日早朝です。
 マリアナ作戦を担当する米第5艦隊の総司令官はスプルーアンス大将(1944年2月昇進)でした。小沢は、慎重なスプルーアンスの性格から上陸地点を空にするはずがないとサイパン近海に敵機動部隊は居ると読みます。結果的にその判断は正しく、実は敵機動部隊を先に発見したのは日本の方でした。戦後、スプルーアンスも小沢のアウトレンジ戦法の可能性を認めています。しかし、勝敗を分けたのは科学力の差でした。
 小沢艦隊は、第一波の零戦14機、爆戦(零戦六二型)43機、艦攻7機を先陣とし第二波、第三波と波状攻撃を掛けました。これに基地航空隊を加えれば勝てると読みます。が、レーダーによって日本の攻撃機隊接近を知った米軍は待ち構えて迎撃し「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されるほどの一方的虐殺となりました。そればかりか、スプルーアンスは部下のミッチャ―に対し日本軍が反復攻撃できないようマリアナ各地の日本軍航空基地への空襲を命じました。
 小沢艦隊はわずか1日で航空機243機喪失という壊滅的打撃を受けます。そればかりか米潜水艦の魚雷攻撃で空母「大鳳」「翔鶴」を失いました。小沢中将はマリアナ失陥が即日本敗北につながるとい危機感から満身創痍にもかかわらず戦意を失いませんでした。6月20日日没前、小沢艦隊の上空に米艦載機216機が来襲します。生き残った隼鷹、飛鷹の活躍で米軍機100機を撃墜するという殊勲を上げますが、その代償は正規空母「飛鷹」喪失という痛いものでした。
 事実上、マリアナ沖海戦の敗北で栄光の日本機動部隊は滅びます。まだ正規空母「瑞鶴」が生き残っていますが17隻も竣工した米海軍のエセックス級空母の前では蟷螂の斧にしかすぎなくなりました。マリアナ沖海戦の敗因は、
①レーダーなど科学力の差
②パイロットの訓練不足
③部隊間の相互連絡不足
④潜水艦に対する備えの欠如
などが上げられると思います。特に大鳳と翔鶴が航空攻撃でなく潜水艦の雷撃で撃沈されたのは致命的です。
 制海権、制空権を失った日本軍守備隊は1944年7月7日サイパンで玉砕します。7月18日、絶対国防圏の重要拠点サイパン失陥を受け東条内閣総辞職。小磯内閣が成立します。サイパンではかつての機動部隊司令長官から陸戦隊を指揮して戦った南雲忠一中将が自決しました。そしてテニアンでも8月1日、日本有数の航空指揮官で勇猛果敢でも知られた名将角田覚治中将も陸軍部隊と運命を共にします。
 サイパン、テニアンの失陥で日本本土はB-29による空襲圏内に入りました。しかし戦争はまだ終わりません。次の戦いは比島決戦でした。次回、レイテ沖海戦を描きます。
 

日本の戦争11  インパール作戦1944年3月~1944年7月

 ガダルカナル島を巡る日米の戦いは大東亜戦争の帰趨を決する重要なものでした。この戦いに敗北した日本は、攻勢に転じたアメリカ軍の攻撃を防ぐ一方になります。アメリカ軍は日本を攻めるために二つの攻勢軸を決めました。一つは太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将の指揮する米海軍・海兵隊を中心とするソロモン群島→内南洋→マリアナ諸島→小笠原諸島→日本本土へと向かうニミッツライン。もう一つは南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将が指揮する米陸軍を軸としニューギニア→フィリピン→台湾→沖縄→日本本土へと向かうマッカーサーライン。
 どちらか一本だけでも日本の国力で防ぎきるのは不可能でした。それが二本もあるのはアメリカの国力を見せ付けられたようです。日本が早急にしなければならないのは南方資源地帯と日本本土を結ぶフィリピンと内南洋の防備強化、具体的にはサイパンとパラオの要塞化でした。にもかかわらず日本陸軍は致命的な失策を犯します。インパール作戦です。
 インパール作戦に入る前に、此処に至る戦争の経過を述べましょう。
1943年4月18日 連合艦隊司令長官・山本五十六大将、ブーゲンビル島上空で視察中待ち伏せを受け戦死。
1943年5月29日 アッツ島守備隊玉砕
1943年7月29日 キスカ島撤退作戦
1943年11月23日 マキン島、タラワ島守備隊玉砕
1944年2月6日 クェゼリン島日本軍守備隊玉砕
1944年2月17日 トラック環礁空襲、日本軍艦艇・航空機多数損害
 日本軍は、太平洋方面各地でアメリカ軍の攻勢を受け苦しい戦いをしていました。ビルマ方面では1942年5月にようやくビルマ国内から連合軍を駆逐していたものの、インド北東部アッサムからビルマ北部フーコン谷地を通って雲南に至る援蒋ルートは健在で、アメリカはこの拡大すら計画します。インド領に逃げてきた蒋介石の国府軍兵士に米式装備を与え訓練した米式中国軍を編成しこの方面に投入してきました。またイギリスの特殊部隊ウィンゲート旅団もビルマ北部に跳梁跋扈しビルマ方面軍は対応に苦慮します。
 ビルマ西部防衛を担当する第15軍司令官牟田口廉也中将は、この難問を一気に解決する手段として日本軍がインド北東部に進出しここを占領すれば援蒋ルートの根本を断つ事が出来、蒋介石の国民政府を戦争から脱落させる事が出来ると考えます。そうなれば支那戦線に張り付いている50個師団を他方面に振り分ける事も可能で太平洋方面の軍事力強化にもつながるという主張でした。
 たしかにそれが可能なら理想的です。しかし地図を見てもらうと分かる通りビルマからインド北東部に入るにはビルマ有数の大河チンドウィン河を越えなければならないしさらにその先には6000m級の山々がつらなるアラカン山系が待ち構えます。道路など無きに等しいのでまず補給が困難でした。牟田口中将はジンギスカン作戦と称し羊や牛を連れていけば食料の問題は解決するし武器弾薬は敵から奪えば良いと豪語します。
 当然、ビルマ方面軍はもとよりその上級組織南方総軍、大本営もこんな無茶な作戦の許可は降りませんでした。しかし当時の陸軍(海軍も?)の悪習として積極的作戦には心情的に反対し辛いのです。牟田口は、東条首相や南方軍の寺内元帥、ビルマ方面軍の川辺正三(まさかず)中将などに心情的に訴え強引に作戦の許可を得てしまいます。第15軍参謀長小畑少将やビルマ方面軍の参謀が反対するとこれを更迭させるという強硬手段にさえ出ました。
 第15軍隷下の第31師団(烈兵団)佐藤幸徳中将は「作戦において十分な補給は得られるのか?約束できなければ作戦遂行は確約できない」と強硬に詰め寄りますが、逆に牟田口に戦意なしと叱責されるほどでした。佐藤師団長だけでなく第15師団の山内中将、第33師団の柳田中将もインパール作戦に反対します。近代戦の指揮官としては当然です。牟田口は軍司令官権限で強引にインパール作戦を実行させました。
 作戦計画はこうでした。第31師団(烈兵団)は北方ルートを進みインパールの北にある要衝コヒマを占領し英印軍の増援を防ぐ。第15師団(祭兵団)は中央ルートからインパールに突入。第33師団(弓兵団)は南方ルートからインパールに進撃し英印軍をインパールで包囲殲滅する。
 作戦は、1944年3月8日開始されました。日本軍はインド独立運動家チャンドラ・ボースにインド国民軍を編成させ第15軍に同行させます。しかしすべては泥縄でした。チャンドラ・ボースを利用するならもっと初期、海軍がインド洋作戦を実行した後。英東洋艦隊を殲滅した直後にインドへ侵攻すべきでした。そうすれば英印軍のインド人兵士の動揺を誘えるし、もしかしたら民衆を蜂起させインドを占領する事も可能だったかもしれません。ところが、日本の戦局が傾き始めた今は、インド侵攻よりビルマ防衛強化を図るべきだったと考えます。地形をみると英印軍のビルマ侵攻もアラカン山系越えは不可能、海上からの上陸作戦しかありません。防衛だけならビルマ方面軍は十分な兵力を持っていました。
 行軍の困難は最初から予想されていた通りでした。泥濘の悪路に嵌り重砲はすべて捨てなくてはならなくなります。牛や羊は、アラカン山系の崖で数多く死に期待された食糧確保の道は閉ざされました。牟田口は隷下部隊にわずか3週間分の食料だけを与えたのみでした。佐藤・烈兵団長が厳しく履行を要求した補給は実行されず、これがのちの抗命事件の遠因となります。
 それでも烈兵団は、歩兵団長(3個歩兵連隊基幹)宮崎繁三郎少将の活躍で4月6日コヒマ占領を実現しました。牟田口軍司令官は、この報告に狂喜し「引き続きディマプールに進撃すべし」と命じます。ディマプールは援蒋ルートの出発点となる要地です。しかしこれは最初の作戦計画には無かったものでした。補給もなく非常な困難の末コヒマ占領を果たした第31師団将兵は牟田口軍司令官への不信感を強くします。
 第15師団、第33師団もインパール市街を臨む周辺要地を占領し英印軍をインパールに包囲しました。ところがここで補給が尽きます。一方、英印軍は多数の輸送機によるピストン輸送で補給線を維持し包囲される側より包囲する側が飢え始めるという奇妙な現象が出現しました。
 インパール防衛を担当する第14軍司令官スリム中将は、増援を送りコヒマ方面の圧力を強化します。コヒマの第31師団は、西方山岳地帯で一進一退の攻防を続けますが、弾薬も食料も尽きこれ以上の継戦が物理的に不可能となりました。佐藤幸徳師団長は、軍司令部に「約束した補給はいつ来るのか?補給がこない場合は独断で撤退する事もあり得る」という最後通牒を牟田口軍司令官に付きつけました。牟田口がこれを無視したため、歴史に残る抗命事件を引き起こすのです。佐藤師団長は独断で撤退を命じました。佐藤中将は軍法会議で牟田口の無謀と無能を訴え共倒れしようという覚悟でした。部下の将兵を守るためのぎりぎりの決断だったと思います。しかし、撤退戦は侵攻戦より困難です。佐藤師団長は部下の宮崎歩兵団長に殿軍を命じました。
 宮崎少将は嫌な顔一つせずこれを承知します。そして隷下の部隊を巧みに指揮し困難な撤退戦を戦い抜きまました。宮崎少将の戦法は部隊を二つに分け一方が防いでいる間にもう一方が後方に陣地を築き交互に撤退するというものでした。この方法で数十倍の敵軍の攻撃を二週間防いだそうですから驚嘆します。
 同じころインパール南方で飢餓に苦しむ第33師団の柳田師団長も軍司令部に撤退の許可を求めました。これが牟田口軍司令官の逆鱗に触れ佐藤、山内、柳田の三師団長が作戦中に更迭されるという前代未聞の状態に陥ります。牟田口は、このころ安全な後方で芸者遊びをしていたそうですからその無責任さにはあきれ果てるしかありません。
 インパール作戦は第31師団(烈兵団)の独断撤退で事実上崩壊しました。ビルマ方面軍司令官川辺中将はこの事態を受け南方総軍に作戦中止の許可を訴え、7月4日ようやくそれが認可されました。こうなると諦めの悪い牟田口第15軍司令官も渋々承知せざるをえません。こうして歴史に残る愚かな作戦インパール作戦は中止されました。が、日本軍は撤退戦でも英印軍の追撃を受け大きな損害を出します。いや、戦闘よりも飢餓とマラリヤなどの風土病で倒れたものが数倍しました。撤退路は白骨街道と呼ばれるほど夥しい日本兵の死体が連なったと言います。参加将兵8万、そのうち死者行方不明者6万という惨憺たる結果に終わりました。
 日本軍は、インパール作戦の責任者をどのように処分したでしょうか?軍法会議を覚悟した佐藤師団長は心神耗弱状態だと診断され陸軍病院に強制的に入れられました。もし軍法会議に掛かれば東条首相以下牟田口中将の作戦案を許可した軍幹部全体に責任が及ぶからです。牟田口本人も軍司令官を解任され予備役編入されるという軽い処分でした。こういう陸軍上層部の無責任体制の犠牲になって死んでいった将兵の事を思うと、やりきれない気持ちになります。
 インパール作戦の崩壊で、ビルマ方面の防衛は著しく困難になりました。逆に英印軍は攻勢を強めイラワジ会戦で全戦線が崩壊ビルマ失陥に繋がります。

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