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2016年1月

2016年1月14日 (木)

ドイツの戦争Ⅲ  フランス侵攻作戦

 1939年第2次世界大戦勃発、ポーランド、北欧と戦場は移り次はフランスだと誰もが思っていました。ところがナチスドイツはフランスへの直接侵攻をなかなか実行に移さず、英仏も逆侵攻などまったく考えないようにひたすらドイツ領への空爆を繰り返すのみでした。
 人々はこの状況をさして『いかさま戦争』(Phoney War)と呼びます。しかしそうなった理由はドイツ軍が第1次世界大戦のような泥沼になるのを恐れたからでした。フランス侵攻までの独仏両国の状況を記しましょう。
 まずフランスは、第1次大戦で自国が戦場になり多くの被害を出した反省から巨額の国家予算を費やし独仏国境にマジノ線という要塞ラインを築きます。そのため他の地上部隊と空軍にしわ寄せが行き機動性に欠いた軍隊となっていました。
 実は当時のフランス軍は、戦車にしても戦闘機にしてもドイツ軍より高性能の物を持っていましたがマジノ線に頼り切っていたために機動的に集中運用するという思想がありませんでした。海軍だけはドイツ軍より優勢でしたが独仏戦では海上戦は脇役であまり意味がなかったのです。
 一方、ドイツはというとこちらもマジノ線攻略を苦慮していました。最初参謀本部はヒトラー総統に第1次大戦のシュリーフェン・プランの焼き直しのような作戦案を提出しますがヒトラーは再び泥沼の陣地戦になることを恐れ不満を示します。するとドイツ参謀本部の俊英、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン少将から新しい参戦案が提出されました。
 マンシュタインの作戦計画は、マジノ線が切れているアルデンヌの森林地帯を機甲部隊で突破し戦略的奇襲でフランス軍を圧倒し包囲殲滅するというものでした。当時アルデンヌの森は機甲部隊の突破が不可能だとされ予算に限りがあるフランス軍もここは要塞線の空白地帯にしていたのです。マンシュタインは現地調査で機甲部隊の突破は可能だと判断します。
 マンシュタイン計画は、西部国境に集結させた89個師団を北からB軍集団、A軍集団、C軍集団に分け、まずC軍集団がマジノ線でフランス軍と対峙。B軍集団はオランダ、ベルギーの低地諸国を席巻。主攻のA軍集団がアルデンヌの森を一気に突破し連合軍の戦線を南北に分断、包囲殲滅するという野心的な作戦です。
 ヒトラーは、この作戦案を気に入ります。そしてこの瞬間フランスの敗北は決定しました。両軍の戦力は、まずドイツ軍が兵員335万、火砲7378門、戦車2445両、航空機5638機。英仏連合軍は兵員330万、火砲13947門、戦車3384両、航空機2935機とほぼ互角。作戦の優越が勝敗を左右するはずです。
 1940年5月10日、北方のB軍集団は空挺部隊による奇襲攻撃を多用しロッテルダム爆撃など空陸から激しく攻め立てます。たまらずオランダが5月14日降伏。ベルギーも5月28日には降りました。A軍集団は敵に悟られる事なくアルデンヌの森を突破、予想通りこの方面には英仏軍はほとんど配備されていませんでした。無人の野を行くドイツ軍は、機甲部隊が突破し空中から急降下爆撃機Ju87スツーカが空の砲兵として支援するという理想的電撃戦を演じます。
 フランスは優秀な空軍を持っていましたが、兵力の逐次投入で制空権を奪う事が出来ずなすすべもなく敗れました。A軍集団は、マジノ線方面のフランス軍主力には見向きもせずイギリス海峡方面への突破を最優先します。英仏軍は、A軍集団の急速な進撃で敵中に孤立する事を恐れ英仏海峡方面に撤退しました。
 5月19日、A軍集団の先頭を行く第2装甲師団がついにドーバー海峡に到達。これによりベルギー方面に進出していた英仏連合軍は孤立します。英仏軍はベルギー国境に近いフランス北西の町ダンケルクに追い詰められました。
 このまま攻撃すれば英仏軍の全滅は必至です。ところがここでヒトラーから突然攻撃停止命令が下ります。これには空軍総司令官のゲーリングが「空軍のみで連合軍を撃滅できる」と豪語したという説、あるいはヒトラー自身が貴重な機甲部隊に損害が出る事を恐れたという説など古来さまざま言われています。ただ戦闘の実態を見てみると、機甲部隊が想像を超えて急進撃し過ぎ、補給が追い付かず再編成の必要があったというのが実情みたいです。
 結局貴重な時間を浪費したドイツ軍は、英仏連合軍を取り逃がす事になります。イギリスは本国艦隊の全力を挙げて海路からの撤退を支援しました。この時重い兵器はすべて遺棄し兵士のみを輸送船で救出しますが、その判断は正解でした。兵器はまた生産すれば済みますが、兵士は生まれ変われませんから。この時連合軍将兵34万がイギリスへ脱出に成功します。
 ダンケルク包囲戦が終わり、ドイツ軍は再び進撃を開始します。6月10日フランス政府はパリを無防備都市宣言しボルドーに脱出。同日イタリアがフランスに宣戦布告します。ところが火事場泥棒で美味しいところをさらおうとしたイタリア軍は、アルプスの少数のフランス守備隊に敗北するという醜態をさらしました。6月14日ドイツ軍パリ無血入城。6月21日ペタン元帥を首班とするフランス政府はドイツに休戦を申し込み降伏しました。
 世界列強の一角であるフランスがわずか1カ月余りの戦闘で降伏した事は世界に衝撃を与えます。フランス敗北の原因はマジノ線に頼り過ぎた硬直した作戦プラン、国民と軍の戦意不足、それにともなう兵力の逐次投入、分散しほとんど力を発揮できなかった戦車部隊など大国が負ける時はこうなるという見本のようなものでした。そして同時に電撃戦ドクトリンとマンシュタイン計画というドイツの作戦勝ちの面も大きいと思います。
 ただし電撃戦は、フランスのように道路網や鉄道網が網の目状に整備された近代国家でしか成立せずロシアのような泥濘に苦しめられる土地では通用しないドクトリンです。また十分な補給の得られない北アフリカでも同様でした。そしてドイツは得意の機甲戦術を発揮できない戦場へと向かいます。次回は、名将ロンメルの活躍する北アフリカ戦線を描きましょう。

ドイツの戦争Ⅱ  ヴェーゼル演習作戦

 『ヴェーゼル演習作戦』とは、ドイツ軍によるデンマーク、ノルウェー侵攻作戦のことです。何故この地域への侵攻作戦が企画されたかというと、軍事的経済的意味があったからです。
 ドイツが戦争遂行するために重要な物の一つとして中立国スウェーデンの鉄鉱石がありました。夏の間はバルト海を通じて交易できましたが、冬季は凍結により利用できず隣国ノルウェーのナルヴィク港まで一旦鉄鉱石を送りそこから積み出してドイツ本国に持ってきていました。当然、イギリスはこれを妨害するでしょう。豊富な鉄鉱石を常時手に入れられないという危険性はドイツの戦争遂行上問題でした。
 同時に、対イギリスの通商破壊戦からもフィヨルドの続くノルウェーの海岸線は魅力があります。デンマークはノルウェーへの通り道であるとともに、ここを抑えないとドイツの内海とも言うべきバルト海に強力なイギリス海軍が入ってくるので重要でした。デンマーク、ノルウェー侵攻作戦は海軍の発案であり、強力な提唱者でもあったのです。
 1940年4月2日、ヴェーゼル演習作戦は発動します。同じころイギリスもドイツを戦略的に追い詰めるためノルウェー進出作戦(一応ノルウェーは連合国)を計画中で、間一髪ドイツが先んじることができました。デンマークに対するヴェーゼル南作戦は簡単でした。デンマーク自体小国でろくな軍隊を持っておらずドイツ軍は空挺部隊で要地を占領し、首都コペンハーゲンにも機雷敷設艦で直接1000名の歩兵を上陸させます。デンマーク政府は降伏し戦闘開始からわずか6時間で終了します。
 問題はノルウェーに対するヴェーゼル北作戦でした。海を渡って陸軍部隊を送らなければいけない事。強力なイギリス海軍の妨害は必至であること。作戦の成否は時間との勝負です。イギリス軍が本格的に介入する前に占領しないと補給線を断たれ失敗します。
 陸軍は、ノルウェーを攻略するためファルケンホルスト大将の第21軍団(5個歩兵師団、1個山岳師団)を編成します。作戦の提唱者である海軍は全力を上げてこれをバックアップしました。巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウ、重巡洋艦アドミラル・ヒッパー、ブリュッヒャー、ポケット戦艦リュッツォウはじめ軽巡×4隻、駆逐艦×14隻など多くの主力艦が参加します。空軍も戦闘機100機、爆撃機330機、輸送機500機を投入しました。
 イギリスは、スカパフローを基地とする本国艦隊から戦艦ウォースパイト、巡洋戦艦レナウン、空母フューリアスを含む艦隊が出動しナルヴィク沖に集結します。まともにぶつかっては勝てない事から、ドイツ海軍は巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウを囮に使いました。まんまと騙されたイギリス艦隊はこれを追撃しグナイゼナウに損傷を与えます。ところがその隙にドイツ軍の上陸部隊はナルヴィク上陸に成功、占領しました。
 4月13日、イギリス海軍は戦艦3隻、巡洋戦艦2隻、空母1隻を含む大艦隊をナルヴィク近海に出動させドイツ海軍を駆逐します。ナルヴィク上陸のドイツ軍部隊は一時孤立しました。イギリス陸軍も劣勢のノルウェー軍を助けるため上陸、各地でドイツ軍部隊と戦います。ドイツ軍はノルウェー南部から主力部隊を上陸させ首都オスロを制圧、北上し順次沿岸の上陸部隊と合流、数で連合軍を圧倒しました。海上では優勢なイギリスでしたが、地上戦で劣勢になったため上陸部隊を引き揚げさせます。ドイツ軍は占領したデンマークやノルウェー南部に空軍部隊を進出させたため勝負ありました。
 ノルウェー侵攻開始が4月9日、完全占領が6月10日、その間ドイツ海軍は少なくない損害を受けます。しかし、最終的にノルウェーはドイツ軍の手に落ちファルケンホルストの第21軍団が1940年末に第21軍に再編成され敗戦まで保持し続けました。以後この地域は主戦場になる事はありませんでしたが、海軍と空軍はノルウェーを出撃拠点としてバトルオブブリテン、大西洋の通商破壊戦を遂行しました。
 後顧の憂いをなくしたドイツ軍は、いよいよその矛先をフランスへ向けます。次回はフランス侵攻作戦を描きましょう。

ドイツの戦争Ⅰ  ポーランド電撃戦

 序章で政治面からドイツの動きを見てきましたが、軍事面ではどうだったでしょうか?海軍・空軍・陸軍それぞれを見てみましょう。
 まず、海軍は第1次大戦敗戦で巨大なドイツ大海艦隊を解体させられ旧式の装甲艦6隻、巡洋艦6隻、駆逐艦12隻、魚雷艇12隻に保有を制限されます。1935年再軍備宣言で本格的海軍の建設を目指しますが、イギリスの圧力で1935年英独海軍協定を結ばされ英海軍の35%の艦艇しか保有を許されませんでした。1938年、この状況に我慢できない海軍はZ計画という大艦隊整備計画を打ち出します。H級戦艦6隻、O級巡洋戦艦3隻、航空母艦2隻をはじめとする大規模な整備計画で完成すれば列強に伍する海軍が誕生するはずでした。
 しかし艦船建造には時間がかかるもので、第2次世界大戦勃発のためにZ計画は夢想に終わります。ドイツ海軍も現状はしっかり認識しており、主力艦の劣勢をUボート(潜水艦)の大量建造で補うという方針を打ち出します。これを推進したのは潜水艦隊司令長官のカール・デーニッツ大佐でした。デーニッツは潜水艦隊が大規模になるにつれ昇進し最終的には元帥になります。ドイツ海軍は、ビスマルク、テルピッツ、シャルンホルスト、グナイゼナウなどの戦艦が有名ですが、海軍の主力はUボートで実際に通商破壊作戦でイギリスを追い詰めました。
 次に空軍を見てみましょう。ナチス政権は整備に時間のかかる海軍を冷遇し急速に戦力拡大できる空軍に力を入れます。空軍大臣には第1次大戦のエースの一人でナチス党の大幹部だったヘルマン・ゲーリングが就任、最初は旧式のハインケルHe51戦闘機が中心でしたが、1935年には待望の新鋭戦闘機メッサーシュミットMe109(日本ではBf109だが欧米資料ではMe109の表記が多いのでこれに従った)が登場、生産性にも優れたMe109は最終的に3万機以上も生産され文字通りドイツ空軍の主力となります。その他ハインケルHe111爆撃機、電撃戦の主役ユンカースJu87スツーカ急降下爆撃機などが続々登場しました。
 陸軍は敗戦の結果兵力10万に制限されていまいたが、保有を禁じられていた戦車を農業用トラクターの名目で開発し、秘密協定を結んだソ連で戦車の訓練をしていました。再軍備宣言以後は堂々と戦車を保有できる事になり、着々と戦力を増強させます。なかでもハインツ・グデーリアンは戦車を中心とした機甲部隊を集中運用し、砲兵の代わりに空軍の急降下爆撃機を利用して機動力で敵の指揮中枢と命令系統を破壊する電撃戦理論を提唱します。
 戦車の集中運用は、イギリスのフラー大佐、フランスのエスティエンヌ大将、ソ連のトハチェフスキー元帥、日本では酒井鎬次中将などが早くから唱えていましたが、各国の軍隊には守旧派が多く、政府も莫大な予算を食う事から難色を示したため実現しませんでした。ドイツの場合は敗戦で国防軍が一度解体したことやヒトラーが電撃戦理論に共鳴し強力に推し進めたことで世界で初めて機甲部隊を主力とする電撃戦ドクトリンが完成します。
 といっても第2次世界大戦勃発時、ドイツ装甲師団の主力はⅠ号戦車、Ⅱ号戦車などの軽戦車で、Ⅲ号やⅣ号などの中戦車はようやく増産が始まったばかりでした。最初ドイツ軍はこのような状況で戦争を始めたのです。
 1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第2次世界大戦が始まるわけですが、ヒトラーはポーランドを攻めるにあたって外交的布石を着々と打っていました。開戦直前の8月23日独ソ不可侵条約締結。ドイツとソ連はこの時すでにポーランド占領後の分割を取り決めていました。
 ドイツ軍は、北部西部南部の三つの国境からポーランドに雪崩れ込みます。秘密協定によりソ連もポーランドに襲いかかりました。泣きっ面に蜂のポーランドは、旧式の軍隊しか持たなかったため各地で敗退、ドイツ軍にとっては電撃戦の予行演習になりました。開戦から1カ月ちょっと過ぎた10月6日には首都ワルシャワ陥落、ドイツ軍とソ連軍はポーランド全域を占領します。ところがポーランド政府は屈服せずルーマニア、ハンガリーを経由してイギリスに亡命政府を作りました。少なくないポーランド軍兵士も脱出し自由ポーランド軍として連合軍に加わり抵抗を続けます。さらに国内でもレジスタンスが発生しドイツ占領政策を脅かすのです。
 不屈のポーランド人の抵抗は、ソ連のスターリンにも脅威に映りカチンの森虐殺事件という悲劇を招きました。英仏は、ポーランドとの間に相互援助条約を結んでいたものの直接軍隊を送る事はしませんでした。ドイツ軍の侵入に宣戦布告したのみ。英仏にとっては所詮他人事にすぎなかったのでしょう。しかし彼らの態度は後に大きなしっぺ返しを受ける事になります。
 次回は、ドイツ軍のデンマーク・ノルウェー侵攻作戦を描きます。

ドイツの戦争序章  ヒトラー政権の誕生

 第1次世界大戦の敗北によってドイツでは帝政が倒れカイザー(皇帝)・ウィルヘルム2世はオランダへ亡命しました。ヴェルサイユ条約でダンチヒ回廊を失い、工業地帯であったルール地方は非武装とされフランス軍が保障占領するという屈辱に見舞われます。さらに戦争を起こした責任を追及され天文学的な賠償金を課せられたドイツが浮上する事は二度とないと思われました。
 軍も縮小され10万の兵力しか許されませんでした。危機感を持ったドイツ国防軍は将校と下士官の数を極端に増やし有事には兵士を動員し巨大な軍隊になるよう努力します。そのために将校にも下士官にも現在の階級より一段上の教育を施しました。これがドイツ国防軍精強の原因となるのですから歴史の皮肉です。兵士はすぐできても、将校や下士官は一朝一夕ではなりません。
 巨額の賠償金を課せられドイツ経済は疲弊します。ハイパーインフレが発生しそれに由来する社会不安が増大しました。民主的な政体を謳ったワイマール共和国(1919年~1933年)は無策で、ドイツ国内は極右と極左勢力が台頭します。その中に国家社会主義ドイツ労働者党という泡沫政党がありました。全体主義のファシスト政党で「アーリア人至上主義」「反ユダヤ主義」「反共」などを唱えます。ところが、混乱期で政府が何もしないとなると国民の不満はこういう勢力に吸収されやすいものです。国家社会主義ドイツ労働者党こそ後のナチス党でした。一方、共産勢力も当時は大きな力を持っていました。無能なワイマール体制の下で、ナチスと共産党は次第に対立を深めます。
 ナチス党が世に知られるようになったのは、アドルフ・ヒトラー(1889年~1945年)が党首に就任してからです。ヒトラーに関してはトゥーレ結社をはじめとする秘密結社への関わりなどアカデミックな歴史では扱えない謎(オカルトの類)が数多いですが、ここでは冗長になるので触れますまい。気になる方は過去記事「魔術師ヒトラー」をご参照ください。
 ナチス党は、傘下に準軍事組織である突撃隊(SA)を持ち侮るべからざる勢力に成長します。といっても合法的な選挙で政権を奪う道のりは遠く、ヒトラーらは一気に解決すべく1923年ミュンヘン一揆を起こしました。600人のSAとともに蜂起したヒトラーは、バイエルン王国(ドイツ連邦の一員)のビアホールで集会を開いていた州総監らを脅して自身の国民革命に協力させようとしたのです。
 しかし一揆はバイエルン州警察によって半日で鎮圧され、ヒトラーは逮捕収監されました。失意のヒトラーは獄中で「我が闘争」を記します。ヒトラーにはカリスマ的な魅力があったと伝えられます。監獄の所長や職員はヒトラーに心服し州政府に仮釈放の申請すら申し出ました。こうしてヒトラーは釈放されます。1925年2月27日、ミュンヘン一揆によって非合法組織に認定されていたナチス党は禁止が解除され再建されました。1929年の世界恐慌はナチス党にとっては躍進の絶好の機会となります。同じころ共産党もドイツ国内で支持を拡大していました。
 1930年の国会選挙ではナチス党が得票率18%、共産党が13%でした。政権与党は社会民主党でしたが、野党第2党と第3党になったのです。ドイツ国内各地でナチスの私兵SA(突撃隊)と共産党の私兵「赤色戦線戦士同盟」が私闘を繰り返しました。ナチス党が何故急速に拡大したか考察すると、まずヒトラーのカリスマ性が上げられます。それに加えて天才的な扇動家ヨーゼフ・ゲッベルス(1897年~1945年)の活躍、共産党に政権を取られるよりはとナチスを秘かに援助したドイツ財界の動きも大きかったと思います。さらにはドイツ国防軍の重鎮であったルーデンドルフ大将のバックアップもありました

 こうした動きを受けヒトラーは1932年大統領選に出馬します。決選投票で現職のヒンデンブルク大統領に敗れはしたものの1932年7月の国会議員選挙でナチス党は得票率37%(230議席)を獲得して第1党に躍り出ます。1933年首相に就任したヒトラーは、宿敵共産党を国会議事堂放火事件の犯人に仕立て上げ共産主義者の逮捕を開始しました。同年3月24日には全権委任法を可決させ議会と大統領の権限を完全に形骸化させます。ヒトラー独裁政権の始まりです。

 ヒトラーは自分の権力を強固なものにするためSAの指導者レームを「長いナイフの夜」事件で粛清、1934年8月2日現職のヒンデンブルク大統領死去を受けて国家元首である大統領の職務を首相である自分が兼任する事を決め、国民にはフューラー(指導者)と呼ばせました。日本では総統と呼びます。

 ヒトラーは、ドイツを雁字搦めにしているベルサイユ体制からの脱却を表明しました。これが世界恐慌で苦しんでいたドイツ国民から熱狂的な支持を受けます。1935年3月16日再軍備宣言、1936年には非武装地帯ラインラントに進駐しました。この時世界はフランスと戦争になると恐れましたが、ドイツ国民の圧倒的支持を受けるヒトラーに対しフランスは最初から腰が引けており何事もなく終わります。

 ヒトラーが国民の支持を受けたのは、軍事外交的な成果だけではありません。経済学者シャハトを起用し、ケインズ政策を推し進めます。アウトバーン建設や各地の巨大建造物は有効需要を創出する目的でした。古典経済学では基本的に市場は放置でしたが、ケインズ政策によって市場を動かし経済を活性化させ失業者を激減させます。

 ところが、世界は大恐慌から完全に脱却できず列強はブロック経済を推し進めました。こうなると持たざる国であるドイツや日本は苦しくなります。ナチスドイツの侵略を正当化するつもりは毛頭ありませんが、こういった背景も原因の一つだと言う事は頭に入れてください。

 1936年ベルリンオリンピックを成功させたドイツでしたが、このころから国民の不満のはけ口としてユダヤ人迫害を加速させ始めました。1937年にはスペイン内戦に介入します。外交的には1937年日独伊防共協定を結びました。1938年オーストリア併合、ミュンヘン会議ではチェコのズデーテン地方を割譲させます。英仏はこの動きを国際平和の大義名分の下黙認するのみでした。

 こうなるとヒトラーの次の目標は、第1次世界大戦敗戦の結果奪われたダンチヒ回廊の奪還です。しかし、此処まで来るとさすがに英仏も重い腰を上げざるを得なくなります。1939年9月1日、外交的な要求をポーランドに拒否されたドイツ軍は国境から大軍で雪崩れ込みました。英仏がドイツに即時宣戦布告したため第2次世界大戦が勃発します。


 次回は、ポーランドを巡る独ソの動きとポーランド電撃戦の実態を描きます。

新シリーズ 『ドイツの戦争』を始めるにあたって

 前シリーズ「日本の戦争」は、自虐史観で戦前の日本を悪と決め付けたマスゴミの偏向報道に義憤を感じ真実の歴史を記さなければならないという使命感から書きました。公正・公平な立場で戦前の日本の悪かった点、良かった点を論じ、今後戦争の危機が来た時どのように行動すれば良いか日本人一人一人に考えるきっかけを与える事が出来たと自負しております。
 ところで、第2次世界大戦はアジア太平洋だけでなく欧州、ヨーロッパロシア、北アフリカでも戦われました。先の戦争を学ぶならこれらも記さなければならないと考え、新たなシリーズとして「ドイツの戦争」を始めようと思います。ただヨーロッパ戦線は、西部戦線、東部戦線、北アフリカを含む南部戦線と分かれ1941年からはそれらが同時進行していて時系列ごとに記しても理解しにくいと考えます。
 そこで、懐かしの立風書房ジャガーバックスの「壮烈!ドイツ機甲軍団」の記述を参考に一つの戦線、戦役ごとに纏めて書く予定です。これが一番理解しやすいはず。参考文献は「第2次世界大戦ヨーロッパ戦線ガイド」(青木茂著 新紀元社)と学研歴史群像43号付録の「THE EUROPEAN WAR」(川上しげる著)を中心に私独自の見解を加えたいと思います。「壮烈!ドイツ機甲軍団」は章の構成を参考にします。といいますのも、実は昔愛読していたものの現在は紛失しており記憶に頼らざるを得ないのです。
 一応、著者の一人小林源文氏(中西立太氏と共著)のHPに紹介してあるので気になる方はご覧ください。ただし現在は絶版なので手に入れるのは難しいですよ。私のミリタリー好きの原点ですので、印象深い記述とか台詞はパクるかもしれません。最初にお断りしておきます。
例:「早く、冬が来る前に!」「げっ、イワンの新型突撃砲だ!」「この天気だ、ヤ―ボ(戦闘爆撃機)も飛べんだろう」等々(笑)
 一応、教訓めいたことも書きますが基本はエンターテイメントですのでお気軽にお楽しみください♪

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