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2016年2月

2016年2月 5日 (金)

ドイツの戦争 用語解説

 ようやく『ドイツの戦争』シリーズが完結したわけですが、ある程度戦史を知っているか軍事知識がある方を想定して書いたので、もし興味を覚えた初心者の方がいらっしゃったら用語がチンプンカンプンではないかと心配しました。

 気付いたのはシリーズを書いている途中だったんですが、勢いで書いていたので解説記事を書けずじまいで今に至ります。ということで、本シリーズに挑戦しようと思われている初心者の方のために基本用語の解説をします。できれば本編に入る前にお読みください。
◇師団   
 陸軍の編制単位。歩兵、砲兵、戦車など諸兵科をバランスよく配備し近代戦の基本単位となる。ただし現代戦ではこの下の旅団が基本単位となる事が多い。兵力は各国で違うがだいたい1万から2万前後。師団長は少将か中将(日本の場合)。
◇装甲師団
 戦車を主力とし他の兵科も装甲車両で固めた機動力を持った師団。装甲師団はドイツ式呼称(というか日本の翻訳の都合)で、英米では機甲師団、日本とソ連では戦車師団と呼ぶ。戦車数もこれも各国の編制で違うがだいたい150両から300両くらい。
◇歩兵師団
 文字通り歩兵を中心にした師団。歩兵連隊3個を基幹(3単位編制と呼ぶ)とし砲兵連隊や偵察大隊、工兵大隊などを含む。各国陸軍の基本単位で、師団の中では一番数が多い。ちなみにソ連の狙撃師団も同じ。砲兵の牽引手段は馬匹のケースが多い。
◇装甲擲弾兵師団
 これもドイツ式呼称で、米英では機械化歩兵師団、ソ連では機械化狙撃兵師団と呼ぶ。主力の歩兵の移動手段を装甲兵員輸送車や輸送トラックにした機械化師団。砲兵も牽引車で引っ張るか自走砲化されている。輸送トラックのみの場合は自動車化歩兵師団と呼ぶ。ちなみに超大国アメリカの場合は、自動車化が大前提なので歩兵師団と言えば自動車化歩兵師団を指す。ドイツ軍本来の編制では戦車大隊を持ちミニ装甲師団となるが、そういう好条件の師団は大戦末期にはほとんどなくなっていた。
◇軍団、軍、軍集団など
 軍団は数個の師団を隷下に持つ。日本の場合は存在せず、軍の下に師団が直結する。数個軍団が集まって軍となる。軍集団は数個の軍で成る。これもソ連の場合は戦線正面軍などと呼ぶが独英米の軍集団と同じ。本文では正面軍と略。日本の場合は軍集団を総軍と呼ぶ。軍集団があまりにも大規模になる場合は軍との間に方面軍が入る場合もある。
 陸軍関係はこれくらいかな?空軍と海軍は専門用語を入れなかったのでだいたい理解できるでしょ?もし疑問があったらお知らせください。解説いたします。

ドイツの戦争13  ベルリン攻防戦(終章)

 最初に、アルデンヌ攻勢からベルリンの戦いに至るまでの経過を記します。ラインの守り作戦の破綻でドイツ軍は虎の子の戦車800両、兵員10万人を失いました。この作戦に投入した兵力はもともと戦略予備として準備されたものでしたから、それが無くなった以上西部戦線の崩壊は時間の問題となります。
 ドイツ国防軍は国境沿いにH軍集団、B軍集団、G軍集団を並べて連合軍の進撃を食い止めようとしますが、師団充足率は半分にも満たず戦車や火砲も不足していました。1945年3月7日、ライン河に掛かるレマゲン鉄橋が奇跡的に爆破を免れ連合軍の手に入ったためここを起点に第12軍集団隷下の第1軍(ホッジス中将、4月15日大将に昇進)がドイツ領内に雪崩れ込みます。
 ドイツ軍が連合軍の進撃を食い止めるため機甲部隊が通過できるライン河にかかる鉄橋を爆破していたところ、レマゲン鉄橋だけ間に合わなかったと云われますが、ソ連にドイツ全土を占領されるのを避けるために現場指揮官が独断で意図的に爆破をしなかったという説もあります。懐かしの戦争映画『レマゲン鉄橋』ではこのエピソードが劇的に描かれています。
 3月22日、米第9軍の増援を加えたモントゴメリーの第21軍集団はマインツ付近でライン河を渡河し、H軍集団に襲いかかりました。H軍集団は簡単に撃破されハンブルクが連合軍の手に落ちます。モーデル元帥のB軍集団は、ルール工業地帯を南北に迂回した米第1軍と第9軍の挟撃を受けリップシュタットで包囲されます。4月18日ついにB軍集団降伏。しかし司令官のモーデル元帥は降伏を恥としピストル自殺しました。
 パットン中将の第3軍は、ボヘミア森林地帯沿いに南下、5月7日にはオーストリアのリンツに達します。ハウザーSS上級大将のG軍集団も米第1軍にミュンヘンを突破されました。ただしドイツ軍主力はアルプスに至るドイツ南部に立て籠もり持久体制に入ります。
 東部戦線では、1945年1月18日ハンガリーの首都ブタペスト陥落。6万2千のドイツ軍将兵が降伏しました。ハンガリーの油田地帯確保を目指した1945年3月の『春の目覚め作戦』も大失敗し破局を早めます。ソ連軍の逆襲を受け4月15日ウイーンが占領されました。
 東西から迫る連合軍。ところがここでアイゼンハワーは痛恨の判断ミスをします。首都ベルリンとドイツ軍主力のどちらを優先するかで、ドイツ軍撃破を選んだのです。兵学的には間違った判断ではありません。敵野戦軍さえ撃滅すれば敵首都など簡単に手に入るからです。一方ソ連は腐っても鯛とばかり首都ベルリンへ一直線に進撃しました。
 敵野戦軍を優先するというのは味方がすべて一丸となっている場合にしか適用できず、ソ連軍のように本質的思想の違う軍隊の場合は、まずベルリンを制圧してその後にドイツ軍に向かうべきでした。もしアイゼンハワーがこの事を十分承知していたらベルリンを最優先で占領しソ連の発言権を封じる事ができたと思います。そうすれば東西冷戦は起こらなかった可能性もあるのです。
 歴史にIFは禁物ですから、話を先に進めます。ドイツ国防軍は、ベルリンに迫るソ連軍に備えるためヴァイクセル軍集団を編成します。ヴァイクセルとはポーランドの中央を流れる大河ヴィスワ河のことで、軍集団の担当地域はヴィスワ河から、オーデル・ナイセ線に至るまさにベルリンの東の守りでした。が、軍集団自体は東部戦線で崩壊したA軍集団と中央軍集団の残存兵力の寄せ集めで兵力こそ50万を数えましたが、兵器の質は悪く充足率も低いものでした。
 司令官に任命されたのは、東部戦線で機甲戦術のエキスパートと評価されたゴットハルト・ハインリキ上級大将。軍集団隷下の主力部隊第3装甲軍司令官にも西部戦線から引き抜かれたマントイフェル大将が任命されました。ハインリキとマントイフェルは、情勢と自軍兵力を冷静に分析し敗北は時間の問題だと結論付けます。となれば、彼らは戦後を見据えできるだけ兵士と民間人を米英軍占領地域に逃がし向こうで降伏させる方策を決めました。
 これは国防軍の高級軍人としてはあるまじき考えでしたが、ドイツ人としてぎりぎりの決断だったと思います。最後の最後にナチス政権を見限ったのです。もちろん本分である防衛作戦は遂行しました。そればかりか劣勢の兵力を巧みに機動させソ連軍に痛撃を与え続けます。オーデル川の最終防衛戦を突破されたハインリキは更迭され、シュトゥデントに交代します。この時参謀本部はハインリキの後任をマントイフェルに打診したそうですが、彼は軍集団司令官就任を拒否しました。そればかりか「以後、第3装甲軍戦区の一切の命令はマントイフェルからのみ出される」と宣言します。
 事実上の反逆でした。もっとも実働部隊を握っているマントイフェルを敗色濃厚の参謀本部が処分できるはずもありません。マントイフェルは、戦後を見据え1945年5月独断でイギリス軍と交渉し指揮下の30万の将兵と共にイギリス軍に降伏しました。もしかしたら彼が戦後連邦議会議員になれたのは、30万の命を救った功績のおかげだったかもしれません。ソ連軍に降伏していたらシベリア送りになり生還できたものはわずかだったでしょうから。
 ヴァイクセル軍司令官を解任されたハインリキは後方地域の軍集団司令官に左遷されますが、ベルリン救援と自軍の退却問題を巡って国防軍最高司令官のカイテル元帥と対立しヒトラーの怒りを買います。国防軍最高司令部への出頭を命じられたハインリキですが、ロンメルのように自殺を強要される事を恐れた部下の大尉ができるだけ時間をかけて出頭するよう懇請したため彼もそれに従いました。そのうち4月30日ヒトラーが自殺したため処分を免れイギリス軍に降伏し捕虜となります。
 米英軍がソ連との協定でエルベ河の線で進撃を止めたため、ドイツの首都ベルリンにはソ連軍が殺到しました。攻撃を担当したのはジュ―コフの指揮する第1白ロシア正面軍とコーニャフの第2戦線正面軍。総兵力150万という大軍でした。一方、ベルリンを守るのは第18装甲師団、第20装甲擲弾兵師団、第9降下猟兵師団、ノルトラント装甲擲弾兵師団のわずか4個。これらも幾多の戦闘で消耗し半分も戦闘力が残っていれば良い方でした。ベルリン防衛軍司令官ヴァイトリング大将の指揮下にあるのは国防軍、武装親衛隊合わせてわずか4万5千。これにヒトラーユーゲント、警察、国民突撃兵が加わります。
 誰の目にも絶望的な状況は明らかでした。4月1日、ヒトラーは総統官邸から総統地下壕に移ります。ソ連軍の攻撃開始は4月23日でした。航空機による空爆と3000門の火砲の砲撃を合図にソ連軍はベルリンに突入します。守るドイツ軍も必死に抵抗し壮絶な市街戦が繰り広げられました。が、結局は時間の問題で4月28日最終防衛線が突破され総統地下壕まで1kmの地点までソ連軍が迫ります。

 ヒトラーは愛人エバ・ブラウンと共に総統地下壕で自殺。1945年4月30日のことです。その後もベルリンのドイツ軍は戦い続け降伏したのは5月2日。ヒトラーによって後継指名されたデーニッツ海軍元帥は仮政府を樹立し連合軍と降伏交渉を開始します。ドイツ軍が完全に降伏したのは5月7日でした。






 第1次世界大戦の過酷な戦後処理がドイツ国民生活を困窮させ現状への不満からヒトラーのナチス政権を誕生させます。そしてヒトラーは第2次世界大戦を引き起こしドイツだけで軍人民間人合わせて700万人という膨大な犠牲者を出したのです。それを考えるとドイツ人にとって戦争とは何だったのか、考えさせられますね。

ドイツの戦争12  バルジの戦い

 ノルマンディー上陸作戦以来、米英連合軍は着実に兵力を拡大し続けます。1944年8月の段階では、連合軍総司令官のアイゼンハワー元帥の下に米軍で編成された第12軍集団をブラッドレー大将が率い、英連邦軍中心の第21軍集団をモントゴメリー元帥が指揮しました。
 最初モントゴメリーは連合軍総司令官の地位を要求したそうですがアメリカから拒否されアイゼンハワーが就任します。怒ったモントゴメリーはチャーチルに元帥昇進を求めました。当時大将だったアイゼンハワーも階級が上の自分には命令できないだろうという読みです。アメリカは、すぐさまバランスを取るためにアイゼンハワーを元帥に昇進させます。
 兵力的にも米軍の第12軍集団は隷下に4個軍(第1、第3、第7、第15)、12個軍団、48個師団を持っていました。米陸軍の師団は大規模編成で兵士数も多く(1個師団2万以上)総兵力は130万を超えます。これをブラッドレー大将が率いるのですが、現在に至るまで一人の指揮官が指揮する部隊としては米軍史上最大規模だったそうです。一方、英陸軍(第21軍集団)は英連邦の部隊を含めても70万ほどで、モントゴメリーが連合軍総司令官になるのはもともと無理筋な要求でした。
 制海権は言うまでもなく、制空権も連合軍が有しドイツ軍は物量で押しまくられます。地上ではⅤ戦車パンター、Ⅵ号戦車ティーガーⅠ、そして71口径88㎜砲という第2次大戦中最強の戦車砲を装備したⅥ号戦車ティーガーⅡまで登場しましたが、個々の兵器では優れていてももはやそれだけでは戦局を挽回できない状況まで追い込まれていました。空軍に関してはさらに絶望的で、空の要塞ボーイングB-17重爆撃機、リパブリックP-47サンダーボルト重戦闘機、ノースアメリカンP-51マスタング戦闘機など機体の能力でドイツ機を上回る高性能機の前には、メッサーシュミットMe109G型やフォッケウルフFw190A型、Fw190D型を持ってしても劣勢を強いられます。
 このままベルリンまで一気に押しまくられるのも時間の問題だと考えられていました。ところが、連合軍の進撃があまりにも急だったため独仏国境に戦線が近付くと補給が滞るようになってきます。逆にドイツ軍は補給線が短くなり楽になってきました。
 ヒトラーが連合軍に一撃を加え戦局を一気に挽回しようと考えたのは1944年9月頃だったとされます。ヒトラーは大戦初期に大成功したアルデンヌの森を攻勢の起点とし連合軍の重要な補給港であるアントワープまで進撃し連合軍の補給を危機に陥らせようと考えます。その戦果をもって米英と講和しようという虫のよい考えもありました。
 ところが、あまりにもギャンブルに過ぎるということで参謀本部はもとより現場の西方総監部、B軍集団も大反対します。ヒトラーが攻勢に使おうとした兵力はドイツ軍の戦略予備でこれを失ったら防衛計画自体が破綻するというのが反対の理由でした。ヒトラーの頭の中にはロンメル元帥の指揮能力に期待するところがあったのでしょうが、肝心のロンメルは1944年7月に連合軍の航空攻撃で負傷しドイツ本国で療養中でした。
 1944年10月にはヒトラー暗殺未遂事件が勃発します。疑心暗鬼に駆られたヒトラーは、暗殺計画に関与したとロンメルまで疑い逮捕しました。実際のところロンメルは事件には無関係だったと言われますが、暗殺グループがヒトラー暗殺後の政府首班に国民的人気の高いロンメルを想定していた事から言い逃れは不可能でした。結局、ロンメルは自殺を強要されます。
 空席になったB軍集団司令官には東部戦線からヴァルター・モーデル元帥が任命されました。着任したモーデルもまたヒトラーの構想に大反対します。モーデルは、アントワープまで進撃せずアルデンヌ近辺で限定的に攻勢を行い戦線を整理して防衛しやすくするという現実的作戦案を提示しますが、希望的観測に燃えるヒトラーは当然拒否し、アルデンヌ攻勢は決定しました。ドイツ軍はこの作戦を『ラインの守り作戦』と名付けますが、連合軍はドイツ軍の攻勢が突出部(バルジ)を形成したため『バルジの戦い』と呼びます。
 作戦計画は、北からSS第6装甲軍(デートリッヒ上級大将)、第5装甲軍(マントイフェル大将)、第7軍(ブランデンベルガー大将)が並び、SS第6装甲軍(装甲師団4個、歩兵師団5個)がアルデンヌ高地北方を進撃しアントワープを占領、第5装甲軍(装甲師団3個、歩兵師団4個)はアルデンヌ高地南部を進んでブリュッセルを目指す。第7軍(歩兵師団3個、降下猟兵師団1個)は側面支援に当たるというものでした。総兵力35万。
 当時連合軍はアルデンヌ地方にはドイツ軍の本格攻勢はないと判断し戦闘で消耗した師団の休養地に充てていました。作戦開始予定の12月は、天候も曇りが多く降雪もあり連合軍自慢の空軍が活躍できないという読みもありました。
 1944年12月16日早朝、2000門の野砲の砲撃を合図にヒトラーのラストギャンブル『ラインの守り作戦』が発動されます。すっかり油断していた米第1軍の将兵は、あらかじめドイツ軍の特殊部隊によって通信が寸断されていた事もあり大混乱に陥ります。ところがフランス軍と違っていたのは、困難な状況でも潰走したりせず独自の判断で防衛戦を開始した事です。
 とくに第101空挺師団などはバストーニュに籠城し、包囲されても降伏を拒否し最後まで守り通します。SS第6装甲軍は、先鋒としてSS第1装甲師団のパイパー・カンプグルッぺ(戦闘団)を投入します。これはヨアヒム・パイパーSS中佐が指揮し通常の装甲連隊の他に独立重戦車大隊、装甲擲弾兵大隊、装甲工兵大隊を加えた諸兵科連合部隊で強力な突進力を持っていました。それをもってしてもエルゼンボルン丘陵で米第2師団、第99師団に防がれ進撃がストップしてしまいます。
 もっとも進撃が成功したのは第5装甲軍マントイフェル大将の担当区域でしたが、ムーズ川沿いのナミュールにはとうとう到達できませんでした。ちなみにマントイフェルは史上最年少47歳で大将に昇進した有能な指揮官で、戦後は政界に進出し連邦議会議員にまでなっているユニークな存在です。その彼でもここまでが限界でした。
 そのうち、12月23日天候が回復しドイツ軍の恐れていた連合軍のヤ―ボ(戦闘爆撃機)が出撃して来ました。連合軍はドイツ軍の補給拠点を中心に空爆します。12月26日にはバルジの南方にいたパットン中将の第3軍が救援に駆けつけました。第3軍の先鋒第4機甲師団の到着で勝負あります。第4機甲師団はバストーニュの友軍を救出。1945年1月1日になってもドイツ軍はなお粘り強く戦い続けますが、空爆が激しくなるにつれ燃料弾薬が枯渇しこれ以上の戦闘継続が不可能になりました。
 1月13日、ドイツ軍はついに撤退を決断します。作戦終了は1月27日。この戦いにおける米軍の損害は死者・負傷者・行方不明者合わせて7万5千名。一方ドイツ軍は6万8千名の損害を受けます。この結果だけを見れば互角ですが、最後の戦略予備部隊を消耗したドイツ軍に対し連合軍の損害は回復可能なものでした。
 バルジの戦いは、ドイツの敗北に拍車をかけます。ヒトラーは最後の賭けに負けたのです。現実的に万が一アントワープを占領できたとしても維持はできなかったと思います。それだけの兵力がありませんでした。東部戦線では1月17日ワルシャワが陥落します。東西から挟み撃ちにされたドイツの敗北は時間の問題でした。
 次回、ドイツの戦争最終回『ベルリン攻防戦』に御期待下さい。

ドイツの戦争11  ノルマンディー上陸作戦

 クルスクの戦いで一息ついたとはいえ1941年以来ドイツの矛先がずっとソ連に向いておりその損害は甚大でした。ドイツ軍とソ連軍のキルレシオは一説では10対1(ドイツ軍が1損害を出す間にソ連軍は10の損害を受ける)だったとも言われます。第2次大戦のソ連の犠牲者が民間人も含め2000万近かった理由でした。
 スターリンは、米英に西部戦線で大攻勢を行いソ連へのドイツの鋭鋒を和らげるよう要求します。ルーズベルトにしてもチャーチルにしても戦後を見据えソ連の勢力拡大を抑える意味でも大西洋で大規模な上陸作戦を考えていました。その場所はイギリス本土に近いノルマンディー海岸に決まります。
 『オーバーロード作戦』と命名され、まず4000隻の船舶で米英16万の兵力を上陸させ2か月以内に200万の兵力、5万両の装甲車両を揚陸する計画でした。そのために支援兵力として戦闘艦艇600隻、戦闘機5000機、爆撃機3500機が準備されます。これだけの大規模な上陸作戦は例が無く、準備にも困難が伴いました。まず200万という膨大な戦力の補給線を維持することが難関です。ノルマンディー海岸には大規模な揚陸能力を持った港湾がほとんどなかったため、上陸部隊はまずこれら港湾都市の攻略を最優先とされました。
 一方、ドイツ側の準備はどうだったでしょうか?ドイツ軍も西部戦線における連合軍の大規模上陸は想定しており大西洋に面する海岸線にそって砲台やトーチカを建造し「大西洋の壁」と命名します。総延長2685kmにも及ぶ大規模なものでしたが、それを防衛する肝心な兵力が不足していました。西部戦線を統括する西方総監にはルントシュテット元帥が就任し、現地で実際に防衛の指揮を執るB軍集団司令官にはロンメル元帥が任命されます。
 ロンメルの元には、東部戦線から引き抜かれた6個装甲師団がありましたがその運用を巡ってヒトラーや参謀本部と対立します。北アフリカ戦線で連合軍の航空優勢を痛いほど実感していたロンメルは、水際撃退しかないと考えていました。そのためには虎の子の装甲師団も海岸近くに配置し敵が上陸したらすぐさま投入しようとします。
 ところが、東部戦線などで機動防御作戦の成功例に酔うヒトラーや参謀本部は装甲師団を後方に配置し、敵の動向に合わせて向かわせるようロンメルに命じます。ロンメルは、敵の圧倒的航空優勢下では装甲師団が戦場に到達するまでに消耗しほとんど役に立たなくなると強硬に主張しますが、実感のない参謀本部は容認しませんでした。東部戦線は広大すぎて制空権も目まぐるしく変わっていたからです。
 結局、ヒトラーの提案で3個師団をロンメルの希望通り沿岸部に配置し、残りの3個師団は機動予備として後方に置くという中途半端な結論になりました。もちろんロンメルの主張が全面的に認められても連合軍の上陸を撃退できたかというと疑問符が付きますが、史実ではほとんど活躍しなかった後方の3個装甲師団がすでに戦場にいればもっと大きな損害を連合軍に与えていた事は間違いありません。敵の艦砲射撃や空爆に備えて耐爆壕を準備する事もできたでしょうから、8割くらいの戦力は保持できたと思います。
 実は、連合軍の上陸作戦の時期についてもドイツの情報機関は掴んでいたとされます。その情報は6月2日西方総監部までは届いたいたそうですが、B軍集団との連絡の不手際でロンメルの司令部には知らされていませんでした。もしかしたら作戦を巡っての確執でロンメルは参謀本部の嫌がらせを受けたのかもしれません。
 1944年6月6日、オーバーロード作戦が発令されました。その時ロンメルは現地に居ません。実は6月4日ベルリンに向かったのです。妻の誕生日を祝うのと、あと5個師団の指揮権委譲をヒトラーに訴えるためでした。肝心の時に最高司令官がいないという不幸は救いようがありません。
 連合軍は上陸に先立って大規模な空爆を敢行しました。数日前から上陸地点秘匿のため陽動で別の場所を空爆していたのですが、今回はノルマンディーのドイツ軍陣地を狙って徹底的に叩きます。まずドイツ軍の後方撹乱すべく米軍の第82、第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下しました。カーン方面には英軍の第6空挺師団、第3空挺旅団、第5空挺旅団が続きます。
 続いてノルマンディー沖合の連合軍艦艇が一斉に砲門を開き艦砲射撃を加えました。上陸部隊は空爆と艦砲射撃に守られて上陸を開始します。上陸の担当区域は西部が米第1軍でオマー・ブラッドレー中将が指揮しました。東部の英第2軍はデンプシー中将が率います。
 上陸地点にもっとも近かったドイツ軍の装甲師団は第21装甲師団でした。ところが命令を下せるヒトラーは就寝中、軍集団司令官のロンメルも不在だったため独断でカーンへ向かいます。カーン後方にはSS第12装甲師団などがいましたが、戦場に向かう前にロンメルの危惧通り連合軍の猛爆撃を受け大きな損害を出しました。結局頼みの装甲兵力は逐次投入となり力を発揮できませんでした。
 連合軍はその日のうちにノルマンディー海岸に橋頭保を築き勝負ありました。水際撃退作戦は破綻したのです。それでも劣勢のドイツ軍は奮戦します。ヴィレル・ボガ―ジュの戦いで戦車戦エース、ミハイル・ビットマンの活躍は有名です。
 戦力の逐次投入という最もまずい戦いを強いられたドイツ装甲師団の損害は甚大でした。連合軍は日に日に増強され膨大な物量によってドイツ軍は押されます。8月25日にはついにフランスの首都パリが陥落しました。ドイツはこのままずるずると押され続けて敗北するのでしょうか?
 ヒトラーは夢よもう一度とばかり、起死回生の反撃作戦を考えます。連合軍の上陸から半年、ドイツ国境に迫った敵に痛撃を与える作戦でした。次回、バルジの戦いを描きます。

ドイツの戦争Ⅹ  ツィタデレ(城塞)作戦

 第3次ハリコフ攻防戦の結果、中央軍集団と南方軍集団の担当区域の境界にソ連軍前線の突出部が残されました。ドイツ軍はクルスクを中心としたこの突出部に目をつけます。独ソ戦開始から2年。ドイツ軍にはすでに全戦線で攻勢をかける力はなく、クルスクの突出部に限定的に奇襲攻撃をかけることでソ連軍を叩き東部戦線の安定化を目指しました。西部戦線で連合軍の大規模攻勢が予測されていたため、それに備えるためです。
 作戦開始は雪解けの泥濘の時期が終わる5月頭くらいが理想的でした。ドイツ陸軍参謀本部は当然その線で準備しますが作戦会議の途中ヒトラーから横槍が入ります。ヒトラーは、現在量産中の新鋭戦車Ⅴ号戦車パンターとⅥ号戦車ティーガーⅠが揃うのを待って攻撃すべきだと主張しました。たしかに一理ある考え方です。
 ところが、実際に現地で作戦を担当する南方軍集団総司令官のマンシュタイン元帥、中央軍集団総司令官クリューゲ元帥から反対意見が出ました。特にマンシュタインは、北アフリカが陥落しヨーロッパ本土への連合軍の上陸が確実視される中、開始を遅らせ時間を浪費しては作戦そのものが成立しないと主張します。装甲兵総監(戦車兵の訓練と装甲車両の生産を担当)のグデーリアン上級大将に至っては、パンター戦車には初期欠陥が露呈しており改修すれば作戦に間に合わないと作戦そのものの中止を訴えました。
 結局、ヒトラーの意見が通り作戦開始は新鋭戦車の前線到着が間に合う7月5日と大幅に遅れます。ところが、ソ連はスパイ網を世界中に張り巡らせておりドイツ軍のクルスクへの攻撃を察知しました。スターリンは、逆に突出部にドイツ軍を誘致して大打撃を与えようと突出部北部に中央正面軍、南部にヴォロネジ正面軍、その後方に戦略予備としてステップ正面軍を集結させ重厚な対戦車陣地(パックフロント)を何重にも巡らせドイツ軍を待ち受けます。
 1943年7月5日、クルスク突出部への攻撃『ツィタデレ(城塞)作戦』が発動しました。突出部北翼の攻撃を担当するのは中央軍集団隷下の第9軍(ヴァルター・モーデル上級大将)、同じく南翼には南方軍集団の第4装甲軍(ホト上級大将)とケンプフ支隊(軍規模)が襲いかかります。
 両軍の兵力はドイツ軍が歩兵80万、戦車・突撃砲2800両、航空機2100機。ソ連軍は歩兵130万、戦車・駆逐戦車3000両、航空機2700機を終結させました。両軍合わせて6000両近い装甲車両がぶつかった史上最大の戦車戦が行われます。5月の段階では奇襲攻撃で成功の可能性も高かったのですが、作戦開始が遅れたため強襲になってしまいました。
 第9軍のモーデルは、「東部戦線の火消し役」とも称えられた機動防御戦術の名手でしたがクルスクの戦いでは十分な機甲兵力を与えられず苦戦します。モーデルは正攻法である歩兵・砲兵・戦車の共同戦闘を選びますがソ連軍の防御陣地は堅陣でわずか10kmほど進撃して止まりました。南翼の第4装甲軍とケンプフ支隊には新鋭のパンターとティーガーⅠ、そしてポルシェティーガーの車体を流用した71口径88㎜砲装備の重駆逐戦車エレファントが集中して与えられますが、グデーリアンの危惧通り初期故障が続発し思ったような活躍ができませんでした。
 一方、ソ連軍は85㎜砲にパワーアップしたT-34/85戦車を集中投入します。さらにはT-34の車体を利用したSU-85、SU-100、SU-122などの駆逐戦車(ソ連軍では対戦車自走砲と呼ぶ)も登場したため、ドイツ軍の損害も増え続けます。ドイツ軍は700両の戦車で強行突破をはかりますが、自慢のパンツァーカイル(戦車楔形陣形)も6000門という膨大な対戦車砲を集めたソ連軍のパックフロント(対戦車陣地)を突破できず頓挫、結局戦車・突撃砲230両と兵員1万1千という大きな損害を出しました。
 クルスク突出部を巡る独ソ両軍の戦いは双方に甚大な損害を与えます。さすがにまともに動けばパンターやティーガーⅠなどの新鋭戦車はソ連軍戦車を容易に撃破できました。ところが補給能力に限界があるドイツ軍と違ってソ連には米英からの莫大なレンドリースが到着していました。特にアメリカからの軍事援助は優に一戦争できるほどの規模でした。航空機だけで15000機、戦車7000両、そればかりでなく40万台近い輸送トラック、260万トンを超えるガソリンなどの石油製品が与えられます。ソ連はT-34戦車シリーズを1945年までに5万両以上生産したといいますが、それは莫大なレンドリースによって兵器以外の生産にリソースを割かずに済んだからでした。
 1943年7月10日、米英連合軍によるハスキー作戦が開始されます。これはシチリア島への上陸作戦でしたが、今後イタリア半島そして大西洋沿岸への米英軍上陸は確実でした。まさにマンシュタインの恐れていた事態です。これを受けてツィタデレ作戦は実質的に中止されます。ドイツ軍は、米英軍の上陸に備えるため東部戦線から虎の子の装甲師団を引き抜き西へ移動させました。以後、東部戦線でドイツ軍が攻勢を取る事は二度とありませんでした。いや敗戦間際の1945年3月、春の目覚め作戦は攻勢作戦とも呼べますがこの時期の戦況は絶望的で無意味な戦力の浪費にしか過ぎなかったと思います。

 1944年6月、ソ連赤軍はパグラチオン作戦という大攻勢を開始しました。膨大な物量に裏打ちされたソ連軍は、初期ドイツ軍を思わせる電撃戦を展開し東部戦線各地でドイツ軍を追い詰めます。この大攻勢で中央軍集団が事実上壊滅、ドイツ軍は開戦前の国境線まで押し戻されました。ソ連軍の目指す先はドイツの首都ベルリン。しかしそれは米英連合軍の目標でもあったのです。

 次回、ノルマンディー上陸作戦を描きます。

ドイツの戦争Ⅸ  ハリコフ機動戦

 1943年2月、スターリングラードの戦いで敗れたドイツ軍は苦境に立たされました。とくにバクー占領を目指してコーカサス地方の奥深くまで攻め入っていたA軍集団は退路を断たれこのままでは包囲殲滅される危険性が出ます。全滅を防ぐためA軍集団にはすみやかにドン河以西に撤退するよう命じられました。ロシア南部戦線には他にB軍集団、ドン軍集団がありましたが、B軍集団はスターリングラードで主力の第6軍が壊滅したため消耗しきっておりソ連軍攻勢の矢面に立たされたのはマンシュタイン元帥のドン軍集団です。
 最初ヒトラーはスターリングラードを再び占領する無茶な作戦を考えてましたが、独裁者の言うとおりにすれば東部戦線のドイツ軍が崩壊しかねないと強い危惧を抱いたマンシュタインはベルリンへ飛びヒトラーと直談判に及びます。激論の末柔軟な行動の許可を得たマンシュタインは早速作戦を練り始めました。このころソ連軍は、ドン河河口近いロストフまで進軍してA軍集団の退路を断ち包囲殲滅する『星作戦』を開始します。
 マンシュタインは、A軍集団の救出とソ連軍の大攻勢をどう防ぐかで頭を悩ませます。通常、防御作戦は前線に塹壕を掘り、長期にわたる場合はトーチカを築き、要所には対戦車陣地を設け、後方に支援用の砲兵陣地と予備兵力を置いておくというものでした。ところが当時のドイツ軍は、肝心の兵力が足りず頼りの機甲兵力もスターリングラードを巡る戦闘で消耗しきっていました。
 
 マンシュタインは、なけなしの機甲兵力をかき集めると固定した防御線を設けず敵を深く誘いこみ要所で機動的に反撃することで防御しようという考え、所謂機動防御作戦を策定します。その際、重要都市を一時的に敵に渡しても構わないという大胆な決断でした。この機動防御作戦という概念は第2次大戦で出現した新しい防御の考え方で機甲戦力の発達なしでは成立しないものです。マンシュタインは、ソ連軍の補給能力を分析しこれだけの規模の攻勢はいつか兵站が追い付かなくなる。敵の攻勢が限界に達する瞬間(攻勢終末点)に集中して攻撃を掛ければ勝てるという判断でした。
 2月14日、ドン軍集団は南方軍集団(二代目)と改称されます。マンシュタインはA軍集団を助けるためソ連軍の側面で限定的攻勢を掛け、敵の関心がこちらに向くと重要都市ハリコフを含む多くの要地を明け渡して後退しました。2月中旬A軍集団は辛くも危機を脱しドン河以西への撤退に成功します。2月下旬、A軍集団に属する第1装甲軍は南方軍集団に移管され隷下に第17軍のみを置く事になりました。着々と反撃の準備をしていたマンシュタインは、ソ連軍の攻勢が鈍る瞬間を待ちます。
 1943年2月20日、困難な機動を3週間で終えたマンシュタインは満を持して総反攻作戦を開始しました。撤退を続けるドイツ軍を見て戦力が枯渇していると判断していたソ連軍は、この思わぬ反撃を食らって大混乱に陥ります。補給線が延び切っており急に発生した大規模な戦闘に対応できなかったのです。ドニエプル河近くまで進出していたソ連南西正面軍は北からSS第1装甲軍団、南から第1装甲軍、第4装甲軍に挟撃を受け壊滅的打撃を受けます。南西正面軍に属するポポフ戦車軍、第6軍、第1戦車軍は包囲殲滅され潰走しました。
 そのままドイツ軍は、敗走するソ連軍を追ってハリコフを奪回3月初めにはドネツ川、ミウス川の線まで押し戻します。一連の戦闘でソ連軍は遺棄死体2万3千、戦車600両、火砲350門を失いました。まさにドイツ軍の完勝です。マンシュタインはこの功績と対仏戦のマンシュタイン・プラン策定により西側戦史家の間で名将と称えられました。
 この戦いを第3次ハリコフ攻防戦と呼びますが、結果として中央軍集団と南方軍集団の前線の間にソ連軍の突出部が出来ました。すぐさま攻撃を加えソ連軍を圧迫するのが理想でしたが、春の泥濘期に突入したため追撃が不可能になります。クルスクを中心としたソ連軍突出部への攻撃は5月以降に予定されました。
 次回、独ソ両軍合わせて6000両という史上空前の大戦車戦が行われたクルスクの戦い「ツィタデレ(城塞)作戦」を描きます。

ドイツの戦争Ⅷ  スターリングラード攻防戦

 1941年11月から翌1942年1月まで続いたモスクワ攻防戦に敗北したドイツ軍は、モスクワ正面のみならず全戦線で後退を余儀なくされました。ところがこれが全面潰走にならなかったのは、ドイツ軍が巧みに後退した事もありましたが、何よりも雪解けの泥濘でソ連軍の追撃が不可能になったからです。
 皮肉な事に、昨年秋の泥濘はドイツ軍の進撃を苦しめ、今度はドイツ軍を助けたのです。北方軍集団は依然としてレニングラードを包囲し続け、中央軍集団はモスクワから120kmほど西のルジェフとヴィヤジマを結ぶ線を死守します。
ヒトラーは長期戦の様相を見せ始めた独ソ戦を有利に戦うため南方軍集団の担当区域での一大攻勢作戦を命じました。ロシア有数の穀倉地帯であるウクライナを完全に掌握しコーカサス地方の一大油田地帯バクーを占領するという雄大な作戦でした。作戦名は『ブラウ(ドイツ語で青)』。

 南方軍集団は、このためA軍集団(リスト元帥)とB軍集団(ヴァイクス上級大将)に編成替えさせられます。主攻のA軍集団には第1装甲軍、第6軍、第17軍が属しコーカサスへの侵攻が命じられました。B軍集団は助攻としてA軍集団の側面を守りコーカサスの入り口でボルガ河とドン河の最も狭まる所に位置する要衝スターリングラード占領が任務です。B軍集団は第4装甲軍、第2軍を隷下部隊とします。

 ブラウ作戦は、1942年6月28日開始されました。スターリンはこの作戦を南方から迂回してのモスクワ攻撃と誤認し対応が遅れます。A軍集団は7月22日にはコーカサスの玄関口とも言えるロストフに達しました。作戦が順調に進んでいる事に気をよくしたヒトラーは、B軍集団から増援を回しバクー占領を急がせようとします。ところがB軍集団の目標であるスターリングラードはソ連軍によって要塞化されており、現状でも占領の困難が予想されていました。このため増援の第4装甲軍は右往左往します。

 結局、スターリングラード占領は第4装甲軍(ホト上級大将)とA軍集団から回された第6軍(パウルス大将)が担当する事になりました。この小さな混乱は後に取り返しのつかない事態を招きます。バクーかスターリングラードがどちらかに目標を絞るべきでした。8月23日ドン河に橋頭保を築いたドイツ第6軍はボルガ河に達しスターリングラードの北側を封鎖します。スターリングラード攻防戦の始まりです。

 第4装甲軍は南から攻撃し、スターリングラード包囲の形ができます。市街を守るソ連第64軍は死守の構えでした。この時スターリングラードには後に中央委員会第一書記兼首相として最高権力を握るニキータ・フルシチョフが政治委員として督戦していました。

 ソ連軍は全市街を要塞化し、市街戦で徹底抗戦をもくろんでいましたから、歩兵部隊が主力である第6軍が市内に突入します。これは機甲部隊では市街戦の役に立たないからです。戦いは1メートルを争う凄惨なものとなりました。廃墟のあちこちに狙撃兵が隠れ、地下道を使っての奇襲も多用されます。苦しい戦いを続ける第6軍ですが、ソ連軍をボルガ河沿いの一角に追い詰める事に成功しました。

 ソ連側としてはスターリンの名を持つ都市を敵に奪われるわけにはいきません。南西戦線正面軍、ドン戦線正面軍、スターリングラード戦線正面軍と3つの大部隊を送り込み救援に向かいます。実はドイツ軍は自軍だけでは数が足りず、イタリア軍やルーマニア軍など同盟国の軍を補助部隊として同行させていました。戦線を維持するためこの時もルーマニア第3軍がスターリングラード北西の守りについています。

 ソ連軍は、脆弱なルーマニア軍の陣地に目をつけます。総攻撃を加えたソ連軍は、弱体のルーマニア軍を蹴散らし大きく左に(南東に)旋回しました。同時に南方ではソ連第51軍と第57軍が攻勢を開始し北上します。これによりドイツ第6軍と第4装甲軍の一部はスターリングラードに取り残されました。ドイツ軍は、マンシュタイン元帥がドン軍集団を編成し救出を試みますがソ連軍の防御陣のまえに失敗します。

 第6軍は、ドイツ空軍の空からの細々とした補給に頼らざるを得なくなりました。ヒトラーはパウルスに死守を命じます。そればかりか彼を元帥に昇進させました。ヒトラーによると「元帥が降伏した例はない」ということだそうです。しかし孤立したドイツ軍にとっては無意味な昇進より弾薬と燃料、食料の方が必要です。火の出るような催促にもドイツ空軍の貧弱な輸送力では応えることができませんでした。

 ソ連軍の重包囲下に陥った第6軍は、ついに燃料弾薬が枯渇します。パウルスはエリート参謀出身で秀才でしたが精神が弱い人物だったと伝えられます。結局彼は降伏を選択しました。1943年1月31日の出来事です。この時24万ものドイツ兵が捕虜になったそうです。スターリングラード戦の敗北で、コーカサス奥深く侵攻していたA軍集団は退路を断たれる危険性が出てきました。絶体絶命の危機です。

 ドイツ軍はこの危機をどのように脱するのでしょうか?それはマンシュタインの頭脳にかかっていました。「後の先」と称された彼の機動防御作戦は後に軍事学の教科書となります。次回、ハリコフ機動戦を描きます。

ドイツの戦争Ⅶ  タイフーン作戦

 ソ連/ロシアは地政学的に縦深が深い国だと言われます。どういう事かというと、首都が国境から遠く後背地も広大であるため敵は侵攻すればするほど補給に苦しみ、こちらは敵軍を自領深く誘いこんで補給路を断ち相手の補給線が延び切ったところで反撃すれば勝てるというものです。ロシア人は伝統的にこの戦術を熟知しナポレオンのロシア遠征も撃退しました。
 逆に、日本のように首都が沿岸部にあり国土も狭い国は縦深が無い国だと言われます。こちらは本土決戦が即凄惨な殺し合いになり国民の犠牲も甚大になるので、できるだけ自領の外で戦わなければなりません。戦争が長引くのも致命傷だから速戦即決。明治以来日本は地政学的宿命を悟り半島や大陸に進出しました。海軍を強化し、なるだけ領海の外で艦隊決戦を行い勝ちを得ようとします。ですから戦後日本の専守防衛は、軍事的にも地政学的にもあり得ない愚策中の愚策。多大な国民の犠牲を前提とした間違った方策だと思います。
 第2次世界大戦のソ連も同様でした。緒戦こそドイツ軍の奇襲にやられましたがすでに戦車工場などの重要軍事工場の大半はウラル山脈近郊に移しておりバクーの石油もカスピ海を通ってウラル方面への輸送路が確保してありました。ドイツ軍は、深く攻め込めば攻め込むほど補給路が延び切り、そこをパルチザンにやられます。ドイツ軍がモスクワ前面に達した時には、ソ連軍は万全の態勢で待ち構えていたのです。
 兵器の面でも、ドイツ空軍のメッサーシュミットMe109F戦闘機はソ連空軍のラボーチキンLaG‐3やポリカルポフI-16、ミコヤングレヴィッチMiG-3などを圧倒しますが、ソ連空軍は数で対抗します。陸軍に至っては76.2㎜砲を搭載し前面装甲100㎜以上を誇るKV-1重戦車、同じく76.2㎜砲搭載で傾斜装甲と曲線を多用した防楯など理想的避弾経始を持つT-34中戦車が登場します。T-34は、幅広の履帯で接地圧が低く泥濘の中でも自由に動き回れる傑作戦車でした。
 一方それまで主力だったドイツⅢ号戦車の主砲50㎜60口径砲では、これらソ連新鋭戦車の装甲を撃ち抜く事ができません。Ⅳ号戦車も75㎜砲搭載ながら短砲身(24口径)で対抗できませんでした。ドイツ軍はT-34ショックを受けⅣ号戦車の長砲身化を進めますが75㎜43口径砲搭載のF2型はモスクワ戦の段階では前線に届いていませんでした。T-34を容易に撃破できる75㎜70口径砲搭載のⅤ号戦車パンター、88㎜56口径砲搭載の重戦車Ⅵ号戦車ティーガーⅠも開発中で戦場に登場するのは1942年の中盤以降。
 冬将軍の前触れの泥濘、延び切った補給線、待ち構えるソ連軍の重厚な防御陣地、モスクワ攻略を目指すドイツ軍に立ちふさがった状況は厳しいものでした。1941年10月2日、ついにモスクワ攻略を目指す「タイフーン作戦」が発動します。主攻は中央軍集団ですが、広大な戦域のため北方軍集団と南方軍集団が両翼からこれを助けました。中央軍集団の先鋒はグデーリアン上級大将率いる第2装甲集団。

 待ち構えるソ連軍は北から北西方面軍、カリーニン方面軍、西方正面軍、ブリヤンスク方面軍を並べました。とくにもっとも重要な西方正面軍司令官にはソ連軍のエースとも言うべきゲオルギ―・イワノビッチ・ジュ―コフ大将を配します。

 北方では第3装甲集団、第4装甲集団がヴィアーズマでソ連軍部隊を包囲、南方でも中央軍集団がオリョールを、南方軍集団がブリヤンスクを攻略しモスクワへの包囲の輪を狭めました。やはり個々の兵器の性能では劣勢でも兵士の質と組織戦ではドイツ軍に一日の長があります。モスクワ陥落は時間の問題かとも思われました。

 ところが11月に入って、この地方に例年よりも早い厳しい冬が訪れます。道路は凍結し防寒装備も十分でなかったドイツ軍は凍傷で多くの兵士を失いました。ソ連兵は環境に慣れているので被害はほとんどなく冬将軍は一方的にドイツ側に襲いかかります。延び切った補給線もパルチザンの出没と猛吹雪、凍結した道路に阻まれ深刻な燃料不足に陥りました。

 ここがドイツ軍の攻勢終末点です。12月5日、満を持したジュ―コフは総反撃を命じました。疲れ切ったドイツ軍にこれを支えきれる力は残っていません。中央軍集団の先鋒第2装甲集団はモスクワからわずか50kmの地点まで到達していました。が、ここで力尽き無念の撤退を選択します。全戦線で後退を始めるドイツ軍ですが、さすがに全面崩壊にはならず粛々と下がります。ソ連軍に付け入る隙を与えない見事な撤退戦でした。

 ヒトラーは死守命令を下しますが、現実的には不可能で後退は止まりません。怒り狂ったヒトラーは多くの有能な軍司令官を罷免、自らが陸軍総司令官に就任します。戦車戦術の父といわれるグデーリアンもこの時首になった一人でした。以後、彼は装甲兵総監として後方で装甲車両の生産や戦車兵の育成などを受け持つ役目に復帰しますが、二度と前線に出る事はなかったのです。

 モスクワ攻撃失敗でソ連の早期攻略を断念したドイツ軍。その矛先は南方に向けられます。ヒトラーの目の先には当時世界最大の油田地帯バクーがあるコーカサス地方がありました。そのためには、コーカサスへの入り口で軍需産業と南方ソ連軍の通信指揮中枢が集まる重要都市、独裁者本人の名前を冠したスターリングラードを攻略しなければなりません。

 次回、独ソ戦の転換点となったスターリングラード攻防戦を描きます。

ドイツの戦争Ⅵ  バルバロッサ作戦

 バルバロッサ(赤髭)とは神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサのこと。ボヘミアとハンガリーを神聖ローマ帝国の影響下に置いた事から、同じスラブ民族への戦いとしてふさわしいと見られ作戦名となりました。
 もともとヒトラーもスターリンも独ソ不可侵条約を結んでいながら、疑心暗鬼で敵が先制攻撃するのではないかという恐怖心を持っていました。案外知られていない事ですがスターリンもまた1943年頃にはドイツへの侵攻を計画していたと言われます。ヒトラーの方が先んじたというだけ。全体主義と共産主義は所詮に相容れない存在でした。
 ヒトラーの場合は、アーリア人優越主義からソ連を含む東方はアーリア人の生存圏であり支配する権利があるという歪んだ考えもソ連侵攻を決めた理由です。本来ならバルバロッサ作戦は少なくとも2カ月前に発動する予定でした。ところが同盟国イタリアが、ギリシャに手を出ししかも敗退したためドイツはバルカン半島に介入せざるを得なくなります。連合軍がドイツの腹背であるバルカン半島に進出する事は、ハンガリーとルーマニアの油田に頼っているドイツの戦争遂行上も危険でした。
 ヒトラーの本音としてはハンガリーにもルーマニアにも中立を保ってもらって石油だけ輸出してもらうのがベストだったと思います。しかしこれらは枢軸国に参加し、イタリアまでがギリシャで大失敗したとなるとドイツ軍が直接出ていくしかなかったのです。バルカン作戦は1940年9月から1941年5月まで続きます。ドイツは何とかバルカン半島から連合軍を叩きだす事に成功しますが、そのために貴重な時間を空費しました。もし独ソ戦開始が2カ月早かったらモスクワ攻略は成功していた可能性が高いと思います。冬将軍が来る前にモスクワ前面に到達できたでしょうから。その意味では皮肉な見方ですがソ連はイタリアに感謝しなければいけませんね。
 1941年6月22日、バルバロッサ作戦発動。ドイツ軍は146個師団300万の兵力を北から北方軍集団(レープ元帥)、中央軍集団(ボック元帥)、南方軍集団(ルントシュテット元帥)の3つの軍集団に分けソ連に襲いかかります。装甲戦闘車両3580両、輸送車両60万両、各種火砲7184門、馬匹75万頭、航空機1800機という巨大な戦力でした。
 スターリンは、この時独ソ不可侵条約を過信しすっかり油断していました。兵力的にはドイツ軍より多かったのですが、有効な防御命令を出しておらず完全に奇襲となります。ドイツ軍は北方軍集団がレニングラードを目標とし、中央軍集団はモスクワを目指しました。南方軍集団はウクライナの重要都市キエフ攻略から戦争遂行に欠かせないバクーの石油獲得を目指しコーカサス地方に到達する予定です。
 防衛戦の準備をしていなかったソ連軍は、機動力で上回るドイツ軍に圧倒され各地で孤立、包囲殲滅されていきます。中央軍集団は早くも6月28日には白ロシア(現在のベラルーシ)の首都ミンスクを包囲しました。北方軍集団も9月30日レニングラード郊外に到着します。南方軍集団だけは、ソ連がウクライナの穀倉地帯とその背後のコーカサスの石油を守るため重厚な防衛陣を布いておりやや苦戦しました。
 中央軍集団から派遣された第2装甲集団(後の第2装甲軍、グデーリアン上級大将)は、南下し南方軍集団のキエフ包囲作戦に参加します。キエフ方面には南方軍集団隷下の第1装甲集団(クライスト上級大将)がおり、一時的にこの方面に対ソ投入兵力半数の機甲部隊が集結します。ソ連軍は50個師団がキエフ包囲網の中に取り残されました。南方軍集団は9月26日総攻撃を開始し、激戦の末捕虜66万5千名、捕獲戦車800両以上という空前の戦果を上げて勝利します。
 北方軍集団は、レニングラードを包囲するもののラドガ湖があるために完全に包囲できず、逆にソ連側はラドガ湖を使ってレニングラードの補給線を維持しました。この方面は膠着します。南方軍集団はキエフ攻略後クリミア半島に進出、対仏戦の作戦案を提出したマンシュタイン上級大将(第11軍司令官)がここでも活躍し、空前の重砲を大集結させ難攻不落と言われたセバストポリ要塞攻略に成功しました。マンシュタインはこの功績により元帥に昇進します。
 後はソ連の首都で政治軍事の中枢であるモスクワを攻略するだけです。これは中央軍集団の役目でした。ところが季節はすでに10月に入っていました。この年の冬は例年より早く来たといいます。本格的な冬の到来の前は長雨が続き、地面は泥濘に覆われました。快進撃を続けるドイツ軍はここで進撃のスピードが緩みます。首都モスクワを守るためソ連軍の抵抗も激しさを増してきました。
 独ソ戦の帰趨はドイツ軍がモスクワを攻略できるかどうかにかかっていました。次回、モスクワを巡る独ソ両軍の戦い『タイフーン作戦』を描きます。

ドイツの戦争Ⅴ  バトルオブブリテン

 フランス作戦成功の後、当然ドイツ軍はイギリス侵攻作戦を計画しました。作戦名は「ゼーレ―ヴェ(あしか)」。陸続きのフランスは陸軍が領土を占領すれば勝てますが、島国のイギリスは周囲が海であるため上陸するにもまずイギリス海軍をなんとかしなければいけません。ところが、イギリス海軍は世界三大海軍国(他は日米)の一角で欧州最強。誕生したばかりの新生ドイツ海軍では勝負になりませんでした。
 ヒトラーもこの弱点は承知しており、イギリスに和平を打診しますがナチスと妥協するつもりが一切ないチャーチル首相に一蹴されます。ドイツ軍が採った作戦は、どうせ海軍で敵わないなら上陸するため一時的にドーバー海峡の制海権を奪えば良い。そのためには航空攻撃でイギリス本土を空爆し弱らせ制空権を握れば、ド―バー上空の制海権も同時に取れるのではないかと考えたのです。
 1940年7月16日ゼーレーヴェ作戦前段階の航空作戦が開始されます。ドイツ空軍は第2航空軍(ケッセルリンク元帥)、第3航空軍(シュペルレ元帥)、第5航空軍(シュトンプ上級大将)をフランス、オランダ、ベルギー、ノルウェー沿岸に終結させました。その兵力は合わせて戦闘機1000機、爆撃機1600機。これに対しイギリスは戦闘機52個中隊900機を動員します。数の上では劣勢でしたが、イギリスには新技術のレーダーがありました。
 イギリスは、南部にレーダー基地を多数設けそこで集めた情報を情報解析室に送り作戦室で総合的な迎撃作戦を策定し各航空基地に命令するという近代的で効率的な防空システムを作り上げていました。イギリスの強みは、こういう新技術を取り入れるのが上手いところです。どうしようもない旧式なシステムを使い続ける半面新しい技術に対しても即座にそして有効的に対応できるのはアングロサクソンの民族的に優れたところでしょうか?
 当時のドイツ空軍の主力戦闘機はメッサーシュミットMe109E型。一方イギリス空軍の主力戦闘機はスーパーマリン・スピットファイアMkⅠ。独英を代表する名戦闘機で総合能力は互角。ただ敵本土にドーバー海峡を渡って侵攻しなければならないMe109の方が不利でした。欧州の機体は航続距離が短いという欠点があります。これは陸続きの欧州では長大な航続距離を必要としない事が理由でした。
 空爆の主役であるハインケルHe111、ドルニエDo17、ユンカースJu88の各爆撃機は十分な戦闘機のエスコートを受けられません。Me109Eは、イギリス上空で30分しか空戦時間が無かったそうです。一応、ドイツにも長距離戦闘機のメッサーシュミットMe110がありましたが、双発で鈍重な機体は逆にMe109の護衛を受けなければならないという本末転倒の結果になります。
 イギリス空軍は俊敏なスピットファイアがMe109の相手をし、やや旧式のホーカー・ハリケーンが爆撃機を攻撃するという二段構えでドイツ空軍を待ち受けます。レーダー防空システムでこれを効率的にやられればドイツ空軍は手も足も出ません。空爆でロンドン始めイギリス南部に大きな損害を与えるも、ドイツ空軍の損害もまた増大し続けます。
 バトルオブブリテン(イギリス本土の戦い)の本格的な開始は7月末。8月13日には「鷲の日」と呼ばれるドイツ空軍の1000機を超える大襲撃が行われました。8月末にはドイツ空軍がほぼ制空権を握ります。この時は、ドイツ空軍の目標が敵の航空基地とレーダー基地だったためイギリス空軍は苦境に陥ります。ところが、ヒトラーは制空権掌握に気を良くしイギリスを完全に屈服させるために爆撃目標をロンドンなどの都市に変更させました。
 確かにイギリス国民への心理的圧力にはなったと思いますが、この目標変更はイギリス空軍に一息つかせるには十分でした。盛り返したイギリス空軍の反撃によって、ドイツ空軍は損害を増大させます。9月10日までにドイツ空軍は1000機という膨大な航空機を喪失しました。これはドイツ空軍にとって耐えられない数字です。
 イギリス上陸のアシカ作戦は9月10日の予定でしたが、実行不可能となり延期されました。昼間爆撃も損害の方が大きく夜間爆撃に切り替えられます。爆撃自体は1941年5月まで続けられますが、大勢は覆らず実質的に中止されました。以後は逆にアメリカ参戦で戦力増強された連合軍によるドイツ本土空爆に苦しめられる事になります。米軍機は欧州機と違って太平洋での戦闘を想定しているため航続距離が長大で爆撃機の護衛も十分にできました。
 
 しかもドイツのMe110と違って、単発戦闘機とも互角以上に戦えるロッキードP-38ライトニングという双発の優秀な戦闘爆撃機がありました。P-38は同じく戦闘爆撃機のリパブリックP-47サンダーボルトと共に「ヤーボ(Jabo)【戦闘爆撃の事】」と呼ばれ恐れられます。ドイツ軍も1941年8月新鋭のフォッケウルフFw190戦闘機を投入し一時的には制空権を奪い返しますが、長くは続きませんでした。
 ヒトラーは、イギリスを屈服させられないままソ連侵攻へと突き進みます。しかし米英連合軍は着々と反撃の機会を狙っていました。まずは北アフリカで、次いでイタリア半島で、そして1944年6月6日ノルマンディ上陸作戦へと向かうのです。
 次回は、ソ連への本格的侵攻である『バルバロッサ作戦』を描きます。

ドイツの戦争Ⅳ  北アフリカ戦線

 フランス侵攻作戦の後、時系列的にはバトルオブブリテン(1940年7月~1941年5月)を描くのが自然ですが、イタリア参戦を書いたので、その後のイタリア軍の動きとそれに関連する北アフリカの戦いを描きます。
 1940年6月10日、イタリアは中立をやめ枢軸国側で参戦しました。これはムッソリーニが快進撃を続けるドイツの尻馬に乗ろうとした、ヒトラーの大成功に嫉妬したなど様々な理由が挙げられます。参戦はイタリア軍幹部にとっては寝耳に水でした。というのも全く戦争の準備ができていなかったからです。一応兵力だけは陸軍が歩兵師団60個、自動車化歩兵師団2個、機甲師団3個、騎兵師団3個、山岳師団2個。空軍も1800機の航空機を保有していました。海軍に至っては新鋭戦艦ヴィットリオ・ヴェネト級を始め有力な艦艇を持ちイギリスのH部隊(根拠地ジブラルタル)と地中海艦隊(根拠地アレキサンドリア)を合わせたものより強力でした。
 ところが燃料弾薬の準備が全くできておらず、戦争を想定した軍需物資の生産体制すら整っていなかったのです。こんな状態で勝てるはずありません。イタリア軍はドイツ軍に圧倒され瀕死の状態だったフランスに襲いかかりますが、国境を越えたイタリア軍はアルプスに駐屯する少数のフランス守備隊に敗退します。フランス軍が強いのかイタリア軍が弱すぎるのか?
 懲りないムッソリーニが次に目を付けたのは北アフリカとギリシャでした。まずギリシャでは当然のごとく敗退しヒトラーに泣きついたため、ソ連への侵攻を準備していたドイツ軍はバルカン作戦をせざるを得なくなります。北アフリカの状況はさらに破滅的でした。
 当時イギリスはエジプトに第7機甲師団、第4インド歩兵師団などわずか3万5千人しか兵力を置いておらず、ムッソリーニの目には美味しい獲物に見えたのでしょう。ムッソリーニはエジプトの隣国、植民地リビアに20万の兵力を集結させました。1940年6月28日、ムッソリーニはエジプト進撃を命じます。ところが準備の整っていないイタリア現地軍が実際に行動に移したのは9月13日。しかも国境から100km進んだシディ・バラニで次の補給を待つため停止してしまいます。エジプトの英中東軍は、このため万全の準備を整えていました。
 1940年12月8日、英中東軍はコンパス作戦を発動します。第7機甲師団、第4インド歩兵師団を主力とした部隊が油断しきっていたイタリア軍駐屯地を奇襲したのです。イタリア軍は大混乱に陥りました。潰走するイタリア軍を10分の1以下の英中東軍が追撃するという信じられない光景が出現します。6日後には英軍は早くもエジプト国境を越えリビアに雪崩れ込んでいました。1941年1月3日、エジプト国境に近い沿岸部のバルディアに追い詰められたイタリア軍は、第5オーストラリア歩兵師団を加えたイギリス軍に空陸から猛攻を受け大敗、リビア全土の失陥は時間の問題となります。
 たまりかねたムッソリーニは恥を忍んでヒトラーにドイツ軍派遣を要請します。ドイツ軍はエルヴィン・ロンメル中将を司令官とするドイツ・アフリカ軍団を編成し、まず2月に第5軽歩兵師団、ついで5月には第15装甲師団を派遣しました。空軍からも第10航空軍団がシチリア島とリビアのトリポリに送り込まれます。
 エルヴィン・ロンメル中将(1891年~1944年)は、ユンカー(土地貴族)ではなく中産階級出身、有能な軍人でヒトラーのお気に入りでした。一時はヒトラーの護衛隊長にも任命されています。フランス戦役では第7装甲師団長として活躍、今回のアフリカ軍団長起用は抜擢でした。といってもドイツ軍の主目的はあくまでソ連。北アフリカは支作戦に過ぎません。ドイツ軍中枢としても継子扱いのアフリカ軍団にロンメルを起用したのは自然だったかもしれません。
 このころ、英中東軍も予想外の快進撃で補給線が延び切っていました。10万単位のイタリア兵を捕虜とし、人数よりエーカー単位で数えた方が早いと揶揄されたほどでした。イギリス側は当然ドイツ軍のリビア派遣を知っていましたが本格的反攻は5月以降だと判断します。しかしロンメルは早くも3月から行動を開始しました。1940年3月30日、エル・アゲイラで英独両軍はぶつかります。
 機甲部隊を巧みに機動させるロンメルの神出鬼没の戦術に圧倒された英中東軍はエジプト国境近くまで押し戻されました。国境を越えたドイツアフリカ軍団は、エジプトのハルファヤ峠を制圧します。英中東軍は、苦境を打開するため5月バトルアクス作戦を発動、反攻を開始しますがドイツ軍も激しく反撃し痛み分けに終わりました。
 一方、リビア北東の要衝トブルクではイギリス軍守備隊が包囲され孤立します。英中東軍はトブルク解放を目指し1941年11月クルセイダー作戦を開始しました。ドイツ軍もまた補給線が延び切っておりロンメルの快進撃はここで頓挫します。実は地中海の制海権は依然としてイギリスが握っていました。兵力で勝るイタリア海軍は、旧式戦艦しかない英地中海艦隊に敗北し軍港に閉じこもります。イタリア本土とリビアを結ぶマルタ島は要塞化され、独伊空軍の空爆でも陥落させられませんでした。ドイツ・アフリカ軍団のアキレス腱はまさに補給線です。
 この弱点がじわじわとドイツ軍を苦しめ始めていました。待望の第21装甲師団の到着で装甲2個師団体制になったアフリカ軍団でしたが、アメリカからの莫大な軍事援助を受け戦力を増強させた英中東軍との差は開くばかりだったのです。クルセイダー作戦は成功し、トブルクを含むキレナイカは再びイギリスの手に落ちます。1942年1月エル・アゲイラまで撤退した枢軸軍は、補給を整え再び反攻に転じました。6月21日トブルク要塞陥落。
 この北アフリカのシーソーゲームは、補給が原因でした。砂漠地帯ですから飲料水さえ補給に頼らざるをえません。攻勢に移ればそれまで備蓄していた物資を消費し進撃がある時点でストップします。そこへ撤退しながら物資を蓄積した側が反攻に転じるのです。英第8軍司令官にバーナード・モントゴメリー中将が就任します。アメリカから送られてきたM3リー、M4シャーマンなど新鋭戦車を集結させたモントゴメリーは、1942年10月エル・アラメインで総攻撃を開始しました。作戦名は「スーパーチャージ」。慎重なモントゴメリーは敵の3倍の兵力と十分な補給が無ければ攻勢に移さない性格で、この時もそれが十分に発揮されます。こうなるとロンメルの個人的な戦術では覆せないようになりました。
 枢軸軍にとって、苦境に拍車を掛けたのは1942年11月、トーチ作戦が始まった事です。アメリカ軍はついに重い腰を上げアルジェリアに大規模な上陸作戦を敢行します。兵力22万、戦車1000両、火砲1000門、航空機1200機という巨大な戦力は北アフリカの戦局を一気に変えるに十分なものでした。それでもチュニジアではドイツ軍が一時はアメリカの大軍を押し戻します。が、多勢に無勢。西からはアメリカ軍、東からはモントゴメリー率いる英第8軍に挟撃されたドイツアフリカ装甲軍(軍団から昇格)とイタリア軍はチュニジア北東部に追い詰められました。
 そんな中司令官のロンメル元帥(トブルク攻略で昇進)は、ヒトラーに本国へ呼び戻されます。貴重なロンメルを失わないための方策でしたが、これで北アフリカの枢軸軍はさらに士気を低下させました。1943年5月チュニジアの枢軸軍壊滅、北アフリカにおけるドイツアフリカ軍団の戦いはここに終結します。以後、南部戦線はシチリア島、そしてイタリア本土へと戦場を移しました。
 次回、少し時間を遡りバトルオブブリテンを描きます。

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