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2016年3月

2016年3月18日 (金)

越後長尾氏の興亡Ⅷ   景勝の章(後編)   - 終章 -

 御館の乱の間も越中では織田軍の侵攻が続いていました。上杉家の越中松倉城代河田長親は妻の父が景虎方の北条高広で叔父河田重親も景虎に味方していたため最初は中立を保ちます。信長は長親に対し「味方に付けば越中一国を与える」と誘いますが、長親はこれを断り景勝に味方して越中戦線を守り抜きます。
 信長は、御館の乱の大勢が決した後も景虎方の神余(かなまり)一族に誘いの手を伸ばしていました。神余氏が最後まで抵抗したのも織田家の加勢を当てにしての事だと思います。信長の凄みはもともと景勝方だった揚北衆の新発田重家すら裏切らせた事です。このように信長は絶対有利な状況でもさらに敵を追い詰め勝利を確実なものにしました。
 天正九年(1581年)河田長親は松倉城で病死します。越中における織田家に対する最後の支えがなくなりました。織田勢はこの機を逃さず攻勢を強めます。上杉方は越中に残された最後の拠点魚津城に立て籠もりました。柴田勝家率いる織田勢四万、一方魚津城の上杉勢四千弱。誰が見ても落城は時間の問題でした。
 その頃景勝は、領内で新発田重家の反乱に悩まされながらも魚津城救援のため一万の兵を率い越中に入ります。天正十年六月、破局は刻一刻と迫りつつありました。上野では関東管領滝川一益が越中への侵攻を準備し、川中島の森長可勢五千はすでに越後に侵入し春日山城に到着寸前でした。上杉方は決定的に兵力不足でした。恐らく景勝自身も内心ではもう駄目だと覚悟していたはずです。
 魚津城は六月三日、ついに陥落します。山本寺孝長、吉江宗信ら上杉方の主だった将は自害しました。魚津城攻略の酒宴に沸き立つ織田勢に驚愕の報告が入ります。さる六月二日、主君織田信長が家臣明智光秀のために京都本能寺で襲撃され亡くなったというのです。驚愕した織田勢は、すぐさま兵を引きます。しかし富山城には勇将佐々成政を残し上杉方に付け入る隙を与えませんでした。上杉勢も追撃する余力などなく、ただ信長の死去に安堵するのみです。
 ギリギリのところで滅亡を免れた上杉景勝。しかしなお新発田重家の反乱は継続していました。おそらく信長が本能寺で死んでいなかったら武田勝頼と同様景勝もこの時滅んでいたでしょう。皆さんは直江兼続の名前がなかなか出てこない事にお気づきでしょうか?実は兼続の名前が歴史に出てくるのは御館の乱で景勝が勝利した後。それまでは上田長尾氏の家臣樋口与六でしたから陪臣の身ではどう足掻いても活躍は無理です。
 景勝が上杉家の当主となったために、側近の兼続にもようやく陽が当たり始めました。最初は外交官として活動します。本能寺の変の後織田家では跡目争いが起こりました。羽柴秀吉は天正十一年(1583年)賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を破り織田家の実権を握ります。秀吉はそのまま越前に入り北ノ庄で宿敵柴田勝家を滅ぼしました。勝家方の佐々成政は秀吉に敵対を続けました。
 そこで秀吉は背後の上杉景勝に目をつけます。成政を挟み撃ちすべく秘かに越後に使者を送りました。使者は石田三成です。上杉家では直江兼続が応対しました。信長の死後、関東中部では信長の遺領を巡る天正壬午の乱が起こります。景勝もこれに関与していたのですが、秀吉といち早く結んだのは先見の明でした。
 兼続と三成は初対面にもかかわらず意気投合し友情を結びます。おそらく互いに才気タイプで馬が合ったのでしょう。最初は秀吉との同盟を結び、秀吉の勢力が大きくなってくると臣従しました。上杉家の実力から言ってこれは妥当な判断だったと思います。逆に秀吉の力を見誤った北条氏は滅ぼされる事となります。
 小牧長久手の戦い、その後の秀吉による越中攻めにも景勝は背後を固め秀吉を助けました。天正十四年(1586年)六月、景勝・兼続主従は上洛し秀吉に拝謁します。景勝は従四位下左近衛権少将に叙せられ兼続もまた従五位下山城守に任ぜられました。これで上杉家は完全に豊臣政権に組み込まれます。
 実はこの時もまだ新発田重家の反乱は続いていました。重家が何故ここまで抵抗できたかですが、実は背後の伊達輝宗が信長と結び支援していたからです。伊達氏が蘆名氏と抗争を始め援助が止まったことでようやく重家は苦しくなってきました。天正十二年秀吉の支援を受けた景勝は一万の兵を率いて出陣します。新発田勢と当時湿地帯だった要地新潟を巡り激しく戦いました。豪雨が発生し上杉勢は敗北します。
 上杉方は、信濃川の支流中ノ口川を土木工事で開削することで氾濫を治め新発田勢を撤退に追い込めました。これは兼続の策だと言われますがはっきりとは分かりません。上杉勢は重家を本拠新発田城に追い詰めました。籠城する新発田勢ですが兵糧が尽きたためについに落城します。重家は最後の日、酒宴を催し自ら兵を率いて打って出、討死しました。6年にもわたる長き戦いの終焉でした。
 謙信時代、数カ国に渡る領国を持ち大きな力を誇った上杉家ですが、御館の乱とこの新発田重家の乱で国力はぼろぼろとなります。とても他国に進出できる状況ではありませんでした。その領土も越後一国に縮小します。それでも秀吉に臣従したことで家名は残せました。天正十七年(1589年)には本間氏を討って佐渡攻略、出羽へは最上義光との激しい攻防のすえ庄内三郡を獲得します。これも秀吉の許可、あるいは黙認が無ければ不可能でした。信濃川中島四郡も貰い合わせて九十万石の所領となります。
 天正十八年(1590年)の小田原攻めでは豊臣方の北陸方面軍主力として前田利家と共に関東に侵攻、小田原の北条氏政、氏直父子を滅ぼす原動力となります。皮肉な事に謙信の悲願だった北条氏打倒は景勝が秀吉に臣従して初めて実現したのです。もちろん豊臣政権下では関東管領という室町幕府の古い役職は存在しません。上杉とは名乗るものの、正当な関東管領である山内上杉憲政を殺している景勝には関係ない話でした。おそらく景勝は最後まで上田長尾氏当主という意識だったかもしれません。
 上田衆の悲願だった宿敵栖吉長尾氏を滅ぼし、越後長尾氏の嫡流を上田長尾家へ持ってくる事に成功したのです。景勝は非業の最期を迎えた父政景を思い出す事もあったでしょう。最後に小田原役後の上杉家を語ります。文禄元年(1592年)朝鮮出兵では五千の兵を率い渡海しました。これは東国大名では珍しく、それだけ景勝が秀吉の信頼を得ていたのでしょう。文禄四年には小早川隆景隠居に伴い空席になった五大老に就任。
 関東に転封された徳川家康の抑えとして会津を領していた蒲生氏郷が急死すると、徳川への抑えとして景勝が浮上しました。慶長三年(1598年)秀吉は上杉家に対し会津への転封を命じます。旧蒲生領に庄内三郡、佐渡を合わせ120万石の大大名となりました。会津転封の話を聞いた時上杉家中では関東により近くなると喜んだそうですがすでにそういう時代ではありませんでした。おそらく実際は父祖の地である越後を離れる事を皆嫌っていたはずで、直江兼続あたりが秀吉に無用の猜疑心を起こさせないために流した話かもしれません。兼続は特に秀吉の命で米沢30万石を領する事となりました。
 その後、秀吉死去。景勝は家康と対立し会津征伐、関ヶ原合戦へと時代は進みます。石田三成を首謀者とする西軍は敗れ三成と同盟していた(と言われる。はっきりとした証拠はない)上杉景勝は、改易の危機を迎えました。関ヶ原における上杉家の戦いについては書く機会もあると思いますが、ここでは簡単に紹介するにとどめます。
 上杉家は、兼続が家康へ陳弁に努めたため存続を許され兼続の領地だった米沢30万石に減封されました。1341年長尾景忠の越後侵攻から始まった越後長尾家。会津転封が1598年ですから257年の歴史です。この間主家越後上杉家も山内上杉家も滅びました。景勝が継いだ上杉家は、謙信から始まる新しい上杉家です。上杉家は米沢で紆余曲折がありながらも幕末まで続きます。景勝の去った越後は、多くの大名家に分割され近世を迎えました。そして越後は新潟県となっていくのです。
                                                                        完

越後長尾氏の興亡Ⅷ   景勝の章(前編)

 戦国時代の巨星上杉謙信の死は越後のみならず上杉領国全体に衝撃をもたらしました。通常なら実子が家督を継ぎ領国を引き継ぐのですが、謙信には実子がいなかったのです。謙信には二人の養子がいました。一人は、実姉仙桃院と上田長尾政景との間に生まれた喜平次景勝。もう一人は北条氏康の七男景虎です。生前、謙信は越後国主の地位を景勝に譲り景虎には関東管領職を与える予定でした。
 景虎は北条家から迎えた養子なので、謙信の血縁(姉の子)である景勝ですんなり決まるはずです。ところがそう上手くいかないのは景勝が謙信に最後まで敵対した上田長尾政景の子だという事でした。謙信政権を実質的に誕生させたのは上田長尾家と並ぶ有力庶家栖吉長尾家で当主景信は上杉の姓まで貰っていました。
 栖吉長尾家と上田長尾家は仲が悪く合戦騒ぎも過去に起こしているくらいですから、一門筆頭の景信は真っ先に景虎支持を表明します。宿敵上田衆が担ぐ景勝に跡目を継いでもらっては困るのです。景信の動きを見て上野厩橋城主北条高広・景広父子、同沼田城主河田重親、越後鮫ヶ尾城主堀江宗親、栃尾城主本庄秀綱、三条城主神余(かなまり)親綱らが同調しました。これに景虎の実家北条氏政(景虎の兄)、武田勝頼、蘆名盛氏などが後援します。
 景勝側には、与板城主直江信綱(景綱の娘船と結婚して直江姓を名乗る。総社長尾家出身)、河田長親(重親の甥)、斎藤朝信ら謙信の側近たちが味方に付きました。越後永遠の反体制勢力揚北衆も景勝に味方します。上条上杉政繁も景勝側。ここで景勝の腹心とも言うべき直江兼続の名前が無いのに気が付かれるでしょう。本来兼続は宿老直江景綱とは何の関係もありません。当時は樋口与六と名乗り上田長尾家の家来でした。幼少期から景勝につき従っていたため側近となっていたのです。
 兼続が直江姓を名乗るのは、景綱の婿養子信綱が天正九年(1581年)春日山城内で非業の死を遂げ未亡人となった船と再婚してから。景綱の婿養子となり名門直江家を継ぎます。この時の兼続の立場は、景勝に従って春日山城に入っていた上田衆を束ねる役目で、軽輩と言っても良い身分でした。
 天正六年(1578年)三月謙信の正葬も終わらぬ中、景勝は機先を制し春日山城の本丸を制圧し城の金蔵と兵糧を確保しました。出遅れた景虎は、本丸に入ろうとして上田衆の鉄砲に阻止されます。仕方なく景虎は城を出て府中上杉憲政の屋敷(御館)に入って憲政に保護を求めました。景虎が御館を本拠としたのでこの乱を御館の乱と呼びます。
 越後を二分した大乱で両軍は各地で激しい戦闘を繰り広げました。国内的には景勝が優勢でしたが、景虎には北条氏、武田氏が付いていたため勝敗の行方は分かりません。六月、北条氏政は妹婿武田勝頼に信越国境への出兵を依頼します。景勝絶体絶命の危機です。景勝側は、勝頼に上野における上杉領を割譲するなど大幅譲歩した和睦案を提示しました。景勝の正室に勝頼の妹菊姫を迎える条件で和睦が成立。勝頼にとって景虎側が勝っても北条氏の勢力が伸びるだけで自分には何のメリットもなかったので、景勝側は勝頼の心理をうまく衝いたのでしょう。武田勢が介入から手を引いた時点で景勝側に有利となりました。武田氏は中立を宣言しても、北条氏政としては危なくて越後に遠征などとてもできないからです。留守中に攻められる可能性がありますからね。
 六月十一日、居多浜の戦いで景勝方の有力武将上杉景信が景勝側の山浦国清と戦って討死しました。栖吉長尾家は彼の死によって断絶します。家督は河田長親が継ぎますが、長尾姓を名乗らなかったため栖吉長尾家は完全に消滅しました。伊達輝宗、蘆名盛氏の援軍も撃退され大勢は景勝有利に傾きます。
 八月徳川家康が武田領駿河に侵攻、勝頼が身動きとれなくなったのを見て九月ようやく北条氏政は弟氏照・氏邦を大将とする軍勢を越後に送り込みました。ところが景勝の本拠坂戸城は頑強に抵抗し北条勢は攻めあぐねます。冬が到来し北条勢はぐだぐだのうちに撤退しました。結局北条方も越後情勢など他人事だったのでしょう。景虎方には最後のチャンスでしたが、これも潰えます。
 翌天正七年(1579年)二月、景勝は御館に籠城する景虎勢に総攻撃を開始しました。上杉憲政は和睦を求め景虎の長子道満丸を伴い景勝の陣に赴きます。ところがそこで道満丸と共に斬られました。関東管領・山内上杉家嫡流最後の当主上杉憲政非業の死です。御館は景勝勢によって火を掛けられ景虎は辛くも脱出し鮫ヶ尾城に逃げ込みました。ところが鮫ヶ尾城主堀江宗親はすでに景勝側に寝返っており堀江勢に攻められた景虎は二十四日、自害して果てます。亨年27歳。
 御館の乱は景勝の勝利に終わりますが、本庄秀綱、神余親綱らは抵抗を続け完全に乱が鎮圧されたのは天正八年(1580年)でした。こうして越後国主の地位を奪取した上杉景勝ですが、前途は多難です。まず北陸では織田信長が重臣柴田勝家を大将とし上杉方の属城を次々と攻め落としていました。もともと上杉領となって日が浅い加賀、能登は瞬く間に織田方に奪われます。越中が上杉家最後の防衛戦でしたが、信長は越中に所縁の神保氏などを送り込み扇動させました。
 越中に入った織田勢は四万を数えます。そして天正十年(1582年)十七万という空前の大軍を動員した織田信長によって武田勝頼が滅ぼされました。戦後、上野には関東管領職を拝命した滝川一益が、北信濃には川中島四郡を貰った森長可と織田方が越後の西、南、東を囲みます。絶体絶命の危機でした。
 景勝はどのように危機を脱するのでしょうか?次回越中における上杉・織田の戦いと景勝の会津転封までを描きます。

越後長尾氏の興亡Ⅶ   謙信の章(後編)

 永禄四年(1561年)第四回川中島の合戦は、その後の中部・関東地方の情勢を決定づけた戦いでした。上杉謙信は、府中に近い北信濃を失った事で、宿敵北条氏康の本拠小田原城に長駆遠征できなくなります。難攻不落の小田原城を攻めている間に、もう一人の宿敵武田信玄に本拠府中を攻められるからです。以後、謙信の関東における活動範囲は上野を中心に武蔵北部と下野西部に限定されました。
 これは信玄・氏康の作戦勝ちだったと言えます。信濃を完全に制圧したい信玄と関東における謙信の活動を抑えたい氏康の利害が一致した結果でした。川中島の戦いが終わって二カ月後、早くも氏康は行動を開始します。謙信は戦いの傷も癒えぬまま再び関東に出陣せざるを得ませんでした。
 
 氏康が巧妙なのは、関東の戦いにも信玄を引き込んだ事です。氏康は、上野攻略の野望を諦めたかのように見せ、信玄に西上野出陣を促します。おそらく氏康の本心は、難敵謙信を武田勢に丸投げし自分は武蔵を完全に固め下総・上総方面に進出しようという考えだったように思います。永禄七年(1564年)、川中島最後の戦いとなる第五回合戦も上杉武田両軍は睨みあいに徹しました。
 永禄七年という年は、もう一つ大きな事件が起こります。上田長尾政景の事故死です。野尻湖で宇佐美定満と舟遊び中船が転覆して両者溺死したというものでした。野尻湖と言えば信州が有名ですが、戦場真っただ中での舟遊びは考え辛く、政景の本拠坂戸城近くの野尻湖(南魚沼市)あるいは宇佐美定満の居城琵琶島城近くの野尻池が舞台だったという説が有力です。
 政景の死亡は、暗殺説が有力で謙信が首謀者とも言われます。ただ謙信にそこまで政治力があったかは疑問で宇佐美定満の単独犯行説、あるいは定満と謙信家中(謙信本人は知らず)の合意のもとでの犯行だとされます。降伏はしたものの潜在的敵である政景が、謙信にとって邪魔になってきていたことは事実で謙信には事後承諾だったというのが真相かもしれません。実は定満には政景を殺す動機は十分ありました。彼の父とその一族は、政景とその父長尾房長によって殺されたからです。ただしこの戦いの首謀者は謙信の父為景でした。まさかこれで謙信を恨むわけにはいきませんから憎しみの矛先を政景に向けたのでしょう。
 謙信を越後国主に引き上げた栖吉長尾景信は、謙信が上杉姓を継ぐ時同じく上杉姓を拝領しています。しかし謙信に最後まで反抗した長尾政景は、一門でありながら上杉姓を貰えず長尾氏のままでした。政景は、降伏後は謙信に対し二心無く仕えますが、その存在自体が謙信にとっては疎ましかったのかもしれません。
 上田長尾氏の家督は幼い嫡男景勝が継ぎます。景勝の母は謙信の実の姉仙桃院で、血を分けた甥であれば反抗すまいという思惑が謙信家中にあったことは間違いありません。しかも念が入った事に、景勝は謙信の養子として春日山城に留め置かれます。体の好い人質でした。これでは上田衆は絶対に上杉家を裏切れないでしょう。
 信玄は順調に西上野を攻略し、箕輪城の長野業盛を滅ぼします。長野氏は山内上杉家臣で上野における謙信の有力与党でした。武田勢はそのまま東に進み上野南部を完全に平定します。上野に残された謙信の領土は沼田城以北という寂しいものになりました。
 八方ふさがりの謙信でしたが、永禄十年(1567年)風向きが変わり始めます。武田信玄が三河の徳川家康と同盟して今川領の駿河へ侵攻を開始したのです。それまで武田今川北条は婚姻を通じて同盟を結んでいました。ところが今川義元が桶狭間で横死し凡庸な氏真が後を継ぐと、信玄は今川領に野心を抱きます。氏真の妹を正室に迎えていた嫡男義信は強硬に反対しますが、逆に信玄の怒りを買い切腹させられました。
 信玄の背信行為で、北条氏康も武田家と断交します。敵の敵は味方という事で、謙信と氏康は同盟しました。謙信にとっては窮状を打開する策だったのかもしれませんが、彼の本来の目的関東管領として北条氏を滅ぼすという事からすれば、綺麗事を廃し現実を見て信玄と同盟して氏康を叩くべきだったかもしれません。氏康と結んだことで、謙信に期待する関東諸将の心は離れました。常陸の佐竹氏などは、謙信を見限り信玄と同盟します。
 結局、本末転倒の氏康との同盟は元亀二年(1571年)氏康の死と共に消滅します。後を継いだ氏政は父氏康の遺言通り上杉家と断交し再び信玄と結びました。謙信は、北条氏との同盟期間露骨に関東に攻め入る事はできずその矛先を越中に向けます。武田信玄の脅威をそろそろ感じ始めていた織田信長が謙信と接触してきたのもこの頃でした。
 越相同盟が結ばれていた元亀元年(1570年)謙信は氏康の七男氏秀を養子に迎え景虎と名乗らせました。これも実質的には人質でしたが、自分の元の名前景虎を与えたという事は謙信が彼を気に入ったという事でしょう。面白くないのは同じ養子の景勝とその実家上田長尾氏でした。
 元亀二年(1571年)二月、謙信は二万八千の兵を率いて越中に侵攻します。椎名康胤の富山城を攻略し松倉城、守山城も攻めました。康胤は越中一向一揆と結んで謙信に抵抗します。上杉勢と一向一揆は越中を巡って激しく戦いました(越中大乱)。結局謙信が越中を平定できたのは天正四年(1576年)です。
 その間、関東への出兵も繰り返し謙信は文字通り東奔西走しました。謙信永遠の宿敵武田信玄は、西上を図り遠江三方ヶ原で徳川・織田連合軍を破り三河野田城を攻略しますが、行軍途中病にかかり元亀四年(1573年)四月53年の生涯を終えていました。後を継いだ勝頼は天正三年(1575年)三河設楽ヶ原(したらがはら、一般には長篠合戦と呼ぶ)で織田徳川連合軍三万八千に自慢の騎馬隊を壊滅させられます。この時信長は三千挺の鉄砲を準備し火力で武田勢を圧倒しました。
 謙信が信長を意識したのはいつでしょう?最初は信玄に対する牽制の意味で近付いたのかもしれません。しかし、上洛を果たした信長は畿内を中心にこの時すでに四百万石を超える巨大な勢力となっていました。勝頼からも泣きつかれた謙信は信長との決戦を意識し始めたのかもしれません。天正四年(1576年)九月、謙信は越中守護代椎名康胤を討ち取り越中を平定します。そのまま隣国能登に進みました。
 能登七尾城は、能登守護畠山氏の本拠でしたが当主春王丸が幼少だったため重臣長続連(ちょう つぐつら)、綱連父子が実権を握っていました。続連は織田信長と結び謙信に徹底抗戦します。結局七尾城の戦いは翌天正五年九月まで続きました。難攻不落の七尾城はなかなか落城せず、謙信は重臣遊佐続光を内通させて内部から反乱を起こさせようやく攻略します。
 この時、信長は七尾城への援軍として柴田勝家を大将とする五万の大軍(四万という説もあり)を送っていました。ところが加賀に入った頃七尾城落城の報告が織田軍に持たらさせます。援軍の意味が無くなったので織田軍は撤退を考えていました。ところが織田軍接近の報を受けた謙信は、すぐさま加賀に入り手取川で撤退準備に入っていた織田軍を捕捉します。この時の上杉勢は三万五千を数えたと言われますが、もともと戦意の無い織田軍は不意を衝かれ多数の溺死者を出して潰走しました。
 歴史のIFですが、この時謙信が織田軍を追撃していれば信長の運命はどうなったか分かりませんでした。しかし謙信は越前国境で軍を返します。私は、謙信は天下への意志などなくあくまで関東管領として関東平定を最終目標にしていたのだと考えています。でなければこの時の撤退の理由が説明できません。古いタイプの大名だと言ってしまえばそれまでですが、関東管領職と上杉の名跡を継いだ時点で彼の人生目標は決していたと見るべきでしょう。
 謙信は本拠春日山城に帰り、関東への本格進攻を見据え新しく獲得した越中、能登、加賀も含め大動員令を発します。翌天正六年(1577年)三月、雪解けを待って関東入りを目指していた謙信は突如厠で倒れました。脳溢血だったとも言われます。亨年49歳、不世出の英雄のあっけない最期でした。
 次回最終回、謙信死後の家督争い御館の乱を制した景勝、信長の越後侵攻、景勝が豊臣大名に組み込まれ越後を去るまでを描きます。

越後長尾氏の興亡Ⅶ   謙信の章(前編)

 上杉謙信の生涯を眺めると、多くの重臣に裏切られている事に気づかれると思います。謙信ほどの強力な戦国大名がなぜ家臣団を統制できなかったのか長年疑問でした。しかし、経緯を見てみると納得できます。
 謙信(=長尾景虎=上杉政虎=上杉輝虎)が越後国主になったこと自体が、結果的に家臣団統制力を弱めたのです。
 というのも、謙信は正当な越後守護代である兄晴景をクーデターで倒して実権を握りました。そのため謙信の属する府中長尾家家臣団からは浮き上がった存在になります。母の実家栖吉長尾家しか頼れず、一方の雄である有力庶家上田長尾家とは冷戦状態が続きました。謙信を裏切った北条(きたじょう)高広も国衆(在地領主)出身。揚北衆の本庄繁長は潜在的敵対勢力。軍記物で謙信の軍師として有名な宇佐美定行のモデルとされる宇佐美定満、宿老として謙信を支えた直江景綱も外様の国衆で一度は府中長尾家に敵対した経験があります。勇将柿崎景家も国衆で織田信長と通じ謀叛寸前に粛清されました。
 甘粕景持や鬼小島弥太郎は謙信股肱の臣といえますがあまりにも小粒。謙信の越後政権とは、謙信のカリスマで束ねた国衆連合政権だったと見るのが妥当かもしれません。謙信死後家督を巡って壮絶な内戦が起こったのもこれで説明できると思います。謙信だけが、まがりなりにも越後国衆を纏める事が出来た存在なのでしょう。
 さて関東管領職と山内上杉氏の家督を継いだ上杉政虎ですが、本格的に関東情勢に介入する前に北信濃の問題が浮上してきました。信濃守護小笠原家の統制力は北信濃には及ばず長年越後守護上杉氏と守護代府中長尾氏の勢力圏でした。北信濃の有力豪族高梨政頼が強力な為景党だった事でも裏付けられます。
 そこへ甲斐の戦国大名武田晴信(後に出家して信玄)の勢力が伸びてきたのです。晴信は信濃守護小笠原氏を倒し葛尾城の村上義清を圧迫していました。矢面に立たされた高梨政頼は政虎に救援を要請します。天文二十二年(1553年)、政虎は五千の兵を率い北信濃に出兵しました。ここに初めて上杉政虎、武田晴信という生涯のライバルが対峙した事になります。晴信は上杉勢の出動を想定していなかったため警戒し、一旦兵を引きました。
 甲斐に戻り態勢を立て直した武田勢は再び北上し塩田城を落とします。犀川と千曲川に挟まれた三角地帯川中島(長野市)に進出し両軍は小競り合いを演じました。これが第一回川中島合戦で以後五回に渡る上杉武田の戦いが開始します。
 今回の信濃出兵は政虎にとっては威力偵察を目的としたもので、彼の最大の念願は北条氏康を滅ぼして関東管領山内上杉家を再興することでした。政虎は、関東進出の大義名分を得るために弘治4年(1558年)上洛を決意します。今回の上洛をあくまで従五位下弾正少弼任官のお礼言上と社寺参詣として途中の一向一揆、朝倉氏を納得させました。とはいえ五千の兵を率いるという物騒な一面も持ちます。
 京で後奈良天皇に拝謁した政虎は任国(越後)とその隣国の凶徒討伐の勅命を受けます。この時将軍足利義輝にも拝謁していますが、一字拝領して輝虎と改名したのは再度上洛した永禄二年(1559年)の時でした。その後出家して謙信と号しますが、煩雑になるので以後謙信で通します。
 上杉謙信が帰国すると、早くも武田信玄(こちらも煩雑になるので晴信ではなく出家後の信玄で統一)の調略の手が重臣北条高広に伸びており高広は反乱を起こしました。謙信は自ら出馬し鎮圧しますが、降伏した高広を斬れなかったのは越後政権の脆弱性でしょう。そしてこの反乱をきっかけに第二回川中島合戦が起こります。
 謙信は戦う気満々でしたが、信玄は慎重で決戦を避けまたしても膠着状態に陥ります。駿河の今川義元が調停し両者兵を引きました。謙信が念願の関東出兵を実現できたのは永禄三年(1560年)五月のことです。同じ年桶狭間で武田・今川・北条三国同盟の一角今川義元が織田信長に討たれた事を受けての出陣でした。越後勢が上野国に入ると、山内上杉家所縁の諸将が次々と参陣します。こうなると北条方の諸将も勢いを見て次々と寝返り武蔵、相模と南下するに従い雪だるま式に増えていきました。
 翌永禄四年二月、鎌倉を落とし謙信は北条氏康の本拠小田原城を囲みます。その数九万とも十一万ともいわれる大軍でした。氏康は、謙信の勢いとまともにぶつかる愚を避け籠城策を採ります。小田原城は難攻不落で謙信直率の越後勢以外は戦意が低かったため長期戦になりました。氏康は同盟していた武田信玄に使者を送り川中島への進出を依頼します。
 北信濃が陥落すると謙信の本拠府中は指呼の間です。信玄は川中島に海津城を築城し大きな楔を打ち込みました。すでに弘治三年(1557年)第三回川中島合戦が起こっていてその時も睨みあいで終わっています。謙信は、無念にも小田原城から撤退せざるを得なくなりました。引き上げ途中鎌倉で正式に関東管領に就任した謙信は上野厩橋城(前橋市)に留まります。ここでしばらく粘りますが、北信濃情勢が危なくなったためにようやく越後に帰国しました。
 永禄四年(1561年)八月、謙信は今度こそ武田信玄と雌雄を決すべく川中島に出兵します。率いる兵力は一万三千。越後の石高が39万石、だいたい30万石で一万の動員兵力ですから妥当な数字です。謙信が生涯率いた中核兵力は越後の一万三千前後で変わりません。武田信玄は、本国甲斐と信濃の大部分から二万の兵力を動員します。
 この時の戦いが有名な第四回川中島合戦ですが、軍記物で書かれているような謙信の妻女山布陣、信玄の霧を利用しての敵前渡河、海津城入城、啄木鳥戦法、武田勢の腰兵糧をみて奇襲を察知し山を降りた謙信、八幡原での遭遇戦、車懸りの陣、謙信の単騎斬り込みとそれを軍配で受ける信玄など展開はドラマチックですが信頼できる資料での裏付けが無く、軍事的合理性にも欠けるのでここでは採用しません。
 ここは多くの戦史研究家の指摘するように、妻女山ではなく犀川北方の旭山城かその近辺(西條山とも言われるが場所不明)に上杉軍が布陣したという説を採用しましょう。そして海津城に入った武田勢と対陣。主力の八千を率いて霧を利用し武田勢を奇襲しようとした謙信は、同じく八幡原まで進出してきた武田軍と遭遇。そのまま強襲となり合戦に突入。
 最初優勢に戦を進めていた上杉勢ですが、武田方に後詰が到着したために兵力で押され撤退したというのが真相に近いような気がします。最初の遭遇戦で心理的奇襲を受けたために武田勢は混乱し信玄の弟信繁や山本勘助が討死したのでしょう。両軍の損害は上杉勢が三千余、武田勢が四千余と言われます。甲陽軍鑑では前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ちと断じますが作戦目的である北信濃の大部分を制圧したのは信玄で、それが戦争目的でもありましたから私は武田信玄が勝者だと見ます。最終的に村上義清も高梨政頼も領地を追われ越後に亡命しました。
 
 後編では、川中島以後の謙信の戦いとその死を描きます。

越後長尾氏の興亡Ⅵ   景虎の章

 天文九年(1540年)父為景の隠居によって家督を継いだ長尾晴景(1509年~1553年)。守護代とはいえ事実上の越後国主として振る舞った為景の時代からは大きく権力が後退します。とはいえ、越後守護上杉定実の権威が回復した事で反為景方の急先鋒だった越後上杉一族の上条上杉定憲(政繁は守護定実の子ともされるがいつ上条上杉家を継承したか不明)や宇佐美定満らは矛を収めます。
 晴景は有力庶家栖吉長尾房景との枢軸を核に越後を再編しようと考えました。ところがもう一つの有力庶家上田長尾房長は未だ反抗を続け、中世越後永遠の反体制派とも言うべき揚北衆も反府中の姿勢を崩しませんでした。晴景は朝廷に申請し私敵治罰の綸旨をもらい揚北衆を懐柔します。さすがに朝敵となっては近隣諸勢力から侵略されても文句言えなくなるので強硬派の竹俣清綱でさえ降らざるをえなくなりました。
 一族の上田長尾房長については晴景の妹(のちの仙桃院)を房長の嫡男政景に嫁がせることで和睦が成立します。ちなみに政景と仙桃院との間に生まれたのが景勝でのちに上杉謙信の養子となり家督を継ぎます。
 ようやく越後に平和が戻りました。越後守護上杉定実は権威として存在し実質的な統治は守護代長尾晴景が行います。定実には嫡子が無く(上条上杉家に養子に入った政繁は妾腹とも言われる)、後継者問題が浮上しました。定実の養子になり家督を継げば越後守護職はもとより上手くいけば関東管領にもなれる可能性があるのです。越後上杉家と嫡流山内上杉家は一体でしたから。
 これに目を付けたのが奥州の大大名伊達稙宗(1488年~1565年)でした。稙宗は三男時宗丸を越後上杉家に養子に送り込もうと画策します。実は稙宗は越後守護上杉定実から見れば甥にあたりました。定実の父房実の娘(積翠院)が稙宗の母なのです。しかも時宗丸の母(稙宗側室)は揚北衆の有力者中条藤資の妹でもありました。
 稙宗は婚姻政策と養子縁組によって曾孫独眼竜政宗の最大獲得領土を超える250万石余ともいわれる巨大勢力圏を奥羽地方に築き上げた人物で、今回さらに越後そして関東への野心を示したのです。稙宗は中条藤資を通じて工作させ時宗丸に伊達家の有力家臣を多数つけて越後に送り込もうとしました。ところが長男晴宗は父の博打のような野望に反発しこれを諌めます。伊達家の家臣たちも多くが反対しました。失敗すれば伊達家そのものを滅ぼしかねないですから当然の反応でした。そしてついに稙宗と晴宗の親子対立に発展し、伊達家の親類縁者である奥羽の大名たちを巻き込んだ天文の乱(1542年~1548年)が起こります。
 東北の戦国史では天文の乱は遠い昔の話のような印象がありますが、実は越後では晴景の時代だったんですね。結局晴宗が勝利し、稙宗の野望は潰えました。自分の養子問題が奥州でとんでもない大乱を招いた事を憂慮した越後守護定実はすっかり弱気になり晴景に引退の意志を示したとも言われます。
 ところで、栖吉長尾房景の娘が和睦の証として長尾為景の後妻に入ったのを覚えていますか?虎御前(青岩院)と呼ばれた彼女は、為景の四男虎千代を生みます。兄晴景が家督を継いだ時幼少だった虎千代は林泉寺に入れられました。そこで名僧天室光育の薫陶を受けます。虎千代が父為景に疎んじられたため仏門に入らされたと言われますが、無用な家督争いを防ぐためにこのようなケースは多々ありました。
 当時の越後は、守護代晴景だけではとても治めきれず14歳になった虎千代は晴景に栖吉長尾家を継ぐよう命じられます。おそらくは栖吉長尾家から働き掛けがあったと想像しますが、良く分かりません。栖吉長尾房景には景信(不明~1578年)という実子がいたはずですがこの時幼少だったためか栖吉長尾家生き残りの策だったかもはっきりしません。
 ともかく虎千代は栖吉衆の後押しを受けて栃尾城に入り、元服して景虎と名乗ります。後の上杉謙信(1530年~1578年)です。栃尾城に入った景虎は、中郡の反守護勢力の平定を命じられます。景虎が若年である事を侮った近隣勢力は戦をしかけますが、天性の戦の才能があった景虎はこれらを撃ち破りました。とくに兄の仇黒滝城の黒田秀忠を討ったことで景虎の武名は越後中に鳴り響きます。
 景虎の活躍を見て、晴景に抵抗していた揚北の中条藤資、その舅北信濃の豪族高梨政頼は景虎を越後国主に擁立すべく動き出しました。この動きに同調したのが同じ揚北衆の本庄実乃(さねより)、上杉重臣大熊政秀、中郡の国衆直江実綱(与板城主)、山吉行盛(三条城主)らでした。さらには景虎の後援者栖吉長尾景信(いつ家督を継いだか不明)までもが同調し一大勢力となります。実質的には栖吉長尾氏による反府中長尾氏工作だったとも言えます。
 弟景虎が反体制派に擁立されたという報告を受けた晴景は仰天します。しかし放置することはできないので自ら軍を率い討伐に出陣しました。晴景方には妹婿上田長尾政景や中条藤資と対立していた黒川清実らが付きます。晴景方は越後のうち頸城郡、魚沼郡の上郡、山内、景虎方は中郡、揚北は両勢力入り乱れるという越後を二分する状況に陥りました。
 両軍は中郡で合戦します。結果は用兵能力に勝る景虎方の勝利に終わりました。軍記物では後退する晴景勢を追撃する景虎が、峠道を登っている時は攻撃せず、下りにさしかかった瞬間襲いかかって潰走に追い込んだというエピソードが紹介されていますが史実かどうかは確認できません。ただ景虎が、相手が自然に作り出す隙を衝いて勝利を得る日本古来の兵法に通じていた事だけは確かです。これも天室光育の教育の賜物なのでしょうか。
 ただ、晴景方も強力で特に上田長尾政景が味方についていたため府中と栃尾でにらみ合いが続きました。越後守護定実が調停に乗り出し天文十七年(1548年)十二月晴景が引退し弟景虎が家督を継ぐという条件で和睦が成立します。こうして長尾景虎が越後守護代職に就任するのですが、これまでの経緯から越後国内の統制力が弱くなるのは当然でした。とくに上田長尾氏との確執は続きます。
 長尾政景と上田衆は、今回の政変劇は栖吉長尾氏の陰謀と見ていました。激しい敵意を保ち続け、景虎にも降ろうとはしませんでした。そればかりか景虎方の宇佐美定満にさえ圧力をかけはじめます。そんな中、関東では激変が起こりました。
 天文十五年(1546年)小田原北条氏の侵略に悩まされ続けた扇谷上杉朝定は長年の確執を止め関東管領山内上杉憲政(憲房の子)と同盟を結び連合して対抗しようとします。これに古河公方足利晴氏も同調し北条氏康の属城武蔵河越城を囲みました。その連合軍は八万とも称される大軍でした。ところがわずか八千の氏康勢は敵を油断させ夜襲を敢行、連合軍は不意を突かれて潰走し扇谷上杉朝定が討死するという大敗を喫します。武蔵から叩き出された上杉憲政は連年の北条氏康の侵略で上野の領土を蚕食されついに本拠平井城に追い詰められていました。
 憲政は、旧怨を捨て越後の景虎に援助を求めます。先祖の恨みより現実の北条氏康への憎しみが勝ったのでしょう。景虎は憲政を助けるため関東への出陣を号令し上田長尾氏にも出兵を促しました。これに従えば上田長尾氏が景虎に屈した事になるし、拒否すれば反乱軍として討伐されます。長尾政景は窮地に立たされました。
 天文十九年(1550年)二月、越後守護上杉定実は波乱の生涯を閉じます。亨年73歳。朝廷は景虎に白傘袋、毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)の使用を許す使者を送りました。景虎側からの工作でしたが、これで正式に越後国主の格式を手に入れた事になります。
 追い詰められた長尾上田房長、政景父子は景虎に降伏。しかし景虎の怒りは収まらず、政景が姉婿であるにもかかわらず一門の待遇を与えず一家臣扱いしました。これは政景と上田衆にとって屈辱的でその恨みは表面には出ずとも深く続きます。それが謙信死後の家督争いとなって噴出するのです。
 天文二十一年(1552年)、北条氏康の圧力に負けた関東管領上杉憲政は本拠平井城を捨て越後に亡命しました。景虎はこれを温かく迎え府中に館を築いて住まわせます。憲政は、景虎を北条氏との戦いに引き入れるため養子にし関東管領職と山内上杉家督を譲りました。景虎は憲政から一字拝領し上杉政虎と名乗ります。
 これ以後は長尾氏ではなく上杉氏の歴史になるので厳密な意味ではこれで終わりなのですが、長尾景虎は上杉謙信となって続くので謙信の章、そして越後上杉最後の当主景勝の章まで書かせてください。

越後長尾氏の興亡Ⅴ   為景の章(後編)

 越後中郡における為景方の重要拠点黒滝城攻略は上杉軍諸将を喜ばせました。しかし情勢を冷静に分析すれば決して楽観視はできません。というのもまず為景を滅ぼした後のビジョンが全く見えないのです。おそらく為景方についた上条上杉氏は追放され、越後守護は関東管領の山内上杉顕定が兼任するでしょう。ここまではいいんです。
 問題は越後守護代職でした。何の資料的裏付けはなくあくまで私の純軍事的な考察ですが、おそらく守護代には上田長尾房長が内定したように思います。というのも上田長尾氏の本拠上田庄のある魚沼郡は上野国と国境を接し山内上杉氏の越後支配にとって絶対に味方にしておかなくてはならない家でした。上杉方が上田長尾氏を調略した時の餌も越後守護代職だったのでしょう。
 一方、栖吉(現長岡市)を本拠とする栖吉長尾氏は古志郡を中心に刈羽郡にも勢力を伸ばし上田長尾氏に匹敵する勢力でした。黒滝城を攻略したのも栖吉長尾房景でしたし。房景の功績を考えれば越後を二分して半国守護代とする案もあったでしょう。ところが魚沼郡と頸城郡という豊かで比較的安定した所を貰う予定の上田長尾氏に対し栖吉長尾氏は中郡から東、永遠の越後の反体制派ともいうべき揚北が担当区域になるはずで、これは栖吉長尾氏には我慢ならなかったと思います。
 また越後に入ってからの顕定の恐怖政治は越後国人の支持を失っていましたから統治は安定しなかったはずです。越後で優勢に戦を進める上杉方でしたが内部は決して一枚岩ではありませんでした。
 越中に逃れていた為景は、海路佐渡に渡ります。少しでも多くの味方を募ろうという考えでした。永正七年(1510年)為景は自分に味方する軍勢を率い海路蒲原津に上陸、寺泊を占領し椎屋(柏崎市)で信濃から越後に進軍した高梨政頼軍と合流します。
 同年6月上杉方は為景を攻めますが失敗、その直後栖吉長尾房景が為景方に寝返りました。為景は上杉軍中の不協和音を見抜き工作をしていたのでしょう。房景は娘を為景に嫁がせ同盟を結びます。府中では一揆が起こり(おそらく為景の扇動)、顕定は敗走しました。一気に攻勢に転じた為景を見てそれまで逼塞していた為景方が一斉に蜂起、上杉軍中に加わっていた越後国人の中にも動揺が走ります。越後国人は親戚関係が複雑に絡み合っており一方が有利になると雪崩を打って味方に付くという現象はよくありました。
 こうなると顕定は敵中に孤立します。兵を纏めた顕定は、一旦本拠上野に撤退しようとしました。ところが味方であるはずの上田長尾房長に退路を断たれます。さすがにこの情勢では上田長尾氏も為景に味方せざるを得ませんでした。為景方の討手はまたしても高梨政頼で、長森原(六日町)で合戦になり顕定はこの地で命を落とします。
 顕定の甥で養子となり後継者と目されていた上杉憲房は、越後に所領(妻有荘)があったためこの度も従軍していましたが命からがら死地を脱出し上野白井城に逃げ帰りました。憲房は
「下郎の身でニ代の主人(越後守護房能とその兄で関東管領顕定)を滅ぼすとは天下に比べるものなし」
と怒り悲しんだそうです。
 為景はついに実力で越後一国を手に入れました。こうなると傀儡の越後守護上杉定実が邪魔になります。為景は定実を監視させ主君と対等な口をきくなど横暴になってきました。定実の実家上条上杉定憲は、奥州の伊達稙宗や、琵琶島城(柏崎市)の宇佐美房忠、北信濃で高梨政頼と対立する島津貞忠と結び為景と対抗しようとします。
 永正十年(1513年)定憲は小野城(上越市柿崎町)で挙兵、栖吉長尾房景にも使者を送り味方に付くよう説得しました。しかし房景は動かず、そのうち為景が軍を率いて押し寄せてきます。この反乱に越後守護定実が関与していたのは確実で、府中守護館の詰めの城である春日山城に籠城しました。為景は、即刻小野城から取って返し城から定実を引きずり出します。合戦した様子が見えないのでおそらく城兵は形勢を見て逃げだしたのでしょう。為景は定実を荒川館に幽閉しました。
 守護方は上野の憲房と連絡を取ろうとし、間に立ちふさがる上田長尾房長を攻撃します。為景は大軍を率いて援軍に駆けつけ両者は六日町で戦いました。結果は守護方の大敗。上杉被官千余人が討ち取られ、首謀者の一人宇佐美房忠も一族郎党と共に自害しました。ただ、一人の遺児が近臣片倉壱岐守に守られ奥州に逃れます。この遺児こそ後の宇佐美定満でした。
 為景は、島津貞忠と和睦し越中の反為景方も討ちます。越後国主長尾為景の地位は安定しました。幕府は為景に将軍家御供衆(御相伴衆、国持衆、準国主、外様衆に次ぐ格式だったが将軍家近臣としての名誉があった)の待遇を与えます。最後まで抵抗した上条上杉定憲も降伏しこれで為景の対抗勢力は消えたかに見えました。
 ところが、為景が莫大な献金を献じ後ろ盾にしていた管領細川高国が亨禄四年(1531年)大物崩れで宿敵細川晴元に敗北し自害するという大事件が起こります。晴元が管領に就任し為景の立場は微妙になってきました。それを見ていた反為景方は、天文二年(1533年)六月上条上杉定憲がまたしても挙兵。今度は上田長尾房長、揚北衆が味方に付きます。
 為景は府中を中心にこれに対抗しますが、宇佐美定満が亡命先の奥州から帰還した事で反為景方は勢い付き大熊、柿崎ら本来為景方の諸将もこれに加わります。今回は上田長尾氏が反為景方に転じたのが大きかったと思います。上田勢は、為景方栖吉長尾氏の重要拠点蔵王堂口を攻めました。隣国会津の蘆名氏も反為景方に味方したため為景はついに守勢に追い込まれます。
 戦いは膠着し、為景は四面楚歌になりました。朝廷や幕府に働き掛け和睦の道を探りますがすべて失敗。最後に、それまで蔑ろにしていた越後守護上杉定実に頼らざるを得なくなります。傀儡とはいえ、さすがに越後守護の権威は絶大でした。天文五年(1536年)八月、為景が隠居し家督を嫡男晴景に譲る事で和睦が成立します。
 春日山城を追われた為景はその後も天文十一年(1543年)まで生きますが、失意の晩年でした。死因は上条上杉氏による暗殺という説もありますが、おそらく病死だったと思います。享年55歳。下克上の代名詞ともいうべき梟雄の最期です。
 為景の後を継いだ嫡男晴景。しかし越後の戦国時代を治めるにはあまりにも凡庸でした。越後はどうなって行くのでしょうか?次回景虎の章を記します。

越後長尾氏の興亡Ⅴ   為景の章(前編)

 室町時代の守護大名が下克上されずに戦国大名に成長するには一つの条件があると私は考えます。それは自らが軍を率いて戦えるかどうか?日本史に詳しい方は、畿内において細川氏は自ら軍を率いながら家宰の三好長慶に取って代わられたではないか!その長慶でさえ自ら戦に出陣しながら彼の死後三好家は家老の松永久秀に乗っ取られたではないか!と反論されるでしょう。
 確かに中央では例外があると思いますが、地方に限定すると守護大名から戦国大名に成長した家は、豊後の大友氏にしても薩摩の島津氏にしても駿河の今川氏や甲斐の武田氏あるいは奥州の伊達氏、出羽の最上氏にしても上の法則があてはまるような気がします。大友宗麟は自ら兵を率いて遠征した印象があまりありませんが、要所要所では家臣任せにせず出陣しています。その前の大友家当主も出陣を躊躇しませんでした。
 これは軍を率いる事で(軍役を務めた)国人たちを掌握家臣団化し統制できるからです。ですから戦を重臣任せにすることは大変危険で、大内義隆も晩年出陣を嫌って周防守護代陶晴賢に下克上され殺されていますし、斯波義孝は越前守護代朝倉氏景に京極政経は出雲守護代尼子経久に土岐頼芸は斎藤道三にそれぞれ国の実権を奪われています。
 越後でも例外ではありませんでした。越後守護上杉房能は数々の戦を守護代長尾氏に任せ過ぎたために越後の国人は上杉氏ではなく守護代長尾氏を主と仰ぐようになります。戦死した父能景に代わり越後守護代に就任した長尾為景(1489年~1543年)は、このような越後国内の空気を受け邪魔になった守護房能を除く機会を虎視眈々と窺っていました。
 ここで一人の人物が登場します。上野国の豪族白井長尾家の景春です。長尾景春が主君関東管領山内上杉顕定に対し反乱を起こし扇谷上杉家の家宰太田道灌の力を借りて鎮圧された事は前に書きました。反乱は文明十二年(1480年)に集結しているのですが、反乱の首謀者景春が殺されたわけではなく単に本拠白井城(群馬県渋川市)から叩き出されただけでした。
 その後景春は、嫡子景英と共に顕定と敵対していた古河公方成氏の下に逃げ込み再起の機会を待っていました。ところが明応三年(1494年)肝心の成氏が顕定と和睦してしまいます。進退極まった景春父子ですが、あくまで山内上杉勢力と敵対し続けようとする景春に対し息子景英は降伏の道を選びました。景英は帰参を許され白井城も返還されます。一方、景春は扇谷上杉領の相模に野心を見せ始めた伊豆の伊勢宗瑞(後の北条早雲)と結びました。
 この一連の流れで、景春から越後の為景に働き掛けがあったのは確実だと思います。景春にとっては山内上杉家と一体化している越後上杉家を倒すことは顕定の力を弱めるために必要ですし、越後の実権を完全に握りたい為景にとっても渡りに船だったでしょう。
 永正四年(1507年)長尾為景は越後守護房能の養子定実(さだざね)を擁してクーデターを敢行します。定実は上条上杉房実の子でした。祖父清方が関東管領を務めたほどの家柄で越後上杉氏の有力庶家でもあったので家格的には越後守護になっても不思議ではなかったのですが、房能にとっては寝耳に水の出来事です。
 防戦の覚悟をする房能でしたが、駆けつける国人はほとんどおらず府中での防戦を諦めます。房能は兄で関東管領上杉顕定のいる上野国に逃れて態勢を整え反撃しようと考えました。一行は関東への近道である安塚街道をひた走りますが松之山温泉を過ぎ天水越えにさしかかったところで為景の送った追手に追いつかれてしまいます。為景方の高梨、上野らの軍勢に囲まれ進退きわまった房能は近臣と共に自害して果てました。

 主君房能を討って越後国主(守護の定実は傀儡)になった為景は、奥州の伊達、蘆名ら有力豪族の支持も取り付け着々と支配を固めます。実の弟を殺された関東管領上杉顕定の怒りはすさまじいものでした。すぐにでも討伐の遠征軍を送りたかったのですがこの頃長尾景春が関東で蠢動しており身動きとれませんでした。これを見ても今回のクーデター劇が為景と景春の示し合わせだと分かります。

 永正六年(1509年)ようやく越後に通じる沼田城と白井城を景春方から奪回した顕定は関東の大軍を率いて越後国境を越えました。長尾景春は、最終的に顕定に敗北し駿河今川氏のもとへ亡命します。そして駿河の地で没したと伝えられます。

 越後に進入した上杉勢は、府中長尾氏の有力庶家上田長尾房長を味方につけます。上田長尾氏は気位が高く府中長尾家に対抗心を持っていたため簡単に上杉方の調略に乗りました。おそらくこの時上杉勢は二万は下らなかったと思います。一方為景は八千の兵を集めるのが精一杯でした。この形勢を見てもう一つの有力庶家栖吉長尾房景も顕定に降ります。為景方には揚北衆が味方につきますが、彼らが味方に付いたという事は裏を返せば為景の方が反主流派という事になります。

 結局上杉の大軍の前には成すすべもなく為景は府中を叩き出されました。越中に逃亡した為景はそこで越中の国人たちを味方につけます。上杉勢は、中郡の攻略を優先し為景方の三条島城の山吉能盛、黒滝城の黒田秀忠・志駄義春らを攻めました。ところが山吉らは頑強に抵抗し上杉方は攻めあぐねます。

 顕定は、為景に味方した国人たちに厳しく当たりました。領地没収は当然、妻子もふくめて斬罪、それだけ弟を殺された恨みが深かったのでしょうが生き残った為景方の国人たちは山野に隠れたり隣国に亡命したりしました。占領軍に対し越後の人心は離れます。

 永正七年(1510年)六月六日、栖吉長尾房景の軍勢によって為景方の蔵王堂城、黒滝城が攻略されます。このころが上杉勢の最盛期でした。為景はじっと反撃の機会を狙います。まず、顕定が弟房能殺しの下手人としてその首に賞金を掛けていた北信濃の豪族高梨政頼が白鳥口から越後に進入しました。為景方の上条上杉定憲は本拠上条城で挙兵します。同じく信濃の豪族村上直義も糸魚川から府中を窺いました。

 後は総大将為景の越後入りを待つだけです。為景はどのようにして巨大な上杉勢を倒したのでしょうか?後編では為景の戦いとその後の越後情勢を見ていく事としましょう。

越後長尾氏の興亡Ⅳ   下克上のはじまり

 越後上杉氏当主で越後・信濃守護職上杉房定(1431年~1494年)は、息子で山内上杉家に養子に入った関東管領・上野・武蔵・伊豆守護上杉顕定(1454年~1510年)を助けるため連年のように関東に出兵します。にもかかわらず越後国内は微動だにしませんでした。それだけ越後上杉家の支配が確立していたのでしょう。検地も文明十五年、十六年、十七年、十九年と4回も実施しています。土地の生産力把握は国衆の軍役にも直結しますから、それだけ守護の権力が盤石だった証拠です。
 越後の政権とは距離を置き時には敵対する事の多い揚北衆の有力武将本庄時長も房定に本拠小泉本庄を攻められ屈服しています。房定は能登守護畠山義継と組み越中を手に入れようとさえしました。房定の時代、守護代長尾氏一族は嫡流府中長尾実景が討たれたので逼塞していたようです。
 房定の後は子の房能(ふさよし、1474年~1507年)が継ぎました。彼の幼名は九郎なので関東管領顕定の弟に当たります。房定の長子で後継者と目された定昌は早世していたようです。房能が越後守護職を継いで三年後の明応七年(1498年)、越後国内に一つの布令が下されました。
 その内容は「国中で身内、外様が郡司不入と称し守護の任命した役人の職権を妨げているが、今後はこれを許さない。不入の証文のない土地は郡司が検断権を持つ。役人の不正は直接守護へ申し出よ」というものでした。これは守護権力の強化を目的としたものですが、既得権益を持つ越後の国衆は猛反発します。中でも最も多くの既得権益を持っていたのは守護代だった府中長尾能景(よしかげ、頼景の孫。1464年~1505年)でした。
 越後の武士たちは能景の去就に注目します。しかし能景はこの時進んで守護不入の権益を返上しました。ただ守護房能への不満はくすぶり続けます。房能が連年のように関東へ出兵して越後国内が疲弊してきた事も越後の武士たちは不満を抱きました。
 房能にとっては関東管領の兄顕定を助ける遠征でしたが、越後の武士たちにとっては何の関係もなかったのです。越後国内では、自分たちの利益代表として守護代長尾能景を見るようになってきます。同時に越後守護房能は国内で次第に浮き上がった存在になりました。これが後の為景(能景の息子)による主殺しに通じるのです。国人の支持が無ければ為景とてこのような暴虐ができるはずありません。越後の下克上は時代の必然だったのかもしれません。
 話を能景に戻しましょう。能景は守護房能としばしば対立しつつも守護代としての分を守る良識は持ち合わせていました。関東では山内(やまのうち)上杉氏と有力庶家扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の対立が先鋭化し合戦が起こります。扇谷上杉朝良(ともよし)は、養父定正が家宰太田道灌を暗殺して以来衰退していた家を立て直し、駿河の今川氏親、その重臣伊勢宗瑞(後の北条早雲)と結びました。
 永正元年(1504年)、武蔵国立河原(東京都立川市)で山内上杉軍と扇谷上杉軍が激突します。山内上杉軍には越後守護房能が加わり(ただし実際に兵を率いていたのは守護代長尾能景)、扇谷上杉方には今川氏親の援軍を率いた伊勢宗瑞がいました。これを立河原の合戦と呼びますが、結果は山内上杉方の大敗。二千もの戦死者を出したと言います。
 実は能景の越後勢は直接合戦には参加しておらず、行軍途中だったそうです。越後勢の到着前に戦端を開いた扇谷上杉方の作戦勝ちでしょう。その頃顕定は北武蔵の鉢形城を本拠としていたそうですが、新手の越後勢が鉢形城に入ったのを見て扇谷勢は追撃を諦め河越城に戻ります。顕定は能景と共に軍を率い河越城を囲んだそうですから、立河原の敗戦はそれほど大きな影響が無かったのでしょう。上野国を完全に固め武蔵の北半国を勢力圏とする山内上杉家と越後一国を完全に支配し北信濃も勢力圏とする越後上杉家の連合勢力は強大でした。
 一方、扇谷上杉家は相模国と武蔵の南半国のみ。しかも伊豆を強奪した伊勢宗瑞は、相模への野心を示し始めていました。結局この戦は痛み分けに終わります。しかし交渉の結果扇谷上杉朝良が降伏する形となりました。
 長尾能景は、関東が解決すると今度は越中への出兵を命じられます。一向一揆が越中でも蜂起し越後へ侵入の気配を見せたのです。永正三年(1506年)般若野(富山県砺波市)の合戦が起こります。これは越中守護畠山尚順の要請だったようですが、越後勢は優勢に戦を進め加賀国境に近い砺波郡まで進軍します。このまま砺波郡を制圧すれば越前の朝倉氏と連合して一向一揆の本拠地加賀を一気に覆滅できるはずでした。
 般若野でぶつかった両軍ですが、越中の国人神保慶宗が一揆勢と内通し戦線を離脱します。敵中で孤立した長尾勢は一揆方の集中攻撃を受け能景は討死しました。為景はこれを神保慶宗の裏切りのせいだと考え仇敵視したそうです。
 父能景の戦死を受け守護代を継いだ長尾為景(1489年~1543年)は、この越中出兵に同道していたかどうか不明ですが、一揆に呼応して蜂起した越後中郡の反乱鎮圧に向かいます。五十嵐、大須賀、石田、高家の一党を降した為景は、いまや越後国内一の実力者となりました。実際に軍を率いているのですから当然です。面白くないのは主君越後守護上杉房能でした。
 次回、為景の主殺しと越後掌握を描きます。

越後長尾氏の興亡Ⅲ   邦景と実景

 正長元年(1428年)関東公方足利持氏は越後国侍に対し鎌倉府に忠節をつくすよう御教書を送ります。越後守護代長尾邦景はさっそく幕府にこれを報告し将軍義教から「無二の心」と褒められ太刀一腰を与えられました。越後上条上杉氏の祖で越後守護上杉房方の末子、そして実兄で嫡流山内上杉氏を継承していた憲実の隠棲後関東管領職を務めた上杉清方(当時の越後守護房朝の叔父)は、邦景の申請で将軍義教に忠誠を誓います。
 この辺り関係が複雑で説明が難しいのですが、越後守護上杉氏と関東管領・上野守護宗家山内上杉氏が一体化していたと思っていただいて間違いありません。そして長尾一族の中でも越後長尾家、その嫡流府中(三条)長尾家の発言力が増していたのです。中央において阿波下屋形細川家の家宰にすぎない三好氏が、細川氏全体の家宰として細川京兆家を含む主家を凌ぎ大きな権力を握った事と構造的には似ています。
 邦景は、幕府の命令で越後国衆を率い関東への出兵を繰り返します。越後守護代にすぎない邦景は、さながら幕府の直臣のようでした。永享七年(1435年)邦景はついに上洛を果たします。将軍義教はこれを歓待しました。義教にとっては持氏派を切り崩すために利用しただけでした。義教は邦景に信濃の持氏派を討つよう命じます。この動きを見て甲斐の武田信長も幕府方につき持氏派は次第に追い詰められていきました。
 永享十年(1438年)、上杉憲実の鎌倉退去を機に犬懸上杉持房(禅秀の子)、扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝を大将とする幕府軍が鎌倉公方持氏打倒を目指し動き出しました。永享の乱の始まりです。越後勢を率いこれに参加した長尾実景(邦景の子)は、上杉憲実に従って武蔵府中に進み決戦を渋る憲実を励まし強硬な主戦論を唱えました。
 翌年2月、鎌倉公方足利持氏は幕府の大軍を本拠鎌倉に受けて敗北自害します。これで一旦鎌倉公方家は滅亡しました。ところが持氏の子は何人か生き残り、そのうち春王丸、安王丸は下総の豪族結城氏朝に保護されます。氏朝は二人を奉じて挙兵したため幕府軍との間に結城合戦が起こりました。この時も長尾実景は越後勢を率いて参陣し大活躍します。春王丸、安王丸を捕えたのも実景でした。
 義教は、実景を激賞し赤漆の輿に乗る事を許し幕府直臣の待遇を与えます。この頃が邦景、実景父子の絶頂期だったと思います。春王丸、安王丸護送の任務は実景に与えられ義教の命で美濃垂井の宿で両名を処刑したのも実景でした。
 得意の絶頂にある長尾邦景、実景父子にとって青天の霹靂とも言える大事件が起こります。将軍義教が戦勝気分に浸っていた嘉吉元年(1441年)6月、家臣の赤松満祐によって暗殺されたのです。所謂嘉吉の変と呼ばれる事件でした。将軍義教の死で、邦景実景父子の立場は微妙になります。
 宝暦元年(1449年)、越後守護上杉房朝が亡くなりました。享年29歳。後任の越後・信濃守護には上条上杉清方の子房定が選ばれます。これをみても越後上杉氏と山内上杉氏が一体化しているのが分かります。実態としては越後上杉家が主で、宗家山内上杉氏に養子を出して関東管領職を継がせるという形です。
 守護となった房定は、他の関東諸氏と共に足利持氏の末子永寿王(のちの成氏)を鎌倉公方に就ける運動を続け、ついに幕府に承認させます。こうなると邦景の立場は無くなりました。新公方になった足利成氏と関東管領山内上杉憲忠(憲実嫡男)との対立が先鋭化すると、穏健派の憲忠の意に反し山内家家宰長尾景仲、扇谷家家宰太田資清が成氏の鎌倉の屋敷を襲撃しますが、邦景もこれに加わります。
 中立派の越後守護上杉房定は、邦景の勝手な行動に怒り越後に戻って邦景を切腹させました。実景は信濃に逃れ再起を図ります。幕府は房定に謀叛人実景の討伐を命じました。結局邦景、実景の幕府に対する忠節はこの程度だったのです。単に義教に利用されただけに過ぎませんでした。
 実景は信濃の軍勢を糾合し根知谷口から越後に攻め込もうとします。房定は越後、越中の軍勢を西頸城に集め迎え撃ちました。結果は実景方の大敗。越後守護代には実景の従兄弟頼景が就任し以後彼の子孫が府中長尾氏の嫡流になりました。
 関東では鎌倉公方成氏が父の仇として関東管領上杉憲忠を殺します。亨徳三年(1454年)の出来事でした。これをきっかけに再び関東は以後三十年にもわたる亨徳の乱が勃発します。この戦乱で兄憲忠の死後関東管領職を継いでいた房顕も戦死したため、越後守護房定の次男顕定が山内上杉氏の養子に入り関東管領、上野守護職に就任します。
 この頃長尾実景は、京都に赴き将軍義政に哀訴していたそうですが義政は房定に対し「実景が京都をうろつくようであれば厳しく処分しよう」と約束しましたました。幕府のために働いた実景は哀れでした。結局幕府からも見捨てられたのです。実景の最期ははっきりしません。再び信濃に戻り挙兵するも敗死したと伝えられます。
 関東の乱は、越後にとっては守護代府中長尾氏の衰退をもたらし、相対的に越後守護上杉家の権力を盤石なものにしました。越後守護房定は実の息子顕定を関東管領・上野守護に据えさながら嫡流山内上杉氏の棟梁という形になります。
 室町幕府も房定の勢いを恐れ文明十八年(1486年)従四位下相模守に任じました。日本史に詳しい方ならご存知だと思いますが、これは武家では北条得宗家のみに許された官位でいかに破格の待遇か分かります。房定は賢太守と称えられますが、それは多分に房定の威勢を恐れてのものだったと思います。房定の時代が越後守護上杉家の絶頂期でした。
 次回は、越後守護上杉家の衰退と府中長尾氏の復活、台頭を描きます。

越後長尾氏の興亡Ⅱ   長尾氏の越後入部

 南北朝期に南朝方の雄として大活躍した新田一族。上野国新田郡を本拠とし上州一円はもとより越後まで勢力を広げました。新田氏が義貞死後数十年も北朝方に抵抗できたのは本国上野の他に越後に広がる新田一族の助力があったからです。
 幕府はこの事を憂慮し鎌倉府執事であった山内上杉憲顕を上野・越後の守護に任じこの地方の平定を任せます。憲顕は上野を平定するとともに越後へは腹心長尾景忠を派遣しました。越後守護代として乗り込んだ景忠は長尾一族を率い各地を転戦します。当時越後国は新田一族の他に多くの御家人、豪族たちがひしめいていました。
 和田一族である中条、黒川、羽黒氏や色部氏、加地氏ら揚北衆は上杉=長尾方に味方します。一方大井田、河村、小国、池、風間氏らは新田方となり抵抗しました。合戦は主に蒲原郡、刈羽郡を舞台とします。長尾景忠は上州から三国峠を越えた先、魚沼郡を根拠地とし国衙領の多い頸城郡(上郡)に進出、蒲原、刈羽、三島郡の南朝方を次第に追い詰めていきました。こうして一応越後の平定は成ったのですが、独立志向の強い揚北衆などは完全に幕府に心服したわけではなく情勢によってはどう転ぶか分かりませんでした。
 ここで揚北(あがきた)地方について説明します。揚北は阿賀北とも書き越後を環流する二つの大河信濃川、阿賀野川のうち阿賀野川以北を指します。郡で言えば磐船郡、沼垂(ぬたり)郡です。越後は東西に320kmもある大国だったため中央政権の統治が十分及びませんでした。当時の越後の中心は国府のある頸城郡、場合によっては三島(さんとう)郡まで含めた所謂上郡(かみごおり)です。上郡と揚北の間の古志郡、蒲原郡(場合によっては三島郡も)は中郡(なかごおり)地方と呼びます。南の魚沼郡は山内地方と呼びました。
 長尾景忠は山内上杉氏家宰、上野国守護代でもあったため越後守護代職を弟景恒(景廉とも)に譲ります。これが越後長尾氏の始まりで、景恒は越後国内を固めるため嫡子高景を三条に、景春を古志郡栖吉に、新左衛門尉(名前不明)を魚沼郡上田に置きました。これがそれぞれ三条長尾氏、栖吉(古志)長尾氏、上田長尾氏の祖となります。
 父景恒の後を受け越後守護代になった三条長尾高景は、山内上杉憲顕の子憲方から始まる越後守護上杉家の家督争いを治め憲顕の孫房方を越後守護に据えた功績から以後三条長尾氏が越後守護代職を独占するようになりました。三条長尾氏は主家越後上杉氏と共に府中(新潟県上越市)に屋敷を構えたため府中長尾氏とも呼びます。
 こうして越後に土着した長尾氏ですが、決して順風満帆だったわけではなく観応の掾乱の時には上杉憲顕が直義方に立ったため、尊氏方の下野守護宇都宮氏綱の侵攻を受けます。当時越後には本国上野を追われた本家山内上杉憲顕ら上杉一族、それに従った足利長尾氏ら長尾一族もいましたが、尊氏方に揚北衆が多く参加したため苦しみました。柏崎の合戦では双方多くの死傷者を出します。1352年頼みの綱足利直義が毒殺されるとますます窮地に立たされました。憲顕は上野、越後守護職を剥奪され信濃に追放されます。
 ところが、鎌倉公方に尊氏の次男基氏が就任した事から風向きが変わってきました。基氏は幼少時鎌倉府執事として自分を補佐してくれた憲顕のことを忘れておらず、幕府の威光を嵩に横暴を極めていた執事畠山国清を罷免し憲顕を呼び戻したのです。国清方の宇都宮氏綱も上野・越後の守護職を剥奪されます。これを関東の政変と呼びました。鎌倉府執事、上野・越後守護を回復した上杉氏は、以後執事から関東管領を独占し関東に君臨します。
 山内上杉氏と越後上杉氏の関係は、ちょうど中央政権における細川京兆家と下屋形阿波細川家と似ていると思います。そして中央における三好氏にあたるのが長尾氏なのでしょう。三好氏も長尾氏もそれぞれの主家(阿波細川家、越後上杉家)を嫡流家を凌ぐ存在に育て上げ、最後は下克上で実権を奪うのですから。三好長慶にあたるのが長尾為景でしょう。
 犬懸上杉氏が上杉禅秀の乱で滅び、それまで上杉一族で持ち回りだった関東管領職は嫡流山内上杉氏が独占する事となります。1418年関東管領山内上杉憲基が亡くなると、男子がいなかったため一族越後上杉氏から養子を迎え継承しました。これが上杉房方の子憲実で以後山内上杉家と越後上杉家は一体となります。山内上杉氏は、憲実の三代あとにも越後上杉氏から顕定を養子に迎えました。
 応永三十年(1423年)将軍義量と鎌倉公方持氏の対立が激化していたころ、越後守護上杉房朝(房方の孫、憲実の甥)は幼少で京都に滞在していました。自然幕府に近くなります。ところが越後守護代長尾邦景(高景の子)は関東管領上杉憲実とともに鎌倉方に味方したため越後国内は守護方(幕府方)と守護代方(鎌倉方)に分裂しました。
 1424年、幕府の追討をうけた持氏が謝罪して講和が成立したのですが、越後国内ではしこりが解消できず守護方(幕府方)は遠く伊達持宗に援助を求め、守護代長尾邦景の腹心山吉行盛の三条島城を攻めます。ところが行盛の逆襲を受け敗退、一部の揚北衆は雪崩を打って邦景方に寝返りました。一時幕府方は有力武将中条房資が死を覚悟するほど追い詰められます。しかし首謀者の鎌倉公方持氏がすでに降伏しているので守護代方にも戦を続ける名分はなく、このまま痛み分けに終わりました。
 守護代長尾邦景は蒲原郡代山吉行盛を通じて揚北に段銭(地域を限定した臨時課税)を掛けたためすでに寝返っていた者もふくめて揚北衆全体の恨みを買います。次第に情勢は邦景と揚北衆の対立となってきていました。中条房資はこれを受け再び揚北衆を率い三条島城を攻撃します。府中から援軍の長尾勢が到着したため、今回も攻撃は失敗。そればかりか中条氏の一族羽黒秀性(しゅうしょう)までが守護代方に寝返ります。
 中条房資は川間城に逃げ込み、それを長尾勢が包囲しました。今度こそ絶体絶命に陥った房資ですが、厳しい冬が到来しついに攻囲軍は引き揚げました。雪解けを待って房資は、裏切った一族羽黒秀性を攻めこれを切腹させ溜飲を下げます。揚北衆の有力武将中条房資がなぜこれほど守護代方に抵抗したかですが、おそらく守護、幕府に対する忠誠心ではなかったと思います。中条氏は鎌倉幕府の有力御家人和田義盛の一族で、数々の戦乱の中本拠越後奥山庄を守り抜いた誇りがあったのでしょう。中央政権に対する反骨精神が守護代長尾邦景への敵愾心につながったのだと考えます。
 中央では正長元年(1428年)、六代将軍義教が誕生します。鎌倉公方持氏は再び幕府に背く気配を見せ、関東管領上杉憲実はこれを諌めますが聞き入れられず本国上野に引き上げました。越後守護代長尾邦景は、持氏を見限り直接将軍義教に接近し直接越後守護代職を安堵してもらいます。この頃から越後長尾氏は、次第に主家上杉氏とは違う動きを開始しました。これが後の為景による主君殺しへと繋がるのです。
 次回は、邦景の栄光と末路、実景の没落と長尾一族の復活を描きます。

越後長尾氏の興亡Ⅰ   その出自と一族

 長尾平三景虎、後の上杉謙信の名前を知らない日本人はいないでしょう。しかし謙信以後の歴史は知っていてもそれまでの越後長尾氏の歴史は案外知られていません。そこで本シリーズでは長尾氏の越後入部から為景の下克上、景虎=謙信の活躍、そして景勝が会津に転封されて越後を離れるまでを描こうと思います。ざっと見ただけでもかなりの長編になりそうなのでよろしくお付き合いください。
 第一回は、長尾氏の出自と一族の広がりです。これを抑えておかなくてはチンプンカンプンになると思い、まずここから話始めます。長尾氏は坂東八平氏の一つで鎌倉氏の子孫だといわれます。ただし相模の古代豪族長尾氏の末流という説もありはっきりしません。名前の由来は鎌倉景明の息子で大庭景宗の弟に当たる景弘が相模国鎌倉郡長尾(現在の神奈川県横浜市栄区長尾台近辺)に住み長尾次郎を称した事が始まりです。
 長尾氏は、頼朝挙兵時一族の大庭景親とともに平家に味方し敗北します。その後同族の三浦氏に仕えますが宝治合戦で一族のほとんどが討死し一時滅亡します。不幸続きの長尾一族が復活したのは京から鎌倉に下った上杉氏の被官になってからです。上杉氏は藤原北家勧修寺流の中級公家。宗尊親王が鎌倉将軍として下向した時に従い武士団化しました。元公家で、急速に武士団として編成しなければならなかった上杉氏にとって長尾氏の存在は有難かったと思います。こうして長尾氏は上杉家の家宰としての地位を確立しました。
 上杉氏は、鎌倉での地位を守るため源氏の名門足利氏と代々姻戚関係を結びます。これも長尾氏に幸いしました。足利尊氏が挙兵し、鎌倉府ができると嫡流山内(やまのうち)上杉憲顕(1306年~1368年)は尊氏・直義兄弟と従兄弟(兄弟の母清子は実の叔母)である関係もあって鎌倉府執事(後の関東管領)に就任します。ところが1349年観応の掾乱で尊氏直義兄弟が対立すると直義方についた顕顕は失脚し守護国であった越後に逃亡しました。
 実は南北朝の戦乱最中の1341年、憲顕は新田氏の勢力が強い越後の守護に任命されており家臣の長尾景忠(鎌倉・白井・総社長尾氏の祖)を守護代として越後を平定させていたのです。この時から上杉氏、長尾氏と越後国が関わり始めます。越後に逃亡した憲顕は、越後、北信濃を根拠地とし鎌倉府から何度も追討軍を受けますがそのたびに撃退し生き残ります。そのうち、鎌倉府内で政変があり執事畠山国清が失脚した事から呼び戻され再び鎌倉府執事になりました。以後上杉一族は鎌倉府執事、関東管領職を独占します。
 長尾氏は、上杉氏の家宰として山内上杉氏の守護国越後、上野の守護代も歴任しました。長尾氏の一族は広がりが多く複雑なのでここでまとめておきます。
【足利(鎌倉)長尾氏】
 長尾氏嫡流。景忠の養子で一族の景直を祖とする。本来は山内上杉家家宰、上野守護代を世襲する家柄だったが当主幼少のときは一族の総社長尾氏、白井長尾氏の長老が就任する事となり嫡流足利長尾家は衰退する。白井長尾、総社長尾氏が家宰・上野守護代職を巡って争い始め大混乱に陥ると山内上杉氏家宰職は再び足利長尾氏に戻るが、この時すでに名目だけの存在となっていた。上杉憲政が越後に亡命すると足利長尾氏もこれに従う。
 上杉謙信が憲政の養子となり関東管領職を継ぐと、足利長尾当長はこれに従軍し要地館林城を与えられる。ところが上杉方の長野業盛が武田信玄に滅ぼされたのをみて上杉氏を見限り北条方に降る。以後北条氏に仕え小田原の役で主家北条氏と共に滅亡した。
【総社長尾氏】
 景忠の子景房(孫という説もある)を家祖とする。本拠地は上野国総社(前橋市)。総社長尾氏は一族の白井長尾氏と上野守護代、上杉氏家宰職を争ううちに主家山内上杉氏に対する忠誠心を失う。それが決定的になったのは河越夜戦で、数年後主家山内上杉憲政が越後に亡命すると独立する。以後総社長尾氏は上杉方、北条方を行ったり来たりするが、甲斐の武田信玄が上野国に進出し本拠総社城が陥落。総社長尾氏は上杉謙信を頼って越後に赴き上杉家臣となった。
【白井長尾氏】
 同じく景忠の子清景を祖とする。本拠地は白井城(群馬県渋川市)。白井長尾景仲は山内上杉氏家宰として亨徳の乱で活躍。景仲の嫡子景信も主君山内上杉顕房を補佐し古河公方方との合戦を主導する。ところがあまりにも強大になった白井長尾氏を警戒した顕定(顕房養子、越後上杉房定次男)は養父の戦死を受け家督を継ぐとこれを疎み始める。
 顕定が、景信の死後嫡子の景春ではなく総社長尾忠景(景仲弟。総社長尾家を継いでいた)を山内上杉家執事に任命したため景春は怒り反乱を起こす。これが有名な長尾景春の乱で、山内家だけでは鎮圧できず扇谷(おうぎがやつ)上杉氏家宰太田道灌の協力でようやく鎮圧できたが、それでも5年もかかった。白井長尾氏が本拠上野国だけでなく武蔵、相模、下総まで勢力を扶植していたのが理由。
 これほどの大反乱を起こしながら白井長尾氏が滅ぼされなかったのはそれだけ強大な勢力を誇っていた証拠だろう。景春は、乱後駿河の今川氏のもとへ亡命しその地で客死した。白井長尾氏は越後の長尾為景、小田原の北条早雲と結んでしぶとく生き残り景春の曾孫憲景の時代に山内上杉家に復帰する。その後総社長尾氏と共に上杉謙信に仕えるが、上杉謙信の勢力が上野から駆逐されるのを受け、武田勝頼、滝川一益、北条氏政と次々と主家を渡り歩く。小田原で北条氏が滅ぼされると上杉景勝を頼り家臣となった。
 次は、越後長尾氏ですが府中(三条)長尾、栖吉長尾、上田長尾などに分かれ複雑なのでこちらは本文中でおいおい説明します。

小田原役後の真田領

 最近、『真田太平記』にはまってまして1日1話から2話観るのが日課になっています。あらためて丹波哲郎さんの真田昌幸ははまり役だなと感心している所です。それはともかく、秀吉の小田原北条氏征伐後の論功行賞で真田家は上州沼田領を回復しました。
 沼田領というのは戦国時代当時上野国利根郡と同義でその主邑が沼田です。もともと武田家に属していた真田氏が上州に侵攻し吾妻郡、利根郡を攻略したのが始まりでした。主家武田勝頼滅亡後紆余曲折があって真田昌幸は豊臣秀吉に属しますが、その際沼田領のうち西三分の一を昌幸が取り、あとの三分の二を北条氏に渡すという合意が成立します。
 ところが、北条氏は真田家に残された名胡桃城まで奪ったためそれが北条征伐の理由となりました。秀吉の巨大勢力に敵うはずもなく北条氏は滅ぼされるのですが、その結果ようやく昌幸は沼田領全域の支配を豊臣政権に公式に認められる事となったのです。
 これで上州における真田氏の領土は吾妻郡(主城岩櫃城)と利根郡(主城沼田城)合わせて三万石になります。一方、信濃国でも真田本領の小県(ちいさがた)郡一円支配が実現しました。それまで地侍の旗頭的役割にすぎなかったのが完全に家臣団化できるようになったのです。これは昌幸にとって望ましい形でした。本記事で気になるのはその小県郡の石高がどれくらいだったかです。
 一応、寛永検地(1633年)での石高は6万5千石。ところが吉川弘文館の標準日本史地図の1590年代の大名配置図では信濃国真田領は4万石とあります。どちらが正しいのか不明ですが貫高制を石高制に換算した時の誤差かなという気もします。
 信濃のような山国では新田開発の余地もすくなくあまり石高が変わる事は考えにくいです。その証拠に元禄検地(1697年~1702年)でも6万7千石とほとんど変わりません。関ヶ原以後昌幸の長男信幸が信濃国小県郡(旧真田昌幸領)を加増された時点で沼田領とあわせて9万5千石あったそうですから、そこから換算すると6万5千石のほうが妥当な数字のような気もします。

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