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2016年3月18日 (金)

越後長尾氏の興亡Ⅱ   長尾氏の越後入部

 南北朝期に南朝方の雄として大活躍した新田一族。上野国新田郡を本拠とし上州一円はもとより越後まで勢力を広げました。新田氏が義貞死後数十年も北朝方に抵抗できたのは本国上野の他に越後に広がる新田一族の助力があったからです。
 幕府はこの事を憂慮し鎌倉府執事であった山内上杉憲顕を上野・越後の守護に任じこの地方の平定を任せます。憲顕は上野を平定するとともに越後へは腹心長尾景忠を派遣しました。越後守護代として乗り込んだ景忠は長尾一族を率い各地を転戦します。当時越後国は新田一族の他に多くの御家人、豪族たちがひしめいていました。
 和田一族である中条、黒川、羽黒氏や色部氏、加地氏ら揚北衆は上杉=長尾方に味方します。一方大井田、河村、小国、池、風間氏らは新田方となり抵抗しました。合戦は主に蒲原郡、刈羽郡を舞台とします。長尾景忠は上州から三国峠を越えた先、魚沼郡を根拠地とし国衙領の多い頸城郡(上郡)に進出、蒲原、刈羽、三島郡の南朝方を次第に追い詰めていきました。こうして一応越後の平定は成ったのですが、独立志向の強い揚北衆などは完全に幕府に心服したわけではなく情勢によってはどう転ぶか分かりませんでした。
 ここで揚北(あがきた)地方について説明します。揚北は阿賀北とも書き越後を環流する二つの大河信濃川、阿賀野川のうち阿賀野川以北を指します。郡で言えば磐船郡、沼垂(ぬたり)郡です。越後は東西に320kmもある大国だったため中央政権の統治が十分及びませんでした。当時の越後の中心は国府のある頸城郡、場合によっては三島(さんとう)郡まで含めた所謂上郡(かみごおり)です。上郡と揚北の間の古志郡、蒲原郡(場合によっては三島郡も)は中郡(なかごおり)地方と呼びます。南の魚沼郡は山内地方と呼びました。
 長尾景忠は山内上杉氏家宰、上野国守護代でもあったため越後守護代職を弟景恒(景廉とも)に譲ります。これが越後長尾氏の始まりで、景恒は越後国内を固めるため嫡子高景を三条に、景春を古志郡栖吉に、新左衛門尉(名前不明)を魚沼郡上田に置きました。これがそれぞれ三条長尾氏、栖吉(古志)長尾氏、上田長尾氏の祖となります。
 父景恒の後を受け越後守護代になった三条長尾高景は、山内上杉憲顕の子憲方から始まる越後守護上杉家の家督争いを治め憲顕の孫房方を越後守護に据えた功績から以後三条長尾氏が越後守護代職を独占するようになりました。三条長尾氏は主家越後上杉氏と共に府中(新潟県上越市)に屋敷を構えたため府中長尾氏とも呼びます。
 こうして越後に土着した長尾氏ですが、決して順風満帆だったわけではなく観応の掾乱の時には上杉憲顕が直義方に立ったため、尊氏方の下野守護宇都宮氏綱の侵攻を受けます。当時越後には本国上野を追われた本家山内上杉憲顕ら上杉一族、それに従った足利長尾氏ら長尾一族もいましたが、尊氏方に揚北衆が多く参加したため苦しみました。柏崎の合戦では双方多くの死傷者を出します。1352年頼みの綱足利直義が毒殺されるとますます窮地に立たされました。憲顕は上野、越後守護職を剥奪され信濃に追放されます。
 ところが、鎌倉公方に尊氏の次男基氏が就任した事から風向きが変わってきました。基氏は幼少時鎌倉府執事として自分を補佐してくれた憲顕のことを忘れておらず、幕府の威光を嵩に横暴を極めていた執事畠山国清を罷免し憲顕を呼び戻したのです。国清方の宇都宮氏綱も上野・越後の守護職を剥奪されます。これを関東の政変と呼びました。鎌倉府執事、上野・越後守護を回復した上杉氏は、以後執事から関東管領を独占し関東に君臨します。
 山内上杉氏と越後上杉氏の関係は、ちょうど中央政権における細川京兆家と下屋形阿波細川家と似ていると思います。そして中央における三好氏にあたるのが長尾氏なのでしょう。三好氏も長尾氏もそれぞれの主家(阿波細川家、越後上杉家)を嫡流家を凌ぐ存在に育て上げ、最後は下克上で実権を奪うのですから。三好長慶にあたるのが長尾為景でしょう。
 犬懸上杉氏が上杉禅秀の乱で滅び、それまで上杉一族で持ち回りだった関東管領職は嫡流山内上杉氏が独占する事となります。1418年関東管領山内上杉憲基が亡くなると、男子がいなかったため一族越後上杉氏から養子を迎え継承しました。これが上杉房方の子憲実で以後山内上杉家と越後上杉家は一体となります。山内上杉氏は、憲実の三代あとにも越後上杉氏から顕定を養子に迎えました。
 応永三十年(1423年)将軍義量と鎌倉公方持氏の対立が激化していたころ、越後守護上杉房朝(房方の孫、憲実の甥)は幼少で京都に滞在していました。自然幕府に近くなります。ところが越後守護代長尾邦景(高景の子)は関東管領上杉憲実とともに鎌倉方に味方したため越後国内は守護方(幕府方)と守護代方(鎌倉方)に分裂しました。
 1424年、幕府の追討をうけた持氏が謝罪して講和が成立したのですが、越後国内ではしこりが解消できず守護方(幕府方)は遠く伊達持宗に援助を求め、守護代長尾邦景の腹心山吉行盛の三条島城を攻めます。ところが行盛の逆襲を受け敗退、一部の揚北衆は雪崩を打って邦景方に寝返りました。一時幕府方は有力武将中条房資が死を覚悟するほど追い詰められます。しかし首謀者の鎌倉公方持氏がすでに降伏しているので守護代方にも戦を続ける名分はなく、このまま痛み分けに終わりました。
 守護代長尾邦景は蒲原郡代山吉行盛を通じて揚北に段銭(地域を限定した臨時課税)を掛けたためすでに寝返っていた者もふくめて揚北衆全体の恨みを買います。次第に情勢は邦景と揚北衆の対立となってきていました。中条房資はこれを受け再び揚北衆を率い三条島城を攻撃します。府中から援軍の長尾勢が到着したため、今回も攻撃は失敗。そればかりか中条氏の一族羽黒秀性(しゅうしょう)までが守護代方に寝返ります。
 中条房資は川間城に逃げ込み、それを長尾勢が包囲しました。今度こそ絶体絶命に陥った房資ですが、厳しい冬が到来しついに攻囲軍は引き揚げました。雪解けを待って房資は、裏切った一族羽黒秀性を攻めこれを切腹させ溜飲を下げます。揚北衆の有力武将中条房資がなぜこれほど守護代方に抵抗したかですが、おそらく守護、幕府に対する忠誠心ではなかったと思います。中条氏は鎌倉幕府の有力御家人和田義盛の一族で、数々の戦乱の中本拠越後奥山庄を守り抜いた誇りがあったのでしょう。中央政権に対する反骨精神が守護代長尾邦景への敵愾心につながったのだと考えます。
 中央では正長元年(1428年)、六代将軍義教が誕生します。鎌倉公方持氏は再び幕府に背く気配を見せ、関東管領上杉憲実はこれを諌めますが聞き入れられず本国上野に引き上げました。越後守護代長尾邦景は、持氏を見限り直接将軍義教に接近し直接越後守護代職を安堵してもらいます。この頃から越後長尾氏は、次第に主家上杉氏とは違う動きを開始しました。これが後の為景による主君殺しへと繋がるのです。
 次回は、邦景の栄光と末路、実景の没落と長尾一族の復活を描きます。

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