小田原役後の真田領
最近、『真田太平記』にはまってまして1日1話から2話観るのが日課になっています。あらためて丹波哲郎さんの真田昌幸ははまり役だなと感心している所です。それはともかく、秀吉の小田原北条氏征伐後の論功行賞で真田家は上州沼田領を回復しました。
沼田領というのは戦国時代当時上野国利根郡と同義でその主邑が沼田です。もともと武田家に属していた真田氏が上州に侵攻し吾妻郡、利根郡を攻略したのが始まりでした。主家武田勝頼滅亡後紆余曲折があって真田昌幸は豊臣秀吉に属しますが、その際沼田領のうち西三分の一を昌幸が取り、あとの三分の二を北条氏に渡すという合意が成立します。
ところが、北条氏は真田家に残された名胡桃城まで奪ったためそれが北条征伐の理由となりました。秀吉の巨大勢力に敵うはずもなく北条氏は滅ぼされるのですが、その結果ようやく昌幸は沼田領全域の支配を豊臣政権に公式に認められる事となったのです。
これで上州における真田氏の領土は吾妻郡(主城岩櫃城)と利根郡(主城沼田城)合わせて三万石になります。一方、信濃国でも真田本領の小県(ちいさがた)郡一円支配が実現しました。それまで地侍の旗頭的役割にすぎなかったのが完全に家臣団化できるようになったのです。これは昌幸にとって望ましい形でした。本記事で気になるのはその小県郡の石高がどれくらいだったかです。
一応、寛永検地(1633年)での石高は6万5千石。ところが吉川弘文館の標準日本史地図の1590年代の大名配置図では信濃国真田領は4万石とあります。どちらが正しいのか不明ですが貫高制を石高制に換算した時の誤差かなという気もします。
信濃のような山国では新田開発の余地もすくなくあまり石高が変わる事は考えにくいです。その証拠に元禄検地(1697年~1702年)でも6万7千石とほとんど変わりません。関ヶ原以後昌幸の長男信幸が信濃国小県郡(旧真田昌幸領)を加増された時点で沼田領とあわせて9万5千石あったそうですから、そこから換算すると6万5千石のほうが妥当な数字のような気もします。
« ドイツの戦争 用語解説 | トップページ | 越後長尾氏の興亡Ⅰ その出自と一族 »
「 日本史」カテゴリの記事
- 足利義輝弑殺の真犯人は誰か?(2025.12.08)
- データサイエンスで読み解く邪馬台国の位置(2025.11.11)
- 膳所(ぜぜ)藩本多家の幕末維新(2025.10.31)
- 和船の復原力(2025.09.13)
- 和船の構造(2025.09.07)


コメント