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2016年3月18日 (金)

越後長尾氏の興亡Ⅶ   謙信の章(前編)

 上杉謙信の生涯を眺めると、多くの重臣に裏切られている事に気づかれると思います。謙信ほどの強力な戦国大名がなぜ家臣団を統制できなかったのか長年疑問でした。しかし、経緯を見てみると納得できます。
 謙信(=長尾景虎=上杉政虎=上杉輝虎)が越後国主になったこと自体が、結果的に家臣団統制力を弱めたのです。
 というのも、謙信は正当な越後守護代である兄晴景をクーデターで倒して実権を握りました。そのため謙信の属する府中長尾家家臣団からは浮き上がった存在になります。母の実家栖吉長尾家しか頼れず、一方の雄である有力庶家上田長尾家とは冷戦状態が続きました。謙信を裏切った北条(きたじょう)高広も国衆(在地領主)出身。揚北衆の本庄繁長は潜在的敵対勢力。軍記物で謙信の軍師として有名な宇佐美定行のモデルとされる宇佐美定満、宿老として謙信を支えた直江景綱も外様の国衆で一度は府中長尾家に敵対した経験があります。勇将柿崎景家も国衆で織田信長と通じ謀叛寸前に粛清されました。
 甘粕景持や鬼小島弥太郎は謙信股肱の臣といえますがあまりにも小粒。謙信の越後政権とは、謙信のカリスマで束ねた国衆連合政権だったと見るのが妥当かもしれません。謙信死後家督を巡って壮絶な内戦が起こったのもこれで説明できると思います。謙信だけが、まがりなりにも越後国衆を纏める事が出来た存在なのでしょう。
 さて関東管領職と山内上杉氏の家督を継いだ上杉政虎ですが、本格的に関東情勢に介入する前に北信濃の問題が浮上してきました。信濃守護小笠原家の統制力は北信濃には及ばず長年越後守護上杉氏と守護代府中長尾氏の勢力圏でした。北信濃の有力豪族高梨政頼が強力な為景党だった事でも裏付けられます。
 そこへ甲斐の戦国大名武田晴信(後に出家して信玄)の勢力が伸びてきたのです。晴信は信濃守護小笠原氏を倒し葛尾城の村上義清を圧迫していました。矢面に立たされた高梨政頼は政虎に救援を要請します。天文二十二年(1553年)、政虎は五千の兵を率い北信濃に出兵しました。ここに初めて上杉政虎、武田晴信という生涯のライバルが対峙した事になります。晴信は上杉勢の出動を想定していなかったため警戒し、一旦兵を引きました。
 甲斐に戻り態勢を立て直した武田勢は再び北上し塩田城を落とします。犀川と千曲川に挟まれた三角地帯川中島(長野市)に進出し両軍は小競り合いを演じました。これが第一回川中島合戦で以後五回に渡る上杉武田の戦いが開始します。
 今回の信濃出兵は政虎にとっては威力偵察を目的としたもので、彼の最大の念願は北条氏康を滅ぼして関東管領山内上杉家を再興することでした。政虎は、関東進出の大義名分を得るために弘治4年(1558年)上洛を決意します。今回の上洛をあくまで従五位下弾正少弼任官のお礼言上と社寺参詣として途中の一向一揆、朝倉氏を納得させました。とはいえ五千の兵を率いるという物騒な一面も持ちます。
 京で後奈良天皇に拝謁した政虎は任国(越後)とその隣国の凶徒討伐の勅命を受けます。この時将軍足利義輝にも拝謁していますが、一字拝領して輝虎と改名したのは再度上洛した永禄二年(1559年)の時でした。その後出家して謙信と号しますが、煩雑になるので以後謙信で通します。
 上杉謙信が帰国すると、早くも武田信玄(こちらも煩雑になるので晴信ではなく出家後の信玄で統一)の調略の手が重臣北条高広に伸びており高広は反乱を起こしました。謙信は自ら出馬し鎮圧しますが、降伏した高広を斬れなかったのは越後政権の脆弱性でしょう。そしてこの反乱をきっかけに第二回川中島合戦が起こります。
 謙信は戦う気満々でしたが、信玄は慎重で決戦を避けまたしても膠着状態に陥ります。駿河の今川義元が調停し両者兵を引きました。謙信が念願の関東出兵を実現できたのは永禄三年(1560年)五月のことです。同じ年桶狭間で武田・今川・北条三国同盟の一角今川義元が織田信長に討たれた事を受けての出陣でした。越後勢が上野国に入ると、山内上杉家所縁の諸将が次々と参陣します。こうなると北条方の諸将も勢いを見て次々と寝返り武蔵、相模と南下するに従い雪だるま式に増えていきました。
 翌永禄四年二月、鎌倉を落とし謙信は北条氏康の本拠小田原城を囲みます。その数九万とも十一万ともいわれる大軍でした。氏康は、謙信の勢いとまともにぶつかる愚を避け籠城策を採ります。小田原城は難攻不落で謙信直率の越後勢以外は戦意が低かったため長期戦になりました。氏康は同盟していた武田信玄に使者を送り川中島への進出を依頼します。
 北信濃が陥落すると謙信の本拠府中は指呼の間です。信玄は川中島に海津城を築城し大きな楔を打ち込みました。すでに弘治三年(1557年)第三回川中島合戦が起こっていてその時も睨みあいで終わっています。謙信は、無念にも小田原城から撤退せざるを得なくなりました。引き上げ途中鎌倉で正式に関東管領に就任した謙信は上野厩橋城(前橋市)に留まります。ここでしばらく粘りますが、北信濃情勢が危なくなったためにようやく越後に帰国しました。
 永禄四年(1561年)八月、謙信は今度こそ武田信玄と雌雄を決すべく川中島に出兵します。率いる兵力は一万三千。越後の石高が39万石、だいたい30万石で一万の動員兵力ですから妥当な数字です。謙信が生涯率いた中核兵力は越後の一万三千前後で変わりません。武田信玄は、本国甲斐と信濃の大部分から二万の兵力を動員します。
 この時の戦いが有名な第四回川中島合戦ですが、軍記物で書かれているような謙信の妻女山布陣、信玄の霧を利用しての敵前渡河、海津城入城、啄木鳥戦法、武田勢の腰兵糧をみて奇襲を察知し山を降りた謙信、八幡原での遭遇戦、車懸りの陣、謙信の単騎斬り込みとそれを軍配で受ける信玄など展開はドラマチックですが信頼できる資料での裏付けが無く、軍事的合理性にも欠けるのでここでは採用しません。
 ここは多くの戦史研究家の指摘するように、妻女山ではなく犀川北方の旭山城かその近辺(西條山とも言われるが場所不明)に上杉軍が布陣したという説を採用しましょう。そして海津城に入った武田勢と対陣。主力の八千を率いて霧を利用し武田勢を奇襲しようとした謙信は、同じく八幡原まで進出してきた武田軍と遭遇。そのまま強襲となり合戦に突入。
 最初優勢に戦を進めていた上杉勢ですが、武田方に後詰が到着したために兵力で押され撤退したというのが真相に近いような気がします。最初の遭遇戦で心理的奇襲を受けたために武田勢は混乱し信玄の弟信繁や山本勘助が討死したのでしょう。両軍の損害は上杉勢が三千余、武田勢が四千余と言われます。甲陽軍鑑では前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ちと断じますが作戦目的である北信濃の大部分を制圧したのは信玄で、それが戦争目的でもありましたから私は武田信玄が勝者だと見ます。最終的に村上義清も高梨政頼も領地を追われ越後に亡命しました。
 
 後編では、川中島以後の謙信の戦いとその死を描きます。

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