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2016年4月

2016年4月 3日 (日)

春秋戦国史Ⅴ  楚の荘王

 楚のルーツが漢民族でない事はほぼ明らかになっていますが、タイ族説、苗(ミャオ)族説、東夷説がありはっきりしません。一説では長江文明の生き残りではないかとも云われます。現在でも雲南省でタイ族と苗族は隣接して住んでおり古代には長江中流域も似たような状態であったろうと想像できます。
 楚が周の封建体制下に組み込まれ子爵を授けられた事はすでに書きました。ところが楚は実力で近隣の周の諸侯国を併呑し王を自称して周に挑戦します。楚は24代成王の時代BC632年城濮の戦いで晋の文公に敗れ北進が一時頓挫しました。成王の孫に当たる26代荘王(名は侶、在位BC614年~BC591年)が国を受け継いだ時の楚はやや衰退期にはいっていたのです。
 荘王は即位して3年間、遊興に耽り政治を全く顧みませんでした。国内に訓令し、「あえて国王を諌める者は死罪に処す」と布告します。王が政治をしないのですから国内は弛緩し冗官汚吏がはびこりました。これを憂いた臣下の伍挙は王を諌めようと宮中に入ります。その時荘王は左に鄭姫を抱き右に越女を侍らせ酒宴の最中でした。
 伍挙は構わず荘王の前に出て
「鳥が丘の上に居ります。3年飛びもしなければ鳴きもしません。これはどのような鳥でしょう?」と謎かけしました。それに対し荘王は
「3年鳴かないのはひとたび鳴けば人を驚かす。3年飛ばないのはひとたび飛び立てば天に昇るであろう。伍挙よ、お前の言いたい事は分かっておる。退出しておれ」
と答えました。これが『三年鳴かず飛ばず』の故事の由来です。しかしこの後も荘王の振る舞いは変わりませんでした。
 ついに大夫の蘇従(そしょう)がたまりかね、荘王に直訴します。荘王は怒り「お前は訓令を知らないのか!」と浴びせます。しかし蘇従は「わが君が明を開かれるなら、私はどうなってもかまいません」と真剣に訴えました。じっとそれを見ていた荘王は、笑い出しました。
 「蘇従よ、よくぞ言った。そなたこそ真の忠臣である」その後、荘王は廟堂に向かい3年間不正を働いていた者を数百人誅殺し、有能な者を数百人推挙します。もちろん伍挙も蘇従もこの中に含まれ重職を授けられました。

 こうして国内の態勢を固めた荘王はBC606年洛邑南郊の山岳地帯に居住する異民族陸渾(りくこん)の戎を討ちます。戎というくらいですからチベット系の西方民族だろうと思われますが、このように支那大陸では都市国家とその周辺だけが漢民族の領域で、その周辺には異民族が雑居していたことがうかがわれます。周は楚軍がそのまま洛邑に攻め込むのではないかと恐れ、様子を探るため大夫の王孫満を使者として荘王をねぎらわせました。この時荘王は王孫満に
「周の朝廷には九鼎という秘宝があるそうだが、その重さはどれくらいかな?」と問いました。これは楚軍はいつでも周に取って代われるぞという寓意です。これに対し王孫満は
「世を治めるのは徳によってです。周の徳は衰えたりとはいえ天命が改まったわけではありません。九鼎は夏から商、そして周へ受け継がれた天命の象徴です。王がいかに盛徳であろうと、鼎の軽重を問う時ではありますまい」と答えました。これが有名な『鼎の軽重を問う』という故事の由来です。
 荘王は、王孫満の毅然たる態度を見ておとなしく軍を引きました。ただ荘王の北進は止まらず内紛に乗じて陳を滅ぼしBC597年には城濮の戦いの後楚の属国を脱し晋に服属していた鄭を討って再び楚の属国に戻します。降伏の直前、鄭は宗主国の晋に援軍を求めていました。晋はこれを受け正卿(宰相、軍の序列では1位の中軍将)の荀林父を総大将とする大軍を南下させます。鄭がすでに降伏していたので撤退論も出ていたのですが、主戦派が勝ち晋軍は楚軍と邲(ひつ、河南省鄭州市近郊)で対峙しました。
 総大将の荀林父も撤退論、上軍の将(晋軍の序列第3位)の士会も撤退すべきだと考えていましたが、中軍の佐(序列第2位)の先穀が強硬に主戦論を主張し独断で兵を動かしたため、晋軍は仕方なく戦いに突入します。このような状況で勝てるはずがありません。事実、邲の戦いは楚軍の圧勝となりました。

 本来であれば覇者というのは『周王室を助け諸侯を率いて楚を討つ者』を指しますが、しだいに諸侯中最大の実力者という意味合いに変わってきていました。楚の荘王は事実上の覇者となったのです。鄭や宋をはじめ中原の有力諸侯は晋を離れ楚に服属します。荘王はBC591年栄光のうちにその生涯を終えました。



 再び楚に覇権を奪われた晋はどのような反撃を行うのでしょうか?それには一人の美女が大きく関わることとなります。次回『妖女夏姫』に御期待下さい。

春秋戦国史Ⅳ  晋の文公(後編)

 晋の献公は亡くなる前、後事を実直で忠誠心篤い荀息に託します。やはり幼少の奚斉が後を継ぐ事に不安だったのでしょう。BC651年9月、献公が亡くなり奚斉が即位するとその不安は的中します。驪姫とその息子奚斉を認めない里克が大夫邳鄭らを語らい申生、重耳、夷吾に心を寄せる者たちを集めて反乱を起こしたのです。里克は挙兵に先立ち荀息を誘いますが、彼は「先君の遺命に背くことはできない」とこれを拒否します。

 里克は父献公の喪に服する奚斉を宮中で刺殺、驪姫とその一族もその時同じ運命を辿りました。荀息は主君に従い殉死しようとしますが周囲に諌められ先の乱で生き残っていた同じ驪姫の産んだ弟悼子を晋君に立てます。ところが11月にはその悼子も反乱軍に弑殺されたため荀息はこれに殉じました。これが晋公室を揺るがせた驪姫の乱の顛末です。

 里克は、最初狄に亡命していた重耳に晋公に即位してもらうよう要請しました。ところが重耳は「私は父の命に背いて国を出た。そのような不幸者が帰国できるだろうか?どうか別の公子を晋公に即位させてほしい」と断ります。当時重耳には趙衰、狐偃(こえん)、賈佗(かだ)、先軫、魏犨(ぎしゅう、魏氏の祖)ら優に一国の宰相を務められる有能な家臣が付き従っていました。もしかしたら反乱軍に乗って即位することの危うさを考えての決断だったのかもしれません。

 仕方なく、里克らは梁にいた夷吾に使者を送ります。夷吾もこの申し出を警戒し隣国秦に援軍を要請し秦軍と共に入国して首都を制圧する事を考えました。当時の秦君は名君として名高い穆公(ぼくこう)でした。宰相の百里奚に下問すると「夷吾は礼儀をわきまえず信用出来ない人物ですが、この際晋に恩を売っておくことも良いでしょう」と答えたので兵を出して夷吾を晋に送り出します。
 夷吾は晋に到着すると、即位の恩人である里克を殺し予想通り秦も裏切ります。即位に協力したら秦に河西の地(黄河の几状湾曲部の西側、陝西省)を割譲するという約束を反故にしたのです。夷吾は即位して恵公(在位BC650年~BC637年)となりました。
 即位して4年、晋は恵公の暴政の祟りか深刻な飢饉に見舞われます。困った恵公はあろうことか秦に援助を求めました。あまりの厚かましさに穆公はこれを拒否しようとしますが百里奚に諌められ穀物を送ります。その2年後、今度は秦が飢饉になります。当然晋はこの前の恩を返すものと考えていた穆公ですが、恵公は隣国の危機に付け込み逆に攻め込む始末でした。さすがに腹にすえかねた穆公は兵を出してこれを迎え撃ちます。怒りに燃える秦軍は侵略者を撃退し、以後晋と秦は冷戦状態に陥りました。

 BC637年恵公が亡くなると、太子圉が即位します。すなわち懐公です。晋に恨みを抱く秦は、公子重耳を探し出して援助し即位させようと画策します。弟恵公が即位してから今まで重耳は何をしていたでしょうか?実は重耳は、恵公の暗殺団に襲来され亡命先の狄から斉に脱出していました。

 当時の斉は覇者桓公の晩年でしたが、祖国を追われた悲運の公子を温かく迎えます。桓公は重耳に自分の娘を与え厚遇しました。それから5年快適な生活に慣れ愛妻に溺れた重耳でしたが、側近の狐偃、趙衰らはこれを憂い重耳に諫言します。ところが重耳が全く取り上げなかったため思い余って正室姜氏(桓公の娘)に相談しました。一説では狐偃らが斉を出る相談していたところを侍女がたまたま聞きつけ姜氏に訴えたともされます。

 彼女は逆にその侍女を殺し夫重耳に訴えました。
「あなたは一国の公子でありながら婦女子の愛に溺れ安楽に時を過ごしておられます。しかし側近の方々は貴方へ忠節をつくし祖国へ帰還する事を願っているのです。どうしてこれらの方々を蔑ろにされるのか?私はあなたのために恥じ入ります。どうかこの国を出て大業を成してくださいませ」
しかし重耳が曖昧な返事をしたため、狐偃らと図り重耳を酔わせて車に乗せ斉を脱出させました。流石は桓公の娘です。しかし彼女は重耳には付いて行かなかったようです。あっぱれな烈女ですね。

 酔いから覚めた重耳は怒って狐偃を殺そうとしました。ところが狐偃は
「あなた様が大業を成し遂げる事が出来るなら、私はどうなろうとかまいません」と言いました。重耳も思いなおして許します。重耳一行はその後曹、宋、鄭を経て南方の大国楚に向かいます。楚でも成王から歓待されました。

 ある日酒宴の席で重耳は成王から
「あなたが祖国に帰られれば何を持って余に報いてくれるのか?」と戯言を言われます。少し考えた重耳は
「大王は天下の財宝を集められ、私が何を持って報いるのか考えようもありません。もし私が晋公になって大王の軍と不幸にして会い見えることになったら、大王に敬意を示し三舎を避けましょう」と答えました。

 舎とは当時の軍隊の一日の行軍距離でだいたい30kmくらいを指します。3日分の行軍距離を後退しましょうと約束したわけです。後でこれを聞いた楚の将軍子玉は怒って
「重耳の我が王に対する言辞は不遜です。直ちに殺してしまいましょう」と訴えました。しかし重耳に好意を抱く成王は笑って取り上げませんでした。

 そのうち秦の穆公が重耳を探しているという報告が入ります。成王は「我が国は晋と遠すぎる。隣国の秦に頼られるがよかしかろう」と重耳に莫大な贈り物を付けて秦に送り出しました。重耳はここでも厚遇され穆公の公女を娶ります。晋の恵公が亡くなり懐公が継承したという報告が秦にもたらされました。恵公の暴政に不満を抱いていた晋の国人たちは、重耳が秦に居る事を知り入国して晋君に就いてもらうよう懇請します。

 BC637年、秦の大軍に守られて重耳は帰国しました。晋軍は迎え撃ちますが恵公の暴政で人心が離れていたため士気が低く本気で戦う者は少数でした。わずかな抵抗を排除し重耳は晋の都絳に入城します。懐公は混乱の中で殺されました。享年22歳。同年12月重耳は第24代晋公として即位します。亡命生活19年、すでに62歳という高齢でした。重耳に付き従った者は狐偃が宰相になったほかそれぞれ重職に取り立てられます。同じ貴族でも重耳に従って国外にあった者の家が栄え、それまで晋国に留まった者たちは冷遇されました。

 重耳は後に文公と諡(おくりな)されますから、以後文公(在位BC636年~BC628年)と記しましょう。文公の治世は短かったのですが、その間に輝かしい業績を示します。BC635年反乱で国を追われた周の襄王を助け都を鎮めました。BC632年には楚に攻められた宋が救援を求めため自ら軍を率いて出陣します。この時文公はかつての成王の恩に報いるため三舎を避けました。このまま楚軍も引いたら戦は起こらなかったはずですが、主戦派の将軍子玉が楚軍の主力を率いて文公に挑んできました。

 これを城濮の戦いと呼びます。城濮は現山東省西部の鄄城県にありました。戦いは晋軍の大勝となり敗北した子玉は成王の怒りに触れ処刑されます。この戦いの勝利で晋の文公は覇者の地位を確立しました。以後、晋と楚の二大大国の対立は晋優勢のまましばらく続きます。BC632年冬、文公は諸侯を河内(かだい、中原北部、黄河の北岸)温(おん)に集めて会盟を執り行いました。
 治世9年、文公重耳は栄光のうちに世を去ります。亨年69歳。当時としては驚くべき長命でした。後を継いだのは子の驩(かん)。こちらは襄公と呼ばれます。襄公の晩年は建国の功臣狐偃の子狐射姑(こえきこ)と趙衰の子趙盾(ちょうとん)の熾烈な権力闘争が激化しました。以後公室の権力は衰え六卿(りくけい)とよばれる有力貴族が晋の政治を支配するようになるのです。


 次回は、劣勢に陥った楚の反撃と荘王の事績を紹介します。

春秋戦国史Ⅳ  晋の文公(前編)

 晋という国が周王朝2代成王の弟唐叔虞から始まった事は以前書きました。晋11代文侯(姫仇)の弟に成師という者がいました。文侯の子12代昭侯が立つと成師は曲沃に封じられ桓叔と号します。当時の晋の首都は翼でしたが、曲沃は肥沃な土地にあり豊かな領地でした。桓叔は善政を布いたため首都翼よりも発展していきます。晋の人たちは分家が本家を凌ぐことは世の乱れの元だと危ぶみますが、間もなくその危惧は現実のものとなりました。
 さすがに桓叔の時代は何も起こりませんでしたが、2代荘伯の時代には晋室との対立が決定的になり戦争状態に陥ります。そして3代姫称が曲沃の主となると晋公室15代哀侯を弑殺、後を継いだ小子侯(幼くして死んだので諡号なし)までも殺しました。さすがにこの暴挙は周の桓王の怒りを買い討伐を受けます。称は敗北して曲沃に逃げ帰りました。周王室の後押しで晋の人たちは哀侯の弟湣(びん)侯を立てます。称は執念深く晋を攻撃し続けついにBC677年湣侯を攻めこれを滅ぼしました。

 前回の周王室の介入に懲りた称は今回は王室の要路を賄賂で買収するなど用意周到な準備をしていました。また晋の王宮から接収した宝物を16代釐(き)王にすべて献上するなどご機嫌をとり晋の正式な君主に認められ諸侯の列に加えられました。称は即位し18代武公となります。おそらくこの頃公爵の位を得たのでしょう。武公は翼を絳(こう)と改称しました。武公の後は子の献公(在位BC676年~BC651年)が継ぎます。
 献公には3人の成人した子供がいました。太子の申生、公子重耳(ちょうじ)、公子夷吾です。ある時献公は異民族の驪戎(りじゅう)を討ち、降伏のしるしとして美女驪姫(りき)を得ました。ここで言う姫とは高貴な女性という意味ではなく姫姓の女性という意味です。支那では同族婚をタブーとしてますから姫というのは本来おかしい(晋室も姫姓)のですが、この場合は遠い血族関係があっても異民族だから許されるとしたのでしょうか?
 献公は、この驪姫を溺愛します。彼女は公子奚斉(けいせい)を生みました。彼女はとんでもない悪女で、自分の息子を晋公にすべく悪辣な策謀を巡らせます。まず献公に説き太子の申生を曲沃の守備を任せるとの名目で追い出し、公子重耳も蒲に、公子夷吾は屈へ遠ざけました。この動きを憂いた宰相里克は献公に諫言します。
 「太子申生さまは孝心篤く、臣下の者も次の晋公にふさわしい方だと思っています。なのに公は太子を遠ざけ驪姫殿の生んだ奚斉さまを太子に据えようとしておられます。どうかお考え直しいただけませんか?」
 それに対し驪姫に溺れる献公は「公室の後継者問題に一臣下が口を挟むのは無礼である」と立腹し取り付く島もありませんでした。これ以上言うと自分の命の危険もあると考えた里克は黙って退出します。そのまま太子申生に会いました。

 申生は「私は父に殺されるのであろうか?」と不安を示します。里克はこれに対し「今はひたすらお耐えください。父君の命に従い身を収めていれば難を免れる事が出来るでしょう」と答えるのみでした。ところが驪姫の陰謀は着々と進行していました。献公が驪姫に「奚斉を太子にしようか?」と問うと決まって申生を褒め「国民は申生様を慕っております。身分賤しき私の生んだ奚斉が太子になったら国民はどう思うでしょうか?そのような恐ろしい考えはお捨て下さい。どうしてもというなら奚斉と共に私も自害します」と泣いて訴えました。

 ある時、申生は献公の正室ですでに亡くなっていた母斉姜を曲沃の廟で祭っていましたがその供物を父献公の元にも届けさせます。驪姫は秘かにその中に毒を盛りました。そうしておいて、
 「太子からの酒肉は何分にも遠くから贈られたものです。お試しになったほうがよろしいでしょう」と助言します。驪姫は供物の一部をそばにいた犬に投げ与えました。犬はすぐ泡を吐いて死にます。
 「太子様はなんという方でしょう?実の父君を殺してまで即位なさろうとするとは!」と驪姫が泣き叫んだため、怒った献公は申生に詰問の使者を送りました。

 こうなると冤罪であっても申し開きなど通用しません。申生は曲沃に逃げ帰りました。怒りの収まらない献公は太子の守役杜原款を誅殺します。太子の側近は「このままでは謀叛人の汚名を受け討伐されてしまいます。どうぞ他国に出奔なさってください」と懇願しますが、申生は「この悪名を受けて亡命しても誰が受け入れてくれようか?」と絶望しついに自害してしまいました。

 最大の邪魔者を排除した驪姫は「公子重耳と公子夷吾も兄と共謀して謀叛を企んだ形跡があります。どうか彼らにも詰問の使者をお出しください」と献公に訴えます。疑心暗鬼に駆られた献公はこれを信じ二人を召喚しようとしました。恐れた二人の公子はそれぞれ首都を脱し本拠地に立て籠もります。

 献公はついにニ公子を討つべく軍を発しました。重耳は一時自害も考えますが考え直し、異民族の狄の地に亡命します。夷吾は、領地の屈に籠城しますが敗北して梁(山西省)に出奔し、隣国秦を頼りました。こうしてやすやすとライバルを倒した驪姫は、息子奚斉を太子に立てる事に成功します。BC651年悪女に誑かされた暗愚な献公は病死しました。

 脱出した重耳と夷吾はどうなるのでしょうか?そして悪女によって国を乱された晋の運命は?後編では驪姫の乱の顛末と文公の即位を描きます。

春秋戦国史Ⅲ  斉の桓公

 春秋戦国時代の身分制度は王、諸侯の下に卿(けい)、大夫、士があり一般庶民である庶人、奴隷がありました。卿は大臣クラスの上級貴族、大夫は中級貴族、士が下級貴族です。一応能力があれば士でも宰相になる事は可能でしたが、かなり稀なケースでした。士ももともとは小領主でしたが、没落し日本の浪人のように仕官せずその日を暮らすのがやっとという者もいました。日本の浪人にあたる存在を処士と呼びます。
 実は、春秋時代最初の覇者となった斉の桓公を支えた宰相管仲はこの処士だったと伝えられます。管仲に関しては過去記事「世界史英雄列伝32」で詳しく書いたので、本稿では斉の公室を中心に記していこうと思います。
 斉公室13代釐公(りこう)は太子諸児(しょげい)を疎んじ甥の公孫無知を溺愛しました。諸児は実の妹(異母妹)と通じるような異常者でもしかしたら父はその事を知っていたのかもしれません。春秋時代にはこのようなケースが多く、後に述べる予定の夏姫も実の兄(異母兄)と通じていました。母が違うので他人という感覚だったののでしょうか。プトレマイオス朝エジプトのように兄妹、姉弟で結婚して共同統治するというケースもあったので、古代世界では極度の近親婚が未熟児や精神異常者を生むというタブーが緩かったのでしょうね。

 釐公が亡くなり諸児が14代襄公(在位BC697年~BC686年)として立つと公孫無知を圧迫します。もしかしたら太子の地位を奪われる可能性もあったのですから当然でしょう。BC694年襄公は隣国魯の桓公と会合します。実は桓公に嫁いでいたのが昔襄公と通じていた異母妹(姜氏)だったのです。久しぶりに再会した兄妹は再び不倫の関係になります。そればかりか邪魔になった桓公を暗殺しました。当然魯は激高します。が、いざ戦争に訴えるにしても国力が違いすぎて泣き寝入りするしかありませんでした。恨みだけが残ります。

 連年戦を繰り返し隣国杞を滅ぼすなどしていた襄公ですが、戦争ばかりしていては大国斉といえども国力が衰えます。国内の不満も高まり、逼塞していた公孫無知はこの機会を待っていました。公位のライバルに成りかねない公孫無知を殺しておかなかった襄公の失策ではありましたが、その甘さは命取りになります。不満を持った廷臣を仲間に引き入れた公孫無知は挙兵し宮殿を攻めました。油断していた襄公は簡単に殺され、公孫無知が即位します。

 斉公になった公孫無知は、公位のライバルになりかねない襄公の親族たちを圧迫し殺そうとします。どちらも屑ですが公孫無知のほうが少しはましだったようです。襄公には二人の弟がいました。公子糾と孔子小白です。公子糾には側近として管仲が仕え、小白は鮑叔牙が補佐していました。管仲と鮑叔牙は親友です。管仲は没落した士の家柄でしたが、鮑叔牙は斉で最高の家格を誇る国氏、高氏に次ぐ名門でした。二人の青年時代のエピソードは過去記事をご覧ください。

 公子糾は、母の実家がある魯に亡命しました。公子小白は母が衛の公女でしたが援助を期待するには遠すぎるという事で隣国の筥(きょ)に逃れます。クーデターで実権を握った公孫無知は国民の支持を得られず、また暴虐な性格で嫌われていたためBC685年臣下に暗殺されてしまいました。

 斉の卿で公室に次ぐ実力があった高氏と国氏は、秘かに小白に使者を送り即位するよう要請します。高氏、国氏がどれほどの家格だったかというと斉の正規軍である三軍の一つ(中軍は斉公が率いる)をそれぞれ率いるほどでした。高氏と国氏としては、襄公の件で恨みを持つ魯に亡命した公子糾に斉公になってもらうと困るという考えだったのでしょう。

 公子小白は、使者をうけるとすぐさま行動を移します。ところが公孫無知暗殺の報は魯にも届いており父桓公を殺された恨みを持つ荘公は、恨みを晴らすはこの時とばかり公子糾に軍を与えて斉に急行させました。管仲は、公子小白の一行が首都臨淄に向かう街道上で待ち伏せ暗殺を謀ります。管仲の放った矢は小白の帯(ベルト)の止め金に当たりました。とっさに鮑叔牙は、主君に伏せるよう進言します。そして小白が殺されたと噂を広めました。

 これを信じた管仲は、魯に使者を送って小白を暗殺したと報告します。安心した魯軍はゆっくりと進軍しました。一方小白軍は、夜を日についで臨淄に急行しました。即位した公子小白は桓公(在位BC685年~BC643年)となります。桓公は早速兵を出し油断して進軍していた魯軍を乾時で急襲し敗走させます。すぐさま魯に使者を送り魯軍が公子糾を擁して斉に攻め込んだ事を糾弾しました。

 こうなると大国斉と軍事的に対抗できない魯は恐れ慄きます。結局桓公の要求通り公子糾を殺しました。側近の管仲は捕えられ斉に送られます。桓公は自分を殺そうとした管仲を残酷な方法で処刑するつもりでした。ところが鮑叔牙に諌められます。

 「公が斉一国を治めるつもりなら高傒(高氏の当主)と私の補佐で事足ります。しかし公が天下をお望みなら夷吾(管仲の字)でなければ輔弼の役は務まりますまい」

 これはなかなか言える言葉ではありません。通常なら今回の功績で鮑叔牙は宰相になる事もできたはずです。それをなげうって親友ではあっても敵だった男を推薦する度量には敬服します。そしてそれを受け入れた桓公も立派でした。殺されると思っていた管仲は、この処遇に感激します。以後、彼は斉の宰相として富国強兵に努め桓公を春秋時代最初の覇者に押し上げたのです。その意味では桓公は覇者の器があったとも言えますね。

 当時、支那大陸では南方の楚が急成長していました。周の諸侯国である隋を滅ぼし隋の爵位であった侯爵を周王室に要求します。さすがにこれは許されなかったため、楚は勝手に王号を自称しました。周の封建体制では絶対に許されない暴挙でしたが王権の衰えた周王室は討伐できず見守るしかありません。楚は、周の諸侯国を侮り露骨に侵略の魔の手を伸ばし始めました。

 このままでは周は楚に併呑されてしまうという危機感を持った中原諸国は、管仲の改革で富国強兵を実現させた斉に期待します。名声が周辺諸国に知れ渡っていたからです。桓公は諸侯を糾合し兵を率い楚を撃破しました。そしてBC651年会盟を開き春秋時代最初の覇者となります。覇者とは周王室に成り代わって諸侯を率い楚と戦う者という意味です。以後、時の有力諸侯が会盟を執り行いますが後に楚が会盟を行うという本末転倒な事態にもなります。次第に覇者はその時の諸侯の最高実力者という意味に変わってきました。

 桓公は覇者になると次第に慢心して行きます。封禅の儀式を行おうとしたのです。封禅とは天子のみが行える聖なる儀式で、これを行うという事は自分が天子に取って代わるという野望の表れでした。死の床にあった宰相管仲はこれを必死に諌めて止めさせます。BC645年名宰相管仲が亡くなりました。

 彼の死後、桓公の政治は乱れました。佞臣を登用し自身は政治を顧みなくなり放蕩に明け暮れます。結果、斉の国力は衰えました。BC643年桓公が亡くなると公子たちが勝手に後継者争いを始め桓公の棺はなんと67日も放置され腐乱したそうです。BC642年太子昭が後継者争いに勝ち孝公として即位しますが、斉の国力は衰え晋と楚がニ大強国として君臨する事になります。
 次回は、晋の文公を描きます。

春秋戦国史Ⅱ  春秋列国・後編(異姓の諸侯)

 前編で主要な姫姓(周王室の一族)の諸侯を紹介したので、後編では異姓の諸侯を記します。

◇斉 
 周の文王、武王に代にわたって仕えた軍師、太公望姜子牙(呂尚ともいう)が山東省の臨淄(りんし)に封じられたのが始まり。爵位は公爵。斉の地は塩分が多く農業に適さない貧しい土地だった。商才に長ける姜子牙は、逆にこれを利用して製塩業を興し交易によって国を富ませ次第に強大化した。最初の覇者桓公を出す。

 春秋戦国時代を通して強国の地位を保つが、公室は陳から亡命してきた田氏に紀元前386年乗っ取られた。以後は区別するために田斉とも呼ばれる。前221年秦によって滅ぼされる。


◇宋
 前王朝商の最後の王帝辛(紂王)の異母兄で賢者と名高かった微子敬が河南省商丘に封じられたのが始まり。古代支那の考え方として滅ぼした相手の先祖の祭祀を絶やす事は罪であり祟りがあると考えられていたためこういった処置が取られた。ちなみに商の前の夏王朝の子孫も山東省の杞(き)に封じられている。
 国民はほとんどが商の遺民。爵位は前王朝に敬意を表して最高位の公爵。成立の経緯から周辺諸国から侮られていた。その屈辱感を晴らすために襄公が頑張ったが失敗する。これは宋襄の仁という故事で有名。紀元前286年斉に滅ぼされる。
◇秦
 発祥の地が陝西省の西戎地域の真っただ中にあったため、おそらく出身は西戎の一派だと思われる。紀元前770年、犬戎によって一時周が滅ぼされ東遷する際、これを助けた事から諸侯の列に加わる。最初の爵位は子爵。のちに侯爵、公爵を称す。
 建国当初は西の辺境に位置し取るに足らない小国だったが、良馬を産する遊牧民や当時から存在したシルクロードを通じた交易で国を富ませた。9代穆公(ぼくこう)の時代に、名臣百里奚を登用して俄かに強大化。国民は漢民族と異民族が混在し厳しい法律によってしか統御できない国であったため法治主義が発達し、尚武の国民性から軍事面で優位に立つ。
 戦国時代末期には、太刀打ちできる国が無いほど成長し最後は秦王政が天下を統一し始皇帝を称した。
◇楚
 実は楚は周王朝に封じられた国ではない。民族も南蛮と呼ばれたタイ族系だと云われる。ただし東夷説もありはっきりしない。周王朝に服属して子爵を授けられるが、周が衰えると勝手に自立して王号を称した。発祥の地は漢水上流の漢中(陝西省南部)で、漢水に沿って南下し長江中流域の湖北湖南の地に強大な国を建国する。その際、周の諸侯国をいくつか滅ぼした。覇者とはもともと楚に対抗するための周の諸侯連合の盟主という位置づけだった。
 春秋時代は、北方の大国晋とともにニ大強国を形成しこの二国の動きが国際情勢を左右した。春秋時代末期、晋は楚に対抗するため東にあった呉を援助し呉が台頭。楚は一時呉軍に侵略され滅亡寸前に陥った。皮肉な事に、呉をあまりにも強大化させてしまったため晋は後に呉軍に脅され会盟に参加させられるという屈辱も味わう。
 戦国時代も強国の地位を保つが、呉起を起用した悼王の改革が王の急死で頓挫した後は衰え、最後は紀元前223年秦に滅ぼされた。ちなみに秦を滅ぼした後天下を争った項羽と劉邦はともに楚の出身。項羽が降伏した秦兵20万を大量虐殺したのは、この時の恨みを晴らす意味もあったと云われる。
◇越
 こちらは東夷の一派である越族系。ベトナムを建国した越族の先祖だと言われる。一説では長江文明の末裔とも。厳密に言うと周の諸侯国ではない。最初は弱小国で呉の属国だったが、越王允常の時代に豊富な金属資源を基に急速に台頭。宗主国呉に背く動きを見せたため、允常の子勾践の時代に呉王闔閭(こうりょ)の討伐を受ける。
 ところが逆にこれを撃破し、闔閭はこの時の戦の傷が悪化し死亡する。後を継いだ息子呉王夫差との臥薪嘗胆の故事はあまりにも有名。このエピソードは後に詳しく書く予定。勾践は最終的に呉を滅ぼし、春秋時代最後の覇者となる。

 戦国時代、領域国家の時代に入ると文化的に遅れた越は中原諸国に取り残され焦った越は楚に攻め込むが楚の威王に逆に撃退され本土まで攻め込まれて滅亡する。紀元前334年のことである。





 春秋時代の語る上で最低限抑えてほしい基礎知識を書きました。次回は春秋時代最初の覇者斉の桓公について記します。

春秋戦国史Ⅱ  春秋列国・前編(姫姓の諸侯)

 本稿では、この時代の理解を深めるために当時支那大陸に存在した主要な諸侯国を紹介しようと思います。周代の諸侯は大きく分けて二つあり、周室と同姓(一族)の姫姓諸国と、周室以外の出身である異姓の諸国がありました。まずは姫姓の諸国から。
◇鄭
 爵位は伯爵。周王室11代宣王の同母弟、姫友(桓公)が始祖。最初に封じられたのは陝西省華県の東にあった鄭。12代幽王の時代に、王室の混乱を見て河南省に国ごと移るという恐るべき先見の明を見せる。新しい首都は新鄭とよばれた。桓公の息子である次代の武公は、周辺諸国を滅ぼし強大になる。周の平王が首都を洛邑に移すとこれを助けた。覇者の条件である会盟(諸侯会議)こそ開かなかったが、事実上最初の覇者。
 ただ都市国家から領域国家の時代に移ると、衰退し周辺の強国の草刈り場になる。世界史上初の成文法を定めた宰相、子産で有名。最後は紀元前375年分裂した晋の後継国家の一つ韓に滅ぼされた。
◇晋
 始祖は周王朝2代成王の弟虞。山西省唐に封じられたので唐叔虞と呼ばれる。爵位は当初侯だったが強大化した後は公と称す。虞の子晋侯燮の時代に汾水の支流晋水にちなんで晋と改称。11代昭侯の時代、伯父の成師が曲沃に封じられ分家を興す。曲沃は善政を布いて強大になり翼にある本家を凌ぐようになる。曲沃は三代武公姫称の時代についに本家を滅ぼし乗っ取った。武公は晋宗家18代を継いでからの諡号。晋は最初山西省の辺境にあったが、周辺の蛮族を従えて強大になり春秋時代を通じて南の楚と並び立つほどに成長した。

 春秋時代末期には六卿(りくけい)と呼ばれる有力貴族に国政を壟断され公室は衰える。六卿は時代によって交替があるが、最後は韓氏、魏氏、趙氏、知氏(荀氏の分家)、中行氏(荀氏の本家)、范(士)氏で形成された。これも互いに争い、紀元前376年韓魏趙三氏が勝って主家の晋公室を滅ぼし領土を分割した。これが戦国時代の始まりとされる。


◇衛
 爵位は伯爵後に侯爵。始祖は周の文王の九男康叔。商王朝最後の都朝歌に封じられ商の遺民を支配。中原の中心地に位置し最初は繁栄するが紀元前660年異民族の狄に滅ぼされ黄河南岸の曹(河南省東部)に遷都した。その後楚丘、帝丘(ともに河南省)と遷都を繰り返すがそのたびに衰退し最後は魏の属国になった。名目上はその後も存在するものの秦ニ世皇帝胡亥によって最後の君主衛君角が廃されて滅亡。紀元前209年の事である。


◇呉
 爵位は子爵。始祖は文王の伯父太伯。詳しくは別稿で触れる。支配者は姫姓でも国土が蛮地である長江下流の姑蘇(現在の蘇州)にあったので長らく中原諸侯からは蛮夷の国だと蔑まれた。呉は逆に開き直り周の封建制では許されない王号を称す。呉王寿夢の時代に強大化し、孫の闔閭(こうりょ)は大国楚を滅亡寸前まで追い詰めた。江東の地は沼沢が多い土地ではあったが開拓が進めばもともと稲作発祥地に近く潜在生産力は大きかった。また金属資源も豊富であったことが台頭の原因。

 闔閭の息子呉王夫差と越王勾践の臥薪嘗胆の故事は有名。実質的に闔閭の時代は覇者の実力を備えていたが、実際に会盟を開いたのは息子の夫差であった。紀元前473年越により滅ぼされる。



◇魯
 兄武王を助け周の天下統一に貢献した有名な周公旦が封じられた国。爵位は侯爵。山東省西部にあった。都は曲阜。中原の東のはずれにあり文化国家で知られていたが、周辺を斉や晋に囲まれていたため常に隣国の介入を受け衰退した。公室も桓公から出た分家の三桓氏(季孫子、叔孫子、孟孫子)に壟断され実権を奪われる。儒教の祖、孔子の出身国。紀元前249年楚に併合され滅亡。
◇燕
 始祖は周公旦の弟でやはり建国の功臣である召公(しょうこうせき)。最初は河南省開封に近い南燕に封じられる。爵位は伯爵。後、辺境の薊(けい、河北省北京近く)に移った。春秋時代は弱小国の一つだったが戦国時代昭王が出た事から強大化し戦国七雄の一つに数えられるようになる。昭王は楽毅を登用した事で有名。紀元前222年秦に滅ぼされる。
 長くなるので異姓の諸侯に関しては後編で紹介します。

春秋戦国史Ⅰ  周の東遷

 支那の歴史は、伝説の三皇五帝から始まって夏、商(日本では都の名前を取って殷)、周、春秋戦国と続きます。夏王朝は一応存在したと思われますが遺跡ではっきりと存在を確認されているのは商からです。紀元前17世紀ころから始まり紀元前1046年滅亡しました。商王朝は甲骨文字を使用し神権政治を行っていたそうですが、それを滅ぼしたのは西方民族である周です。
 周の故地は、黄河が几状に湾曲するところの南部、渭水(いすい)流域でした。古代、漢民族はまだ成立しておらず東夷、西戎、南蛮、北狄のうち周は西戎に属していたと思われます。西戎というのは支那チベット語族で大きな意味では漢民族の先祖とも言えるのですが、中原と呼ばれる黄河中流域にこれら諸族が進出し漢字という共通文字を使用してコミュニケーションを図るようになって漢民族が形成されたのでしょう。
 周王室の姓は『姫(き)』。文王姫昌(西伯昌)が基礎を築き、息子の武王姫発が牧野の戦いで商王朝最後の王帝辛(紂王)を滅ぼし天下を統一しました。周は最初の都を本拠地である渭水盆地の鎬京(こうけい、現在の陝西省西安の西)に定めます。周は封建制を布き12代を数えました。12代の幽王は暗愚な王です。
 幽王という諡号は、「国内に威令が届かず国外に通達する事が出いない事」あるいは「動静が常に乱れ起居するのに節のない事」を意味するそうですが、名前からもなんとなく想像できると思います。紀元前781年から紀元前771年が在位期間です。史書では褒姒(ほうじ)という美女を寵愛し彼女との間に生まれた伯服を太子にしようとし正室申氏との子で太子であった宜臼を廃嫡しようとした事から、申氏の父である申候の恨みを買い犬戎(西戎の一つ)を引き入れた申候によって鎬京を攻め落とされ周王朝は一時滅亡します。幽王も褒姒や息子の伯服と共にこの時殺されました。
 周王朝は、建国時に多くの諸侯の助けがあった事から封建制を採用し王室の力は絶対ではなく微妙なバランスの上に立っていました。この辺り江戸時代の日本と酷似し12代幽王の時代は丁度衰退期に当たっていたのでしょう。ただおそらくこの頃から天子は天命を受けた者しか成れないという思想が形成されていたと思われ、申候は天子になれませんでした。そこで元の太子であった宜臼を即位させます。これが平王です。

 平王は、戦乱で荒廃した鎬京を避け紀元前771年副都であった洛邑(現在の洛陽)に遷都しました。これ以後の周を東周とよびます。洛邑は中原の真っただ中にあり支配には便利そうですが、逆に王朝衰退に拍車がかかります。というのも渭水盆地は生産力こそ低かったものの函谷関(後には潼関)によって中原と隔てられ防衛上有利だったからです。戦国時代を統一した秦もここを本拠地として天下を支配します。

 東周は、再建に功績のあった諸侯国の鄭(当時は武公)が隣接し強大になったため最初から王権を圧迫され続けました。鄭は周王朝の一族である姫姓諸国の一つですが、中原の真っただ中に位置したため(都は河南省新鄭)豊かな国でした。こういう国が隣国にあったら周は発展できません。東周はその後衰退し続け春秋時代には権威だけは保持するものの洛邑近辺だけを支配する一地方勢力に落ちぶれました。戦国時代にはその権威すら忘れ去られ紀元前256年秦に滅ぼされます。

 周の東遷をもって春秋時代が始まりました。鄭は武公の時代権勢を極めますが息子の荘公の時代あまりにも王室を蔑ろにする態度を咎められ平王の後を継いだ桓王の討伐を受けます。ところが逆に鄭に撃退され王室の権威は地に堕ちたとされます。荘公は敗走する桓王を追撃するよう家臣に勧められますが「天子に対しそのような事はすべきでない」と断ったそうです。以後権威だけは保ち続けますが、実権は覇者と呼ばれる実力を持った諸侯が牛耳るようになりました。


 次回は、春秋列国の主要国を紹介します。

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