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2016年4月 3日 (日)

春秋戦国史Ⅲ  斉の桓公

 春秋戦国時代の身分制度は王、諸侯の下に卿(けい)、大夫、士があり一般庶民である庶人、奴隷がありました。卿は大臣クラスの上級貴族、大夫は中級貴族、士が下級貴族です。一応能力があれば士でも宰相になる事は可能でしたが、かなり稀なケースでした。士ももともとは小領主でしたが、没落し日本の浪人のように仕官せずその日を暮らすのがやっとという者もいました。日本の浪人にあたる存在を処士と呼びます。
 実は、春秋時代最初の覇者となった斉の桓公を支えた宰相管仲はこの処士だったと伝えられます。管仲に関しては過去記事「世界史英雄列伝32」で詳しく書いたので、本稿では斉の公室を中心に記していこうと思います。
 斉公室13代釐公(りこう)は太子諸児(しょげい)を疎んじ甥の公孫無知を溺愛しました。諸児は実の妹(異母妹)と通じるような異常者でもしかしたら父はその事を知っていたのかもしれません。春秋時代にはこのようなケースが多く、後に述べる予定の夏姫も実の兄(異母兄)と通じていました。母が違うので他人という感覚だったののでしょうか。プトレマイオス朝エジプトのように兄妹、姉弟で結婚して共同統治するというケースもあったので、古代世界では極度の近親婚が未熟児や精神異常者を生むというタブーが緩かったのでしょうね。

 釐公が亡くなり諸児が14代襄公(在位BC697年~BC686年)として立つと公孫無知を圧迫します。もしかしたら太子の地位を奪われる可能性もあったのですから当然でしょう。BC694年襄公は隣国魯の桓公と会合します。実は桓公に嫁いでいたのが昔襄公と通じていた異母妹(姜氏)だったのです。久しぶりに再会した兄妹は再び不倫の関係になります。そればかりか邪魔になった桓公を暗殺しました。当然魯は激高します。が、いざ戦争に訴えるにしても国力が違いすぎて泣き寝入りするしかありませんでした。恨みだけが残ります。

 連年戦を繰り返し隣国杞を滅ぼすなどしていた襄公ですが、戦争ばかりしていては大国斉といえども国力が衰えます。国内の不満も高まり、逼塞していた公孫無知はこの機会を待っていました。公位のライバルに成りかねない公孫無知を殺しておかなかった襄公の失策ではありましたが、その甘さは命取りになります。不満を持った廷臣を仲間に引き入れた公孫無知は挙兵し宮殿を攻めました。油断していた襄公は簡単に殺され、公孫無知が即位します。

 斉公になった公孫無知は、公位のライバルになりかねない襄公の親族たちを圧迫し殺そうとします。どちらも屑ですが公孫無知のほうが少しはましだったようです。襄公には二人の弟がいました。公子糾と孔子小白です。公子糾には側近として管仲が仕え、小白は鮑叔牙が補佐していました。管仲と鮑叔牙は親友です。管仲は没落した士の家柄でしたが、鮑叔牙は斉で最高の家格を誇る国氏、高氏に次ぐ名門でした。二人の青年時代のエピソードは過去記事をご覧ください。

 公子糾は、母の実家がある魯に亡命しました。公子小白は母が衛の公女でしたが援助を期待するには遠すぎるという事で隣国の筥(きょ)に逃れます。クーデターで実権を握った公孫無知は国民の支持を得られず、また暴虐な性格で嫌われていたためBC685年臣下に暗殺されてしまいました。

 斉の卿で公室に次ぐ実力があった高氏と国氏は、秘かに小白に使者を送り即位するよう要請します。高氏、国氏がどれほどの家格だったかというと斉の正規軍である三軍の一つ(中軍は斉公が率いる)をそれぞれ率いるほどでした。高氏と国氏としては、襄公の件で恨みを持つ魯に亡命した公子糾に斉公になってもらうと困るという考えだったのでしょう。

 公子小白は、使者をうけるとすぐさま行動を移します。ところが公孫無知暗殺の報は魯にも届いており父桓公を殺された恨みを持つ荘公は、恨みを晴らすはこの時とばかり公子糾に軍を与えて斉に急行させました。管仲は、公子小白の一行が首都臨淄に向かう街道上で待ち伏せ暗殺を謀ります。管仲の放った矢は小白の帯(ベルト)の止め金に当たりました。とっさに鮑叔牙は、主君に伏せるよう進言します。そして小白が殺されたと噂を広めました。

 これを信じた管仲は、魯に使者を送って小白を暗殺したと報告します。安心した魯軍はゆっくりと進軍しました。一方小白軍は、夜を日についで臨淄に急行しました。即位した公子小白は桓公(在位BC685年~BC643年)となります。桓公は早速兵を出し油断して進軍していた魯軍を乾時で急襲し敗走させます。すぐさま魯に使者を送り魯軍が公子糾を擁して斉に攻め込んだ事を糾弾しました。

 こうなると大国斉と軍事的に対抗できない魯は恐れ慄きます。結局桓公の要求通り公子糾を殺しました。側近の管仲は捕えられ斉に送られます。桓公は自分を殺そうとした管仲を残酷な方法で処刑するつもりでした。ところが鮑叔牙に諌められます。

 「公が斉一国を治めるつもりなら高傒(高氏の当主)と私の補佐で事足ります。しかし公が天下をお望みなら夷吾(管仲の字)でなければ輔弼の役は務まりますまい」

 これはなかなか言える言葉ではありません。通常なら今回の功績で鮑叔牙は宰相になる事もできたはずです。それをなげうって親友ではあっても敵だった男を推薦する度量には敬服します。そしてそれを受け入れた桓公も立派でした。殺されると思っていた管仲は、この処遇に感激します。以後、彼は斉の宰相として富国強兵に努め桓公を春秋時代最初の覇者に押し上げたのです。その意味では桓公は覇者の器があったとも言えますね。

 当時、支那大陸では南方の楚が急成長していました。周の諸侯国である隋を滅ぼし隋の爵位であった侯爵を周王室に要求します。さすがにこれは許されなかったため、楚は勝手に王号を自称しました。周の封建体制では絶対に許されない暴挙でしたが王権の衰えた周王室は討伐できず見守るしかありません。楚は、周の諸侯国を侮り露骨に侵略の魔の手を伸ばし始めました。

 このままでは周は楚に併呑されてしまうという危機感を持った中原諸国は、管仲の改革で富国強兵を実現させた斉に期待します。名声が周辺諸国に知れ渡っていたからです。桓公は諸侯を糾合し兵を率い楚を撃破しました。そしてBC651年会盟を開き春秋時代最初の覇者となります。覇者とは周王室に成り代わって諸侯を率い楚と戦う者という意味です。以後、時の有力諸侯が会盟を執り行いますが後に楚が会盟を行うという本末転倒な事態にもなります。次第に覇者はその時の諸侯の最高実力者という意味に変わってきました。

 桓公は覇者になると次第に慢心して行きます。封禅の儀式を行おうとしたのです。封禅とは天子のみが行える聖なる儀式で、これを行うという事は自分が天子に取って代わるという野望の表れでした。死の床にあった宰相管仲はこれを必死に諌めて止めさせます。BC645年名宰相管仲が亡くなりました。

 彼の死後、桓公の政治は乱れました。佞臣を登用し自身は政治を顧みなくなり放蕩に明け暮れます。結果、斉の国力は衰えました。BC643年桓公が亡くなると公子たちが勝手に後継者争いを始め桓公の棺はなんと67日も放置され腐乱したそうです。BC642年太子昭が後継者争いに勝ち孝公として即位しますが、斉の国力は衰え晋と楚がニ大強国として君臨する事になります。
 次回は、晋の文公を描きます。

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