2022年12月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ

« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »

2016年5月

2016年5月 1日 (日)

春秋戦国史Ⅸ  晋の分裂(後編)

 趙氏の出自は、周の穆王の御者造父が趙城に封じられたのが始まりとされます。晋の文公重耳の側近だった趙衰(成子)の代に興隆し、趙盾(宣子)は正卿(宰相)となって絶大な権勢を誇りました。その後、趙朔(荘子)の時に一時滅ぼされるも、遺児趙武(文子)が再興し、趙成(景子)、趙鞅(簡子)、趙無恤(むじゅつ、襄子)と続きます。

 魏氏も周の武王の弟畢公高(ひっこうこう)に始まる家系で魏犨(ぎしゅう)が晋の文公に付き従った事で家運が開きます。魏犨の後は魏絳(荘子)、魏舒(献子)、魏取(簡子)、魏曼多(襄子)、魏駒(桓子)と続きました(ただし異説あり。一応岩波文庫版春秋左氏伝・魏氏系図による)。姫姓です。
 一方、韓氏は比較的新しい家系で晋の曲沃侯桓叔の子万(武子)が韓原に封じられたのが最初でした。これも姫姓。その5代あとの韓厥(献子)が、趙家のお家再興に尽力した事から台頭し、その庶子韓起(宣子)の子孫の方が発展し、韓須(貞子)、韓不信(簡子)と続きます。ただし本稿時の韓氏の当主は韓不信の従兄弟韓固(虎?康子?)でした。史記韓世家では韓簡子の息子が韓荘子で、孫が韓康子(春秋左氏伝では韓固だが韓虎と同一人物?)となっています。ここらあたり、私の古代支那史の知識が薄くて申し訳ないのですが、岩波版春秋左氏伝の系図を信頼し韓不信(簡子)の従兄弟が韓固(康子)だとして記述を進めます。もし古代支那史に詳しい方は内緒コメントでお教えください。修正いたします。韓須の弟で韓固の父が韓荘子(諱不明)なのでしょう。
 春秋時代末期の韓・魏・趙三氏のだいたいの領地関係は、魏氏が黄河湾曲部に近い河東の安邑のあたり。趙氏は晋陽(現在の太原)を本拠地とし邯鄲に飛び地あり。韓氏は晋陽と安邑の中間にある発祥の地韓原、初期の首都平陽から戦国時代長平の戦いの主舞台となる上党あたりだったと推定されます。これに対し、中行氏、范(士)氏、知氏はそれより東、おそらく商王朝の故地朝歌あたりの人口密集地帯を領していたと思われます。
 この六氏が、六卿(6人の大臣)となって晋の政治を司っていました。晋の公室は権威だけの存在となり六卿のうちの時の実力者の言いなりでした。最初に動き出したのは范氏と中行氏です。趙氏の内紛に介入した范吉射(はんきっせき)と中行寅(ちゅうこういん、荀氏の本家)は、趙鞅(簡子)を謀叛人と決めつけ攻撃します。趙鞅はたまらず本拠地晋陽に籠城しました。
 ところが、これを見ていた六卿のひとり知瑶(荀氏の分家、知伯瑶、あるいは荀瑶ともいう。?~BC453年)は、目障りな中行氏と范氏を除く絶好の機会と見て、韓氏、魏氏と語らい趙氏を助けて范氏、中行氏を討ったのです。四対二ですから二氏に勝てるはずはなく、范氏、中行氏は敗れて斉に亡命しました。四氏は范氏、中行氏の領土を勝手に分割します。
 怒った晋の出公(在位BC474年~BC457年)は四氏を討伐しようとしますが、逆に敗北し斉への亡命途中死亡しました。知瑶は出公より4代前の昭公の曾孫にあたる公子驕を擁立します。哀公(在位BC456年~BC438年)です。傀儡の晋公を擁した知瑶は絶対権力を振るいます。四卿と言いながら他の三氏はさながら知瑶の家臣のようでした。

 最初に知瑶は、韓氏の当主韓固に一万戸の食邑を要求します。断れば攻め滅ぼすという寓意です。恐れた韓固は領地を差し出しました。次に知瑶は魏駒にも同じような要求を出します。魏駒は腸が煮えくりかえりますが家臣に諌められ要求を容れました。知瑶は趙鞅の後を継いでいた趙無恤に対しては最初から攻撃姿勢を示します。

 冷酷非情な知瑶と庶子に生まれたために人の痛みが分かる人情家の無恤は、性格が水と油で互いに嫌っていたからです。BC454年、知瑶は韓氏、魏氏と連合し趙氏を攻めます。無恤は本拠地晋陽に籠城しました。晋陽城の守りは固く攻めあぐねた知瑶は、高い土堤を築き汾水の水を引き込んで水攻めにします。

 籠城一年、兵糧は尽きさしもの無恤も自害を覚悟しました。降伏しても知瑶の性格上残酷な処刑が待っているだけでしたから。ただ自分の命と引き換えにしても知瑶は晋陽城の兵士と住民を許さず皆殺しにするだろうとは容易に想像できました。軍師張孟談は主君に進言します。
「自害はいつでもできます。拙者が考えるに韓氏と魏氏は知瑶が恐ろしいから従っているだけで、趙氏が滅んだら次は自分の番だと考えているはずです。拙者にお任せ下さい」
そう言うと、深夜単身包囲を抜け秘かに韓氏の本陣を訪れました。

 人払いを要求した張孟談は、韓固に対し
「趙氏はこのままでは滅びます。そうなれば次はどうなりますかな?貴方の番かもしれないし、魏氏が先かもしれない。ここはよくよくお考えなされた方が良い。」
と囁きました。もともと韓固も知瑶を憎みこそすれ心服などしていなかったので、張孟談の言葉は胸に響きました。韓固の動揺を見抜いた張孟談はさらに続けます。
「今宵は貴方がたの運命の分かれ道になるかもしれません。どうか魏駒様も呼んでいただいて三人で話しませんか?」

 魏駒も同じ不安を抱いており、ここに韓・魏・趙の秘密同盟は成立しました。翌朝、軍議の席に現れた韓固と魏駒の様子を不審に思った予譲は主君知瑶に彼らが帰った後進言します。
「どうも二人の様子を見ていると心に何か秘めたものがあるのか落ち着きがありませんでした。よからぬ事を企んでいるのではありませんか?」

 それに対し知瑶は「あ奴らは余の威光が恐ろしくて震えているだけだ。弱虫どもに謀叛を起こせる度胸があるものか」と一笑に付します。ところが、予譲の不安はその夜的中しました。韓氏と魏氏の兵が、深夜秘かに土堤に登って掘り崩したのです。夜が明けると、堤の一角から漏れ出た水は逆流となって知氏の陣に雪崩れ込みました。同時に、晋陽城からは趙兵が打って出ます。それに呼応し背後からは韓・魏の兵が襲いかかりました。

 勇猛でなる知氏の兵も、濁流に呑まれ四方を敵に囲まれては勝てるはずがありません。知瑶は乱戦の中討ち取られます。野望多き男の最期でした。その中で、予譲だけは満身創痍になりながらも脱出に成功します。後日譚ですが、予譲は主君の仇趙無恤を執拗に付け狙いました。史記刺客列伝に載っている話です。面白い話なのでいつか書くかもしれませんが、ここでは長くなるので割愛します。

 BC453年、韓氏、魏氏、趙氏は知氏の領土を分割しました。実質的にはこの時晋も滅んでいるのですが、BC376年晋最後の君主静公は韓・魏・趙三氏の兵に攻められて滅亡します。すでにその前のBC403年、韓・魏・趙は周の威烈王によって諸侯に封じられており公式には晋との君臣関係は無くなっているのですが、晋が完全に滅亡したBC376年をもって春秋時代の終わりとし、戦国時代が始まりました。
 韓・魏・趙は晋が分裂してできた国なので三晋とも呼びます。次回は、戦国時代中期絶頂期を迎えた趙の武霊王と『胡服騎射』に付いて語りましょう。

春秋戦国史Ⅸ  晋の分裂(前編)

 春秋時代を通じて、楚と並ぶ超大国だった晋。しかし覇者文公の子襄公(在位BC628年~BC621年)の晩年には早くも公室の力には陰りが見え始めました。文公に付き従い亡命生活で苦労した建国の功臣趙衰と狐偃の息子たちである趙盾(ちょうとん)と狐射姑(こえきこ)はそれぞれ中軍の将、中軍の佐となります。晋では軍の指揮官が平時の大臣を兼ね、中軍将が正卿となりました。他国の宰相にあたります。

 その下の中軍佐、上軍将、上軍佐、下軍将、下軍佐が大臣となって晋の国政を司りました。分かり易く日本に例えると中軍将が日本で言うところの太政大臣、中軍佐以下が左右大臣、内大臣に当たります。BC621年襄公が亡くなると趙盾は襄公の弟公子雍を推し、狐射姑は同じく襄公の弟公子楽を推しました。両者の争いは結局趙盾が勝ち、敗れた狐射姑は狄に亡命します。

 そればかりか趙盾は、後々災いの種になる事を恐れ公子楽まで暗殺したのです。これは晋の諸臣の反発を招きます。恐れた趙盾は、公子雍すら追放し結局幼少の襄公の遺児夷皋(いこう)を立てました。すなわち晋の霊公(在位BC620年~BC607年)です。
 霊公は、即位の経緯から独裁権力をふるう趙盾を警戒します。趙盾自身は身を修め謙虚な政治を行おうと心がける人物ではありましたが、その存在自体が霊公にとっては疎ましかったのでしょう。両者の対立は霊公が成人に達し自ら政治を執るようになって決定的になりました。霊公は趙盾を暗殺しようと刺客を放ちます。恐れた趙盾は亡命しようと国境に向かいますが、霊公のやり方に怒った従兄弟の趙穿が霊公を殺したため戻りました。
 趙盾は、襄公の末弟黒臀を立てます。晋の成公(在位BC607年~BC600年)です。趙盾存命中は彼を恐れ誰も趙氏の権力に楯突く者は居ませんでしたが、趙盾が死に病弱な息子趙朔が後を継ぐと趙氏には厳しい目が注がれました。成公の子景公は、司宼(しこう、法務大臣)の屠岸賈(とかんが)に命じ趙朔とその一族を討たせます。趙盾が霊公を弑殺した罪を糾弾したのです。趙朔にとってはとばっちり以外の何ものでもありませんが、もともと病弱だった趙朔は、屠岸賈の兵に屋敷を包囲されている最中亡くなりました。趙氏の一族は女子供に至るまで虐殺されたそうです。

 ただ、趙朔の正室で先君成公の姉だった趙姫(趙氏に嫁いだ晋公室【姫姓】の公女という意味)だけは、公室所縁だということで許されます。ところが彼女は趙朔の子を身籠っていました。生まれた子は男子でした。趙の遺臣が秘かに引き取り育てます。そして趙盾の友人だった司馬(軍の司法を司る)の韓厥(かんけつ)が保護しました。

 BC583年、景公が病に倒れ占うと『大業の後裔で祀の絶えた者が祟りをしている』と出ました。そこへすかさず韓厥が進言し趙朔の遺児が生きている事を告げます。弱気になっていた景公は、これを受け入れ遺児を呼び出しました。趙氏は旧領を与えられ再興します。これが趙武(BC597年~BC541年)です。同時に屠岸賈は、諸将の兵に攻め滅ぼされました。彼は景公の命を実行しただけの被害者のようにも見えますが、趙氏一族惨殺が世間では憎まれていたのでしょう。史書においては屠岸賈を奸悪な人物として描いていますが、真相は分かりません。一番悪いのは景公だと思います。景公も負い目があったから趙氏の再興を許したのでしょう。

 趙武のお家再興には感動的なエピソードがありますが過去記事で紹介しているのでここでは書きません。気になる方は
をご覧ください。

 趙武は、趙の宗室を継いで27年後晋の正卿(宰相)となります。晋は平公(在位BC557年~BC532年)の時代でした。この頃、呉から有名な延陵の季子(季札)が使者として晋を訪れます。彼は、
「晋国の政治は趙武(文子)、韓起(宣子、韓厥の庶子)、魏舒(ぎじょ、献子、建国の功臣魏犨の後裔)の子孫の手に帰するだろう」と予言しました。
 後にこの予言は実現します。晋は彼らの子孫の手で滅ぼされ三分割されるのです。その前に、韓・魏・趙三氏以外で六卿(6人の大臣)の熾烈な権力争いに生き残った三氏について簡単に紹介しようと思います。



◇中行氏

 晋国随一の名門荀氏の嫡流。邲の戦いの時の正卿だった荀林父の子孫。孫の中行偃(ちゅうこうえん、?~BC554年)の時代に絶頂期を迎える。正卿となり厲公を弑殺するなどマイナス面も大きかったが、その後中行呉(穆子)、中行寅(ちゅうこういん、文子)と続く。
◇知氏
 荀氏の庶流。荀林父の弟荀首(知荘子)から始まる。分家ではあるが、荀氏自体が名門であるため大きな勢力を持つ。知首、知罃(武子)、知朔(荘子)、知盈(悼子)、知躒(ちれき、文子)、知宣子(諱【いみな】は不明)と続き、知瑶(ちよう、襄子)の時代には本家中行氏どころか他の六卿をも凌ぐ巨大な勢力を誇る。その実力は、諸侯国の鄭よりも上だと評された。
◇范(士)氏
 士氏の分家。有名な士会が范に封じられたため范氏を称す。士会の子孫である范氏の方が繁栄し、范燮(文子)、范匃(宣子)、范鞅(献子)、范吉射(はんきっせき、昭子)と続く。
 大国晋は、どのようにして分裂したのでしょうか?次回は知氏の台頭と晋陽の戦いを描きます。

春秋戦国史Ⅷ  呉越の戦い

 呉王闔閭(こうりょ)の楚侵攻は春秋時代を通じて晋と並ぶ超大国だった楚を衰退させ、逆に中原の域外だった蛮国呉を中原に覇を唱える強国に押し上げました。それと同時に、目立たない事ですが同じく西方の蛮国だった秦もおそらく滅亡寸前の楚に援軍を出した見返りにこの時漢中盆地全土を割譲させたのではないかと思います。
 秦がBC316年四川盆地にあった蜀を滅ぼし列強の仲間入りし最後は天下統一するのは、この時の漢中盆地獲得が大きかったのではないかと考えます。地図を見てもらうと分かる通り漢中盆地は秦の中心部である渭水盆地と秦嶺山脈を隔てて隣接するばかりでなく、南下すれば蜀(四川地方)へ、漢水沿いに下れば楚の中心地域である湖北平野に達する戦略上の要衝でした。
 逆に楚は、この戦いにより超大国の地位から滑り落ち戦国時代には一地域大国に落ちぶれます。悼王が兵法家呉起を登用し改革を推進したのは衰退した楚を再び大国の地位に押し上げようとしたからでした。それも悼王の死で頓挫し、漢水沿いに南下してきた秦軍の攻撃で首都郢(えい)を陥れられ淮河沿いの陳に遷都せざるを得なかったのは大国楚の終焉を示していました。
 ところで、呉です。呉王闔閭は再び楚に攻め入って今度こそ宿敵の息の根を止めようと考えていましたが、国内事情が許しませんでした。属国であった南方の越の離反です。越は、呉よりもさらに後進国でした。現在の浙江省あたりが領土で首都は会稽(かいけい)。越が富強になったのも、呉と同じく金属資源の豊富さと開発すれば豊かになれるポテンシャルを持った国土が理由でした。のちの宋時代、呉と越の領域が「江浙熟すれば天下足る」と称された事でも分かります。
 過去記事で考察したことがあるのですが、実は支那大陸における製鉄技術の伝播はシルクロードに近い西部ではなく東シナ海沿いの沿岸部が先でした。これは製鉄に大量の木炭が必要だというのも理由の一つで、オリエントからインド、東南アジアを経て呉越の地に技術が伝わったのだと思います。もっとも浸炭法による高度な製鉄技術は戦国時代中期以降普及したのでこの当時は青銅器中心でした。私はすでにこの地方に、東南アジアから伝わった高度な金属精製、加工技術があったのではないかと推理しています。
 さらに、史書では語られてないのですが越の台頭は楚の援助があったと考えるのが自然です。皆さん、呉が強国になったのは晋が楚を牽制するために援助したのがきっかけになった事を覚えておられるでしょう。その成功例があるのですから(そして自分が実際に酷い目に遭っているのだから)、楚が対抗策を講じないはずがありません。その証拠に越王を助けた范蠡(はんれい)も文種もともに楚人です。
 越は越王允常(いんじょう)の時代に急速に台頭し宗主国呉を脅かす存在となります。最初は蛮国と侮っていた闔閭ですが、越は放置できないほど強くなっていました。BC496年、その允常の死去を絶好の機会として闔閭は後顧の憂いを断つため出陣します。

 伍子胥は、「相手の不幸に付け込み攻めるのは義に反します。今回の出陣は見送られた方が良くありませんか?」と王を諌めますが復讐心に燃える闔閭は聞き入れませんでした。允常の後を継いだ子の越王勾践(こうせん)は、これを槜李(すいり)で迎え撃ちます。
 戦いは、恐るべき野蛮な儀式で始まりました。越軍の陣営から百名ほどの異様な一隊が出てきて呉王に挨拶しては自刎するという信じられない事態が起こります。それが三度、あまりにも凄惨な光景に呉軍が度肝を抜かれていると、越軍本隊が突如として動き出し茫然としている呉軍に襲いかかったのです。范蠡の策だったと云われます。戦いは当然呉軍の敗北でした。闔閭はこの時越軍兵士の振り下ろした片鎌に靴を落とされ足の指に傷を負ってしまいます。おそらく毒でも塗ってあったのでしょう。

 やがて足の親指は腫れ、高熱が出てきて身動きが取れなくなってしまいました。闔閭は陣中に太子夫差を呼び寄せます。
「夫差よ、そなた越人が父を殺した事を決して忘れるでないぞ。余のために葬儀は要らん。越を討って勾践の首を墓前に供えるのだ」
そう言って息絶えました。不世出の英雄、呉王闔閭の最期です。闔閭は死の間際、もっとも信頼する伍子胥にも夫差の事を頼んでいました。

 ところが、呉王夫差(在位BC495年~BC473年)が即位すると太宰(宰相)に任じられたのは伍子胥ではなく伯嚭(はくひ)でした。先王の遺言からも、夫差を太子にした功績からも伍子胥がなるものと誰もが思っていました。しかし、どうも厳しい性格の伍子胥を夫差が煙たく思ったのかもしれません。猜疑心強く欲深い伯嚭の太宰就任は心ある呉の人々の気持ちを暗くさせました。驕慢な性格の夫差と伯嚭は馬が合ったのだと思います。

 それでも最初、夫差は父の遺言を守り寝るときは薪の上で痛みに耐えつつ眠り、事あるごとに家臣に「なんじは勾践が父を殺した事を忘れたか?」と言わせ「決して忘れません。三年のうちには越に復讐します」と誓いました。これが有名な故事「臥薪嘗胆」の臥薪の部分です。
 即位して二年後、夫差は呉軍の全兵力をもって越を討ちました。まともにぶつかれば呉軍の方が強く、越王勾践は敗れて五千の手兵と共に会稽山に追い詰められます。范蠡は、呉の太宰伯嚭が欲深で金銭にだらしない性格であると見抜き勾践に勧めて莫大な賄賂を贈りました。これが効果を発揮し伯嚭は越のために夫差に取りなします。

 この事を聞きつけた伍子胥は、
「天が越を滅ぼそうとしているのです。この機会を逃せば災いは呉に向かいますぞ」と強く諌めました。ところが逆に夫差の不興を買います。結局伯嚭の意見が通り、夫差は越の降伏を認めました。勾践は妻と共に呉王宮に出仕し奴隷のごとく仕えました。そればかりか西施という絶世の美女を献上します。
 西施の色香に溺れた夫差は、勾践を許し帰国させます。帰国した勾践は苦い肝を嘗めて復讐を誓いました。これで臥薪嘗胆の故事が完成します。越は、以後国力の回復に努め呉に対しては下手に出続けました。油断した夫差は、父が成しえなかった悲願、会盟を執り行い覇者になる事を夢見て中原に遠征を繰り返します。

 伍子胥は越の危険性を訴え続け夫差の行動を諌めましが、越から賄賂を貰った伯嚭が夫差に讒言したためついに王の怒りを買います。絶望した伍子胥は、斉に使者に行った時息子を斉の大夫鮑氏に託します。これが直接の原因となり、伍子胥は夫差から死を賜りました。

 死の間際、「自分の墓の上にの木を植えよ、それを以って(夫差の)棺桶が作れるように。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」という有名な言葉を残し自害します。
 流石の呉も、連年の出兵は国力を大きく費やしました。斉を破り、魯を脅しBC482年には黄地に諸侯を集め念願の会盟を執り行うまで至った夫差ですが、ここでかつての覇権国晋の定公と主導権争いが生じました。晋としても新興の蛮国呉の下風につく事が我慢ならなかったのでしょう。そんな中呉の本国は、越王勾践の侵略を受けます。呉軍主力の不在に乗じたのです。呉の留守軍は敗れ、太子友が斬られます。愕然とした呉の諸将は即時帰国を進言しますが、夫差は認めませんでした。
 その上で、夫差は呉軍を率いて晋の定公の前に出ます。定公も呉軍の強さは知っていましたから震えあがり、揉めていた会盟の長争いは夫差が勝ちとりました。儀式が終わると夫差は急ぎ軍を率いて帰国します。越もこの時は、一気に呉を滅ぼす力はなく和睦しました。
 BC473年、越王勾践は再び呉を攻めます。連年の出兵で国力を消費していた呉にこれを防ぐ力はなく首都姑蘇は陥落しました。この時、越王勾践はかつて自分が会稽山で命を助けられた恩を思い出し、夫差の命を助け甬東(ようとう、現在の船山列島)に流そうとします。ところが夫差は「私は年老いました。とても王にお仕えすることはできません」とこの申し出を断ります。そして「伍子胥に会わせる顔がない」と言って自ら布をかぶり自害しました。勾践は夫差の死を憐れんで丁重に葬ります。そして、奸臣伯嚭をこのたびの騒動の元凶として処刑したそうです。

 呉の太伯から始まり600年以上の歴史を誇る呉は、この時滅びました。呉の故地はことごとく越が接収します。その後勾践は都を山東省の琅邪に移し中原の争いに介入しました。彼を春秋時代最後の覇者だという人もいます。ですが、越は勾践から6代あとの無彊(むきゅう)の時代、楚に侵攻して逆に敗れ楚の威王に滅ぼされます。BC334年の事です。その後も残党は生き残ったようですがBC306年頃までには完全に駆逐されたそうです。
 以後、越族は南下を続け福建省、広東省、広西省に散らばります。その一部が南下してベトナムを建国した事は有名です。
 次回は、春秋時代の終焉をもたらした晋の分裂について記します。

春秋戦国史Ⅶ  呉王闔閭(こうりょ)後編

 呉王闔閭(こうりょ)の無理難題「後宮の美女を訓練して精兵に鍛え上げろ」という要求に対し孫武は「承知いたしました」と答えます。王のそばで見ていた伍子胥はそれまでおどおどしていた孫武が自信ありげな態度に変わったのをみて意外に思います。さすがの孫武も自分の信ずる兵法を馬鹿にされて怒ったのだろうと解釈しました。
 後宮の美女500人が矛や剣を持たされて練兵場に呼び出され王の寵姫二人がそれぞれ隊長に任命されます。美女たちは遊びだとしか思っていません。調練するのも仙人のような男です。孫武が兵士の動きをくどいように説明して太鼓の音で動作を指示しますが、そのたびに笑いが起こりました。台上で見ていた闔閭も腹を抱えます。

 三度それが繰り返された後、孫武は傍らの吏士に尋ねました。
「指揮官の命令に背く者がいた場合、軍法ではどうなっている?」これに対し吏士は「斬刑に相当します」と答えます。
「よろしい」孫武は吏士たちに命じ二人の寵姫を捕えさせました。美女たちは初めて顔色を変えます。台上の闔閭は様子がおかしいので使者を送り孫武を呼び寄せました。
「先生が兵法に熟達しているのは分かった。先生の斬ろうとしている二人は、私が最も寵愛する者たちだ。どうか処刑を止めてはくれまいか?」

 しかし孫武は冷然と言い放ちます。「王はすでに私に軍を任せられました。私は将軍として部隊を訓練しているのです。軍中にあっては君命を受けざることもあります」そういって容赦なく二人の寵姫の首を打たせました。孫武はそれに次ぐ身分の女官を新たな隊長に命じ調練を再開します。もう笑う者は一人もいませんでした。孫武は使者を王のもとに送ります。
「ご命令通り後宮の美女の兵ができました。王には閲兵を願います」しかし、闔閭は「もうよい」といって立ち去ろうとします。伍子胥は王の袖を引っ張り訴えました。
「軍において最も大事なものは軍律だと思います。孫武はそれを示したに過ぎません。最初は王の戯れから出た言葉でもひとたび将軍に任ずればそれは戯言では済まないはず。もしここで孫武を逃がせば、王の覇業はなりませんぞ」
 闔閭も凡庸ではありません。伍子胥の忠言を受けその日のうちに孫武を職は将軍、身分は客卿に登用します。

 呉は伍子胥、孫武という双璧を得てますます軍容を盛んにしました。ところで楚ではBC516年すでに平王が亡くなっていました。後を継いだのは秦の公女が生んだ昭王(在位BC515年~BC489年)。伍子胥は昭王に恨みを引き継ぎます。楚は連年の呉軍の侵入に困り果てていました。楚の群臣は呉が攻めてくるのは伍子胥が楚に深い恨みを抱いているからだと解釈します。

 そこで、左司馬(軍の師団長級の官職)沈尹(しんいんじゅつ)が楚の公族で権勢を誇っていた将軍子常に進言します。「楚が今日困難を迎えているのはすべて奸臣費無忌の策謀が原因です。楚の国民も怨嗟の声を上げています。費無忌を誅殺しなさい。さすれば貴方様は国民から感謝され、王のおぼえもめでたくなりますぞ」
 子常は楚の荘王の末子子囊(しどう)5世の孫で本名囊瓦(どうが)。欲深な人物ではありましたが物の道理の分からない人物ではありません。平王が死に後ろ盾をなくして微妙な立場になっていた費無忌に遠慮する必要もありませんでした。子常は数日後軍を率いて費無忌の屋敷を襲撃、これを殺します。楚の国民は貴賎を問わず皆喜んだそうです。

 また、呉に亡き廃太子建の忘れ形見公子勝がいる事を掴んだ楚は、秘かに勝を連れ出し白に封じ厚遇しました。ところがこういう楚の姑息な工作は逆に伍子胥の怒りを増幅させます。

 BC506年、呉王闔閭は楚に止めをさすため呉軍の主力を率いて出陣しました。その数5万。孫武と伍子胥が付き従っていた事は言うまでもありません。孫武はこの時のために着々と布石を打っていました。楚の衛星国であった蔡と唐を寝返らせていたのです。この二国は、楚に苦しめられこそすれ恩義など感じていません。ただ楚に対抗しうる晋に頼るのは遠すぎて無理でした。孫武は外交交渉で呉の味方に引き入れます。といっても呉はもともと蛮夷の国。孫武は信用を得るため連年の戦で楚軍を破り続けていたのです。

 蔡と唐の援軍を加えた呉軍は、長江の北岸を楚の都郢(えい、湖北省江陵県)に向かい一直線に進みます。楚は総大将を子常、副将には沈尹戌を任じ10万という大軍を集めます。さすがは晋と並ぶ大国でした。両軍は柏挙でぶつかります。

 沈尹戌は呉軍が侮りがたい難敵であると判断し慎重論を述べます。ひとまず楚軍の主力は呉軍と対峙し自分は別働隊を率いて背後から攻撃するという作戦を立てました。子常は最初この作戦を採用しますが、側近が「沈尹戌の策で勝っても功績はすべて彼に行きます。楚軍は呉軍に倍する兵力を持っているのだから、このまま進めばからなず勝てるでしょう。さすればすべて将軍の功績になりますぞ」と言われてその気になりました。そして沈尹戌が別働隊を率いて出て行ったあと、すぐ出陣の命令を下します。

 一方、呉軍でも作戦会議が行われていました。孫武は敵将沈尹戌は名将だから、彼の動きを見極めて動いても遅くないと主張します。ところがこれに闔閭の弟、公子夫概(ふがい)が異を唱えました。「楚軍は浮足立っているはず。戦は勢いです。一気に攻撃にかかれば楚軍は必ず潰走するでしょう」
 しかし、夫概の意見は容れられませんでした。憤慨した夫概は勝手に抜け駆けして楚軍の本営に襲いかかります。明らかな軍紀違反です。ちょうど子常も出陣の準備に入って陣中は混乱しておりタイミングがピタッと合います。もちろん呉軍に有利、楚軍には不利な状況です。報告を聞いた孫武は眉をひそめますが、この功機を逃すわけにはいきません。全軍総攻撃を仕掛けました。浮足立った楚軍は四分五烈になって潰走します。子常は富貴の身分に生まれたので出世したに過ぎません。我慢心もなく「再起を図る」と称し遠く鄭まで逃げたそうです。

 楚の主力軍の壊滅で、呉軍はやすやすと楚都郢を陥れます。昭王は近臣だけを連れて逃亡しました。肝心の昭王に逃げられ憤懣やるかたない伍子胥は、平王の墓を暴き死体を引き出します。そして恨みを込めて鞭打ちました。これが「死屍に鞭打つ」という故事の由来です。
 明らかな軍律違反でも、勝利のきっかけを作った夫概は王の弟という事もあって罪は不問にされます。夫概の驕慢はますます激しくなりました。郢に入った呉軍は、信賞必罰がなされなかった事もあって軍紀が緩みます。そんな中、沈尹戌が残兵をまとめ再び呉軍に挑戦して来ました。戦場は雍筮(ようぜい、ぜいの字は本来はこの字にさんずい)。またしても夫概は抜け駆け奇襲を図ります。

 しかし、沈尹戌には通用しませんでした。夫概の手兵五千は瞬く間に包囲され身動きが取れなくなります。呉王闔閭は弟の勝手な行動に怒りながらも救出しなければならないので全軍渡河を命じました。沈尹戌はこの事を予測し葦原に伏兵を潜ませます。その上でわざと退却し呉軍を誘いました。楚軍弱しとみた呉兵は追撃にかかります。ところが呉軍の戦線が延び切ったところで楚軍は戦車を連ねて反撃に移りました。凍りつく呉軍。その瞬間背後から無数の矢が飛んできました。沈尹戌の用意した伏兵です。

 今度は呉軍が潰走する番でした。呉王闔閭はわずかの部下と共に戦車で逃げました。沈尹戌はそれを追いながら「あの珠玉で飾った冑を来ている者こそ呉王ぞ。逃すな!」と叫びます。慌てて闔閭は冑を脱ぎ捨てました。すると沈尹戌は再び「あの緋色の戦袍を来ている者こそ呉王ぞ。討ち取れ!」と叫びました。闔閭は戦袍を脱ぎ捨てます。
 沈尹戌は三度「あの冑も被らず戦袍を脱ぎ捨てている者こそ呉王である。討ち取って手柄にいたせ」と叫びました。九分九厘沈尹戌の勝利です。闔閭の命も風前の灯でした。

 ところが勝ち誇った楚軍の背後に混乱が起こります。実は孫武はこの事を予測して軽兵を楚軍の背後に回していたのです。楚兵は自軍の背後から攻撃を受け、寝返りが出たと勘違いします。疑心暗鬼は瞬く間に伝染し、ついには我先にと逃げだしました。これを見て陣を立て直した呉軍は攻勢に転じます。沈尹戌は四方から攻撃を受け壮烈な戦死を遂げました。

 死に際し、沈尹戌は「私はかつて呉王に仕えた事がある。死後に呉王に合わせる顔もない。誰でも良い、私の首を隠してくれないか」と遺言しました。これを受けて呉句卑(ごこうひ)という者が名乗り出ます。「拙者にお任せ下され」
 沈尹戌は「おう、そなたがおったか。よろしく頼む」といい自害しました。呉句卑は沈尹戌の首を戦袍で包み、遺骸を隠していずことなく落ちていきます。

 雍筮の辛勝は呉軍の軍紀を締め直すには好機でした。ところが最大の難敵が間もなく迫ろうとしていました。秦が楚の窮状を見て援軍5万を送り出してきたのです。一度負け癖がつくと国民軍は雲散霧消するものですが、人間心理というのは面白いもので勝ちそうだと分かるとどこからともなく義兵が湧いてきます。今回も楚軍は10万近い大軍が集結したといいます。

 さすがに、呉軍は精強でしたので数で劣っても負けることはなかったのですが、出陣した隙に楚都郢でも義兵が起こり少数の守備隊を殺し楚秦連合軍を引き入れたのです。呉軍にとって間の悪い事に、雍筮で失策を演じた夫概公子が罰せられる事を恐れ秘かに呉に逃げ帰りそこで謀叛を起こし呉都姑蘇城を占領してしまいます。
 このままでは根なし草になる事を恐れた闔閭は、無念の思いで兵を引きました。夫概の反乱自体は簡単に鎮圧されます。呉王闔閭は、大国楚を滅ぼすことはできませんでしたがあと一歩まで追い詰めたことで実質的な覇者となりました。その兵威を恐れかつての大国斉ですら闔閭の太子波の妻に公女を送り出します。事実上の人質です。楚の昭王はようやく故国に戻れますが、すでにかつての勢威はありませんでした。楚と呉の間にある諸侯国は、楚を離れことごとく呉に入朝します。

 闔閭は、斉の公女のために望斉門を築いて慰めました。ですが故郷を遠く離れて心細かったのか公女は間もなく病死します。心優しい性格だった太子波は、彼女を愛していた事もあり衝撃を受けこれも病を得て亡くなりました。太子を失った悲しみも癒えない闔閭でしたが、次の太子を決めないといけません。闔閭の次子夫差は、楚から亡命してきた伯嚭(はくひ)を頼ります。伯嚭は「王が最も信頼するのは伍子胥です。彼に頼めば太子になれるでしょう」と助言しました。

 夫差は、驕慢な性格でしたが太子になるために伍子胥にへりくだって接します。伍子胥は王に進言し夫差が太子になる事は成功しました。これを静かに見ていた孫武は、驕慢な夫差が王になり欲深で狡猾な伯嚭が国政を司るようになればわが身が危ないと悟ります。孫武は、引退を願い出ました。王からも伍子胥からも引きとめられますが孫武の意志は固く最終的には受け入れられました。闔閭は孫武の長年の功績を考え富春の地を与えます。孫武はこの地で静かに世を去ったと言われます。


 蛮夷の国『呉』を一代で中原に覇を唱える強国に育て上げた希代の英雄、呉王闔閭にも最期の時が迫っていました。次回、闔閭の死と呉越の戦いを描きます。

春秋戦国史Ⅶ  呉王闔閭(こうりょ)中編

 『孫子の兵法』の著者といわれる春秋時代の武将・軍事思想家の孫武(BC535年~没年不詳)。孫武の出自は陳から斉に亡命し最後は国を乗っ取った田氏だと云われます。BC517年頃田氏一族の間で内紛があり孫武は家族と郎党を率いて南方の呉に亡命しました。孫武本人は出世欲もなく、もともと家産も豊かだったので呉の政庁に貰った未開発の土地を開拓し定住していたようです。孫氏一族の住む村は、海音寺潮五郎の小説『孫子』では孫家屯と呼ばれたそうです。ただし、異説があり孫武は斉で隠棲していた、あるいはすでに先祖の代から呉に移住し自身は呉軍の下級士官だったとも云われます。私は孫武が名門田氏一族であった事、家産が相当ありわざわざ呉で仕官する必要がなかった事から亡命説を採ります。
 呉に落ち着いた孫武は田舎の地主という気楽さから、趣味の世界に没頭します。それが兵法でした。古今の戦史を調べ戦場を巡り、生き残った兵士から当時の状況を聞くなどして独自の兵法を完成させます。それが現在に至るまで最高峰だと評価される孫子の兵法ですから、いくら趣味だったとしてもただものではなかったのでしょう。いつしか彼の評判は人材コレクターの公子光にも届きます。光の使者として伍子胥が孫家屯に赴いたそうですが孫武は最初仕官の話を断りました。ただ、伍子胥との交流は続き時には戦争に際して策を授けるなどしていたと云われます。

 なぜ孫武の話を長々続けたかというと、これから書く話どうも孫武から出た策のような気がしてならないからです。公子光が王位を狙っているという話は前に書きましたが、ある時公子光は廟堂で「楚と晋が本格的戦争に突入する気配があり、中原諸国の動向を探る必要がある」と述べ使者として公子季札を派遣するよう進言します。これは事実であり、こういう外交使者は中原の教養を身につけ世間にも賢人と評判の高い季札しか適任者はいなかったのですんなり決まりました。

 公子光は、その後病気になり大将軍の役職を返上します。楚との戦争は続いていましたから、軍を指揮する者として呉王僚の弟蓋余(がいよ)と燭庸(しょくよう)が選ばれます。二人は軍を率いて呉楚国境に出陣しました。公子光は、また王の太子で武勇の誉れ高い慶忌を中原の動静を探らせるという名目で衛に派遣するよう助言しました。その上で、光は自分の屋敷に引きこもります。軍事的才能では公子光に遠く及ばない蓋余と燭庸はたちまち苦戦に陥り戦いは膠着状態に陥りました。

 こうなると呉王僚のまわりに頼りになる味方が一人もいなくなってきている事はいくら阿呆でも気が付きます。ある日、公子光は病気が癒えたので王をお招きして酒宴を開きたいと申し出ました。警戒した僚ですが、公子光に軍を率いてもらわない事には二人の弟が危ないので断ることもできません。そこで公子光の屋敷まで護衛の兵士を並べる事、屋敷内にも王の衛士を置くことを条件に招待を受けます。

 当然これは公子光の陰謀でした。病気も仮病です。ただし、王がここまで警戒すると暗殺計画は難しくなりました。悩む光の前に勇士専諸が名乗り出ました。
「いくら武装した兵士を並べても料理を運ぶ給仕役までは目が届かないでしょう。私が給仕役になり王を刺しましょう」
こうして暗殺計画は成りました。4月の丙子の日だったと云われます。武装した兵士を地下室に待機させ、公子光は呉王僚を招待し饗宴を開きました。宴たけなわの時、光は足を痛めたと言って控室に退きます。呉王は美女たちの踊りに目を奪われていました。そこへ焼き魚の料理を給仕人が運んできます。給仕人は料理を並べて置こうとし魚の腹を探りました。中から出てきたのはひと振りの剣。専諸です。美女たちに注意が行っていた呉王は瞬間、胸に激痛を感じます。専諸の剣が深々と貫いていたのです。「何をする!」と叫ぶ間もなく絶命しました。

 専諸は、近くにいた呉王の家臣たちに斬り刻まれこれも即死します。それを合図に地下室から公子光の兵が踊り出てきました。呉王の家臣が謀叛だと騒ぎだす中、公子光も姿を現し
「呉国の王位は季札公子が継ぐのを承知しない以上、嫡流諸樊の息子である私が継ぐのが正統である。僚は王位を簒奪した者ゆえ、私が誅殺したのだ。不服の者は、立ち向かってくるがよい」
と大喝しました。王を殺されて大混乱に陥った家臣たちは、公子光の勢いに押されて思わず「光王万歳」と叫んで平伏します。クーデターは成功したのです。

 こうして公子光は、呉王闔閭(こうりょ、在位BC514年~BC496年)となります。闔閭は専諸を手厚く葬り、彼の家族を都に呼び寄せ厚く遇したそうです。専諸の子は、父の功績でのちに卿に取り立てられます。祖国の異変を聞いて外国歴訪中の季札公子が帰国しました。闔閭はこれを出迎え「貴方に王位をお返しします」と申し出ます。当然季札が断る事を見越してのポーズです。

 季札は、申し出を断り闔閭の臣下として仕える事を約束します。これを見ていた呉の国民は感動で涙を流したそうです。何もかも計算されつくした行動でした。蓋余と燭庸は、楚軍の包囲下にありましたが公子光が王僚を殺して自立したと聞き、楚軍に降伏します。楚はこの二公子を呉との国境に近い舒(じょ)に封じました。

 闔閭にとって残った悩みの種は、武勇で名高い呉王僚の太子慶忌です。これには要離が名乗り出ました。要離は呉王に無実の罪で家族を殺されたと称し衛にいた慶忌に接近します。これを信じた慶忌は要離を側近に取り立てました。同じ呉王に復讐心を持つ仲間だという事でしょう。慶忌は衛で義兵千人を募り呉に向かいました。長江まで達した時、十数隻の船に分乗し渡河しようとします。慶忌と同じ船に同乗した要離は、風が強くなり慶忌の注意が前に向けられた隙に、剣を抜きはなって慶忌の背中を刺します。「何をする!」と振り返った慶忌は犯人が信頼していた要離だと知り驚きます。
 「どうしてこんな事を?」と聞くと、要離は答えました。
「私は呉王に頼まれたのです。事が成った以上は殺してもらいましょう」覚悟をした男の言葉です。近臣たちは怒って要離を殺そうとしますが、慶忌はこれを押しとどめ、にっこり笑いました。
「この男は勇士だ。殺せば一日に天下の勇士を二人失う事になる。助けて呉に送り届け、この男の忠義を天下に示させるがよい」
そう言いながら、天下の豪傑慶忌は息絶えます。慶忌の家臣たちは、主君の遺言を守り要離を呉に送り届けました。しかし、慶忌は船が南岸に辿り着く前に
「私は主君の命で慶忌公子を殺した。しかし信頼してくれた公子を騙し暗殺した事は義に反する。このまま呉に戻って富貴の身分になることは義を重んじる士として許されない事だ」
そう言い残して、長江に身を投じました。
 即位した闔閭は功績のあった者たちを取り立てます。伍子胥も行人(外交官)となりました。後には客卿(外国人の卿という意味)に引き上げられます。孫武は名誉を求めない性格であったため、伍子胥は彼の授けた策を自分の案として闔閭に進言していました。事が成った今、伍子胥は友人に報いようと思います。闔閭に面会した伍子胥は、今まで自分が話した策はすべて孫武から出ていた事、彼のような異才を逃すことは呉の損失である事を熱心に王に説きました。

 孫武の名前を思い出した闔閭は、彼を自分の元に連れてくるよう命じます。喜び勇んだ伍子胥は早速孫家屯に向かい、渋る孫武を連れ出しました。ところがいざ面会してみると、闔閭はこの風采の上がらぬ男が神算鬼謀の持ち主とはとても思えなくなります。いたずら心を起こした闔閭は孫武に対して
「先生の記した孫子の兵法書には感服した。しかし机上の空論という場合もある。兵法というのはいかなる場合にも適用できると言われる。そうだな、例えば後宮の美女たちでも立派な兵士として訓練できるかな?」
と問いました。
 そばで見ていた伍子胥は、悪ふざけが過ぎると苦々しく見守ります。同時に(王は孫武を用いる気がない事、孫武という異才を外国に逃す事になる)と思い暗澹たる気持ちになりました。

 
 孫武はこの無理難題にどのような形で応えるのでしょうか?そして闔閭の覇業の行方は?次回、後編でそれを述べる事としましょう。

春秋戦国史Ⅶ  呉王闔閭(こうりょ)前編

 呉は長江下流域いわゆる江東の地にありました。現在の行政区分で言えば江蘇省。その始祖は周王朝を開いた西伯昌の父季歴の兄太伯、そして仲雍。周の地を治めていた商の諸侯古公亶父(ここうたんぽ)には太伯、仲雍、季歴という三人の息子がいました。古公亶父は賢人と誉れ高い季歴に後を継がせようと思います。

 

 

 

 しかし、季歴は兄たちを差し置いて父の後を継ぐ事を潔しとしませんでした。通常なら兄弟たちで家督争いをしてもおかしくない状況です。孝心篤い太伯と仲雍は父の遺志を実現するため出奔してしまいます。しかも弟季歴が諦めざるを得ないように遠くへ。それが当時の商王朝の勢力が及ばない蛮夷の地への逃亡だったのでしょう。季歴やその子姫昌(後の文王)が自分たちを探している事を知り、蛮族の印である刺青までしたといいます。太伯と仲雍は江東の地に建国しました。

 

 

 

 この話が事実かどうか分かりませんが、少なくとも呉の人たちは固く信じていたようです。後に周王朝は呉が蛮夷の地にあるにもかかわらず、周王朝の一族と認め諸侯に封じ子爵を授けました。太伯に子供がいなかったため、弟の仲雍が王位を継ぎます。呉は蛮夷の地にあるため王号を称したのです。呉王寿夢(じゅぼう)は太伯から数えて19代目の王でした。当時の呉は、強大化した隣国楚の属国だったと思われます。

 

 

 

 寿夢が即位して2年目、晋の使者として大夫の申公巫臣がやってきます。彼は晋と呉が同じ姫姓(周王室と同族)だという事を述べ、その誇りに訴えました。おそらく民族的にも南蛮系のタイ族あるいは苗族だとされる楚と、東夷に属すると思われる呉では違ったのでしょう。私は呉の国民は山東半島から東シナ海の沿岸部に広がる萊夷と同族か近しい関係の民族だったのではないかと考えています。呉は楚の異民族支配に我慢ならなかったはずです。

 

 

 寿夢は、巫臣に絶大な信頼を寄せ軍の訓練を任せます。巫臣はそれまで歩兵中心の呉軍に中原諸国と同様戦車戦術を教えました。呉人は、南方民族らしく純朴で忠誠心厚く一旦攻撃に移れば火の出るように動く理想的な兵士でした。ただ南方人は持久力がありません。巫臣は呉兵の特質を見極め強力な軍隊を築きあげました。その軍事力を背景に呉は楚の支配を脱し晋と同盟を結びます。そして晋の後押しで楚を攻撃しました。巫臣は軍事だけでなく中原の進んだ文化、技術も伝えたため呉は急速に台頭します。

 

 

 

 それまで北進だけすれば良かった楚は、腹背に呉という強力な敵を抱えてしまいます。当然北進の勢いは鈍りました。そればかりか楚と呉は泥沼の戦争状態に陥ります。晋はこれを好機とばかり、中原の親楚勢力を外交交渉や時には軍事力で脅しことごとく自陣営へ寝返らせてしまいます。楚にとっては泣きっ面に蜂ですが、元はと言えば荘王が陳の内紛に介入した事が原因だったのです。晋は楚の失点を巧妙に利用しただけ。

 

 

 

 ところで、呉王寿夢にも4人の子がおりました。寿夢は賢者の評判が諸国に鳴り響いている末子季札に王位を継がせようと思います。季札は、これを拒んだため長子諸樊から順番に王位を継がせ季札に回すよう遺言しました。呉は国民だけでなく王族も純朴だったのでしょう。父の遺言を忠実に実行します。これが中原諸国ならそれぞれの王子を擁した家臣団が互いに争い血みどろの内戦になっていたはずです。

 

 

 

 諸樊、餘祭、餘昧と順調に王位を継承し季札の順番になりました。死の床にあった餘昧は弟季札を呼び寄せ王位を継ぐよう懇請します。しかし、季札はこれを拒み通し、そのうちに餘昧は亡くなりました。王が空席というわけにはいきませんから呉の群臣は仕方なく餘昧の子僚を23代の呉王に選びます。ところがこれに不満を抱く者がいました。長子諸樊の子、公子光です。季札が王位継承を断ったのなら順番から言って嫡流である自分が王位を継ぐべきだと考えます。ですが当時の古代支那では必ずしも長男が後を継ぐとは決まっていませんでした。利口な彼は当然その事も理解しており公子光の不満は内在します。

 

 

 

 といっても公子光は王の一族ですので厚遇され、呉軍の最高司令官である大将軍になりました。彼自身の軍才もあって楚との戦争ではしばしば功績をあげます。しかし、軍功を上げれば上げるほど従兄弟である呉王僚の警戒心も増していきます。呉の国内は自然と呉王派と公子光派に分かれて行きました。なんといっても公子光の有利な点は実力部隊である呉軍を握っていた事です。その点呉王派は不利でした。一方、呉王派は大義名分の上で優位に立ちます。なんといっても今の王は僚なのですから、公子光が挙兵すればそれは王に対する反逆となります。逆賊を討つという口実で楚の介入を受ける恐れもあるのです。

 

 

 

 慎重な公子光は、機会を待ちました。その間国内外の有能な人材を集めます。その中には楚人伍子胥(?~BC484年)がいました。彼に関しては過去記事で詳しく書いたのでここでは概略だけ記します。伍子胥の先祖は楚の荘王の覇業を助けた『鳴かず飛ばず』の故事でも有名な伍挙。子胥の父は名門伍家の当主で平王の太子建の太傅(たいふ、侍従長兼守役)を務めていた伍奢。子胥は伍奢の次男に生まれます。

 

 

 

 ある時太子建に縁談があり、秦から公女を娶るため少傅(副侍従長)の費無忌が秦に花嫁を迎えに行きます。ところが公女のあまりの美しさに心を奪われた費無忌は、邪心を抱き平王に自ら娶るよう進言します。好色な平王は、これを受け入れ息子の嫁を奪ってしまいました。現代日本人から見るとあり得ない事ですが支那の歴史ではよくあります。有名な話だと唐の玄宗皇帝も息子嫁だった楊貴妃を自分のものにしています。

 

 

 面白くないのは花嫁を父に奪われた太子建です。当然恨みは功績により王の側近になっていた費無忌に向かいます。これを恐れた費無忌は、太子建が謀反を企んでいると平王に訴えました。平王自身も後ろ暗いところがあったのでしょう。秦の公女との間に公子珍が生まれていたばかりでしたので猜疑心に拍車がかかります。詰問の使者を受けた建は恐れて宋に亡命しました。費無忌は、さらに建の伍奢と二人の息子尚と子胥にまで魔の手をのばしました。

 

 

 

 費無忌の讒言を受けた平王は都に弁明に来ていた伍奢を捕え、「命が惜しかったら二人の息子を呼び寄せるのだ」と命じます。ところが伍奢は「長男の伍尚は孝心篤い者なので殺されると分かっていても来るでしょう。しかし子胥は違います。生まれつき智略あり勇を好む人柄ですから、決して来る事はありますまい。将来楚は子胥のために苦しめられるのではないでしょうか?」と毅然と答えました。

 

 

 

 事実その通りになり、伍尚は父伍奢と共に処刑されます。伍子胥は追手を剣で脅し逃亡に成功します。楚に対する恨みを持った彼は宋に亡命していた廃太子建と再会しますが、放浪の途中鄭で陰謀に巻き込まれ建は殺されてしまいました。伍子胥は建の忘れ形見公子勝を伴って呉に辿り着きます。

 

 

 

 そこで公子光に拾われました。公子光は呉の王位を奪うために有能な伍子胥を必要とし、伍子胥もまた楚に復讐するために公子光を呉王に押し上げたかったのです。両者の利害は一致します。伍子胥は光のために勇士専諸を見出します。公子光の悲願は成就するのでしょうか?そして伍子胥の運命は?

 

 

 

 

 

 

 

 中編では呉王闔閭の即位と、呉楚の死闘を描きます。

 

春秋戦国史Ⅵ  妖女夏姫(かき)

 私はどんなに美女でも性的にだらしのない人間は大嫌いです。本来なら夏姫の事など書きたくありません。しかし新興国『呉』の台頭を描くためには間接的に関係ある夏姫の生涯を書かざるを得ないのです。これは、私の中で春秋時代を描いた歴史小説の最高傑作と評価する『孫子』を記した海音寺潮五郎氏も同じ思いだったらしく、同小説の中で「嫌な話なので史記などで概要を知っている人は読み飛ばして貰って構いません」と書いているくらいです。
 ですから私が最近一押しの宮城谷昌光氏が書いた作品でも『夏姫春秋』だけはどうしても好きになれませんでした。何というか、あまりにも爽やかすぎるんですよ。宮城谷氏はすべての作品の主人公を爽やかに描きすぎる悪癖をもっていて、この場合は違和感がありすぎるケースです。もちろん古代支那の歴史でも楽毅や晏子父子などは爽やかな生き方に描いても納得できます。しかしドロドロとした欲望の塊である夏姫や「奇貨居くべし」の呂不韋は違うだろうと。
 史記を記した司馬遷の彼女に対する評価が、私は東洋的スタンダードだろうと思います。この感覚は日本でも戦前教育を受けた海音寺氏や司馬遼太郎氏、吉川英治氏に共通しており、私も古い人間なのでこちらに心情的には近いです。ですから戦後教育にどっぷりつかって東洋的美意識を持たない人にはあまり理解できない感覚かもしれません。
 前置きが非常に長くなりましたが、本題に入りましょう。私の個人的な意見ですが、悪女には二つのタイプがあると思います。一つは自らが積極的に関与して他人を貶めるタイプ、もう一つは運命の流れに身を任せ結果的に関わる男性を不幸にしていく消極的タイプ。前者の代表が呂后や則天武后、西太后であり、後者の代表こそ楊貴妃や夏姫なんでしょう。
 夏姫は、鄭の公女に生まれます。鄭という国は儒教の祖孔子が評したように淫乱な気風があると云われました。中原の真っただ中にあり、文化が爛熟するとそうなるのかもしれません。ヴィクトリア期のイギリスや戦後日本とも共通していると思います。なんと夏姫は10代の初めから実の兄(異母兄)である子夷と通じたと云われます。類い稀なる美少女ではあったのでしょうが、それにしても異常すぎます。
 鄭としても、公室の醜聞が世間に知れ渡ると困ると思ったのでしょう。夏姫は10代半ばで隣国陳の大夫夏御叔に嫁がされます。陳という国は伝説の聖王舜の末裔とされる伝統ある国で、夏御叔も陳の公室に繋がる名門でした。夫婦仲は良かった(この時は浮気しなかった)そうですが、一人息子夏徴舒が生まれた後も性関係を求め続け、夫御叔は荒淫が原因の腎虚で亡くなってしまいます。
 恐るべきセックスマシーンですね。そして未亡人になった夏姫に目を付けた三人の男がいました。一人は時の陳公である霊公。後の二人は陳の大臣である孔寧と儀行父。夏姫は三人の求めを受け入れたばかりか同時進行し間男たちも互いの存在を知っているという異常な状況に陥ります。
 ある時三人は、廟堂で夏姫から貰った女物の下着を着て互いに自慢し合うという事までします。大夫の泄冶は呆れ果て霊公を諌めますが、怒った霊公は逆に泄冶を殺しました。どうしようもない暗君です。夏姫は淫乱ではあるのですが、同情すべき点もあり幼少の実子夏徴舒の将来のために霊公や大臣たちに身を任せていたのでしょう。むしろ責められるべきは彼女の弱みに付け込み男女の関係を迫った卑劣な間男たちです。

 そして決定的な事件が起こります。夏氏の邸宅で酒宴を行っていた時霊公は二人の大臣たちと戯れ、夏徴舒を前にして「あれはそなたの子供ではないのか?」「いえ、あれは公のお胤です。顔のあたりに面影があります」などと囃し立てました。

 成人していた夏徴舒はこの侮辱をじっと耐えます。実の母を玩具にしているだけでも許されないのに、この戯れは度が過ぎました。我慢の限界に達した夏徴舒は、酒宴が終わって帰ろうとしていた霊公を、門の上から弩で射殺しました。霊公が殺されて仰天した孔寧と儀行父は逐電して楚に亡命します。霊公の太子午も晋に出奔したため、夏徴舒は自立して陳公となりました。陳公となった後も、屈辱の原因である実の母夏姫を許そうとはしませんでした。夏徴舒は母を宮中に軟禁します。

 楚の荘王は、事件の原因はさておき夏徴舒が霊公を殺した罪を責め諸侯を率いて陳を討ちました。怒りに駆られた行動で、その後何の準備もしていなかった夏徴舒は簡単に敗北し捕えられて車裂きの極刑に処せられます。荘王が正義で行動したわけでなかったことは間もなく分かります。陳を復興せず自国の領土に編入したからです。

 夏姫と霊公など三人の馬鹿者どもの愚かな行動はついに国を滅ぼしました。荘王は宮中で自害しようとしていた夏姫を捕えます。楚に凱旋した荘王は、今回の乱の原因となった夏姫を辱めるため後宮で衣服をはぎ取り裸にします。ところがどう若く計算しても40歳近い、しかも経産婦である夏姫の体は二十歳前の処女のようだっと言われます。まさに妖怪ですね。

 辱めるつもりか、逆に彼女の魅力の虜となった荘王は夏姫を後宮に入れます。荘王は、のちに申叔時に諫言され陳を元の太子午に返し復興させました。これが陳の成公です。ところで夏姫を溺愛した荘王は政治を顧みなくなります。楚の外交官を歴任していた申公巫臣(屈巫)は、これを見かねて荘王に苦言を呈しました。
「王は夏徴舒の罪を憎んで正義のために陳を討たれたのに、このままでは美女を得るために戦を起こしたと世間の者に嘲笑されますぞ」
 
 さすがに荘王は凡君ではありません。巫臣の忠言を受け入れ夏姫を連尹(官職。令尹、左徒に次ぐ高官だったと思われる)の襄老に与えました。もし荘王が夏姫を離さなかったら楚はこの時滅亡していたかもしれません。絶世の美女を得た襄老は喜びますが、日に日に荒淫の結果衰えていきます。そしてついにBC597年の邲の戦いで戦死しました。圧倒的に優勢な戦いで戦死するのですから絶望的な運の悪さです。夏姫のさげまんの呪いだったのでしょう。
 実は、襄老が夏姫を娶る前将軍の子反が夏姫を貰い受けようとしていました。相談をうけた巫臣は
夏姫は不吉です。叔父を死なせ、霊公を弑し、その子である夏徴舒を殺させ、孔寧と儀行父を出奔させ、陳を滅ぼしました。」
と忠告します。これを聞いて子反も思いとどまりました。
 夏姫は、夫襄老の喪が明けないうちに早くも襄老の息子黒的と密通するようになります。迫られたら嫌と言えない性格なのか、根っからの淫乱なのか知りませんが、ここまで来ると呆れはてますね。
 巫臣は、秘かに夏姫の元に使いをよこし
「故郷の鄭に戻りなさい。夫襄老の遺骸を引き取るためだと言えば許される。そして鄭で待っていなさい。私が迎えに行くから」と言いました。

 巫臣こそ、本当は夏姫に恋焦がれる煩悩の徒だったのです。賢者の評判と恋の板挟みに苦しんでいました。そしてついに恋の気持ちが勝ちます。巫臣は、外交官ですから諸外国を訪問できました。今回も晋への外交使節を利用します。鄭で夏姫を迎えた巫臣は、そのまま晋に亡命しました。

 騙されたと知った将軍子反は、怒りのあまり楚に残っていた巫臣の一族を皆殺しにします。そればかりか夏姫と密通していた黒的の一族まで殺したのです。ここにも嫉妬に狂った男がいました。巫臣は賢者として名高かったので晋でも厚遇され刑の地を与えられます。一族が楚で族滅にあったという報告を受け怒った巫臣は、晋公へ謁見し呉への使者に名乗り出ました。楚の隣国呉を強くして楚と戦わせようという策です。

 呉は長江下流域江東にありました。長江中流域の楚が呉と戦争状態になれば中原への圧力が減るというわけです。呉に到着した巫臣は、歩兵戦しか知らなかった呉に戦車とその戦術を教えます。呉はこの時初めて中原諸国と交渉をもちました。巫臣は帰国後も息子屈狐庸を呉に残し援助し続けます。屈狐庸は呉の行人(外交官)になりました。

 もともと金属資源が豊富で、開発したら豊かな農地になり得る荒蕪地が多かった呉は、中原の進んだ技術を導入し急速に台頭します。そして晋と同盟し楚との戦争に突入しました。将軍子反は、対呉戦争に駆り出されへとへととなったそうです。
 その後巫臣と夏姫がどうなったかは分かりません。ただ夫婦仲は良かったそうです。夏姫も幾多の男性遍歴と波乱万丈の末最後に安住の地を得たのでしょう。その娘は、晋で賢臣として名高かった叔向に嫁ぎました。
 次回は、呉王闔閭(こうりょ)の覇業と伍子胥の復讐劇を描きます。

« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »