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2016年5月 1日 (日)

春秋戦国史Ⅶ  呉王闔閭(こうりょ)前編

 呉は長江下流域いわゆる江東の地にありました。現在の行政区分で言えば江蘇省。その始祖は周王朝を開いた西伯昌の父季歴の兄太伯、そして仲雍。周の地を治めていた商の諸侯古公亶父(ここうたんぽ)には太伯、仲雍、季歴という三人の息子がいました。古公亶父は賢人と誉れ高い季歴に後を継がせようと思います。

 

 

 

 しかし、季歴は兄たちを差し置いて父の後を継ぐ事を潔しとしませんでした。通常なら兄弟たちで家督争いをしてもおかしくない状況です。孝心篤い太伯と仲雍は父の遺志を実現するため出奔してしまいます。しかも弟季歴が諦めざるを得ないように遠くへ。それが当時の商王朝の勢力が及ばない蛮夷の地への逃亡だったのでしょう。季歴やその子姫昌(後の文王)が自分たちを探している事を知り、蛮族の印である刺青までしたといいます。太伯と仲雍は江東の地に建国しました。

 

 

 

 この話が事実かどうか分かりませんが、少なくとも呉の人たちは固く信じていたようです。後に周王朝は呉が蛮夷の地にあるにもかかわらず、周王朝の一族と認め諸侯に封じ子爵を授けました。太伯に子供がいなかったため、弟の仲雍が王位を継ぎます。呉は蛮夷の地にあるため王号を称したのです。呉王寿夢(じゅぼう)は太伯から数えて19代目の王でした。当時の呉は、強大化した隣国楚の属国だったと思われます。

 

 

 

 寿夢が即位して2年目、晋の使者として大夫の申公巫臣がやってきます。彼は晋と呉が同じ姫姓(周王室と同族)だという事を述べ、その誇りに訴えました。おそらく民族的にも南蛮系のタイ族あるいは苗族だとされる楚と、東夷に属すると思われる呉では違ったのでしょう。私は呉の国民は山東半島から東シナ海の沿岸部に広がる萊夷と同族か近しい関係の民族だったのではないかと考えています。呉は楚の異民族支配に我慢ならなかったはずです。

 

 

 寿夢は、巫臣に絶大な信頼を寄せ軍の訓練を任せます。巫臣はそれまで歩兵中心の呉軍に中原諸国と同様戦車戦術を教えました。呉人は、南方民族らしく純朴で忠誠心厚く一旦攻撃に移れば火の出るように動く理想的な兵士でした。ただ南方人は持久力がありません。巫臣は呉兵の特質を見極め強力な軍隊を築きあげました。その軍事力を背景に呉は楚の支配を脱し晋と同盟を結びます。そして晋の後押しで楚を攻撃しました。巫臣は軍事だけでなく中原の進んだ文化、技術も伝えたため呉は急速に台頭します。

 

 

 

 それまで北進だけすれば良かった楚は、腹背に呉という強力な敵を抱えてしまいます。当然北進の勢いは鈍りました。そればかりか楚と呉は泥沼の戦争状態に陥ります。晋はこれを好機とばかり、中原の親楚勢力を外交交渉や時には軍事力で脅しことごとく自陣営へ寝返らせてしまいます。楚にとっては泣きっ面に蜂ですが、元はと言えば荘王が陳の内紛に介入した事が原因だったのです。晋は楚の失点を巧妙に利用しただけ。

 

 

 

 ところで、呉王寿夢にも4人の子がおりました。寿夢は賢者の評判が諸国に鳴り響いている末子季札に王位を継がせようと思います。季札は、これを拒んだため長子諸樊から順番に王位を継がせ季札に回すよう遺言しました。呉は国民だけでなく王族も純朴だったのでしょう。父の遺言を忠実に実行します。これが中原諸国ならそれぞれの王子を擁した家臣団が互いに争い血みどろの内戦になっていたはずです。

 

 

 

 諸樊、餘祭、餘昧と順調に王位を継承し季札の順番になりました。死の床にあった餘昧は弟季札を呼び寄せ王位を継ぐよう懇請します。しかし、季札はこれを拒み通し、そのうちに餘昧は亡くなりました。王が空席というわけにはいきませんから呉の群臣は仕方なく餘昧の子僚を23代の呉王に選びます。ところがこれに不満を抱く者がいました。長子諸樊の子、公子光です。季札が王位継承を断ったのなら順番から言って嫡流である自分が王位を継ぐべきだと考えます。ですが当時の古代支那では必ずしも長男が後を継ぐとは決まっていませんでした。利口な彼は当然その事も理解しており公子光の不満は内在します。

 

 

 

 といっても公子光は王の一族ですので厚遇され、呉軍の最高司令官である大将軍になりました。彼自身の軍才もあって楚との戦争ではしばしば功績をあげます。しかし、軍功を上げれば上げるほど従兄弟である呉王僚の警戒心も増していきます。呉の国内は自然と呉王派と公子光派に分かれて行きました。なんといっても公子光の有利な点は実力部隊である呉軍を握っていた事です。その点呉王派は不利でした。一方、呉王派は大義名分の上で優位に立ちます。なんといっても今の王は僚なのですから、公子光が挙兵すればそれは王に対する反逆となります。逆賊を討つという口実で楚の介入を受ける恐れもあるのです。

 

 

 

 慎重な公子光は、機会を待ちました。その間国内外の有能な人材を集めます。その中には楚人伍子胥(?~BC484年)がいました。彼に関しては過去記事で詳しく書いたのでここでは概略だけ記します。伍子胥の先祖は楚の荘王の覇業を助けた『鳴かず飛ばず』の故事でも有名な伍挙。子胥の父は名門伍家の当主で平王の太子建の太傅(たいふ、侍従長兼守役)を務めていた伍奢。子胥は伍奢の次男に生まれます。

 

 

 

 ある時太子建に縁談があり、秦から公女を娶るため少傅(副侍従長)の費無忌が秦に花嫁を迎えに行きます。ところが公女のあまりの美しさに心を奪われた費無忌は、邪心を抱き平王に自ら娶るよう進言します。好色な平王は、これを受け入れ息子の嫁を奪ってしまいました。現代日本人から見るとあり得ない事ですが支那の歴史ではよくあります。有名な話だと唐の玄宗皇帝も息子嫁だった楊貴妃を自分のものにしています。

 

 

 面白くないのは花嫁を父に奪われた太子建です。当然恨みは功績により王の側近になっていた費無忌に向かいます。これを恐れた費無忌は、太子建が謀反を企んでいると平王に訴えました。平王自身も後ろ暗いところがあったのでしょう。秦の公女との間に公子珍が生まれていたばかりでしたので猜疑心に拍車がかかります。詰問の使者を受けた建は恐れて宋に亡命しました。費無忌は、さらに建の伍奢と二人の息子尚と子胥にまで魔の手をのばしました。

 

 

 

 費無忌の讒言を受けた平王は都に弁明に来ていた伍奢を捕え、「命が惜しかったら二人の息子を呼び寄せるのだ」と命じます。ところが伍奢は「長男の伍尚は孝心篤い者なので殺されると分かっていても来るでしょう。しかし子胥は違います。生まれつき智略あり勇を好む人柄ですから、決して来る事はありますまい。将来楚は子胥のために苦しめられるのではないでしょうか?」と毅然と答えました。

 

 

 

 事実その通りになり、伍尚は父伍奢と共に処刑されます。伍子胥は追手を剣で脅し逃亡に成功します。楚に対する恨みを持った彼は宋に亡命していた廃太子建と再会しますが、放浪の途中鄭で陰謀に巻き込まれ建は殺されてしまいました。伍子胥は建の忘れ形見公子勝を伴って呉に辿り着きます。

 

 

 

 そこで公子光に拾われました。公子光は呉の王位を奪うために有能な伍子胥を必要とし、伍子胥もまた楚に復讐するために公子光を呉王に押し上げたかったのです。両者の利害は一致します。伍子胥は光のために勇士専諸を見出します。公子光の悲願は成就するのでしょうか?そして伍子胥の運命は?

 

 

 

 

 

 

 

 中編では呉王闔閭の即位と、呉楚の死闘を描きます。

 

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