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2016年5月 1日 (日)

春秋戦国史Ⅵ  妖女夏姫(かき)

 私はどんなに美女でも性的にだらしのない人間は大嫌いです。本来なら夏姫の事など書きたくありません。しかし新興国『呉』の台頭を描くためには間接的に関係ある夏姫の生涯を書かざるを得ないのです。これは、私の中で春秋時代を描いた歴史小説の最高傑作と評価する『孫子』を記した海音寺潮五郎氏も同じ思いだったらしく、同小説の中で「嫌な話なので史記などで概要を知っている人は読み飛ばして貰って構いません」と書いているくらいです。
 ですから私が最近一押しの宮城谷昌光氏が書いた作品でも『夏姫春秋』だけはどうしても好きになれませんでした。何というか、あまりにも爽やかすぎるんですよ。宮城谷氏はすべての作品の主人公を爽やかに描きすぎる悪癖をもっていて、この場合は違和感がありすぎるケースです。もちろん古代支那の歴史でも楽毅や晏子父子などは爽やかな生き方に描いても納得できます。しかしドロドロとした欲望の塊である夏姫や「奇貨居くべし」の呂不韋は違うだろうと。
 史記を記した司馬遷の彼女に対する評価が、私は東洋的スタンダードだろうと思います。この感覚は日本でも戦前教育を受けた海音寺氏や司馬遼太郎氏、吉川英治氏に共通しており、私も古い人間なのでこちらに心情的には近いです。ですから戦後教育にどっぷりつかって東洋的美意識を持たない人にはあまり理解できない感覚かもしれません。
 前置きが非常に長くなりましたが、本題に入りましょう。私の個人的な意見ですが、悪女には二つのタイプがあると思います。一つは自らが積極的に関与して他人を貶めるタイプ、もう一つは運命の流れに身を任せ結果的に関わる男性を不幸にしていく消極的タイプ。前者の代表が呂后や則天武后、西太后であり、後者の代表こそ楊貴妃や夏姫なんでしょう。
 夏姫は、鄭の公女に生まれます。鄭という国は儒教の祖孔子が評したように淫乱な気風があると云われました。中原の真っただ中にあり、文化が爛熟するとそうなるのかもしれません。ヴィクトリア期のイギリスや戦後日本とも共通していると思います。なんと夏姫は10代の初めから実の兄(異母兄)である子夷と通じたと云われます。類い稀なる美少女ではあったのでしょうが、それにしても異常すぎます。
 鄭としても、公室の醜聞が世間に知れ渡ると困ると思ったのでしょう。夏姫は10代半ばで隣国陳の大夫夏御叔に嫁がされます。陳という国は伝説の聖王舜の末裔とされる伝統ある国で、夏御叔も陳の公室に繋がる名門でした。夫婦仲は良かった(この時は浮気しなかった)そうですが、一人息子夏徴舒が生まれた後も性関係を求め続け、夫御叔は荒淫が原因の腎虚で亡くなってしまいます。
 恐るべきセックスマシーンですね。そして未亡人になった夏姫に目を付けた三人の男がいました。一人は時の陳公である霊公。後の二人は陳の大臣である孔寧と儀行父。夏姫は三人の求めを受け入れたばかりか同時進行し間男たちも互いの存在を知っているという異常な状況に陥ります。
 ある時三人は、廟堂で夏姫から貰った女物の下着を着て互いに自慢し合うという事までします。大夫の泄冶は呆れ果て霊公を諌めますが、怒った霊公は逆に泄冶を殺しました。どうしようもない暗君です。夏姫は淫乱ではあるのですが、同情すべき点もあり幼少の実子夏徴舒の将来のために霊公や大臣たちに身を任せていたのでしょう。むしろ責められるべきは彼女の弱みに付け込み男女の関係を迫った卑劣な間男たちです。

 そして決定的な事件が起こります。夏氏の邸宅で酒宴を行っていた時霊公は二人の大臣たちと戯れ、夏徴舒を前にして「あれはそなたの子供ではないのか?」「いえ、あれは公のお胤です。顔のあたりに面影があります」などと囃し立てました。

 成人していた夏徴舒はこの侮辱をじっと耐えます。実の母を玩具にしているだけでも許されないのに、この戯れは度が過ぎました。我慢の限界に達した夏徴舒は、酒宴が終わって帰ろうとしていた霊公を、門の上から弩で射殺しました。霊公が殺されて仰天した孔寧と儀行父は逐電して楚に亡命します。霊公の太子午も晋に出奔したため、夏徴舒は自立して陳公となりました。陳公となった後も、屈辱の原因である実の母夏姫を許そうとはしませんでした。夏徴舒は母を宮中に軟禁します。

 楚の荘王は、事件の原因はさておき夏徴舒が霊公を殺した罪を責め諸侯を率いて陳を討ちました。怒りに駆られた行動で、その後何の準備もしていなかった夏徴舒は簡単に敗北し捕えられて車裂きの極刑に処せられます。荘王が正義で行動したわけでなかったことは間もなく分かります。陳を復興せず自国の領土に編入したからです。

 夏姫と霊公など三人の馬鹿者どもの愚かな行動はついに国を滅ぼしました。荘王は宮中で自害しようとしていた夏姫を捕えます。楚に凱旋した荘王は、今回の乱の原因となった夏姫を辱めるため後宮で衣服をはぎ取り裸にします。ところがどう若く計算しても40歳近い、しかも経産婦である夏姫の体は二十歳前の処女のようだっと言われます。まさに妖怪ですね。

 辱めるつもりか、逆に彼女の魅力の虜となった荘王は夏姫を後宮に入れます。荘王は、のちに申叔時に諫言され陳を元の太子午に返し復興させました。これが陳の成公です。ところで夏姫を溺愛した荘王は政治を顧みなくなります。楚の外交官を歴任していた申公巫臣(屈巫)は、これを見かねて荘王に苦言を呈しました。
「王は夏徴舒の罪を憎んで正義のために陳を討たれたのに、このままでは美女を得るために戦を起こしたと世間の者に嘲笑されますぞ」
 
 さすがに荘王は凡君ではありません。巫臣の忠言を受け入れ夏姫を連尹(官職。令尹、左徒に次ぐ高官だったと思われる)の襄老に与えました。もし荘王が夏姫を離さなかったら楚はこの時滅亡していたかもしれません。絶世の美女を得た襄老は喜びますが、日に日に荒淫の結果衰えていきます。そしてついにBC597年の邲の戦いで戦死しました。圧倒的に優勢な戦いで戦死するのですから絶望的な運の悪さです。夏姫のさげまんの呪いだったのでしょう。
 実は、襄老が夏姫を娶る前将軍の子反が夏姫を貰い受けようとしていました。相談をうけた巫臣は
夏姫は不吉です。叔父を死なせ、霊公を弑し、その子である夏徴舒を殺させ、孔寧と儀行父を出奔させ、陳を滅ぼしました。」
と忠告します。これを聞いて子反も思いとどまりました。
 夏姫は、夫襄老の喪が明けないうちに早くも襄老の息子黒的と密通するようになります。迫られたら嫌と言えない性格なのか、根っからの淫乱なのか知りませんが、ここまで来ると呆れはてますね。
 巫臣は、秘かに夏姫の元に使いをよこし
「故郷の鄭に戻りなさい。夫襄老の遺骸を引き取るためだと言えば許される。そして鄭で待っていなさい。私が迎えに行くから」と言いました。

 巫臣こそ、本当は夏姫に恋焦がれる煩悩の徒だったのです。賢者の評判と恋の板挟みに苦しんでいました。そしてついに恋の気持ちが勝ちます。巫臣は、外交官ですから諸外国を訪問できました。今回も晋への外交使節を利用します。鄭で夏姫を迎えた巫臣は、そのまま晋に亡命しました。

 騙されたと知った将軍子反は、怒りのあまり楚に残っていた巫臣の一族を皆殺しにします。そればかりか夏姫と密通していた黒的の一族まで殺したのです。ここにも嫉妬に狂った男がいました。巫臣は賢者として名高かったので晋でも厚遇され刑の地を与えられます。一族が楚で族滅にあったという報告を受け怒った巫臣は、晋公へ謁見し呉への使者に名乗り出ました。楚の隣国呉を強くして楚と戦わせようという策です。

 呉は長江下流域江東にありました。長江中流域の楚が呉と戦争状態になれば中原への圧力が減るというわけです。呉に到着した巫臣は、歩兵戦しか知らなかった呉に戦車とその戦術を教えます。呉はこの時初めて中原諸国と交渉をもちました。巫臣は帰国後も息子屈狐庸を呉に残し援助し続けます。屈狐庸は呉の行人(外交官)になりました。

 もともと金属資源が豊富で、開発したら豊かな農地になり得る荒蕪地が多かった呉は、中原の進んだ技術を導入し急速に台頭します。そして晋と同盟し楚との戦争に突入しました。将軍子反は、対呉戦争に駆り出されへとへととなったそうです。
 その後巫臣と夏姫がどうなったかは分かりません。ただ夫婦仲は良かったそうです。夏姫も幾多の男性遍歴と波乱万丈の末最後に安住の地を得たのでしょう。その娘は、晋で賢臣として名高かった叔向に嫁ぎました。
 次回は、呉王闔閭(こうりょ)の覇業と伍子胥の復讐劇を描きます。

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