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2016年6月

2016年6月 4日 (土)

春秋戦国史外伝Ⅲ  秦の滅亡

 本来であれば『春秋戦国史』は周の東遷から始まって秦の始皇帝による大陸統一で終わっているんですが、過去記事の『前漢帝国の興亡』との間を埋める意味で今回秦王朝の滅亡を描こうと思います。
 支那の歴史上初めて大陸を統一し強力な中央集権国家を作り上げた秦の始皇帝(在位BC246年~BC210年)。その不幸な生い立ちから人間不信に陥り冷酷非情な君主となりました。実の母からも裏切られたのですからある意味同情すべき部分もあるのですが、その怒りは焚書坑儒という思想統制に至り、峻厳な法の適用となります。法律に違反したらすぐ斬刑となったら人民はたまったものではありません。それが自然現象による不可抗力であっても情状酌量の余地などないのですから人々の暮らしは厳しくなります。
 始皇帝の法の執行者は丞相(宰相)である李斯(?~BC208年)でした。性悪説で有名な儒家荀子の下で学び相国呂不韋の食客となります。嫪毐(ろうあい)の乱に連座し失脚した呂不韋とは上手く立ち回り離れることに成功。秦王政(のちの始皇帝)の下で順調に出世し最後は丞相まで上り詰めました。

 ある時、同じ荀子の同門で韓の公子韓非子(同名の法家の書物で有名)の名前が評判になると秦王政は彼を迎えて丞相にしようとします。才能では遠く及ばない事を知っていた李斯は韓非子を讒言し無実の罪で処刑させました。そういう悪の部分もある人物なのです。が、専門の法律に関しては有能で度量衡の統一や郡県制の施行に努力し始皇帝の信頼を勝ち取ります。

 天下を統一しやる事がなくなった始皇帝は、自身の帝国が永遠に続く事を願って不老長寿を求めました。そのために怪しげな方士(現代で言えばスピリチュアル系の胡散臭い連中)が出入りし始皇帝にある事ない事吹き込みます。中には徐福のように始皇帝を騙し不老不死の仙薬を求めるために一万人の少年少女を乗せて蓬莱島に船出する者まで出てくる始末でした。ちなみに蓬莱島は日本の事ではないかという説もあり、日本各地に徐福伝説が残されています。
 方士の一人、廬生は「不老不死を求めるなら真人と出会わなければなりません。真人は他人が居るところには現れません」ととんでもない進言を行います。真に受けた始皇帝は群臣を遠ざけ、丞相李斯との連絡には宦官を使いました。宦官は人でないので真人も降りてくるだろうと考えたのでしょう。そのため趙高という一人の宦官が台頭しました。穿った見方をすると趙高が政治の実権を握るために廬生と組んだ陰謀とも言えます。

 始皇帝の意志を伝える事が出来る唯一の存在として、趙高は丞相李斯にも勝る絶大な権力を得ました。趙高は本来なら後を継げないはずの始皇帝の末子胡亥(こがい)にも教育係として接近します。すでに太子として嫡男扶蘇がいました。始皇帝が胡亥を溺愛するのを見て趙高は彼に将来を賭けたのでしょう。

 扶蘇は温厚篤実な性格で群臣からも将来のニ世皇帝としてふさわしい人物だと見られていました。秦の皇族としては珍しく儒家にも理解がある事から学者からも即位を待望されていたくらいです。しかしその優しさが仇となりました。あるとき扶蘇は父の焚書坑儒に意見し止めさせようとします。これが始皇帝の逆鱗に触れました。

 趙高は、絶好の機会を見逃さず始皇帝に進言します。「太子はどうも政治の厳しさを理解されていないようです。幸い蒙恬(もうてん)将軍が匈奴に備えて北地(黄河湾曲部内側の北、オルドス地方)に二十万の兵と共に駐屯しております。太子をそこへ派遣し世間の厳しさを学ばせられたらいかがでしょう?」
 始皇帝も扶蘇の甘さを叩き直すには良い機会だろうとこの進言を採用しました。邪魔者を排除した趙高は、胡亥を始皇帝の手元に置き次の機会を待ちます。

 始皇帝は、その晩年不老不死を求め、あるいは統一した各国の現状を見るため全国を巡幸しました。同行したのは末子胡亥と丞相李斯、そして趙高です。その最中、呉では項羽が始皇帝の行列を見て「我取って代わるべし!」と叫び、首都咸陽に徭役に来ていた劉邦は「大丈夫たる者、ああなりたいものだ」と感嘆しました。張良が始皇帝暗殺を図ったのもこの時です。

 BC210年、始皇帝は巡幸途上の河北省平原で病気になります。方士が調合した怪しげな仙薬の影響かもしれません。伝えられるところによると、仙薬と称するものの中に明らかに水銀が含まれていました。病は日に日に重くなり、死期を悟った始皇帝は枕元に趙高を呼び寄せ遺言を渡しました。当時は紙がありませんから竹簡か絹布に書いた物だったと思います。遺言書には「後事を太子扶蘇に任す」と書かれていました。

 いよいよとなった時、同行していた唯一の実子胡亥が呼ばれます。始皇帝は胡亥と趙高に看取られ48年の生涯を終えました。趙高は胡亥に遺言の中身を話します。太子扶蘇が後を継ぐのは当然でしたので胡亥にも異論はありませんでした。ところが趙高は胡亥の袖を捉えて囁きます。

 「今扶蘇太子が即位されたら貴方様はどうなりますかな?秦では皇位継承に障害となる兄弟は死を賜るのが通例。貴方様もそうなるのですぞ」

 趙高の脅しで現実を思い知った胡亥は「嫌だ、私は死にたくない」と叫びます。趙高はさらに畳みかけました。「幸いにしてこの秘密を知っているのは私と貴方様だけ。死を免れるには貴方がニ世皇帝に即位されるしかありませんぞ」
 「遺言を偽造するのか?」事の重大さに胡亥は青くなりますが、結局趙高の説得に負けました。さらに趙高は続けます。「これには丞相の李斯も巻き込まなければなりますまい」その後李斯も呼ばれました。

 さすがに李斯は最初断ります。「そなたは謀叛を起こすつもりか?」と激高したそうです。しかし、趙高の説得は蜘蛛の糸に絡め取るように巧妙でした。「扶蘇様が即位されたら丞相は誰になりますかな?後見役の蒙恬殿でしょう。蒙恬殿は政治の経験はないが軍才はある。丞相になったら貴方くらいにはやれるでしょう。しかし貴方は蒙恬ほどの軍才はありますか?」
「…ない」李斯は吐き捨てました。結局李斯もまた陰謀の共犯者となります。

 時は7月。夏ですから始皇帝の遺骸は腐ります。趙高は、腐臭を隠すため皇帝の馬車の周りに臭い干物を満載した車を並べ、その中で一人皇帝に成り代わって座り続けたと言いますから超人的な努力だと言えます。この陰謀のからくりは始皇帝が首都咸陽に着くまで生きていないと成り立たないからです。

 一行が都に到着すると同時に、始皇帝の崩御が発表されました。胡亥は偽造した遺言によりニ世皇帝として即位します。同時に、太子扶蘇と蒙恬には始皇帝の遺言として自害を命ずる詔勅が下りました。蒙恬は慌ただしい都の動きから、命令自体を疑い扶蘇に自害を思いとどまるよう説得します。しかし孝心篤い扶蘇は「父の遺言を疑うのは孝に反する」と従容と自害しました。蒙恬は最後まで抵抗しますが、捕えられ処刑されます。

 趙高は功績により郎中令(九卿の一つ。宮門を司る。)に任じられました。趙高は考えの足りないニ世皇帝胡亥を丸めこみ、贅沢三昧の生活に溺れさせます。代わって趙高が皇帝の意志と称して政治を行うのです。その際、邪魔になるのは丞相李斯でした。即位の陰謀の秘密も知っているのですからいずれ除かなければならない存在だったのです。

 BC208年、李斯もまた謀叛の罪を着せられ三族ことごとくが斬られます。処刑の時、李斯は息子を顧みて「またお前と故郷で狩りをしたかったな。悪人どもの陰謀に乗せられたのが生涯の痛恨事だ」と話したそうです。しかし、始皇帝が亡くなった時、李斯が法律に則り謀叛人として趙高を斬っておけば自分と一族が殺されることはなかったはずです。丞相の地位は追われたかもしれませんが、引退して悠々自適の晩年をおくれたはずなのです。結局、李斯もまた権力欲に取りつかれた哀れな人間だったのかもしれません。

 秦は、ニ世皇帝になっても始皇帝時代から続いた巨大な土木工事が続けられます。匈奴の侵略を防ぐ万里の長城は理解できるとしても、皇帝の贅沢にすぎない阿房宮、兵馬俑で有名な始皇帝陵の建設は駆り出される人民にとっては迷惑この上ありません。しかも期日に間に合わなければ法により殺されるのです。怨嗟の声は国中に広がりました。各地で反乱が起こりますが、趙高はニ世皇帝に真実を知らせず酒色に溺れさせました。そして皇帝に直言しようとする忠義の士には謀叛の罪をでっちあげて殺すのです。このような状況では国が保てるはずはありません。
 BC209年起こった陳勝・呉広の乱は一時名将章邯将軍によって鎮圧されようとしますが、今度は皇帝に反乱の実態を知られる事を恐れた趙高によって章邯が謀叛の罪を着せられるのです。結局、反乱の中で台頭してきた項羽は、巨鹿の戦いで章邯を降します。章邯としても謀叛を疑われては戦意などなかったでしょう。一方、劉邦は防備の固い函谷関ではなく裏手の武関から関中盆地に侵入しました。

 ここまで来ると、趙高にも秦王朝の滅亡が分かります。趙高は、傀儡のニ世皇帝を殺し劉邦と秦の地を分けようと勝手に停戦交渉を始める始末でした。この暴挙はさすがに秦の群臣の怒りを買います。趙高は新たな傀儡として亡き太子扶蘇の遺児子嬰(?~BC206年)を担ぎ出そうとしました。しかし、逆に群臣たちと相談した子嬰に屋敷に呼び出されそこで殺されます。趙高の一族はことごとく誅殺されました。

 即位した子嬰は、皇帝と名乗る実なしとして王と称します。この子嬰が劉邦と交渉し降伏しました。BC207年の事です。劉邦は子嬰の立派な態度を見て処刑を取りやめます。この時が秦王朝の滅亡でした。劉邦は、子嬰を殺しても何の得もない事を十分理解していました。それより秦の国民の支持を得るために『法三章』に代表される穏健な統治を行います。おそらくこの頃から天下への意志があったのかもしれません。ところが後から入ってきた項羽は、さっさと子嬰を処刑し阿房宮に火を放ちました。始皇帝の陵まで暴き秦累代の財宝を本拠地の楚に運びます。

 この占領政策の差が、劉邦と項羽の明暗を分けました。論功行賞で蜀(四川省)に押し込まれた劉邦が関中盆地に戻ってきたとき秦の国民は大歓迎します。以後、楚漢戦争を通じて秦の故地である関中盆地は漢の策源地であり続けました。劉邦が項羽を滅ぼして天下を統一した時、都を咸陽に近いところに建設し長安と名付けたのも関中の地がもっとも政治的に安定したところだったからでしょう。

春秋戦国史外伝Ⅱ  荊軻(けいか)と高漸離(こうぜんり)

 戦国時代末期、秦が天下統一する直前の話です。燕の太子丹(?~BC226年)は国の使節として秦に赴きました。かつて秦王政も太子丹もともに趙の都邯鄲で人質生活を送り、境遇が似ている事から親友として交流していたため今回も暖かく迎えてくれるものと思っていました。ところが秦王政は太子丹を単なる弱小国の使節として冷たく扱います。衝撃を受けた丹は、秦王政がいずれ燕にも侵略の魔の手を伸ばしてくると覚悟して帰国しました。
 太子丹は、帰国すると重臣鞠武(きくぶ)に相談します。鞠武はまともに秦と軍事的に対抗するのは不可能だから三晋(韓・魏・趙)や斉、楚そして秦北方の脅威となりつつあった遊牧民族匈奴と同盟して当たるしかないと献策しました。そんな中、秦の将軍樊於期(はんおき)が秦王政の不興を買って燕に亡命して来ます。鞠武はお尋ね者の樊於期を受け入れたら秦に侵略の口実を与える事になると反対しますが、丹は樊於期の窮状を憐れみ亡命を認めました。

 鞠武は、秦との対決は避けられないと覚悟し太子丹に田光を紹介します。田光は当時の侠客で広い人脈を持っていたと思われます。太子丹が田光に会うと、彼は秦王を倒すには非常手段しかないと語ります。そして重大任務にふさわしい男として荊軻を紹介しました。太子丹は、田光と別れる時「この事は国家の重大事ゆえ決して口外なさらぬよう」と念を押します。もとより田光も承知でしたが、わざわざ念を押された事で誇りを傷つけられました。田光は太子丹と別れた後自刎します。
 田光が認めた荊軻とは一体どのような人物だったでしょうか?荊軻は衛(山東省西部、黄河沿い)出身だと云われます。酒好きで遊侠の徒と付き合いますが、決して自ら争い事を起こしませんでした。燕に来てからは筑(琴に似た楽器)の名手高漸離と親友になります。古代支那では侠の繋がりは血よりも濃く命を賭けても惜しくないと考えられていました。二人の交流もそのようなものだったのでしょう。
 太子丹と会った荊軻は、「暗殺するためにはまず秦王と会わなければいけません。今お尋ね者の樊於期が燕にいます。彼の首を持参すれば秦王も会おうとするでしょう」と語りました。しかし丹は「樊将軍は我が国を頼ってきた者だ。それを殺すなど私にはとてもできない」と断ります。そこで荊軻は秘かに樊於期を訪れました。

 樊於期は荊軻の話を聞き、「秦王に一矢報いる事が出来るなら」と喜んで自刎しました。翌日荊軻が樊於期の首を持って現れると太子丹は衝撃を受けますが、事ここに至っては覚悟を決め荊軻を燕の外交使節として送り出します。太子丹は、荊軻一人では不安だからと武勇で名高かかった秦舞陽を付けます。最初荊軻は秦舞陽がいざとなったら怖気づく性格だと見抜き難色を示しますが、丹のたっての頼みですから承知しました。

 荊軻は死を覚悟し、それまで交流のあった人々と別れの挨拶をします。BC227年、太子丹をはじめ荊軻に所縁の人々は白装束で易水のほとりまで見送ったそうです。その時荊軻は船上で有名な詩を吟じます。
「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還らず」
 秦の都咸陽に到着した荊軻一行は、樊於期の首と燕で一番肥沃な督亢(とくこう)を割譲すべくその地図を持参したとして秦王への謁見を願い出ました。願いは入れられ荊軻は秦王政の元に案内されます。副使の秦舞陽はその後起こる惨劇を思いぶるぶる震えだしました。不審に思った秦の廷臣が尋ねると、荊軻は「田舎ものゆえ天子の前に出て緊張しているのです。捨て置きください」とごまかします。

 秦王政は、憎んでいた樊於期の首を見て喜びました。荊軻が「割譲する督亢の地図です」と巻物を開き始めてもろくに見ていませんでした。すると巻物の中から匕首が出てきます。秦の法律で王の御前では誰ひとり武器を持ってはいけなかったため荊軻が考えた必殺の策でした。

 荊軻は、突然秦王の袖を取って匕首で突きます。しかしそれは秦王を傷つけただけで致命傷には至りませんでした。逃げる秦王を荊軻は追います。突然の出来事に秦の群臣は驚き慌てるばかりでした。すると秦王の侍医がとっさに薬箱を荊軻に投げつけ「陛下、剣を背負われよ」と叫びます。この場所で剣を帯びていたのは秦王一人でしたが、急なことで慌てて剣が長すぎ抜けなかったのです。この一言で我に返った秦王は剣を抜いて荊軻に斬りつけます。そこへ急報を受けて駆け付けた衛士たちが一斉に襲いかかったため荊軻は無数の剣を受けて絶命しました。その間秦舞陽は立ちすくんで震えるだけだったと云われます。もし秦舞陽が体を張って衛士の接近を阻止していたらこの時秦王暗殺は成功していたかもしれません。秦舞陽もなすすべもなく斬られました。

 この一件で秦王政は怒りを増幅させます。秦軍は燕に侵攻し国土を蹂躙しました。恐怖した燕王喜は息子である太子丹を殺して首を差し出しますが、その時は一時的に許されても結局4年後のBC222年亡命先の遼東を秦軍に攻められ滅亡しました。太子丹の秦王政暗殺計画は単に燕の滅亡を早めただけに終わりました。


 数年後、秦王政は天下を統一し始皇帝と名乗ります。荊軻所縁の人々は暗殺犯の身内という事でお尋ね者になりました。親友高漸離も徐卓と偽名を名乗り宋子(河北省石家荘の東南)に潜みます。ところが筑の名手として評判になり始皇帝はこれを召しだそうとしました。調べてみると暗殺犯荊軻の親友だと分かります。殺すには惜しいと思った始皇帝は高漸離の両目を潰して近くに召し筑を打たせました。光を失った事で高漸離の筑は哀切を帯びさらに幽玄な音色になります。始皇帝は高漸離の筑を聞くのが楽しみになってきました。

 そんなある日、高漸離の筑はいつにもまして悲壮な響きを帯びます。始皇帝が聞き惚れていると築が突然鳴りやみました。その瞬間、高漸離は立ち上がって愛用の筑を始皇帝めがけて投げつけます。筑に鉛を入れ親友の仇を討つ機会を待っていたのです。しかし悲しいかな目が見えなかったため狙いが外れます。高漸離は捕えられ車裂の極刑に処せられました。

 これが侠です。仲間のためには命も惜しまない。その後、漢の劉邦を助けて天下を統一に貢献した軍師張良も若い頃始皇帝暗殺を図って失敗し侠の繋がりで匿われます。張良をこの時危険を顧みず匿ったのが項羽の叔父項伯でした。そのために項羽一族が劉邦に滅ぼされた時項伯だけは張良のおかげで助かったと云われます。

 この侠は、のちに幇(ぱん)という組織になって現在に至りました。

春秋戦国史外伝Ⅰ  国士予譲

 晋が韓・魏・趙三国(三晋と呼ぶ)に分裂して数年が経ちます。晋陽の戦いで宿敵知瑶を滅ぼした趙襄子(無恤)も、今は苦しい戦乱の時を忘れ国作りに邁進しました。

 趙襄子は長年苦しめられた知瑶を憎み、頭蓋骨に漆を塗り酒器にしていたそうです。敵を辱めるために(あるいは呪術的意味もあったと思われる)殺した敵の頭蓋骨を酒器にするのはもともとの漢民族の風俗ではなかったように思います。どうもスキタイをはじめとする北方の遊牧民族独特の風習のような気がしてなりません。趙氏の興隆は初代趙衰が晋の文公重耳に付き従い亡命生活を共にした事から始まっています。趙衰の後を継いだのは息子の趙盾でしたが、その母親は狄人でした。重耳が狄に亡命した際、族長の長女を重耳が娶り、次女を趙衰が娶ったのです。

 趙衰は、主君重耳が晋公に即位した後彼の娘を正室に貰っており趙同、趙括、趙嬰斉と三人の息子をもうけます。庶流の趙盾は本来趙家を継ぐ資格はありませんでしたが、有能だったため実質的に趙氏を継ぐことになりました。そのため趙氏が趙盾の子趙朔の代で一時滅ぼされるのも元々は複雑な趙氏のお家騒動が原因でした。

 ですから趙襄子には遊牧民族である狄人の血が流れていたのです。それが頭蓋骨の酒器となったのかもしれません。わが国では織田信長が朝倉義景、浅井久政・長政父子の髑髏杯を作っていますがこの場合は物知りな仏僧が教えたのか、並はずれた憎しみから出た信長の独創だったかは分かりません。

 新しい国作りをする趙襄子でしたが、その中には諸侯にふさわしい宮殿建設も含まれました。ある時趙襄子は建設中の宮殿を視察し厠に入った時胸騒ぎを感じます。部下に調べさせると厠の壁を塗っていた罪人が匕首を持って潜んでいました。その男は、知瑶の側近だった予譲でした。姓名を変え、罪人と偽り紛れ込んでいたのです。いつか主君の仇を取る事を望んで。

 部下たちは即座に殺そうとしますが、暗殺犯が予譲だと分かると趙襄子はこれを止めました。「義人じゃ、助けてやれ」この一言で予譲は許され解き放たれます。趙襄子も妾腹から出ていたため人の痛みが理解できる男でした。自分にとって知瑶は憎むべき敵でしたが、予譲にとっては大切な主君なのです。

 しかし予譲は仇討ちを諦めませんでした。体に漆を塗って癩病者に見せかけ炭を飲んで唖のような声になって乞食の群れに投じます。そして執念深く復讐の機会を待ちました。物乞いをしてかつて予譲が住んでいた屋敷に立ち寄りますが、彼の妻は夫の正体に気付きませんでした。ところが彼の親友はそれが予譲だと見破ります。

 親友は「君ほどの者なら趙襄子に臣下の礼をとって近づけば重用されるだろう。そうしておいて復讐の機会を待った方が良いのではないか?」と当然の疑問を投げかけました。それに対し予譲は
「すでに臣下の礼をとっておきながらこれを害するのは義に反する。実際私が取る方法は至難の道だが、後世臣下でありながら主君に二心を持つ者を戒めるためにこうしているのだ」と答えました。

 しばらくして趙襄子が馬車で出かけると、橋の袂でまたしても胸騒ぎを覚えます。調べさせるとやはり予譲でした。引き出された予譲に趙襄子は尋ねました。
「そなたはかつて范氏、中行氏に仕えていた事があるそうだな。知瑶がこれを滅ぼしたのにこの時は主君の仇を奉ぜず何故知瑶の時だけ仇を討とうとするのだ?」
 予譲は静かに答えます。
「范氏、中行氏は私を並みの臣下としてしか遇しませんでした。ゆえに並みの臣下として報いました。しかし知伯様は違います。国士として私を遇していただいた故、私も国士としてこれに報いようと思ったのです。『士は己を知る者のために死す』と申します」

 これを聞いた趙襄子は嘆息して言いました。
予譲よ、そなたの忠義はよく分かった。しかし、もうそなたを許すことはできない。死ぬ前に最後の望みを叶えよう。なんなりと申すがよい」
 予譲はこれに対し「貴方様の衣服を頂きたい」と願い出ました。側近から受け取った衣服に対し剣を抜くと三度斬りつけます。そして「これで地下の知伯様に顔向けできます」とニッコリほほ笑みそのまま剣に伏して自害しました。

 心ある者は予譲の忠義と死を伝え聞いて涙を流さぬ者はなかったそうです。後に史記を記した司馬遷も感動した一人で史記刺客列伝にこの話を採用しています。知瑶は冷酷非情で敵に対しては容赦ない男でしたが、予譲のような国士の心を掴んでいたのですからやはり一廉(ひとかど)の人物ではあったのでしょう。そして一度は予譲を許した趙襄子もまた偉大な君主でした。

春秋戦国史14  秦の始皇帝(終章)

 戦国時代中期、諸侯が王号を称し始めたことで完全に空気となった周王朝。洛邑近辺を領するだけの弱小国に落ちぶれ、さらに東西に分裂するという末期症状を呈します。BC256年、韓と交戦中の秦軍の行軍を妨げたため秦の昭襄王の怒りを買い討伐を受けました。結果、領土を召し上げられ滅亡。伝国の秘宝、天命を表すと云われる九鼎も秦に移されます。これは天命が秦に移った事を示す象徴的な出来事でした。
 秦王政は、BC246年即位しますがこの時14歳。丞相(宰相)の呂不韋は仲父の称号を得て、さらに相国へと昇進しました。相国というのは非常設で廷臣としても最高位の顕職です。日本で言えば江戸時代の大老、律令体制下の摂政・関白にあたりました。位人臣を極めた男が次にやる事と言えば名誉欲です。呂不韋は3000名にも及ぶ学者を集め、現代の百科事典にあたる呂氏春秋を編纂します。呂不韋はこの書物が自慢で、「この書物の文章を一字でも増やしたり減らしたりした者には千金を与える」と豪語したそうです。

 ところが、呂不韋の栄華は長く続きませんでした。秦王政の母趙太后との不倫を避けるために彼女に与えた巨根の男嫪毐(ろうあい)に野心が芽生えたのです。趙太后との間に生まれた不倫の子を秦王に据え自分は外戚として天下に号令しようと考えます。そのためには邪魔な政を排除しなければなりません。趙太后がこの陰謀を知っていたかどうかですが、おそらく知っていただろうと思います。嫪毐に溺れ切った彼女に現実を見る目は残っていませんでした。

 この陰謀は宮中でひそかに練られましたが、成人に達していた秦王政に漏れないはずがありません。BC238年政は機先を制して嫪毐を逮捕すると車裂の極刑に処します。趙太后との間に生まれた二人の子も斬られました。流石に実の母を殺すわけにはいきませんから、離宮におし込めます。呂不韋の連座は免れませんでした。政が出生の秘密を知っていたかどうかは分かりません。これまでの功績で死罪だけは免れた呂不韋は、すべての官職を解かれ領地洛邑に蟄居となります。

 引退はしたものの、呂不韋の元には各国から使者が訪れました。秦王政は、呂不韋を生かしておけば反乱を起こす危険性があると考えます。BC236年、秦王政は呂不韋に厳しい詰問状を送り蜀への流罪を命じました。絶望した呂不韋は毒を仰いで自害します。野望多き大商人の末路でした。ちなみに漢の高祖劉邦の正室呂太后は呂不韋の一族であるとも云われます。

 呂不韋の死で重しの無くなった政は、親政を始めました。独裁です。政は法家思想に共鳴しており李斯(?~BC208年)を登用し丞相としました。李斯は有能で法治主義を徹底します。秦が各国を併合する過程で、秦の本土以外ではそれまでの封建制を残すべきという意見もありましたが李斯は郡県制を徹底的に主張、各国を滅ぼすたびにあらたな郡を設置し中央から官吏を派遣しました。中央集権という意味では良かったのですが、秦の厳しい法律によって押さえつけられているという庶民の恨みは深刻化します。それが秦末期の大規模な農民反乱に繋がるのです。

 国内を固めた政は、外征に乗り出します。BC230年韓の都陽翟(ようてき、新鄭から遷都していた)を攻略し韓を滅ぼすと、次の標的は趙でした。趙幽穆(ゆうぼく)王の側近郭開を買収し当時秦軍と対抗できる唯一の存在とも言うべき将軍李牧に無実の罪を着せ殺させます。李牧はしばしば秦軍も破っている名将でした。BC228年、秦は将軍王翦(おうせん)らを派遣し趙を攻めます。趙の首都邯鄲は落城し幽穆王は捕らわれました。この年を持って趙は事実上滅亡するのですが、公子の一人趙嘉が北方の代に逃れて亡命政権を建てます。代はBC220年滅ぼされるまで続きました。
 次の標的は燕でした。燕はもともと弱小国なので大した抵抗もできずあっさりと滅ぼされます。魏は戦国四君の一人信陵君を失い弱体化していました。ただ魏の都大梁(現在の開封)は中原の真っただ中にある経済の中心地で人口も多く秦軍は攻めあぐねます。秦軍は黄河の水を引き入れて水攻めにし、包囲三カ月でついに陥落、BC225年魏は滅亡しました。
 残りは斉と楚です。この二国は衰えたりとはいえかつての覇権国で簡単には滅ぼせない勢力を保っていました。そこで政はまず楚を攻めるべく李信と蒙恬(もうてん)に20万の兵力を与えます。ところが楚の大将軍項燕(?~BC223年。項羽の祖父)は有能で、秦軍を撃破しました。激怒した政は、老将王翦に60万という大軍を授けて再び楚を攻めさせます。大軍に兵法なし、これだけの数の差(楚軍は10万程度)があると少々の小細工など通用しません。名将項燕の戦死と共に楚もまた滅びました。BC223年の事です。

 ただ項燕の伝説は楚の人たちの心に残りました。「項燕将軍は死んでいない」という希望的な噂も語られます。後に項梁と項羽が呉で挙兵し淮南の楚の故地に至った時人々がこぞって義軍に参加したのも項燕将軍伝説のおかげでした。「たとえ三戸となろうとも秦を滅ぼすのは楚ならん」という言葉も秘かに楚の人たちに語り継がれます。後に秦を滅ぼした項羽も劉邦もともに旧楚国の人間だった事を考えると不思議な因縁ですね。

 最後に残った斉は、秦の内部工作でぼろぼろになっておりBC221年戦わずして降伏しました。秦王政はついに天下統一を成し遂げたのです。時に39歳。秦は、天下を三十六郡に分けて支配します。度量衡も統一されここに支那大陸は初めて一つにまとまったとも言えます。

 秦王政は、自分の王朝が永遠に続く事を願って皇帝という称号を名乗りました。そして自分を始皇帝とし、以後ニ世、三世と未来永劫続く事を願います。しかし皮肉な事に秦は三代で滅ぶのです。それは過酷な法の支配と大規模な土木工事、思想統制のための焚書坑儒に対する庶民の反発でした。始皇帝は、そういう現実に目を背け不老不死を求めて各地を彷徨いました。BC210年7月、行幸のさ中始皇帝は河北省沙丘で亡くなります。去年48歳。

 秦滅亡の直接のきっかけとなる農民反乱、陳勝・呉広の乱が勃発するのは翌年BC209年7月の事です。




                                (完)

春秋戦国史13  奇貨居くべし

 長平の戦いで活躍した秦の丞相(宰相)范雎、一説では韓・魏・趙に滅ぼされた范氏の子孫だとも云われます。因縁めいた話ですが、先祖の恨みをこの時晴らした事にもなるのです。長平の戦いの敗北で趙は覇権国から転落し滅亡は時間の問題となりました。
 秦軍は長平の戦勝の後趙の都邯鄲を囲みますが、老兵と少年兵しか残っていなかった趙は国民一丸となって守り抜き魏からの援軍もあって秦軍は囲みを解いて撤退します。秦としてはいつでも趙は滅ぼせると思っていたので、態勢を立て直すための一時的撤退に過ぎませんでした。
 秦の富強は、たしかに商鞅の改革によるものでしたがそれ以外に秦の恵文王時代のBC316年蜀王国(古蜀)を滅ぼして四川盆地を併合した事も大きかったと思います。蜀は当時支那文明圏には属しない異民族の国でした。おそらくチベット系かタイ族系だと推定されます。三星堆遺跡(5000年前から3000年前)で有名な三星堆文明を滅ぼした成都地方に起こった杜宇の王朝が支那の史書に出てくる古蜀王朝ではなかったかと思われます。
 秦は、将軍司馬錯に率いられた軍を派遣し蜀王国を滅ぼし併合しました。四川盆地は現在人口一億超えている事でも分かる通り豊かな土地でした。長江上流に位置しこれに流れ込む大河(岷江、沱江、嘉陵江、烏江)が盆地内を潤し沖積平野を形成します。四川の由来はこの四つの河でした。また雲南地方を通じて遠くインドや東南アジアとの交易路が確立されており、秦は蜀併合によって食糧生産基地、南西交易路を獲得したのです。
 ちなみに秦漢と続く爵位も商鞅の改革時に設けられたものです。後で書く機会はないと思うのでここで紹介しておきます。爵位は上から
1、列侯
2、関内侯(かんだいこう)
3、大庶長
4、駟車庶長
5、大良造
6、少上造
7、右更
8、中更
9、左更
10、右庶長
11、左庶長
12、五大夫
13、公乗
14、公大夫
15、官大夫
16、大夫
17、不更
18、簪裊(読み方不明。分かる方は内緒コメントで教えてください)
19、上造
20、公士
です。ちなみに12位の五大夫以上は官秩六百石以上でないと成れないのでこれを官爵といいます。わかりやすく日本の例で言うと列侯と関内侯が三位以上の公卿、大庶長から五大夫までが日本で言うところの五位以上の殿上人にあたると解釈してもあながち間違いではないかもしれません。
 ところで長平の戦いとその後の邯鄲籠城戦を経験した者のなかで、韓の陽翟(ようてき)出身(あるいは衛の濮陽出身とも)の呂不韋(?~BC235年)という大商人がいました。彼のような富豪が住んでいたことでも邯鄲がいかに栄えていたか分かります。当時の人口が20万だといわれますから斉の都臨淄(人口50万)に次ぐ大都市でした。
 ある時、呂不韋は秦から趙に人質として出され忘れ去られていた子楚という公子と出会います。当時は合従連衡という外交戦が活発になされており、国と国との約束事の保障として人質が送られました。秦としても趙といずれ敵対することは明らかでしたからこんな危険な国に重要な人物を送るはずがありません。子楚は昭襄王の太子安国君(のちの孝文王)の庶子で、その母夏姫(春秋時代の夏姫とは関係ない)が寵愛を失ったために選ばれたといわれます。安国君は20名も子供がいたそうですから完全な捨て駒でした。

 通常なら、このまま邯鄲で朽ち果てる運命でした。ところが呂不韋は彼を見て「奇貨居くべし」(これは珍しい品物だ。これを買って置くべきだ)と叫んだ(おそらく心の中で。実際に人前で叫んだら狂人と思われます 苦笑)そうです。
 交易で巨万の富を築いた呂不韋は、子楚を一世一代の貴重な財宝だと見たのです。その後全財産を費やし子楚を歓待します。今まで蔑ろにされ惨めな生活を送ってきた子楚は、急に贅沢な生活をおくれるようになって増長しました。ある時、呂不韋の屋敷で一人の美女を見染めます。彼女は邯鄲一の舞姫で、呂不韋が身受けして愛人にしていたのでした。

 子楚は、美女を所望します。最初渋っていた呂不韋ですが子楚にその後の自分の人生を賭けていたのですから仕方なく美女を譲りました。ところが彼女はすでに呂不韋の子を身籠っていました。それを黙っていた事が呂不韋のせめてもの腹いせでした。

 その後、呂不韋は単身秦の首都咸陽(孝公の時代に遷都)に向かいます。莫大な賄賂を要路に配ると、安国君の寵姫華陽夫人に面会しました。その席で、呂不韋は実子の居ない夫人に「容色を持って人に仕える人は容色が衰えると受ける愛情も緩みます」と彼女の最大の弱点を衝きました。不安を感じ「どうしたらよいのか?」と尋ねる夫人に
「今趙で人質になっている子楚公子は華陽夫人を実の母とも慕っています。孝心篤い公子を貴方の養子にし太子にすれば、安国君が王位を継がれた後も安泰です。子楚公子も太子になどなれないと諦めていたのですから、貴方が引き揚げて太子にすればその恩を一生忘れないでしょう。さすれば子楚公子が王位を継がれた後も貴方は豊かな暮らしができるはずです」
と囁きました。

 華陽夫人は、呂不韋の提案を受け入れある時安国君に趙に人質となっている子楚公子が非常に賢明で孝心篤い人物なので私の養子にしたいと願いでます。安国君も寵愛深い華陽夫人の言葉なので素直に許しました。呂不韋の活躍で子楚はついに秦の太子になれたのです。邯鄲では、すでに舞姫が出産していました。秘密を知らない子楚は喜び息子を政と名付けます。舞姫も正室にしました。

 その後、BC251年秦の昭襄王が亡くなり太子の安国君が即位します。すなわち孝文王(BC250年)です。太子の子楚も咸陽に迎えられました。ところが、孝文王は父昭襄王の喪が明けて三日後急死してしまいます。太子子楚は、即位して荘襄王(在位BC249年~BC247年)となりました。荘襄王が即位できたのは呂不韋のおかげでしたので、呂不韋は丞相となり洛邑に食邑十万戸を授けられ文信君と号します。

 不可解な事に荘襄王も即位後わずか3年で急死します。このあたり呂不韋の陰謀の臭いがしないでもありませんが、BC246年太子の政が即位しました。呂不韋は仲父(父に次ぐものという意味)の称号を授けられ幼王を後見します。権勢並ぶ者なき呂不韋は、さながら秦の王でした。ところがそんな彼に人生の罠が仕掛けられます。

 未亡人となったかつての愛人趙太后が、再び呂不韋に関係を求めてきたのです。最初はこれを受けていた呂不韋でしたが、もしこの秘密が露見すれば自分はもとより一族郎党ことごとくが処刑されます。恐れ慄いた呂不韋は、太后に巨根の持ち主嫪毐(ろうあい)を引き合わせました。嫪毐は自分の巨根に輪を乗せそれを自由自在に操るという特技を持っていました。淫乱な太后は嫪毐をとても気に入り、宦官と偽って後宮に引き入れます。これで不倫関係を免れた呂不韋でしたが、その結末には破滅が待っていました。

 太后は嫪毐との間に二人の子供までもうけたといいます。何も知らない少年王、政。実母の爛れた性関係と出生の秘密。利口な子供であった政は、成長するにつれいつしかその秘密を知ることとなります。

 
 次回、春秋戦国史最終話『秦の始皇帝』に御期待下さい。

春秋戦国史12  長平の戦い

 戦国時代を最終的に統一した秦の始皇帝。秦という国は最初から強大だったと思いがちです。ところが戦国時代初期には魏に圧迫され滅亡寸前まで追い詰められていた事は意外と知られていません。魏の文侯は孫子と並び称される兵法家呉起(呉子)を将軍に登用し秦を攻めさせました。呉起は、黄河湾曲部の内側西河地方の太守を兼任します。西河から南西に進めば秦の首都雍がありました。
 呉起は、文侯、武侯ニ代に渡って魏に仕えますが宰相の公叔座との政争に敗れ楚に亡命します。おかげで秦は滅亡を免れました。公叔座も呉起と争うほどですから凡庸な人物ではありません。魏の恵王の時代、死の床にあった彼が公孫鞅を推挙した事は前に書きました。しかし、無名の男を重職に抜擢する度量は恵王にはありませんでした。
 公孫鞅は秦に赴きます。孝公(在位BC381年~BC338年)は公孫鞅の非凡な才を見抜き抜擢しました。公孫鞅は後に商於の地に封じられて商君となるので以後は商鞅(BC390年~BC338年)と呼びましょう。商鞅は、孝公の信任を背景に厳しい法家思想に則った国家を作り上げます。秦という国は、支那文明圏の西の外れにあり漢民族と遊牧民が雑居していましたから、そのほうが統治しやすかったのでしょう。ただ、あまりにも厳しい法律を布いたため商鞅は秦の国民の恨みを買います。とくに太子駟は、国法を犯し側近を処刑されていたので激しく憎みました。
 BC338年、後ろ盾の孝公が亡くなります。太子駟が即位し恵文王(在位BC337年~BC331年)となりました。恵文王は、早速商鞅逮捕の命令を出します。身の危険を察知した商鞅は魏に亡命しますが、かつて外交上魏を侮辱した事から受け入れ拒否されました。逃げる途中、宿に泊まろうとした時、商鞅が定めた「身元不明の人物を宿泊させてはならない」という法律で断られます。仕方なく商鞅は本拠の商於に立て籠もりますが秦の追討軍に敗北し最後は車裂きの極刑になったそうです。

 ただ商鞅の改革は引き継がれ、秦は強大化します。恵文王の庶子だった昭襄王(在位BC306年~BC251年)の時代までには、魏から西河地方を奪い返し本拠地安邑を占領、大梁への遷都を余儀なくさせました。韓へも年々圧力を加えて領土を割譲させます。当時、秦と対抗できる勢力は胡服騎射で軍制改革を成し遂げた趙しかありませんでした。
 秦と趙は何度も戦い、BC270年閼与(あつよ)の戦いでは趙の名将趙奢(ちょうしゃ)によって秦軍は敗北し拡大路線が一時頓挫します。外交的にも藺相如(りんしょうじょ)が完璧の故事に代表されるように趙をよく守りました。その他、恵文王時代の趙は廉頗(れんぱ)、楽乗など人材が豊富で秦に付け入る隙を与えませんでした。

 廉頗と藺相如に関しては『世界史英雄列伝(28)藺相如(前中後編)』

 趙奢に関しては『趙奢と趙括   父と子の相克(前後編)』
をご参照下さい。
 趙の恵文王(在位BC298年~BC266年)は、凡庸な君主ではありましたが有能な臣下の意見をよく容れ国を保ちます。ところが後を継いだ息子の孝成王(在位BC266年~BC244年)は同じ凡庸ながら自分の無能さに気付いていないという致命的な欠陥がありました。
 秦は、将軍白起(?~BC257年)を抜擢し再び拡大路線を開始します。白起は冷酷非情でしたがとても有能でBC293年には韓・魏連合軍を伊闕の戦いで破り24万を斬首しました。BC278年には楚を攻め首都郢(えい)を攻略します。本拠地湖北を奪われた楚は陳から寿春と東へ遷都せざるをえませんでした。BC273年今度は韓魏趙連合軍を華陽に撃破し13万を斬首。
 たび重なる敗北で、韓では元の本拠地で黄河北岸にあった上党地方が孤立します。秦の圧迫を受けた韓は上党の割譲を決めました。ところが、上党の住民は蛮夷の国秦の国民になるのを嫌い趙に救いを求めます。趙の孝成王は叔父(恵文王の弟)平原君と弟平陽君に善後策を協議しました。すると平陽君は「受ければ秦の恨みを買い戦争になるので止めた方が良い」と言い平原君は「どちらにしろ秦と戦争になるのなら、上党がタダで手に入るのだから受けるべき」と意見しました。
 悩む孝成王でしたが、結局上党の住民の願いを受け入れ領土に編入します。怒った秦はBC260年大軍を差し向けました。趙では老将廉頗が健在でしたので、彼を総大将に任じ長平に陣を築いて待ち受けます。両軍の兵力は不明ですが秦軍趙軍ともに40万を超えていたと思われます。趙にとっては存亡をかけた戦いでした。

 廉頗は、長大な補給線を維持しなくてはならない秦軍がいずれ撤退すると読みます。そこで陣を堅く守り持久戦に入りました。攻めあぐねた秦は、宰相范雎が一計を案じ趙の国内に多数の間者を送り込みます。そして「秦は趙括が趙軍の指揮を取ることを恐れている。老人の廉頗であれば対処しやすい」と嘘の情報を流させました。

 趙括は名将趙奢の息子です。幼少時より神童の誉れ高く趙ではいっぱしの兵法家として知られていました。ただ父趙奢は息子趙括の兵法論を机上の空論と断じ相手にしなかったと言われます。孝成王は秦の謀略にまんまと乗せられ廉頗を更迭、趙括を総大将に据えます。この時、夫から息子の事を聞かされていた趙括の母が王に将軍任命の撤回を訴えましたが聞き入れられませんでした。

 趙軍総大将の交代を受けて、秦は真打とも言うべき白起を総大将として長平に送り込みます。白起は前線の兵をわざと手薄にし趙軍の出撃を誘いました。これにまんまと騙された趙括は陣地から出ます。白起は偽装敗走し、軽騎兵だけで突出した趙括は本隊と致命的な間隙を生じました。この機会を待っていた白起は伏兵を出現させ趙括を包囲します。焦った趙括は包囲網を脱しようとして失敗し戦死しました。白起は総大将の居なくなった趙軍を包囲します。それから46日後、兵糧の尽きた趙軍は降伏しました。

 白起は、膨大な捕虜を養う兵糧が無かったため合理的な処分方法を考えました。捕虜たちに自ら大きな穴をいくつも掘らせ、それが完成するとことごとく生き埋めにして殺したのです。その数実に45万と言われます。さすがにこの数字は誇張だと思われていましたが、近年長平の古戦場跡から夥しい人骨が発見され史実を裏付けました。趙軍で生き残ったのはわずか240名の少年兵だけだったと伝えられます。

 長平の大敗北で、秦と趙の軍事バランスは崩れます。以後、秦の一強時代が到来しました。白起のその後を記すと、長平の輝かしい戦勝で白起が自分の地位を脅かすようになると警戒した宰相范雎は、白起に謀反の疑いありと昭襄王に讒言します。猜疑心の強い昭襄王も巨大な軍功を上げ過ぎた白起を快く思っていなかったためBC257年白起に自害を命じました。

 白起はその時「私に何の罪あるのだ? なぜ自害せねばならぬか?」と訴えたそうですが、その後「私は長平の戦いにおいて降伏兵40万余りを一夜で生き埋めにした。これだけでも天に対し罪を犯したのだから死ぬべきだ」と納得し従容として死を迎えたそうです。


 長平の戦いは戦国時代のターニングポイントでした。以後、秦王政が天下を統一するまで数十年は秦が他の六国を攻め滅ぼす歴史です。では、秦王政とは何者なのでしょうか?その秘密を解くカギは一人の大商人呂不韋にありました。次回、「奇貨居くべし」に御期待下さい。

春秋戦国史11  楽毅と田単(後編)

 楽毅の成功は燕の昭王を非常に喜ばせました。一時は斉に攻め込まれて父王を殺され滅亡寸前になり長年惨めな属国を強いられていたのですから、逆に今斉を滅亡寸前まで追い込んでいる楽毅には感謝してもしきれない思いだったでしょう。隗より始めた効果は確実にありました。燕は、春秋時代戦国時代を通じて弱小国でしたがこの成功だけで戦国七雄の一つに数えられることとなります。昭王は斉の陣中に赴き兵士を労いました。楽毅にも昌国君という最高の栄誉を与えます。この「君」というのは戦国時代に登場した位で、王の下の諸侯を意味します。各国の君主が王を自称したために初めて登場したものでした。
 楽毅は本陣を斉の首都臨淄に置き、各地に軍を派遣して諸城を攻略させます。その中で最後まで残ったのが湣王が殺され襄王が立った莒と即墨でした。莒は住民が王と一丸となって守っているので容易に落ちそうではありません。そこで燕軍はまず即墨を攻略すべく主力を差し向けました。

 燕の大軍の来襲を受けた即墨では太守が打って出ますが、地方軍では歴戦の燕軍に敵うはずもなく簡単に撃破され太守は戦死します。即墨の民衆は驚き恐れますが、覚悟を決め一人の人物を将軍に選出します。彼の名は田単(生没年不詳)といいました。

 田単はその名前の通り斉の王室である田氏の一族です。ただしかなりの傍流だったらしく本人は首都臨淄の市場を監督する役人だったと伝えられます。何事もなければ下級官吏として一生を終るはずでした。ところが燕軍の侵攻を受け臨淄の人々は戦乱をさけるため地方に避難します。その際、馬車の車軸が閊えて道は大混雑しました。田単は家族に言いつけ馬車の車軸の出っ張っている部分を切り取らせ鉄で包みます。おかげで田単の一族は無事に逃げる事が出来ました。これを見ていた即墨の人たちは田単を智者だと評価したのです。

 人々の推薦で将軍となった田単でしたが、もともと非凡な才能があったのでしょう。即墨の人たちを指揮して頑強に抵抗し、燕軍は攻めあぐみます。そんな中のBC279年燕の昭王が急死し恵王(在位BC278年~BC271年)が即位しました。恵王は太子時代から楽毅とは不仲で、それを聞いた田単は間者を放って「莒と即墨がいつまでも落ちないのは、楽毅がわざと遅らせているのだ。楽毅は斉で自立し王になるつもりだろう」と流言を流させます。

 これを信じた恵王は、楽毅を解任し後任に騎劫(ききょう)を送りました。九分九厘勝っていた戦を自ら放棄するのですからここまで愚かな王は居ません。楽毅は、帰国すれば王に誅殺されると将来を悲観し趙に亡命します。趙はこれを歓迎し、燕・斉との国境に近い土地に封じ望諸君としました。怒った恵王は楽毅を討伐しようとしますが楽毅から先王に対する忠誠心と讒言で処刑されては先王を辱められる事になるから亡命したという心情溢れる手紙を受け反省します。恵王は楽毅の息子楽間を父と同じ昌国君に封じ和解しました。楽毅はその後趙と燕で客卿(外国人の卿)となり最後は趙で没したそうです。趙の恵文王時代に活躍した将軍楽乗は楽毅の一族(甥?)だとされます。
 一方、即墨では現在進行形で戦いが続いていました。反間の計で最大の難敵楽毅を排除したものの即墨包囲は続きます。田単はある時「燕軍が城外にある墓を掘り起こして先祖を辱める事が一番恐ろしい事だ」と噂させました。燕軍がその通りに実行すると、これを見た即墨の人たちは燕軍に対する敵愾心を増します。田単はまた即墨の富豪たちから財宝を拠出させ燕軍の将軍たちに賄賂しました。そして「即墨がもし陥落したら私たちの家族だけは無事に済むよう取り計らい下さい」と言わせます。燕の将軍たちは即墨が間もなく陥落するだろうと喜び油断しました。
 籠城が数カ月続き残りの食料が尽きかけていた頃、田単は城中から千余頭の牛を集めさせます。牛の角には刀を結び尾に藁を束ねて油を注ぎました。そして城壁に50の穴をうがち、そこを出撃口として夜陰に乗じ牛を放ちます。藁束には火がつけられ、その後ろを田単率いる五千人の壮士が続きました。牛は尾が熱いので狂ったように奔り出し燕軍の陣中に突入します。すっかり油断していた燕軍は大混乱に陥り、牛の角とそこにつけられた刃のために傷つきました。そこへ田単率いる斉軍が突入したのです。燕軍が支えられるはずもなく、潰走します。燕の上将軍騎劫は乱戦の中で討ち取られました。

 田単が逃げる燕軍を追撃すると、それまで燕軍に支配されていた都市はことごとく寝返り燕の守備兵を殺して開城します。勢いを増した田単軍は首都臨淄をはじめ七十余城ことごとくを奪回しました。田単は莒から襄王を迎えます。この功績により田単は宰相に任じられました。一時は滅亡寸前だった斉は田単の活躍によって再び力を取り戻します。一方、絶好の機会を逃した燕は衰退する一方で、ついにはBC222年秦に滅ぼされるのです。


 次回は、戦国時代の天王山ともいうべき長平の戦いを紹介します。

春秋戦国史11  楽毅と田単(前編)

 春秋時代最初の覇者桓公を出した斉ですが、桓公死後の後継者争いで衰え晋と楚二大大国の後塵を拝するようになります。春秋時代末期には南方の新興国呉や越に圧迫されるようにさえなりました。時代はちょっと遡り春秋時代中期のBC670年頃、陳の厲公(れいこう)の公子であった完は陳公室の後継者争いに巻き込まれ斉に亡命します。
 公子完が生まれた時、陳を訪れていた周の太史(天文歴史を司る官)に卜筮で占ってもらったところ「陳とは別の国で諸侯になる」と出ました。これは有名な話で易経繋辞上伝にも出ているので私も読んだ事があります。公子完は斉の桓公に厚遇され陳完と名乗りました。後に陳氏は田氏と称するので公子完を田敬仲とも呼びます。
 斉の景公(在位BC547年~BC490年)時代の当主田乞(でんきつ、釐子、?~BC485年)は、自領民に施す時は大きな枡を使い、課税する時は小さな舛で取り立てたので領民ばかりか斉全土から称賛されました。このままでは斉を乗っ取られると危惧した臣下は景公に危険性を訴えますが取り上げられませんでした。
 田乞は、斉で最高の家格を誇り何代にもわたって卿(大臣)を輩出している高氏、国氏の追い落としを図ります。BC489年、他の大夫(貴族)たちを巻き込んだ田乞は軍を率いて高張、国夏を攻撃し二氏を追放しました。そして悼公を擁立し自身は宰相になります。この段階で、斉国内で田氏に対抗できる者はいなくなりました。
 田乞の後は田常(成子)、田盤(襄子)、田白(荘子)と続き、陳完から数えてちょうど10代目にあたる田和(太公、?~BC385年)が登場します。田和は宣公・康公と二代に渡り宰相を務めBC391年にはその康公を廃し自ら斉公を称しました。さすがに康公を殺すことはしませんでしたが、山東半島の海浜に追放しここに太公望姜子牙から始まる姜斉は滅びます。BC386年には周の安王により諸侯に列せられました。以後の斉を田斉と呼びます。
 田和(太公)から数えて4代目の威王(在位BC356年~BC320年)の時に初めて王号を称します。曲がりなりにも権威を保っていた周王室は、列国の君主が王号を称し始めた戦国時代中期以降完全に権威が失墜し洛邑近辺を領する弱小国に転落しました。威王に関しても楚の荘王のようなエピソードがありますが割愛します。威王は孫子の兵法を記した孫武の子孫孫臏(そんぴん、孫武の孫とも5世の子孫ともいう。孫武は晩年嫡子ができたので孫説もあり得る)を登用し富国強兵に努めました。
 それまで覇権国だった魏の恵王を桂陵、次いで馬陵と相次いで撃破し斉は再び強国の仲間入りを果たします。斉の首都臨淄(りんし)は人口50万(30万説もある)を数える世界有数の大都市に発展し文化も栄えました。諸子百家とよばれる思想家たちが数多く集まり稷下(しょくか)の学士と呼ばれます。有名な孟子や荀子も臨淄に滞在したくらいです。ちなみに性悪説の荀子の先祖は晋から斉に亡命した中行氏(本姓荀氏)だとも云われます。また荀子の子孫からは三国志で有名な荀彧・荀攸も出ました。
 魏の覇権国転落は、相対的に斉と西の秦の地位を上昇させました。後に詳しく述べるつもりですが秦も公孫鞅(領地の名前をとって商鞅とも呼ばれる)を登用した孝公(在位BC381年~BC338年)の時代に急速に台頭します。実は公孫鞅は魏の恵王の宰相公叔座の食客をしており、公叔座は死の間際恵王に公孫鞅を後継者に推薦していたのです。この絶好の機会を逃すのですから恵王は無能ですし、魏の命運も尽きていたのでしょう。
 威王とその子宣王(在位BC319年~BC301年)の時代が斉の絶頂期でした。威王の孫に当たる湣王(びんおう、在位BC300年~BC284年)の即位当初はまだまだその余喘を保ちます。湣王は周辺諸国へ露骨に侵略の手を伸ばしBC317年宋を討ちます。BC314年には燕の宰相子之と太子平が争い内乱状態になっている事に付け込み侵略、燕王噲(かい)を殺し燕を占領してしまいました。実力がものを言う戦国時代とはいえこの暴挙は各国の顰蹙を買います。
 燕の昭王(太子平、在位BC312年~BC279年)は、斉の属国である事を認める条件でようやく即位できました。昭王は斉への恨みを忘れず、戦乱で荒廃した国土の復興を進めるとともに広く天下に人材を求めます。その際、師事する郭隗(かくかい)にどのように人材を求めるがよいか相談しました。
 郭隗は、「まず自分を厚遇しなさい」と助言します。自分のようなつまらない男でさえ厚遇されるのだから天下の人材はこぞって燕にやってくるはずという意味でした。これが故事「隗より始めよ」の出典です。事実、中山の戦いで趙の武霊王を苦しめた将軍楽毅(生没年不詳)が燕にやってきました。昭王は楽毅を上将軍に抜擢するとともに亜卿(上卿に次ぐ位)にします。
 BC288年、斉の湣王は秦の昭襄王と語らい王より上の位である東帝、西帝と称し驕慢を示しました。これは諸国の猛反発を食らいまもなく両者ともこれを撤回します。湣王は侵略戦争を繰り返し周辺諸国すべてに憎まれました。これを冷静に見ていた楽毅は昭王に進言し、韓・魏・趙と秘密同盟を結びます。するとあろうことかこれに秦まで加わりました。昨日の友は今日の敵。結局斉と秦の友好関係はこの程度のものにすぎなかったのです。

 BC285年、楽毅は5カ国の連合軍を率い斉に侵攻します。楽毅は済西の戦いで斉軍を撃破。ここで他の4国の軍は撤退しますが、楽毅は燕軍を率いて斉に留まりました。斉の首都臨淄は間もなく燕軍に占領されます。斉の七十余城は攻め落とされ、残すは湣王の逃亡した先の莒(きょ)と即墨(そくぼく、山東省青島の内陸部)のみとなりました。
 湣王は、楚から援軍に来た将軍淖歯(とうし)に殺されます。傲慢な男の哀れな最期でした。ただいくら暴虐な王とはいえ、援軍に来た他国の将軍に殺される謂われはありません。怒った莒の民衆は蜂起して淖歯を殺し、湣王の子法章を擁立しました。すなわち襄王です。
 風前の灯となった斉の命運はどうなるのでしょうか?次回、救国の英雄田単の登場と『火牛の計』で名高い即墨の戦いを描きます。

春秋戦国史Ⅹ  趙の武霊王

 

戦国時代の始まりは晋が分裂した三晋が周王から諸侯に封じられたBC403年だと云われます。ただし晋自体は首都近辺の弱小勢力に落ちぶれながらも韓・魏連合軍に攻め滅ぼされるBC376年まで続きました。この前後の年は他国でも激動が起こっており斉では陳から亡命した公子完の子孫である田和(太公)が、主君斉の康公を滅ぼし国を乗っ取ります。田和は周の安王から諸侯に封じられました。以後の斉をそれまでの姜氏の斉と区別して田斉と呼びます。

 韓・魏・趙のその後の動向を見てみましょう。まず韓は、春秋時代の諸侯国である鄭への侵略を始めました。すでに晋時代に鄭の領土は晋にかなり奪われており、それを受け継いだ韓は首都を平陽から鄭への侵攻に便利な黄河南岸の宜陽に遷都します。BC375年、韓はついに鄭を滅ぼして首都を鄭の首都であった新鄭に遷しました。韓固(康子)から数えて8代目の昭侯(在位BC362年~BC333年)は法家(諸子百家の一つ)の申不害を登用し改革を進めます。昭侯の時代韓は最盛期を迎えますが、次の宣恵王(在位BC332年~BC312年)が初めて王号を称して以降、台頭してきた西方の秦の侵略に悩まされ続ける事になりました。
 次に、魏は当初安邑を中心とする河東地方が領土でしたが魏駒(桓子)の孫に当たる文侯(在位BC445年~BC396年)の時代に、韓の上党地方と趙に挟まれた太行山脈の回廊部を通って東に進出し黄河北岸の鄴(ぎょう)地方、黄河南岸の梁(現在の開封地方)を侵略します。魏の領土が歪なのはこのためです。この辺りは中原の中心地の一つで人口密集地帯でもあったので魏は瞬く間に強大化しました。魏の文侯は戦国時代最初の覇者となります。文公は、李克、呉起、楽羊(楽毅の先祖)、西門豹など優秀な人材を集め、それが富強に大きく貢献したのです。文侯の後は、息子の武侯、孫の恵王(在位BC400年~BC319年)と続きますが、初めて王号を称した恵王の時代、台頭してきた斉の威王(在位BC356年~BC320年)の前に桂陵の戦い、馬陵の戦いと相次いで敗れ、西からは秦に黄河湾曲部の東である西河地方を奪われ覇権国から転落しました。秦の圧迫を受けた魏は、大梁(現在の開封)への遷都を余儀なくされます。
 趙は、他の二国と比べると発展が遅れました。しかし最初飛び地であった邯鄲地方で領土を拡大し首都をそれまでの晋陽(山西省太原)から邯鄲に遷します。邯鄲も中原の一角で豊かな地方でしたので以後ゆるやかであっても趙は発展を続けました。趙無恤(襄子)の父趙鞅(簡子)の曾孫に当たる烈侯(在位BC408年~BC400年)の時代、BC407年魏の文侯が趙に道を借りて異民族白狄の建てた国中山を討ちます。中山国は魏の将軍楽羊に滅ぼされ魏の公子を国王とする傀儡国家となりました。楽羊の子孫も中山の宰相となり現地に残ります。その子孫から楽毅が出ました。
 趙で最初に王号を称した武霊王(在位BC326年~BC298年)は、趙無恤(襄子)から数えると8代目に当たります。ただし武霊王自体は、生前には王の資格なしとして「君」と呼ばせていました。息子の恵文王が追諡で武霊王としたのです。
 武霊王は、胡服騎射(こふくきしゃ)を支那で初めて採用した君主として有名です。それ以前の支那の兵制は複数の馬に曳かせる戦車が中心でした。乗という単位は戦車を中心として補助兵が付く100名の部隊を表します。ですから五百乗の軍と言う場合は、兵力五万を表しました。農耕民族である支那人は直接馬に乗れなかったのです。当時鐙が発明されていない事もありました。これはオリエントでも同じ状況でした。
 ところが趙は北方に位置したため、匈奴などの遊牧騎馬民族との戦争が日常茶飯事で騎馬を巧みに操る彼らに対抗できなくなります。そこで武霊王は領内に住む遊牧民族の若者を中心に採用し、戦車ではなく馬に直接騎乗して弓矢を主武器とする騎兵部隊を編成しました。服装も支那民族伝統のゆったりとしたものではなく騎乗戦闘に便利な胡服を採用します。イメージ的には現在のモンゴル人などが来ている長袖筒とズボンの服です。
 武霊王の兵制改革は、趙を一気に強大化させました。鈍重な戦車戦が中心の中原諸国では趙の軽快な騎兵部隊に対抗できなかったのです。武霊王はその勢いを持って隣国中山国を侵略します。中山国は将軍楽毅を中心に頑強に抵抗しますがBC296年完全に滅ぼされました。
 ただ胡服騎射は趙の群臣からは内心歓迎されませんでした。支那の伝統的考え方としては服装が文明を表し、遊牧民の服装である胡服など言語道断だったからです。武霊王は国内の不満を武力で抑えつけます。その後武霊王は秦の後継者問題に介入したり斉や魏を圧迫したりして、このままいけば趙の天下統一は時間の問題だと思われました。

 ところで武霊王が武王ではなく諡号に『霊』が付いたのは後継者問題で失敗したからです。当初武霊王は正室の産んだ公子章を太子としていました。ところが晩年愛妾の産んだ公子何を溺愛し章を廃嫡し何を太子としたのです。BC298年にはその公子何に譲位し自らは『主父』と呼ばせました。何は恵文王(在位BC310年~BC266年)となります。ただ、公子章も憐れみ国を分け北方の代を譲ろうと考えました。
 これを見た公子章は、「もしかしたら自分が弟恵文王を殺しても父は許してくれるのではないか?」と思います。あるとき主父(武霊王)と恵文王は黄河北岸沙丘の離宮に行幸しました。これを絶好の機会と捉えた公子章は反乱を起こして沙丘を包囲します。邯鄲で留守を守っていた公子成と李兌は急報を受け善後策を講じました。

 相談の結果、まず名目上ではあっても現在は王である恵文王を救うのが最優先であると結論します。二人は軍を率いて沙丘に急行し公子章の反乱軍を撃破し恵文王を救い出しました。敗れた公子章はあろうことか主父のいる離宮に逃げ込みます。哀れに思った主父はこれを匿いました。

 公子成と李兌は、公子章のいる宮殿に攻め込みこれを殺します。ところが二人はこのまま兵を引けば主父に誅殺されるのではないかと恐れます。まさか攻め滅ぼすこともできませんから、主父の居る宮殿を遠巻きに包囲しました。そのまま三カ月が過ぎ宮殿内では食料が尽きます。主父は、ついに餓死しました。これが武王ではなく武霊王と諡(おくりな)された理由です。

 ただ、趙は武霊王の胡服騎射の改革のおかげで戦国時代を通じて強国の地位を保ちます。急速に台頭した西方の秦も、この趙との戦いが天下統一の天王山となりました。恵文王の時代は、廉頗(れんぱ)、藺相如(りんしょうじょ)、趙奢(ちょうしゃ)など多くの名臣を輩出し秦とよく対抗します。
 趙と秦の軍事バランスが崩れたのは、BC260年の長平の戦いに趙が敗れたからです。その前に我々は、燕の昭王の改革と楽毅と田単の死闘を見なければなりません。次回、「楽毅と田単」について記します。

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