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2016年7月

2016年7月 1日 (金)

信濃の南北朝Ⅴ  信濃南北朝の終焉

 室町幕府の信濃守護小笠原氏は、本拠府中のある筑摩郡の他に伊那郡にかけて所領が分散していました。その他善光平の旧北条得宗領、国衙領を接収し佐久郡には一族の大井氏、伴野氏が勢力を張ります。守護方の有力武将村上氏や高梨氏、市河氏はほぼ川中島四郡(高井、水内、更級、埴科)が勢力範囲ですから、守護方は北信濃をほぼ制圧し、中信濃は松本平を中心とする筑摩郡、佐久地方の一部、南信濃伊那地方の一部を支配していた事になります。戦国時代の信濃の石高を40万石とすると、ざっとそのうち6割近く24万石位は掌握していたと思います。
 ですから宮方はどんなに頑張っても16万石、守護方の勢力を打ち砕かなければ劣勢のままでした。宮方の力が比較的強い諏訪郡、小県郡は石高が少なく、宮方で一番石高が多かったと推定される伊那郡にも小笠原領が散在していたからです。山がちの安曇郡に関しては言わずもがなでした。
 南朝勢力がどうして信濃に集まってきたかですが、東海地方、北陸地方で北朝勢力が強くなって活動できなくなってきたからです。まず東海地方では尾張国に尊氏の側近高師泰が守護として赴任します。後に尾張は足利一門でもっとも家格の高い斯波氏が入部し守護職を独占しました。駿河は、これも足利一門今川氏の牙城で守護として支配を固めます。三河は最初安定しませんでしたが仁木氏が守護となりました。
 遠江の有力な南朝方、井伊氏はあまりにも小さく宗良親王を擁して挙兵したものの高師泰、仁木義長の軍勢に攻められ南朝方は隣国信濃に逃げ込まざるを得なくなります。そして遠江国を最終的に掌握したのは今川氏でした。
 北陸に目を転じると、最初新田義貞が越後守護となった事から北朝方は勢力を伸ばせない状況でした。ところが、新田氏の本拠上野国を制圧した鎌倉府執事上杉憲顕が越後に攻め込み形勢が逆転します。憲顕は越後守護も兼任し越後国内の新田一族の活動を抑え込みました。越中もまた足利一族の桃井直常が抑え守護になります。その他、美濃、飛騨も信濃と接しますが、これらは国境が峻嶮な山岳地帯で連絡は困難でした。
 信濃の周囲はことごとく北朝方が制圧し、このままでは南朝方は座して滅ぶしかなかったと思います。しかし1349年北朝の中で足利尊氏と弟直義の路線対立が深刻化し両者が争うという、所謂観応の掾乱が起こると状況は一変しました。尊氏は側近高師直を重用し、足利一族を蔑ろにしたために不満が高まっていたのです。
 直義は、上杉氏や桃井氏ら有力武将の支持を受けその勢いは兄尊氏と高師直の勢力を圧倒しました。宗良親王の信濃入りで南朝に帰順していた中先代党の中では、どうも直義方の旗色が良さそうだと見て寝返る者が出始めました。その代表が諏訪直頼でした。直頼は、諏訪氏惣領頼重、時継父子が鎌倉で自刃し、家督を継いだ時継の子頼継が幼少だったため、諏訪氏の実権を握った叔父(頼重の弟?)だとされます。ただし異説が多くはっきりしません。
 諏訪直頼は早くも1349年には、直義派として北信濃で守護小笠原政長(貞宗の子、1319年~1365年)と戦っています。勝ち馬に乗れとばかり宮方も直義派と共闘し、小笠原氏は一時窮地に立たされました。が、観応の掾乱は京都と鎌倉を中心に戦われ、信濃に本格介入する余裕はなかったため守護方が次第に盛り返します。
 観応の掾乱は、1352年足利直義が兄尊氏に鎌倉で毒殺された事で終わります。残党の蜂起はその後も続きますが大勢は主将直義の死を持って決したと言えるでしょう。宗良親王は、じり貧を避けるために守護方との一大決戦を覚悟しました。
 1355年親王の呼び掛けで信濃や周辺諸国の宮方が結集します。直義派残党もこれに加わりました。宮方の主力は諏訪氏、仁科氏です。信濃騒乱の元凶とも言うべき中先代北条時行は、1353年足利方に捕えられ鎌倉龍ノ口で処刑されていました。
 信濃守護小笠原長基(政長の子)は、村上、高梨、市河ら諸将を集め8月桔梗ヶ原(塩尻市)で宮方と激突します。宮方にとっては乾坤一擲、負けられない戦いでした。ところが劣勢は覆らず宮方は壊滅的打撃を受けます。これが信濃南朝最後の輝きでした。以後、信濃の宮方は急速に瓦解します。4年後の1359年将軍足利義詮が河内で南朝方に大攻勢をかけた時、幕府軍中にかつての宮方諏訪直頼、祢津行貞が加わっていた事でも分かります。信濃の国衆は上手く立ち回り、本領安堵を条件に次々と守護方に帰順していたのです。
 哀れなのは宗良親王でした。伊那郡の一地方勢力に落ちぶれながらも頑強に抵抗を続け1373年まで大河原を拠点に活動を続けます。その最期もはっきりしません。1374年関東管領上杉朝房の攻撃を受け信濃を退去、吉野に戻って亡くなったとも、再び遠江国井伊谷に戻って薨去したとも云われます。多くの宮方の武将が離反する中、最後まで井伊氏は南朝への忠誠を貫いたのでしょう。一方再び大河原に戻り、諏訪へ向かう峠道で討死したという説もあります。
 こうして信濃の南北朝時代は終わりました。中央において南北朝合一がなされたのは1392年。幕府は三代将軍義満の時代でした。形の上で信濃統一を果たした守護小笠原氏ですが、中先代党、宮方は帰順したものの潜在的敵だったため心から心服せず支配が安定しませんでした。そして1400年大塔合戦の失敗で、小笠原氏の信濃一円支配が崩壊します。
 信濃国は、統一勢力を欠いたまま戦国時代に突入することとなりました。この国の地勢、南北朝の戦いが原因でしたが、北条時行の信濃入りから始まる長い戦乱を考えると感慨深いものがあります。
                                (完)

信濃の南北朝Ⅳ  宗良親王の信濃入り

 信濃における南北朝の争いは、結局守護小笠原氏方と中先代党の争いに過ぎませんでした。中先代党の主要な勢力をあげると、その中心は諏訪上社の諏訪氏、諏訪下社の金刺氏です。佐久・小県郡の滋野氏族である海野、祢津、望月の各氏。伊那郡では北部に知久、藤沢ら諏訪一族、南部に香坂氏が居ました。北西部山岳地帯の安曇郡には仁科氏がおり、信濃から越後糸魚川に抜ける要路糸魚川道を押さえます。
 北朝方は、守護小笠原氏を中心に佐久郡に広がる小笠原一族である伴野、大井氏。外様では埴科郡の村上氏、高井郡北部を中心に水内(みのち)郡に及ぶ高梨氏、更級郡の市河氏らが有力勢力でした。
 1336年2月、十日市場の合戦で中先代党の勢力は潰えたかに見えました。ところが諏訪氏など古来からの伝統を誇る一族が多く一朝一夕で滅ぶような勢力ではない事は理解できると思います。一時的には本拠を追われても匿う一族は多かったし、何よりも信濃は山岳地帯で隠れる場所に事欠きませんでした。
 信濃における南北朝時代突入を語る前に、中先代の当主である北条時行の動向を語らねばなりますまい。1335年7月鎌倉を落とされ逃亡した時行は、関東や東海地方を転々として再起の機会をうかがっていたようです。諏訪頼重ら中先代党の主だった武将は鎌倉陥落時ことごとく自刃して果てます。その数四十余名だったと伝えられました。彼らの遺骸は全員顔の皮を剥ぎとってあり誰が誰か分からなかったそうです。そのため時行もこの時死んだと判断され追及されなかったのが幸いしました。
 とはいえ、すでに時代は足利尊氏の武家方と後醍醐天皇の宮方の対立南北朝時代に移行しており北条時行の存在は過去の遺物になります。旧北条方の諸豪族も時行に同情はするものの挙兵に対しては同意しませんでした。勝ち目がほとんどないからです。絶望的な状況の時行に運命の女神がほほ笑んだのは奥州の北畠顕家が尊氏を追って上洛軍を率いて南下した事です。
 時行は旧怨を捨てて南朝に帰順、北畠軍に加わります。時行は上洛し後醍醐天皇に拝謁、父北条高時に対する朝敵恩赦の綸旨を受けました。後に時行の後裔を自称する横井小楠も「この上ない親孝行である」と評したそうです。ところが時行の運は長く続きませんでした。肝心の北畠顕家が1338年6月和泉国石津の戦いで討死してしまうのです。顕家の戦死で北畠軍は四散します。時行は再び行方を晦ましました。
 ただ時行健在の報は信濃にも伝えられ、逼塞していた中先代党を喜ばせます。足利尊氏は持明院統の光厳上皇を奉じ後醍醐天皇の南朝に対し北朝方となりました。九州から大軍を持って上洛し、南朝勢力を大和国吉野に追います。南朝方有力武将は1336年7月兵庫湊川の合戦で楠木正成戦死、新田義貞も1338年8月越前藤島で討死しました。北畠顕家も石津で亡くなっていますから、南朝側は劣勢に立たされます。
 南朝方は全国的に追い詰められつつあり、それを打開するために各地に後醍醐天皇の皇子を派遣しました。有名なのは九州の征西将軍宮懐良親王ですが、宗良親王もその一人でした。最初宗良親王は義良親王(後の後村上天皇)と共に1338年北畠親房に雍されて陸奥国府(当時の南朝の国府は伊達郡霊山にあった)へ赴くべく伊勢大湊を出港します。
 ところが暴風雨に遭い、義良親王は伊勢に吹き戻され吉野に戻りました。宗良親王は遠江国(静岡県西部)に漂着し、地元の豪族井伊谷の豪族井伊道政のところに身を寄せます。井伊氏の力は弱く1340年足利方の高師泰、仁木義長らの軍勢に攻められ井伊谷城は落城しました。宗良親王は、遠江を追われ越後寺泊や越中放生津(射水市)などを転々としたそうです。
 1344年信濃国伊那郡の豪族香坂高宗は宗良親王を招き大河原(長野県大鹿村)に置きました。大河原は赤石山脈の谷深いところにあり周囲を峻嶮な山々に囲まれた天然の要害です。以後宗良親王は、大河原を拠点とし1373年まで30年間活動します。そのため宗良親王を信濃宮とも呼びました。
 中先代党は、続々と宗良親王に帰順します。要するに守護小笠原氏の敵であれば誰でも良かったのです。守護権力を抑え自分たち国人領主の勢力を拡大する事が第一目的で、主義主張は二の次でした。さらに状況を複雑にしたのは武家方で足利尊氏と弟直義の対立が深刻化したことでした。三つ巴の情勢の中で、中先代党は複雑な動きをします。諏訪直頼などは一早く直義に誼を通じました。
 信濃の戦運は動き始めます。宗良親王はどのような戦いをするのでしょうか?次回最終章、桔梗ヶ原の合戦と信濃南北朝の終焉を描きます。

信濃の南北朝Ⅲ  中先代余波

 時代は足利尊氏率いる武家方と後醍醐天皇率いる宮方の対立、所謂南北朝時代に突入していました。一方、信濃は相変わらず旧時代の遺物ともいうべき中先代北条時行の残党である中先代党と信濃守護小笠原氏との血みどろの戦いが続きます。
 信濃がなぜ時代のエアポケットのような状況に陥ったかですが、京都と鎌倉の間にある街道の関係ではなかったかと思います。南北朝の戦乱は主に東海道を巡って争われました。というのも東海道の途中にある三河国(現在の愛知県東部)は鎌倉時代を通じて足利氏が守護職を占め勢力を扶植していたからです。足利氏が上洛する時はまず三河で態勢を整えましたし、宮方も背後を足利勢に襲われるのを避けるため最初に三河を抑えたのです。
 北国街道を擁する北陸道も東海道に次ぐ南北朝の主要な戦場ですが、これは足利氏に対抗しうる新田氏の本拠が上野国(群馬県)にあり隣国越後(新潟県)は新田氏の守護領国だったからです。実際新田氏は、関東の戦闘で敗れると越後に逃げ込んで勢力を回復しました。新田一族も上野から越後にかけて広がっています。
 信濃は中山道が通っていますが、武家方も宮方も東海道と北陸道の戦闘で手一杯だったため信濃まで戦域を拡大する余裕が無かったというのが実情でした。これが中先代党の活動を容易にしました。信濃守護小笠原氏はそれほど強力な支配体制を布いておらず、武家方の支援もなく孤立無援だったために舐められていたのかもしれません。
 鎌倉を落とされた中先代党の残党は次々と信濃に逃げ込みます。反乱軍の主力の一角滋野一族も健在でした。1335年9月、薩摩刑部左衛門入道が埴科郡坂木北条で蜂起したのが戦争の勃発になります。鎮圧に向かったのは守護方の北信濃における軍事担当者信州惣大将村上信貞です。蜂起自体は大した規模ではなく簡単に鎮圧されました。
 信濃村上氏は清和源氏源頼信流で埴科郡を本拠とする国人領主です。ややこしいのは同じ信濃に源満快流村上氏が居る事で、こちらは後に徳川家臣夏目氏になりました。余談を続けると頼信流村上氏の庶流が水軍で有名な伊予村上氏です。村上氏は鎌倉時代には一応御家人だったと思われますが、目立った存在ではありませんでした。ところが南北朝期に急速に勃興し戦国時代には本拠埴科郡はもとより更級郡、高井郡、小県郡に勢力を伸ばし北信の雄として信濃守護小笠原氏に匹敵する大勢力になります。
 南北朝期に成長した豪族と言えば、陸奥伊達氏が代表格ですが信濃では村上氏がその筆頭でした。薩摩刑部左衛門入道の挙兵を皮切りに小県、佐久、安曇、筑摩、諏訪、伊那という北信の川中島四郡を除く信濃中南部のすべての郡で中先代党が蜂起しました。守護小笠原貞宗は、これらの反乱を鎮圧するため東奔西走します。一つ一つの反乱は小さくても、各地で同時多発テロ的に動かれては対処のしようもありません。貞宗は守護方の村上氏、市河氏らと力を合わせ苦労を重ねながらもほぼ鎮圧に成功というところまで来ました。

 ところが翌1336年2月、京で建武新政府転覆に失敗し逃亡していた北条泰家が信濃に流れ着き府中(松本市)付近で挙兵したのです。これには府中の有力在庁官人深志介知光の協力があったと言われます。在庁官人とは国府の役人ですから、もしかしたらこの頃中先代党と宮方は通じていたのかもしれません。北条泰家は守護方に攻め込まれ逼塞していた中先代党を糾合し守護小笠原氏と決戦すべく北進します。

 急報を受けた小笠原貞宗率いる守護方は、筑摩郡麻績(おみ)御厨の十日市場で迎え撃ちました。十日市場の合戦は信濃の天王山とも言うべき戦いでした。守護方も中先代党も負ければ後が無いという厳しい現実がありました。そして数で勝る守護方が勝利します。敗北した中先代党は散り散りになって潰走しました。北条泰家はこの時戦死したとも、脱出には成功したものの後に野盗に殺されたとも言われます。

 こうして北条時行の諏訪挙兵から始まる中先代の乱は終焉を迎えました。以後信濃の中先代党は活動を止めますが決して滅亡したわけではありませんでした。それが分かるのは後醍醐天皇の皇子宗良親王が信濃入りした時中先代党が宮方として再び登場するからです。

 次回は、大草の宮宗良親王の信濃入りと南北朝の戦いを描きます。

信濃の南北朝Ⅱ  中先代の乱

 小笠原氏は加賀美遠光の次男長清が甲斐国巨摩郡小笠原村に拠ったことから小笠原を称したのが始まりだと言われます。ちなみに同じ遠光の子で長清の弟に当たる光行は陸奥南部氏の祖です。長清は承久の乱で功をあげ阿波守護となりますが、本拠信濃の守護職は北条氏が独占しました。とはいうものの、信濃各地の荘園の地頭職を獲得し着実に勢力を扶植します。
 一方、古代からの宗教の聖地諏訪大社の大祝(おおはふり)から武士団化した諏訪氏は北条得宗家と結びつきます。諏訪氏は得宗家の御内人(家臣)となり大きな力を得ました。鎌倉時代の両者の力関係は互角というより諏訪氏の方が優位を保っていたと思われます。御内人と言えば内管領長崎氏が有名ですが、諏訪氏もまた鎌倉の北条得宗家に近侍し他の御家人を圧倒しました。
 そんな力関係が逆転したのは、鎌倉幕府の滅亡です。後醍醐天皇の新政(建武の新政)が始まったものの、武士団の輿望は河内源氏の嫡流足利尊氏に集まりました。小笠原宗長、貞宗父子は最初北条氏に従い笠置山攻めに従軍します。笠置山は落城し後醍醐天皇は隠岐に流されますが、秘かに脱出し再び討幕の兵を挙げました。これに呼応した足利尊氏(当時は高氏)は、同じ源氏の有力者小笠原宗長にも協力を要請します。最初は迷った宗長ですが、尊氏の要請を容れ宮方に転じました。
 これが功を奏し、宗長の嫡男貞宗(1292年~1347年)は1335年建武政権から信濃守護職に任ぜられます。小笠原氏誕生以来の悲願です。貞宗は領地のある埴科郡船山に守護所を設け本格的な信濃支配に乗り出しました。北条氏所縁の諏訪氏らは、逆に立場が危うくなります。
 話は、1333年5月の北条氏滅亡時に遡ります。新田義貞に攻められ北条氏一族は鎌倉葛西ケ谷東勝寺で自刃しました。炎上する中、北条氏最後の当主高時は側近諏訪頼重に遺児亀寿丸を託します。敵の重包囲の中辛くも脱出した頼重は、亀寿丸を本拠諏訪に迎え匿いました。亀寿丸は頼重の下で元服し北条時行(?~1353年)と名乗ります。諏訪氏を中心とする神党は、信濃守護小笠原氏から冷遇されました。その恨みもあって虎視眈々と挙兵の時を待ちます。
 最初は小さな事件から始まりました。奥信濃の常岩(ときいわ)牧で1335年3月反乱が起こります。首謀者は不明ですが常岩弥六宗家の系統だと言われます。守護方の市河助房は軍勢を出して鎮圧しました。小笠原氏は当時守護所を船山に設けていましたが、善光寺に近く国府のあった府中(松本市)と共に信濃の政治的中心地の一つでした。というのも善光寺には国衙領が多く在庁機構『後庁』があったからです。船山は善光寺から府中に向かう道筋であるとともに、上田平から碓氷峠、上野国に至る街道の分岐点に当たる交通の要衝でした。
 同じころ、府中でも北条氏の残党が蜂起します。これも小笠原氏の軍勢に鎮圧されますが、信濃は次第に騒がしくなりました。当時の信濃は守護小笠原貞宗を中心に北信濃を村上信貞が信州惣大将として軍事面で押さえ、同じく北信濃の有力豪族高梨経頼がこれを補佐していました。
 1335年6月、北条氏に近かった公卿西園寺公宗(きんむね)を中心とする建武政権転覆計画が発覚します。公宗は北条高時の弟泰家を匿っていました。信濃の時行と呼応して挙兵する計画だったようです。西園寺公宗は捕えられ誅殺されます。泰家は脱出し各地で鎌倉幕府再興を唱え北条方残党の挙兵を促しました。
 建武政権転覆計画が失敗した事で、1335年7月北条時行は諏訪で挙兵します。といっても時行はどんなに年齢を考慮しても当時十代前半(下手したら十歳未満)だったはずで、時行を担いだ諏訪頼重らの挙兵というのが実情でした。時行が挙兵すると、保科氏ら北条家所縁の武士たちが次々と呼応します。保科氏らは神党の力を結集し守護方に挑みました。守護小笠原貞宗は、村上、市河氏らを率い北信濃で戦い小四宮河原、四宮河原、八幡河原と転戦し反乱軍を北方に追い落としました。22日村上河原で守護方が勝利し北信濃の反乱は一応鎮圧されます。
 ところが、この頃北条時行、諏訪頼重らの本隊は諏訪を北上し府中に迫っていました。守護方は信濃各地で起こる反乱に対応するため府中を空にしていたため、府中は簡単に陥落します。守っていた国司博士左近少将入道(名前不明)は自害したそうです。
 これが中先代の乱です。中先代とは先代の北条氏と後代の足利氏の間という事で中先代と呼びました。守護方は北信濃の反乱で釘付けになっており中先代軍主力と戦うことはできませんでした。反乱軍は滋野一族を守護方の抑えで信濃に残し、主力を持って上州に討ち入ります。すると、建武政権に不満を抱いていた旧北条方が数多く参加したちまち数万の大軍に膨れ上がりました。
 当時鎌倉には尊氏の弟直義がいましたが、、武蔵における迎撃戦で大敗し7月25日ついに鎌倉は陥落します。北条時行は再び鎌倉の主人になったのです。ところが新政権側は足利尊氏を征東将軍として関東に派遣。直義軍と合流し巻き返しを図ります。勢いで鎌倉を落としたものの、その後のビジョンが全くなかった中先代軍は足利軍に敗北、わずか20数日で叩き出されました。
 時行は危機を脱しましたが、諏訪頼重、頼継父子ら反乱の首謀者たちは鎌倉大御堂で自害し、中先代の乱は終わります。足利尊氏は、関東に赴く時後醍醐天皇に征夷大将軍職を望みました。ところが尊氏を警戒する天皇はこれを拒否、そのため尊氏は中先代を鎮圧しても帰還せず鎌倉で自立の構えを見せました。実質的にこれが南北朝時代の始まりです。
 宮方は尊氏追討軍を派遣しますが、逆に大敗し尊氏はこれを追って上洛しました。しかし陸奥の鎮守府将軍北畠顕家が奥州勢を率いて京都に入ったため、敗れた尊氏は九州に逃れます。そして九州の地で力を蓄え再び大軍を率いて京都に帰還するのです。
 その頃信濃国の状況はどうだったでしょうか?実は信濃では中央の情勢とはまったく関係なく守護小笠原氏と中先代残党との戦いが続いていました。次回、中先代余波を記します。

信濃の南北朝Ⅰ  鎌倉時代の信濃

 信濃国、現在の長野県は本州中央部に位置し二千メートル級の山岳が連なる山国です。人々は善光寺平、松本平、上田平などいくつかの盆地に集住し交通網の発達する以前には一国としてのまとまりに欠く状況でした。中世この国に盤踞した信濃守護小笠原氏ですが、本拠府中(松本市)のある筑摩郡、伊那郡など信濃の中部から南部にかけてしか支配権を確立できず、北信に村上氏、高梨氏、安曇郡には仁科氏、諏訪地方は古代からの聖地諏訪大社の大祝(おおはふり)から武士団化した諏訪氏など有力豪族がひしめいていたのです。
 諸豪族分立状態が続いた信濃は、混乱状態を続けたまま戦国時代に突入します。では小笠原氏に信濃統一のチャンスはなかったのでしょうか?実は何度か小笠原氏は信濃一円支配に成功しているのです。しかしその時々の関東や中央の幕府の状況に翻弄され短期間で覆される連続でした。南北朝時代の信濃は、その数少ないチャンスの一つだったと言えます。本シリーズでは、信濃がどのように混乱し戦国時代に突入していったか、中先代の乱と宗良(むねなが、むねよし)親王の活躍を軸に描こうと思います。
 第一回は信濃がどのように南北朝時代に突入していったかその前史を描きます。その前に信濃と重要な関わりを持つ甲斐国(山梨県)、特に甲斐源氏の歴史を記しましょう。甲斐源氏とは河内源氏の嫡流八幡太郎義家の弟新羅三郎義光に始まる一族です。義光の曾孫の時代に武田信義、加賀美遠光、安田義定という有力な兄弟がでました。この世代が頼朝の鎌倉幕府創設時代に当たります。
 甲斐源氏は、富士川の合戦で頼朝に味方し北方から平家軍を攻め勝利に貢献しました。その後も数々の合戦で武勲を上げ嫡男信義は本拠甲斐守護、弟の加賀美遠光は信濃守、安田義定も遠江守護を拝命します。ところが頼朝は、自分のライバルになりえる源氏一族を生かすつもりはありませんでした。最初は同じ新羅三郎義光流の常陸源氏佐竹秀義を討ちます。佐竹氏はのち許されるも一御家人に落とされ鎌倉時代は不遇でした。甲斐源氏に対しては、武田信義に後白河法皇から頼朝討滅の密勅を受けたという嫌疑をかけ、信義が無実を訴えたものの、信義がもっとも期待していた長男一条忠頼を些細な罪で誅殺しました。
 次に、従五位下遠江守、遠江守護という朝廷と幕府の要職を独占し甲斐源氏で最も栄えていた安田義定が頼朝の標的となります。些細な罪で義定の長男義資を殺すと、父義定にも連座の罪を問い反逆者として安田一族を攻め滅ぼすのです。猜疑心の強い頼朝の鎌倉幕府防衛策だったのでしょうが、巻き添えを食らった源氏一族は悲惨でした。
 武田一族では、信義の四男信光が頼朝の側近だった事から可愛がられ信光の子孫が武田家嫡流となりました。
その他、同じ新羅三郎義光流の佐久源氏平賀氏も朝雅が北条一族の内紛に巻き込まれ殺されています。頼朝の巧妙なところは、一族全部を滅ぼすのでなく一部だけを優遇し内部分裂を図ったところです。新田足利の関係も頼朝の巧妙な一族分裂策だったと思います。武田信義は、息子や兄弟たちが次々と頼朝に粛清されて行く姿を見て衝撃を受け病を得て寂しく亡くなります。
 加賀美遠光は、頼朝によって信濃守に就任しますが信濃守護にはなれませんでした。その信濃守でさえ現地に赴任できず、目代(国司の現地における代官)には頼朝の重臣比企能員(よしかず)が補されます。そして信濃守護になったのはこの比企能員でした。名目上遠光を祭り上げ、信濃の実権は頼朝直系の比企氏が握ったのです。頼朝が甲斐源氏を信用していなかった何よりの証拠です。

 信濃国は、頼朝に敵対した木曽義仲の本拠地で義仲所縁の豪族も多かったため甲斐源氏の支配に任せるとこれらの不満分子と組んで幕府に反抗する可能性を恐れたのでしょう。加賀美遠光は小笠原氏の祖となりますが、鎌倉時代を通して小笠原氏は不遇でした。ただ承久の乱で武功を上げた事から、小笠原氏は四国阿波の守護職を得ます。阿波に渡った小笠原一族は三好氏(戦国時代の三好長慶で有名)を称しました。ですから信濃小笠原氏と阿波三好氏は同族なのです。

 1203年比企能員が幕府内の権力争いに敗れ北条時政に暗殺されると、信濃守護には時政の嫡男義時が任命されます。それだけ信濃は重要な土地だったのでしょう。義時は、小笠原氏の頭越しに信濃の有力豪族諏訪氏、滋野一族ら神党(諏訪氏を中心とし諏訪大社の氏子で構成された血縁、地縁のある武士団)を従え北条得宗家(執権義時の子孫で北条氏嫡流)の被官化します。諏訪氏にとっても幕府の主権者である北条得宗家と結びつく事は得策で、両者の利害が一致したのでしょう。

 信濃は、鎌倉時代を通じて北条得宗家の権力基盤であり続けます。そんな信濃の豪族たちにとって青天の霹靂だったのは1333年鎌倉幕府の滅亡でした。そしてその余波は信濃にも波及します。次回、信濃国を大混乱に陥らせた中先代の乱を描きましょう。

馬日本伝来の謎

 最近、『山梨県の歴史』(山川出版)を読んでいるんですが、その中に前期古墳(4世紀)に馬具の出土が無く、中期古墳(5世紀)でぼつぼつ馬具が出土し始め後期古墳(6世紀以降)になって馬具の副葬品が一般化したという記述がありました。
 この事から、馬が日本に伝来したのは4世紀末前後であろう事が推定されます。同時に、江上波夫氏の『騎馬民族征服説』が成立しない事も明らかになります。実は私、高校時代に江上氏の『騎馬民族王朝』を読んで衝撃を受けて以来長い間騎馬民族征服説を支持していたのですが、自分で調べていくうちにかなり苦しい理論だと理解するようになりました。というのもこのころすでに大和王朝は成立しており、半島へ出兵をするくらいだったからです。
 普通に考えれば、大和朝廷が半島出兵した時騎馬戦術とその技術を学び日本に導入したと理解するのが自然です。それは騎馬遊牧民族だったツングース系扶余族(百済の支配民族も扶余族)かもしれないし半島にもともと居住していた和人で騎馬技術を学んだ者を日本に連れ帰ったのかもしれません。どちらにしろ日本の国体を変えるほどの数(民族単位ごと、少なくとも万単位)ではなく、技術者として数百から多くても数千の範囲に収まっただろうと思います。
 ただ誤解してもらいたくないんですが、江上氏の東洋史学者(特に遊牧民族研究)としての功績は尊敬していますし、彼の著書『北アジア史』『中央アジア史』は私のバイブルとも言えるほど評価しています。
 話を戻すと、これまでの過去記事の考察で稲作伝播の過程で古代海洋民族だった縄文人が半島南部にも居住し、馬と騎乗の技術は半島でそれを学んだ彼らか扶余族がもたらしたということです。ただ大和朝廷が半島に出兵したというのは間違いで、そもそも日本領だった半島南部にも軍を置いていたというのが実情でしょう。おそらく日本から連れてきた兵士と半島の和人から徴兵した兵士が半々くらいはいたと想像しています。大和朝廷が半島南部の領地に国司を派遣した記述もありますし、半島南部で見つかっている日本式前方後円墳は彼らの墓だろうと思います。韓国の学者は火病して否定してますがね(苦笑)。
 ところで皆さんは、関東から東北、北海道にかけて蝦夷(えぞ、えみし)と呼ばれる異民族がいて大和朝廷に抵抗した歴史を御存じでしょう。彼らを縄文人の末裔とするかもともと住んでいた古モンゴロイドの異民族とするか私はこの方面の知識が疎いので何とも言えませんが、アテルイ(阿弖流爲)の乱など彼らの抵抗の歴史を調べると、蝦夷が巧みに騎馬を操っている事に気づかれると思います。
 馬は軍事上重要ですので、もし大和朝廷が半島から導入したのならそれを独占し、異民族である蝦夷への流出は極力控えるはずだと考えました。少数が流出するのは仕方ないにしてもこれから征服する勢力が馬を持つと、朝廷軍が苦戦するからです。が、現実には蝦夷の方が馬の数が多く巧みに操って朝廷軍を翻弄します。どういう事か考えたんですが、これ以降は何ら考古学的裏付けはなく単なる私の想像だと思って読み進めてください。
 半島伝播の馬の他に、東北に直接馬がもたらされたのではないかという考察です。調べてみると東北大学教授高橋富雄氏も北方伝来説を唱えておられるそうです。私は、古代史に出てくる粛慎(しゅくしん、みしはせ)という異民族が鍵ではないかと睨んでいます。粛慎は日本では謎の民族だと言われますが、北海道を中心に東北にも来たらしく、阿倍比羅夫とも戦っています。
 支那の文献にも粛慎は登場し、これらの情報を総合するとツングース系の狩猟民族で同時に海洋民族だったと思われます。ところでツングース民族と言えば扶余族に代表される通り騎馬民族としても有名で粛慎も騎馬の技術があっただろう事は容易に想像できます。この粛慎が東北地方に馬をもたらし蝦夷がそれを活用したのではないでしょうか。関東や東北に有力な牧がいくつもあった事でも分かりますし、東北が名馬の産地だったのはもともと馬の育成が盛んな土地だったからでしょう。

 問題は、古代の船で500kgはあるであろう馬を運べたかという事です。調べたところ、日本列島にはBC3000年頃から丸木舟があったそうなのです。縄文人自体も海洋民族だったと言われます。丸木舟ではさすがに無理っぽいですが、丸木舟を何艘か並べその上に舷側板を乗せて一種の大型筏(いかだ)にする技術があったそうなのです。これだと何頭も馬を運べますし、遠洋航海もできますね。

 粛慎の故地は現在の沿海州から満洲東部にかけて。そこから大型筏で北海道や東北に達したのでしょう。あるいは、沿海州から樺太、北海道というルートなら海を長く渡る必要もありませんしより現実的です。粛慎と交易する過程で蝦夷も馬を取り入れたのでしょう。ということで、馬は半島経由のほかに東北にも直接大陸から渡ってきたと私は結論付けますが、皆さんはどう思われますか?

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