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2016年8月

2016年8月 1日 (月)

後漢帝国Ⅶ  黄巾の乱と帝国滅亡

 古代支那の言い伝えで時の王や皇帝が悪い政治をすると天がこれを戒めるために天変地異を起こすとされます。すなわち天災です。後漢末期、外戚と宦官の争いで国政が乱れていたさ中、天候不順や蝗の大発生、大規模な水害などで飢饉が起こり国民生活は疲弊しました。不満を持った者たちは、反乱を起こして悪徳政府と対決します。そもそも後漢政府が良い政治をしていたらここまで大規模な反乱は起こらなかったでしょう。しかし権力に酔う醜い者どもにはその当たり前の事が分かりませんでした。
 後漢帝国に止めを刺したのは黄巾の乱だと言われます。後漢第12代霊帝(在位168年~189年)の時代、冀州鉅鹿郡に張角という者がいました。三国志演義では科挙に合格していない事で国に不満を抱く者として登場しますが、前に書いた通りこの時代には科挙制度はありませんから実態は分かりません。郷挙里選にはその土地の有力者の子弟しか選ばれませんから、庶民であればもともと官僚になどなれるはずありません。
 ただ張角が、太平道という道教の一派を開いた事は間違いありません。病気治癒などの現世利益で信者を獲得した張角は、次第に先鋭化し政治色を強めました。数十万の信者を得た張角は、ガタガタの後漢政府を倒し自分が新たな王朝を開くという野望に取り憑かれます。太平道は河北から山東、河南、安徽、湖北に拡大し農民はもとより政権に不満を抱く地方の豪族まで巻き込みました。
 189年、太平道はついに挙兵します。「蒼天已死 黃天當立 歲在甲子 天下大吉」(蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在りて、天下大吉)のスローガンはあまりにも有名です。当時権力を握っていた十常侍は宦官で軍を指揮できず(意志もなく能力もない)、結局は地方の豪族の力を頼らざるを得ませんでした。
 三国志で馴染みの皇甫嵩や朱儁、そしてもと清流派官僚の盧植らが将軍として鎮圧に当たりますが、実際に活躍したのは有力豪族出身で中央の少壮官僚になっていた曹操、江東の豪族出身孫堅らです。反乱は張角が病死した事により尻すぼみになり最後は南陽で残党が討滅された事により治まりました。
 霊帝は、黄巾の乱鎮圧直後亡くなります。十常侍は皇帝に本当の事を報告せず酒色におぼれさせていたそうですから、霊帝も考えてみれば哀れな皇帝です。霊帝の皇后何皇后の兄何進は大将軍となって権力を握ろうとしますが何皇后の生んだ弁皇子を皇帝にしようとして十常侍と対立、暗殺されました。何進の腹心だった袁紹は激怒して宮中に攻め入り十常侍を皆殺しにします。この辺りは三国志演義で詳しいので簡単に経過を述べるにとどめます。
 ところがこの混乱のさ中、何進の呼びかけで都に来ていた涼州牧董卓は皇位継承の資格を持つ側室王美人の生んだ協皇子を手中に収めました。董卓は軍事力を背景に都を制圧、即位していた少帝(弁皇子)をその母何皇后と共に暗殺、協皇子を即位させます。すなわち後漢最後の皇帝献帝(在位189年~220年)です。董卓は太尉・領前将軍事に就任し郿侯に封じられます。その後相国という非常設の最高官に昇った董卓は献帝を傀儡にして我が世の春を謳歌しました。これも形を変えた外戚政治に他なりません。ただ、大義名分のない権力掌握は諸国の豪族の反発を受け、間もなく反董卓連合軍が結成されます。
 洛陽を追われた董卓は長安に遷都しますが、そこで内紛に遭い殺されました。その献帝を最後に保護したのは山東地方に地盤を築いていた曹操です。これも三国志演義に詳しいので詳細は避けますが献帝は大将軍・録尚書事(演技では丞相とされるが職責は同じ)・武平侯となった曹操の操り人形にすぎなくなります。成長した献帝はこれに不満を抱き何度も曹操暗殺を企てますが、その度に潰され次第に権力そのものを失っていきました。
 天下統一を進める曹操は、献帝の弱みに付け込み魏公、ついで魏王となり禅譲は時間の問題となりました。ただしそうなる前に曹操は220年死去します。後を継いだ曹丕は献帝を脅し退位させました。後漢王朝の滅亡です。ただし演技で言われるように殺されたのではなく山陽公となって余生を過ごしたそうです。
 霊帝の死去で実質的には後漢王朝は滅びていました。少帝と献帝の時代は、単に名目上の存在にすぎなかったとも言えます。曹丕が献帝を殺さなかったのは、王莽のように皇帝殺しを敵の大義名分にさせないためだと思います。その意味でも曹丕は王莽とは器が違いすぎました。即位した曹丕は死後文帝と諡(おくりな)されます。生前皇帝の権力をほぼ握っていた曹操も曹丕によって武帝と追号されています。
                                 (完)

後漢帝国Ⅵ  党錮(とうこ)の禁

 皇帝独裁制の専制国家は、官僚国家になりがちです。さらに皇帝個人では余程能力が高くない限り一人で統治できませんから、宦官が台頭します。一方、古代は血縁社会ですから皇后の親族、つまり外戚が権力を持ちました。党錮(とうこ)の禁とは、処分された者が官職追放と出仕禁止(これを党錮と呼ぶ)になった事からこの名がつきました。

 一般に党錮の禁は、宦官と清流派官僚の争いで後者が敗れた事件を指しますがその根本には外戚と宦官の争いがありました。わずか10歳で即位した後漢4代和帝(在位88年~105年)は、幼少で一人では政治を行えなかったため継母太后の兄竇憲(とうけん)が大将軍に就任しこれを補佐します。大将軍は非常設の官位でもともとは国家の軍事を司る重職ではあるものの政治を統括する三公(後漢では太尉、司徒、司空)よりは下でしたが、国軍と云う実力部隊を握っていたため三公の権威を凌ぎ軍事・政治を司る最高官になりました。

 大将軍となった竇憲は、歴代外戚の例に漏れず一族を国家の枢要な地位につけ国政を壟断します。成長した和帝はこの状況が次第に我慢できなくなりました。和帝は自分の側近である宦官を重用し竇憲の一族と対抗させます。結局外戚でなければ宦官が権力を握るのは支那王朝史の必然でした。

 一方、竇憲の一族に押さえつけられていた官僚たちも鄭衆を中心とする宦官勢力と結託し紀元92年、皇帝の暗殺を謀ったという罪で竇憲を糾弾します。竇憲は自殺しその一族は免職の上洛陽を追放されました。この時活躍した宦官の中には紙を発明した(改良しただけとも言われる)蔡倫もいたそうです。竇憲一族の失脚に連座して漢書を記した班固が投獄され失意のうちに亡くなった事は前に書きました。

 和帝の皇后鄧皇后は後漢建国の功臣鄧禹の孫にあたります。身長7尺2寸(約172cm)、容姿端麗、頭脳明晰。12歳で詩経や論語を諳んじ母親から「お前は学者にでもなるつもりか?」と嘆かれたそうです。16歳で後宮に入りその美貌で和帝の寵愛を一身に受けます。実は和帝にはすでに陰皇后がいましたが、和帝に疎まれ陰一族の巫蠱(呪い殺す事)の罪に連座し迫害死させられました。これで障害の無くなった鄧氏は正式に皇后となります。
 ただし後の彼女の行動から見ると、陰皇后の自滅には関与していなかったと思います。学問好きな彼女のために和帝は当時最高の女流学者だった班昭(班固の妹、曹大家)を招聘したくらいです。班昭の薫陶もあり、鄧皇后は良妻賢母になります。さらには竇憲一族の滅亡を考え皇帝に決して自分の一族を重用しないよう訴える良識を持っていました。

 105年、和帝は27歳の若さで亡くなります。鄧皇后は25歳の若さで未亡人となりました。実子の殤帝は生まれたばかりの赤子です。鄧氏は太后となって政治を執りました(臨朝)。ところが殤帝はわずか8カ月で死去。そこで彼女は3代章帝の孫安帝を即位させて臨朝を続けます。普通ならこのような状況では国政がボロボロになるはずですが、彼女が統治した16年間は徳政と称えられ稀に見る安定期だったそうです。それだけ彼女の能力が高かったのでしょう。

 121年、鄧太后は41歳で亡くなります。さすがに鄧太后の臨朝期間には彼女を補佐するため外戚の鄧一族が登用されており成人になっていた安帝は宦官の力を借りて鄧一族を滅ぼしました。鄧一族は、鄧太后の厳しい目があったためそれほどひどい政治は行っておらず弾劾されるほどの罪はなかったと言われますが、それでも外戚という存在が安帝には許容できなかったのでしょう。

 私は鄧氏一族覆滅を安帝に唆したのは宦官ではなかったかと考えています。その後宦官が十常侍となって国政を壟断し始めたからです。十常侍とは、もともとは12人いた中常侍(皇帝の身の周りを世話する役職)の事ですが、後漢末期の中常侍たちを特に十常侍と呼びました。
 安帝以降の後漢の政治は、この外戚と宦官の権力闘争の歴史となりました。その経過は皇帝死去→新皇帝即位と外戚の台頭→皇帝の成長→宦官の力を借りて外戚排斥→皇帝死去という無限ループに陥ったのです。その間、官僚も二派に分かれます。一つは宦官と結びつき汚職を行って自己の利益を図る者。これを濁流派と呼びました。それに対し、宦官や濁流派を批判する勢力は自らを清流派と名乗ります。ただ、実態は士大夫階級の権力闘争とも言えました。
 後漢の官吏登用制度は郷挙里選といって地方官がこれはという人材を推挙する方式ですが、結局はコネや賄賂がはびこり地方の有力豪族の子弟が選ばれるのは常でした。清流派といっても、地方の有力豪族出身であるのは間違いなくただ自分に財産があるため汚職する必要性が無いだけという厳しい見方もできます。ちなみに選挙の語源はこの郷挙里選にあります。
 こんな中、166年司隷校尉の李膺と太学の学生の郭泰や賈彪など清流派官僚たちが中常侍の専横を批判し弾劾しました。宦官の反応は早く李膺らを国政を批判した罪で逮捕、死罪こそ免れたものの終身禁固に処します。これを第一回党錮の禁と呼びます。

 第二回は169年で、この時は外戚の竇武が清流派官僚陳蕃らと組んで宦官排除を目指し挙兵しますが失敗し竇武は自害しました。第二回党錮の禁でも清流派官僚の多くが連座して逮捕されます。中には無関係なものもいたそうですが、宦官勢力にとっては目障りな存在をこの際一気に叩こうという腹積もりだったのでしょう。
 これ以後も宦官による清流派官僚の弾圧は続きます。黄巾の乱が起こると追放された官僚が反乱に加わる事を恐れた朝廷によって禁が解かれ、ようやく党錮の禁は終結しました
 次回最終回は、後漢王朝を揺るがせた黄巾の乱と王朝滅亡を描きます。

後漢帝国Ⅴ  班超の西域経営

 高校で世界史を学んだ人はなんとなく覚えていると思いますが、漢書を記した歴史家班固、彼の死後未完だった漢書を完成させた妹班昭、班固の弟で班昭には兄に当たる次兄班超は西域都護となって活躍します。
 班氏は代々歴史学者として朝廷に仕えた家で班超だけが例外でした。班超に行く前に班固と班昭について語りましょう。班固(32年~92年)は前漢王朝の正史漢書を記しますが、その晩年当時外戚として絶大な権力をふるっていた竇憲(とうけん)の匈奴遠征に秘書官として同行し近しい関係となります。班固は学者としては優秀でしたが処世術は下手でした。竇憲が失脚すると連座して投獄されます。そのまま獄中で61歳の生涯を終えました。

 妹班昭(45年~117年)は幼少時から聡明な才女として有名でしたが、兄の非業の死を受け衝撃を受けます。儒学を収め身を慎み未完だった漢書を完成させました。班昭は14歳で曹世叔に嫁ぎ曹大家(そうだいこ)と呼ばれますが、彼女の評判を聞いた第4代和帝(在位88年~105年)に47歳の時召し出されます。皇后鄧皇后の教育係として仕えました。鄧皇后は夫和帝の死後太后として幼帝を補佐し稀に見る賢婦人と称えられますが、それは曹大家(班昭)の教育の賜物でした。
 その頃班超(32年~102年)は西域(現在のトルキスタン)で血みどろの戦いを繰り広げていました。後漢の歴史地図で西域方面に異様に拡大している図を見た事があると思いますが、それはほぼ班超個人の活躍のおかげでした。班氏は雍州扶風郡平陵(陝西省西部)の出身ですが、62年長兄班固が校書郎(文書を管理する)に仕官した事から家族揃って洛陽に移り住みます。
 最初は班超も兄と共に歴史学を学んだそうですが血の気の多さは抑えきれず73年の北匈奴遠征には仮司馬として参加し以後は軍人畑を歩みました。上司(奉車都尉)竇固(おそらく竇憲の一族)に気に入られ西域諸国への使者に抜擢されます。喜び勇んだ班超は34人の部下と共に出立しました。班超一行が最初の訪問国鄯善国(楼蘭)に到着するとそこには不穏な空気が流れていました。時を同じくして北匈奴の使者も到着しており鄯善は漢につくか北匈奴につくかで揺れていたのです。

 意を決した班超は「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という有名な言葉を吐きます。尻込みする部下たちを叱咤激励して北匈奴の使者が滞在する宿舎に斬り込み討ち取りました。震え上がった鄯善は漢に服属する事を誓います。これ以後小勢のまま于窴国(ホータン)、疏勒国(カシュガル)を服属させました。北匈奴陣営の亀茲に対しては武力進攻し制圧します。
 その後北匈奴の反撃で西域諸国の多くが離反し班超は窮地に立ちますが粘り強く戦い西域を守り抜きます。87年には西の大国クシャン朝(第4代カニシカ王で有名)の王ヴィマ・タクトの派遣した7万の大軍を防ぐと云う大功を上げました。和帝は永年の班超の功績を認め西域における全権を与えて西域都護に任命します。一生を西域経営に捧げた班超も60歳を超え朝廷に引退を願い出ました。許されて帰国できるようになった班超は、後任の都護に「西域経営は細心の注意を持ってあたり、異民族の誇りを傷つけないように」と助言します。ところが、後任の都護は大国漢の威光を嵩に傍若無人な振る舞いをして服属諸国に離反されます。班超が数十年に渡って苦労した西域経営は、これによって無に帰しました。
 失意の班超は、102年71歳の生涯を閉じます。班超の死後、西域は西部がクシャン朝に奪われ東部は北匈奴の勢力圏に戻りました。それから間もなくモンゴル高原ではトルコ系の鮮卑が強大化し北匈奴を東から圧迫、北匈奴は西に去りました。一説では欧州で猛威をふるったフン族は北匈奴の後身とも云われますが、はっきりとは分かりません。ただし北匈奴の勢力がかなりフン族に加わっていたことは確実でしょう。遊牧民族は一人の有能な族長の下にいくつもの民族が集まるのが普通でしたから。
 南北に分裂したうちの南匈奴はすでに漢に降伏しており山西省からオルドス地方に定住していました。後の五胡十六国時代の主役である鮮卑と匈奴(南匈奴)が出現したのはこの頃です。


 次回は、後漢王朝衰退の原因となった外戚と宦官の争い党錮の禁について見ていきましょう。

後漢帝国Ⅳ  後漢の光武帝

 新王朝の首都長安のある関中盆地に向かう更始帝の本隊と離れ単身河北平定を命じられた劉秀。直属の兵が1万にも満たない小勢力の劉秀が河北で滅んでくれる事を目論んだ人事でした。当時、河北でも銅馬などの農民反乱は正当性を主張するために漢の帝室に連なる劉氏を担ぎだし群雄割拠の状態に陥っていました。そんな中に劉秀の小勢が乗り込んだところで大きな渦に呑みこまれて消滅するだろうというのが更始帝陣営の考えだったのです。

 

 

 実際、劉秀は同じ漢室所縁の邯鄲の劉林を頼ります。ところが当時河東(黄河湾曲部の東、現在の山西省南部)にいた赤眉軍に対する意見の違いで対立しました。劉林は黄河の流れを決壊させて赤眉軍を溺死させようとしたのに対し、劉秀は民衆の人望を失う行為に反対します。劉秀軍が北に去ると、劉林は占師の王郎を担ぎ出し成帝の遺児と喧伝して天子を名乗らせました。そして勝手に邯鄲周辺を切り取り始めます。

 

 

 王郎の勢力は急速に拡大し劉秀はその首に懸賞金を掛けられました。劉秀の向かった葪(けい。現在の北京)を支配する劉接(これも劉氏の子孫)も王郎に呼応し挙兵、劉秀軍を挟み撃ちにしようと行動を開始します。この時が劉秀一行の一番苦しい時でした。兵糧も乏しくなり、側近の馮異(ふうい、建国の功臣の一人)が劉秀に豆粥を勧めたところ劉秀は涙を流して喜んだそうです。

 

 

 しかし劉秀の下にはこの馮異や鄧禹、そして河北時代に臣従した勇将呉漢など優秀な人材が集まります。劉秀の温厚篤実な性格が人々の心を惹き寄せたのでしょう。ある意味、劉秀の人間性だけが当時の劉秀軍の強みだったとも言えます。当初苦労の連続だった劉秀軍ですが、信都の太守任光が帰順した頃から次第に盛り返し始めました。信都を拠点とし周辺地域を平定していったのですが、劉秀の善政の評判を聞き各地の豪族や太守が参加、たちまち数万の勢力に膨れ上がります。

 

 

 劉秀は王郎配下で10万の兵力を持つ真定の劉楊を抱き込みました。同盟の証として劉楊の姪郭聖通が劉秀のもとに嫁ぎます。事実上の人質でしたが、のちに彼女は皇后(郭皇后)となりました。準備は整い紀元23年、劉秀軍は王郎の本拠地邯鄲を攻めます。

 

 

 野外決戦で敗れた王郎は邯鄲城に籠城しました。包囲一ヶ月邯鄲は陥落し王郎は斬られます。王郎の勢力を合わせた劉秀はたちまち天下を争う一方の雄にまで成長しました。王郎平定の報を受けた更始帝は、慌てて使者を出し「蕭王(そうおう)に任ずるから兵を収め急ぎ帰京せよ」と命じました。これに対し劉秀は「河北は未だ安らかならず」と返事し帰京を拒否します。この頃から独立の意志があったのでしょう。

 

 

 ただ蕭王という称号だけは有難く頂戴し、河北平定の大義名分にしました。25年、河北を完全に平定した劉秀は群臣に皇帝即位を上奏されます。2度固辞した劉秀も3度目にはこれを受け25年6月に即位、元号を建武としました。同じ25年、長安ででたらめな政治を行い人心を失っていた更始帝は、河東にいた赤眉軍に攻められ殺されます。赤眉軍もまた、更始帝と似たり寄ったりで失政を重ね長安を維持できなくなりました。

 

 

 

 赤眉軍は、故郷山東に戻るべく函谷関を越え黄河南岸を東に進みます。劉秀は死後光武帝(在位25年~57年)と諡(おくりな)されるので以後光武帝と記しますが、赤眉軍の動きを察知し征西大将軍馮異に兵を与えて待ち構えさせました。実は赤眉軍の関中進入も光武帝の策だったという史家もいます。光武帝は赤眉軍の背後から圧力を加え河東から移動せざるを得なくしたのです。赤眉軍に更始帝を殺させるのが目的でした。同時に赤眉軍のいなくなった河東もやすやすと占領で来たのですから一石二鳥です。流石の光武帝も旧主更始帝を殺せば世間の悪評を受けると危惧したのでしょう。

 

 

 

 27年、軍隊の体をなしていない流軍に陥っていた赤眉軍は歴戦で鍛えられた馮異軍の敵ではなく簡単に撃破されます。散り散りになって逃亡した赤眉軍は西への退路を断たれ宜陽の光武帝本軍の前に誘導されました。精根尽き果てた赤眉軍幹部樊崇の降伏とその後の反乱、誅殺の顛末は前に書いたとおりです。

 

 

 

 30年、赤眉軍の本拠地山東を平定。33年には隴西(ろうせい、甘粛省東部)の隗囂を滅ぼしました。最後に残ったのは蜀(しょく)の公孫述です。蜀が独立勢力の割拠に好都合だったのは周囲を険しい山岳に囲まれていたからでした。それでいて方千里(支那里、約400km)の盆地の中には四川の語源となった4つの長江の支流が流れ豊かな穀倉地帯を形成していました。現在でも四川省の人口は1億を超えています。当時も中原が戦乱で荒れる中相当数の人口を抱え発展していたと思います。

 

 

 

 34年、光武帝は呉漢ら有力武将を派遣し蜀を攻めさせました。来歙は蓋延・馬成・劉尚らの武将を従え北方の武都から。征南大将軍岑彭・大司馬呉漢・臧宮らは長江を遡り巴(重慶あたり)から蜀に至ります。天下の大軍を受けた公孫述は成都に籠城しますが、防戦中に負傷しそのまま死去しました。成都開城、公孫述の一族がことごとく誅殺され、天下統一は成ります。

 

 

 天下を平定した光武帝は戦乱で荒れ果てた長安を避け、それまで天下統一の本拠地としていた洛陽をそのまま首都としました。その後20年以上光武帝の治世は続きますが、奴婢の解放、租税の軽減、拡大した軍の縮小と兵士の帰農を進めます。前漢最盛時人口は6000万を超えていたそうですが、光武帝の天下統一時人口は2000万人に激減していたといいます。戦乱の影響はそこまで深刻だったのでしょう。ただし、国家の統治が安定しないと徴税人口の把握が困難になりますから、その影響も大きかったと思います。

 

 

 光武帝の善政は、時代の要請でした。更始帝や赤眉軍にはそれが見えなかったから滅んだとも言えます。

 

 

 

 次回は、班超の西域経営を描きます。

 

後漢帝国Ⅲ  昆陽の戦い

 更始帝劉玄や劉縯(りゅうえん)・劉秀兄弟を出した南陽の劉氏は前漢景帝の子長沙王発の子孫でした。その後領地替えで河南省南陽一帯に広がります。前漢代を通じてこの地を開発し有力な大豪族に成長しました。兄劉縯は侠気をもち食客を養うと云う豪傑肌で、弟劉秀は温厚篤実な若者だったと云われます。家を継ぐのは劉縯ですが、劉秀も期待され都長安に留学し尚書を学んだそうです。

 

 

 

 当時は王莽の新王朝で、失政と飢饉で流民が大発生し治安が乱れました。特に湖北河南地方は盗賊団が横行し無政府状態に近い状況でした。紀元22年、遊学から戻った劉秀は兄の食客の殺人事件に巻き込まれ官憲の追及を受けます。そこで劉秀は姉の嫁ぎ先である新野の大豪族鄧氏の元に逃れました。ちなみに後漢建国の功臣鄧禹はこの鄧氏の一族です。鄧禹自身も劉秀の遊学仲間で長安時代にすでに親交を結んでいたそうです。

 

 

 

 南陽宛の町に李通という名士がいました。彼は日頃家の言い伝えで「劉氏復興し李氏補佐となる」という文言が気になっていました。そこで従兄弟の李軼(りいつ)と相談し、宛に来ていた劉秀を説きます。劉秀も王莽の天下は長く続かないと思っていましたが、自分より兄が立てば成功するだろうと思いこれに賛同しました。時に劉秀28歳。この頃兄の劉縯も故郷の蔡陽で挙兵しており劉秀一行もこれに合流します。

 

 

 

 当時天下は山東に興った赤眉軍が猛威を振るっていました。湖北では緑林の賊が成長します。劉氏も地理的に近い緑林軍に合流、最初は農民反乱にすぎなかった緑林軍は劉氏の参加で豪族連合という形に変わりました。緑林軍は正当性を訴えるため南陽劉氏の本家劉玄を指導者に担ぎあげます。前漢景帝の子孫という毛並みは抜群で緑林軍は急速に拡大、23年正月には即位して更始帝と名乗りました。論功行賞により劉縯は大司徒(三公の一つ。総理大臣格)となり、劉秀は太常(九卿のひとつで祭祀を司る)偏将軍を拝命します。

 

 

 

 こうなると王莽政権としても、緑林軍を反乱の首魁と見做しました。23年3月一族の王尋、王邑に40万の大軍を授けて反乱の中心地南陽地方に送り込みます。緑林軍の先鋒は劉秀の部隊五千でした。すでに洛陽近くまで進撃していましたが大軍接近の報をうけ昆陽(河南省平頂山市)まで後退し籠城します。当然単独では勝てるはずがありませんから、援軍前提の籠城でした。ところが新王朝の正規軍40万という大軍に肝をつぶした緑林軍は怖じ気づき全く援軍を送る気配すら見せませんでした。兄の劉縯だけが弟の危機に焦りますが単独ではどうしようもありません。彼自身も別の戦線を担当して身動きとれませんでした。

 

 

 

 孤立無援の劉秀は、王鳳・王常らに城の守備を任せ自身は李軼ら側近13騎のみで城を脱出し頴川郡で兵を集めます。劉秀は7000騎あまりの援軍と共に昆陽に戻りました。これを甘く見た王尋、王邑はわずか1万で迎撃しますが劉秀軍に敗北。劉秀はこの機会を逃さず決死隊三千とともに新軍の本陣に突撃、新軍は大軍だけに対応できず大混乱のうちに王尋が討ち取られました。

 

 

 昆陽の守備軍もこれを見て打って出たため王邑は指揮を放棄して逃亡。40万の大軍でありながら合計でも2万に満たない劉秀軍に大敗すると云う醜態をさらします。それだけ士気が低かったのでしょう。王邑が洛陽に逃げ帰った時手勢は数千だったと伝えられます。事実上昆陽の戦いが新王朝に引導を渡す事になりました。

 

 

 

 一方、緑林軍内部で巨大な軍功を上げた劉秀に立場は微妙になります。兄劉縯も南陽宛城を攻略すると云う功績を上げていたため更始帝はこのままでは劉兄弟に自分の地位を奪われるかもしれないと恐れました。緑林軍の中で劉縯を天子にという意見も少なくなかったのです。

 

 

 

 疑心暗鬼にかられた更始帝は、讒言を信じ劉縯を逮捕し誅殺しました。こうなると兄を無実の罪で殺された劉秀の動向は注目されます。ところが劉秀は更始帝の元に参じると「兄に罪あり、私の忠誠心に変わりはありません」と申し出ました。さすがに気がとがめたのか更始帝は、劉秀を破虜将軍武信侯に封じます。劉秀とて、兄の誅殺は腸が煮えくりかえるものでした。しかし更始帝に反抗するにはまだまだ劉秀の勢力は小さすぎました。

 

 

 

 劉秀は待つ事を知っていました。緑林軍主力が新王朝の本拠地関中に進撃するとき、一人劉秀だけは河北の平定を命じられます。体のいい厄介払いでしたが、劉秀はこれを絶好の機会と見て緑林軍と離れ独自の勢力を築くべく動き出します。結果的に劉秀の選択は正解でした。

 

 

 

 次回は劉秀の河北平定と即位、天下統一を描きます。

 

 

後漢帝国Ⅱ  赤眉の乱

 青州(現在の山東省東部)琅邪郡海曲県で醸造業を営む呂母という女性がいました。彼女は資産家で地元の名士でしたが、県の役人を務める息子が些細な事件に巻き込まれて亡くなります。事件の詳細は分かりませんが、おそらく県の役人が絡んだ事件だったと想像されます。
 当時は王莽の新王朝で時代錯誤の現実に全く合わない政治でしたので、ろくに捜査も行われないまま事件は有耶無耶になります。怒った呂母は酒を買いに来た不良少年にただで酒を与えたり、無頼漢に刀剣を買い与えたりして手懐け一種の私兵を作りました。その数は数百人にも及んだといいます。さらに沿岸部の流民も糾合し数千人に膨れ上がった呂母軍は西暦17年ついに反乱を起こしました。反乱軍は海曲県に攻め入り県令の首を取ります。その首を息子の墓前に供えた呂母は兵を率いて海上に去りました。おそらく息子の事件は県令が絡んだか県令そのものが真犯人だったかのどちらかでしょう。
 事態を重く見た王莽は「おとなしく解散すれば反乱の罪は問わない」と懐柔策に出ますが、王莽のでたらめな政治が今回の事件を起こしたと考える呂母はこれを拒否しました。反乱軍は敵味方を識別するために眉を赤く染めたので赤眉軍と呼ばれます。折悪く当時山東地方では天候不順が続き飢饉になっていたため赤眉軍は数万人に膨れ上がりました。22年王莽は十万とも号する討伐軍を送りますが、戦意のない新軍は赤眉軍に簡単に撃破されます。れっきとした王朝の正規軍が地方の反乱軍に負けるのですからすでに末期症状でした。
 赤眉の乱がきっかけとなり、支那全土に反乱の火の手が上がります。その中で有力なものに荊州(現在の湖北・湖南省)の緑林軍と河北の銅馬軍がありました。怒りに任せて反乱を起こした赤眉軍と違い、緑林・銅馬の勢力はより利口でした。最初は農民反乱から始まったものの、正当性を訴えるため漢王朝に所縁のある南陽郡の大豪族劉玄を盟主に祀り上げます。劉玄は更始帝と名乗りました。この頃から緑林軍には劉縯(りゅうえん)、劉秀兄弟など漢室所縁の豪族たちが参加し豪族連合の形になっていきます。
 王莽は、赤眉より緑林の方を重大視し一族の王邑らに率いられた40万の大軍を討伐に送り込みました。23年、昆陽の戦いで新軍は大敗、その勢いをもって緑林軍は新の首都長安のある関中盆地に雪崩れ込みます。23年春、王莽は乱戦の中で討ち取られ新王朝はわずか一代で滅びました。最初、赤眉軍は更始帝に帰順していましたが、更始帝の論功行賞に不満を抱き結局は自分たちも漢室所縁の劉盆子を担ぎ出し緑林軍と対立します。このころすでに呂母の存在はなくなっており、死亡したか引退したかは不明です。当時赤眉軍を指導していたのは徐宣、樊崇らでした。
 緑林軍は寄せ集めの雑軍に過ぎずまともな政治などできませんでした。更始帝自身も無能で部下を統御できなかったので離反する者が相次ぎます。緑林軍の有力武将王匡が赤眉軍に投降したのをきっかけとして赤眉軍は関中に攻め入りました。どちらも雑軍ながら勢いは赤眉軍があり更始帝もまた赤眉軍に殺されます。
 そして予想通り、赤眉軍にも統治能力がなかったので長安を維持できなくなりました。膨大な兵士の食糧を求めて中原に向かった赤眉軍は、その頃緑林軍から分かれて別行動をとっていた劉秀の武将馮異(ふうい)に待ち構えられ27年河南省洛寧県で壊滅的打撃を受けました。赤眉軍の敗残兵はそこから宜陽に逃亡しますが、劉秀軍の本隊が布陣しているのを見て諦め投降しました。その後樊崇らは再度挙兵しようとして発覚、誅殺されます。これで赤眉軍は完全に消滅しました。

 あっけない赤眉軍の最期でしたが、とはいえ赤眉の乱が無ければ劉秀が台頭する事もなかったはずです。その意味では後漢王朝誕生のきっかけは赤眉の乱だったとも言えます。

 次回は、後漢王朝をうちたてた劉秀の行動についてもっと詳しく見てみましょう。タイトルは昆陽の戦いです。

後漢帝国Ⅰ  王莽の簒奪

 前漢第12代皇帝成帝(在位BC33年~BC7年)の治世は、武帝以降の混乱した政治を建て直し政治に悪影響を与えていた宦官の勢力を削ぐように努める時代でした。しかし逆にこの頃から外戚の力が強くなり前漢王朝は斜陽の時代に入ります。

 成帝の皇后孝元皇后(王政君)の兄王鳳は大司馬大将軍録尚書事(軍政・軍令・行政のトップ)となり強大な権力を得ます。そればかりか王一族は王鳳の異母弟五人も列侯に封じられるなど我が世の春を謳歌しました。ところがBC7年成帝が実子のないまま崩御し甥の哀帝(在位BC7年~BC1年)が即位すると、王氏は群臣からよく思われていなかったこともあり凋落します。王鳳がBC22年に亡くなってこれといった人材がいなかった事も災いしました。しかし運命とは分からないもので、哀帝もBC1年24歳の若さで急逝したこともあり哀帝の従兄弟で元帝(11代、成帝の父)の孫に当たる平帝(在位BC1年~7年)が即位することとなりました。

 平帝は即位時わずか2歳だったため成帝の皇后だった孝元皇太后がこれを後見することとなります。これには哀帝の外戚だった傅氏や丁氏との泥沼の権力闘争があったのですが煩雑になるのでここでは書きません。ともかく孝元皇太后は己の権力を安泰にするためにも下野していた王一族を再び朝廷に呼び戻しました。

 中でも皇太后の甥王莽(おうもう BC45年~23年)は、彼女に可愛がられいきなり大司馬(三公のひとつ。軍政のトップ。現代でいう陸軍大臣)に抜擢されます。実は王莽の父王曼は早死しており王鳳の兄弟のなかで王莽一族だけが没落していました。王莽は、そのハンディキャップをものともせず、質素倹約に甘んじ儒学を修め王鳳が病気になると寝食を惜しんで看病します。感動した王鳳は、死に際して王莽を一族の後継者に指名したほどでした。
 王莽は、娘を平帝の皇后に冊立し外戚として絶対権力を振るいます。平帝も幼少ですから王莽の娘も幼子であったはずでままごとのような夫婦ですが、外戚の王莽としてはこの方が都合よかったのでしょう。王莽は商初の名臣伊尹の称号阿衡と周の成王を助けた周公旦の役職太宰を合わせた『宰衡』という称号を名乗り、諸侯王の上という殊礼を持って遇される地位を得ました。その上で邪魔になった平帝を毒殺、宣帝の末孫という孺子嬰(じゅしえい)を探し出してきて皇太子につけます。いきなり皇帝にしなかったのは王莽の狡猾な考えがあってのことでした。
 ここまで見てくると、王莽が儒学を修めたのは立身出世のためであり精神的には何の寄与もしていないばかりか、逆にそれを悪用するようになった事が分かります。王莽は皇太子を後見する仮皇帝にまず就任します。そのからくりはこうでした。人を派遣して地方の井戸に文言の書かれた白石を投げ込み、わざと発見させます。
 白石には「告ぐ安漢公王莽、皇帝になるべし」と書かれていました。現代と違い当時は迷信が横行していましたから人々は素直にこれを天のお告げとして信じます。地方官からの報告を受けた王莽は、群臣の推挙に渋々といった形で仮皇帝に就任しました。孺子嬰を皇帝にしていないのですから誰が考えても王莽の陰謀だと分かっています。しかし絶対権力を持つ王莽に逆らう事は死を意味しました。

 仮皇帝となった王莽は、利用価値の無くなった孺子嬰を廃し紀元8年正式な皇帝に就任します。この時も井戸の白石と同じような工作を行って人々を騙しました。これを符命革命と呼びます。そして王莽は支那史上初めて禅譲によって皇帝となりました。ただ軍事的に前王朝を倒す放伐と禅譲の違いは、武力を直接行使するか脅しに使うかで大きな違いはありません。王莽が儒教に凝ったためにこういう形式になったに過ぎませんでした。
 王莽は国号を『新』と称します。周代の治世を理想とし、独善的な華夷思想を周辺諸国に押し付けたため反発を生みました。また内政でも現実離れした時代錯誤とも言うべき儒教思想による統治で人々の生活は混乱します。農地の国有化や独善的な貨幣制度の押しつけで不満を爆発させた農民は各地で反乱に立ち上がりました。その最大のものは赤眉の乱と緑林・銅馬の乱です。
 次回は新王朝を事実上滅亡に追いやった赤眉の乱を描きます。

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