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2016年8月 1日 (月)

後漢帝国Ⅳ  後漢の光武帝

 新王朝の首都長安のある関中盆地に向かう更始帝の本隊と離れ単身河北平定を命じられた劉秀。直属の兵が1万にも満たない小勢力の劉秀が河北で滅んでくれる事を目論んだ人事でした。当時、河北でも銅馬などの農民反乱は正当性を主張するために漢の帝室に連なる劉氏を担ぎだし群雄割拠の状態に陥っていました。そんな中に劉秀の小勢が乗り込んだところで大きな渦に呑みこまれて消滅するだろうというのが更始帝陣営の考えだったのです。

 

 

 実際、劉秀は同じ漢室所縁の邯鄲の劉林を頼ります。ところが当時河東(黄河湾曲部の東、現在の山西省南部)にいた赤眉軍に対する意見の違いで対立しました。劉林は黄河の流れを決壊させて赤眉軍を溺死させようとしたのに対し、劉秀は民衆の人望を失う行為に反対します。劉秀軍が北に去ると、劉林は占師の王郎を担ぎ出し成帝の遺児と喧伝して天子を名乗らせました。そして勝手に邯鄲周辺を切り取り始めます。

 

 

 王郎の勢力は急速に拡大し劉秀はその首に懸賞金を掛けられました。劉秀の向かった葪(けい。現在の北京)を支配する劉接(これも劉氏の子孫)も王郎に呼応し挙兵、劉秀軍を挟み撃ちにしようと行動を開始します。この時が劉秀一行の一番苦しい時でした。兵糧も乏しくなり、側近の馮異(ふうい、建国の功臣の一人)が劉秀に豆粥を勧めたところ劉秀は涙を流して喜んだそうです。

 

 

 しかし劉秀の下にはこの馮異や鄧禹、そして河北時代に臣従した勇将呉漢など優秀な人材が集まります。劉秀の温厚篤実な性格が人々の心を惹き寄せたのでしょう。ある意味、劉秀の人間性だけが当時の劉秀軍の強みだったとも言えます。当初苦労の連続だった劉秀軍ですが、信都の太守任光が帰順した頃から次第に盛り返し始めました。信都を拠点とし周辺地域を平定していったのですが、劉秀の善政の評判を聞き各地の豪族や太守が参加、たちまち数万の勢力に膨れ上がります。

 

 

 劉秀は王郎配下で10万の兵力を持つ真定の劉楊を抱き込みました。同盟の証として劉楊の姪郭聖通が劉秀のもとに嫁ぎます。事実上の人質でしたが、のちに彼女は皇后(郭皇后)となりました。準備は整い紀元23年、劉秀軍は王郎の本拠地邯鄲を攻めます。

 

 

 野外決戦で敗れた王郎は邯鄲城に籠城しました。包囲一ヶ月邯鄲は陥落し王郎は斬られます。王郎の勢力を合わせた劉秀はたちまち天下を争う一方の雄にまで成長しました。王郎平定の報を受けた更始帝は、慌てて使者を出し「蕭王(そうおう)に任ずるから兵を収め急ぎ帰京せよ」と命じました。これに対し劉秀は「河北は未だ安らかならず」と返事し帰京を拒否します。この頃から独立の意志があったのでしょう。

 

 

 ただ蕭王という称号だけは有難く頂戴し、河北平定の大義名分にしました。25年、河北を完全に平定した劉秀は群臣に皇帝即位を上奏されます。2度固辞した劉秀も3度目にはこれを受け25年6月に即位、元号を建武としました。同じ25年、長安ででたらめな政治を行い人心を失っていた更始帝は、河東にいた赤眉軍に攻められ殺されます。赤眉軍もまた、更始帝と似たり寄ったりで失政を重ね長安を維持できなくなりました。

 

 

 

 赤眉軍は、故郷山東に戻るべく函谷関を越え黄河南岸を東に進みます。劉秀は死後光武帝(在位25年~57年)と諡(おくりな)されるので以後光武帝と記しますが、赤眉軍の動きを察知し征西大将軍馮異に兵を与えて待ち構えさせました。実は赤眉軍の関中進入も光武帝の策だったという史家もいます。光武帝は赤眉軍の背後から圧力を加え河東から移動せざるを得なくしたのです。赤眉軍に更始帝を殺させるのが目的でした。同時に赤眉軍のいなくなった河東もやすやすと占領で来たのですから一石二鳥です。流石の光武帝も旧主更始帝を殺せば世間の悪評を受けると危惧したのでしょう。

 

 

 

 27年、軍隊の体をなしていない流軍に陥っていた赤眉軍は歴戦で鍛えられた馮異軍の敵ではなく簡単に撃破されます。散り散りになって逃亡した赤眉軍は西への退路を断たれ宜陽の光武帝本軍の前に誘導されました。精根尽き果てた赤眉軍幹部樊崇の降伏とその後の反乱、誅殺の顛末は前に書いたとおりです。

 

 

 

 30年、赤眉軍の本拠地山東を平定。33年には隴西(ろうせい、甘粛省東部)の隗囂を滅ぼしました。最後に残ったのは蜀(しょく)の公孫述です。蜀が独立勢力の割拠に好都合だったのは周囲を険しい山岳に囲まれていたからでした。それでいて方千里(支那里、約400km)の盆地の中には四川の語源となった4つの長江の支流が流れ豊かな穀倉地帯を形成していました。現在でも四川省の人口は1億を超えています。当時も中原が戦乱で荒れる中相当数の人口を抱え発展していたと思います。

 

 

 

 34年、光武帝は呉漢ら有力武将を派遣し蜀を攻めさせました。来歙は蓋延・馬成・劉尚らの武将を従え北方の武都から。征南大将軍岑彭・大司馬呉漢・臧宮らは長江を遡り巴(重慶あたり)から蜀に至ります。天下の大軍を受けた公孫述は成都に籠城しますが、防戦中に負傷しそのまま死去しました。成都開城、公孫述の一族がことごとく誅殺され、天下統一は成ります。

 

 

 天下を平定した光武帝は戦乱で荒れ果てた長安を避け、それまで天下統一の本拠地としていた洛陽をそのまま首都としました。その後20年以上光武帝の治世は続きますが、奴婢の解放、租税の軽減、拡大した軍の縮小と兵士の帰農を進めます。前漢最盛時人口は6000万を超えていたそうですが、光武帝の天下統一時人口は2000万人に激減していたといいます。戦乱の影響はそこまで深刻だったのでしょう。ただし、国家の統治が安定しないと徴税人口の把握が困難になりますから、その影響も大きかったと思います。

 

 

 光武帝の善政は、時代の要請でした。更始帝や赤眉軍にはそれが見えなかったから滅んだとも言えます。

 

 

 

 次回は、班超の西域経営を描きます。

 

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