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2016年8月 1日 (月)

後漢帝国Ⅴ  班超の西域経営

 高校で世界史を学んだ人はなんとなく覚えていると思いますが、漢書を記した歴史家班固、彼の死後未完だった漢書を完成させた妹班昭、班固の弟で班昭には兄に当たる次兄班超は西域都護となって活躍します。
 班氏は代々歴史学者として朝廷に仕えた家で班超だけが例外でした。班超に行く前に班固と班昭について語りましょう。班固(32年~92年)は前漢王朝の正史漢書を記しますが、その晩年当時外戚として絶大な権力をふるっていた竇憲(とうけん)の匈奴遠征に秘書官として同行し近しい関係となります。班固は学者としては優秀でしたが処世術は下手でした。竇憲が失脚すると連座して投獄されます。そのまま獄中で61歳の生涯を終えました。

 妹班昭(45年~117年)は幼少時から聡明な才女として有名でしたが、兄の非業の死を受け衝撃を受けます。儒学を収め身を慎み未完だった漢書を完成させました。班昭は14歳で曹世叔に嫁ぎ曹大家(そうだいこ)と呼ばれますが、彼女の評判を聞いた第4代和帝(在位88年~105年)に47歳の時召し出されます。皇后鄧皇后の教育係として仕えました。鄧皇后は夫和帝の死後太后として幼帝を補佐し稀に見る賢婦人と称えられますが、それは曹大家(班昭)の教育の賜物でした。
 その頃班超(32年~102年)は西域(現在のトルキスタン)で血みどろの戦いを繰り広げていました。後漢の歴史地図で西域方面に異様に拡大している図を見た事があると思いますが、それはほぼ班超個人の活躍のおかげでした。班氏は雍州扶風郡平陵(陝西省西部)の出身ですが、62年長兄班固が校書郎(文書を管理する)に仕官した事から家族揃って洛陽に移り住みます。
 最初は班超も兄と共に歴史学を学んだそうですが血の気の多さは抑えきれず73年の北匈奴遠征には仮司馬として参加し以後は軍人畑を歩みました。上司(奉車都尉)竇固(おそらく竇憲の一族)に気に入られ西域諸国への使者に抜擢されます。喜び勇んだ班超は34人の部下と共に出立しました。班超一行が最初の訪問国鄯善国(楼蘭)に到着するとそこには不穏な空気が流れていました。時を同じくして北匈奴の使者も到着しており鄯善は漢につくか北匈奴につくかで揺れていたのです。

 意を決した班超は「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という有名な言葉を吐きます。尻込みする部下たちを叱咤激励して北匈奴の使者が滞在する宿舎に斬り込み討ち取りました。震え上がった鄯善は漢に服属する事を誓います。これ以後小勢のまま于窴国(ホータン)、疏勒国(カシュガル)を服属させました。北匈奴陣営の亀茲に対しては武力進攻し制圧します。
 その後北匈奴の反撃で西域諸国の多くが離反し班超は窮地に立ちますが粘り強く戦い西域を守り抜きます。87年には西の大国クシャン朝(第4代カニシカ王で有名)の王ヴィマ・タクトの派遣した7万の大軍を防ぐと云う大功を上げました。和帝は永年の班超の功績を認め西域における全権を与えて西域都護に任命します。一生を西域経営に捧げた班超も60歳を超え朝廷に引退を願い出ました。許されて帰国できるようになった班超は、後任の都護に「西域経営は細心の注意を持ってあたり、異民族の誇りを傷つけないように」と助言します。ところが、後任の都護は大国漢の威光を嵩に傍若無人な振る舞いをして服属諸国に離反されます。班超が数十年に渡って苦労した西域経営は、これによって無に帰しました。
 失意の班超は、102年71歳の生涯を閉じます。班超の死後、西域は西部がクシャン朝に奪われ東部は北匈奴の勢力圏に戻りました。それから間もなくモンゴル高原ではトルコ系の鮮卑が強大化し北匈奴を東から圧迫、北匈奴は西に去りました。一説では欧州で猛威をふるったフン族は北匈奴の後身とも云われますが、はっきりとは分かりません。ただし北匈奴の勢力がかなりフン族に加わっていたことは確実でしょう。遊牧民族は一人の有能な族長の下にいくつもの民族が集まるのが普通でしたから。
 南北に分裂したうちの南匈奴はすでに漢に降伏しており山西省からオルドス地方に定住していました。後の五胡十六国時代の主役である鮮卑と匈奴(南匈奴)が出現したのはこの頃です。


 次回は、後漢王朝衰退の原因となった外戚と宦官の争い党錮の禁について見ていきましょう。

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