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2016年8月 1日 (月)

後漢帝国Ⅶ  黄巾の乱と帝国滅亡

 古代支那の言い伝えで時の王や皇帝が悪い政治をすると天がこれを戒めるために天変地異を起こすとされます。すなわち天災です。後漢末期、外戚と宦官の争いで国政が乱れていたさ中、天候不順や蝗の大発生、大規模な水害などで飢饉が起こり国民生活は疲弊しました。不満を持った者たちは、反乱を起こして悪徳政府と対決します。そもそも後漢政府が良い政治をしていたらここまで大規模な反乱は起こらなかったでしょう。しかし権力に酔う醜い者どもにはその当たり前の事が分かりませんでした。
 後漢帝国に止めを刺したのは黄巾の乱だと言われます。後漢第12代霊帝(在位168年~189年)の時代、冀州鉅鹿郡に張角という者がいました。三国志演義では科挙に合格していない事で国に不満を抱く者として登場しますが、前に書いた通りこの時代には科挙制度はありませんから実態は分かりません。郷挙里選にはその土地の有力者の子弟しか選ばれませんから、庶民であればもともと官僚になどなれるはずありません。
 ただ張角が、太平道という道教の一派を開いた事は間違いありません。病気治癒などの現世利益で信者を獲得した張角は、次第に先鋭化し政治色を強めました。数十万の信者を得た張角は、ガタガタの後漢政府を倒し自分が新たな王朝を開くという野望に取り憑かれます。太平道は河北から山東、河南、安徽、湖北に拡大し農民はもとより政権に不満を抱く地方の豪族まで巻き込みました。
 189年、太平道はついに挙兵します。「蒼天已死 黃天當立 歲在甲子 天下大吉」(蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在りて、天下大吉)のスローガンはあまりにも有名です。当時権力を握っていた十常侍は宦官で軍を指揮できず(意志もなく能力もない)、結局は地方の豪族の力を頼らざるを得ませんでした。
 三国志で馴染みの皇甫嵩や朱儁、そしてもと清流派官僚の盧植らが将軍として鎮圧に当たりますが、実際に活躍したのは有力豪族出身で中央の少壮官僚になっていた曹操、江東の豪族出身孫堅らです。反乱は張角が病死した事により尻すぼみになり最後は南陽で残党が討滅された事により治まりました。
 霊帝は、黄巾の乱鎮圧直後亡くなります。十常侍は皇帝に本当の事を報告せず酒色におぼれさせていたそうですから、霊帝も考えてみれば哀れな皇帝です。霊帝の皇后何皇后の兄何進は大将軍となって権力を握ろうとしますが何皇后の生んだ弁皇子を皇帝にしようとして十常侍と対立、暗殺されました。何進の腹心だった袁紹は激怒して宮中に攻め入り十常侍を皆殺しにします。この辺りは三国志演義で詳しいので簡単に経過を述べるにとどめます。
 ところがこの混乱のさ中、何進の呼びかけで都に来ていた涼州牧董卓は皇位継承の資格を持つ側室王美人の生んだ協皇子を手中に収めました。董卓は軍事力を背景に都を制圧、即位していた少帝(弁皇子)をその母何皇后と共に暗殺、協皇子を即位させます。すなわち後漢最後の皇帝献帝(在位189年~220年)です。董卓は太尉・領前将軍事に就任し郿侯に封じられます。その後相国という非常設の最高官に昇った董卓は献帝を傀儡にして我が世の春を謳歌しました。これも形を変えた外戚政治に他なりません。ただ、大義名分のない権力掌握は諸国の豪族の反発を受け、間もなく反董卓連合軍が結成されます。
 洛陽を追われた董卓は長安に遷都しますが、そこで内紛に遭い殺されました。その献帝を最後に保護したのは山東地方に地盤を築いていた曹操です。これも三国志演義に詳しいので詳細は避けますが献帝は大将軍・録尚書事(演技では丞相とされるが職責は同じ)・武平侯となった曹操の操り人形にすぎなくなります。成長した献帝はこれに不満を抱き何度も曹操暗殺を企てますが、その度に潰され次第に権力そのものを失っていきました。
 天下統一を進める曹操は、献帝の弱みに付け込み魏公、ついで魏王となり禅譲は時間の問題となりました。ただしそうなる前に曹操は220年死去します。後を継いだ曹丕は献帝を脅し退位させました。後漢王朝の滅亡です。ただし演技で言われるように殺されたのではなく山陽公となって余生を過ごしたそうです。
 霊帝の死去で実質的には後漢王朝は滅びていました。少帝と献帝の時代は、単に名目上の存在にすぎなかったとも言えます。曹丕が献帝を殺さなかったのは、王莽のように皇帝殺しを敵の大義名分にさせないためだと思います。その意味でも曹丕は王莽とは器が違いすぎました。即位した曹丕は死後文帝と諡(おくりな)されます。生前皇帝の権力をほぼ握っていた曹操も曹丕によって武帝と追号されています。
                                 (完)

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