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2016年8月 1日 (月)

後漢帝国Ⅲ  昆陽の戦い

 更始帝劉玄や劉縯(りゅうえん)・劉秀兄弟を出した南陽の劉氏は前漢景帝の子長沙王発の子孫でした。その後領地替えで河南省南陽一帯に広がります。前漢代を通じてこの地を開発し有力な大豪族に成長しました。兄劉縯は侠気をもち食客を養うと云う豪傑肌で、弟劉秀は温厚篤実な若者だったと云われます。家を継ぐのは劉縯ですが、劉秀も期待され都長安に留学し尚書を学んだそうです。

 

 

 

 当時は王莽の新王朝で、失政と飢饉で流民が大発生し治安が乱れました。特に湖北河南地方は盗賊団が横行し無政府状態に近い状況でした。紀元22年、遊学から戻った劉秀は兄の食客の殺人事件に巻き込まれ官憲の追及を受けます。そこで劉秀は姉の嫁ぎ先である新野の大豪族鄧氏の元に逃れました。ちなみに後漢建国の功臣鄧禹はこの鄧氏の一族です。鄧禹自身も劉秀の遊学仲間で長安時代にすでに親交を結んでいたそうです。

 

 

 

 南陽宛の町に李通という名士がいました。彼は日頃家の言い伝えで「劉氏復興し李氏補佐となる」という文言が気になっていました。そこで従兄弟の李軼(りいつ)と相談し、宛に来ていた劉秀を説きます。劉秀も王莽の天下は長く続かないと思っていましたが、自分より兄が立てば成功するだろうと思いこれに賛同しました。時に劉秀28歳。この頃兄の劉縯も故郷の蔡陽で挙兵しており劉秀一行もこれに合流します。

 

 

 

 当時天下は山東に興った赤眉軍が猛威を振るっていました。湖北では緑林の賊が成長します。劉氏も地理的に近い緑林軍に合流、最初は農民反乱にすぎなかった緑林軍は劉氏の参加で豪族連合という形に変わりました。緑林軍は正当性を訴えるため南陽劉氏の本家劉玄を指導者に担ぎあげます。前漢景帝の子孫という毛並みは抜群で緑林軍は急速に拡大、23年正月には即位して更始帝と名乗りました。論功行賞により劉縯は大司徒(三公の一つ。総理大臣格)となり、劉秀は太常(九卿のひとつで祭祀を司る)偏将軍を拝命します。

 

 

 

 こうなると王莽政権としても、緑林軍を反乱の首魁と見做しました。23年3月一族の王尋、王邑に40万の大軍を授けて反乱の中心地南陽地方に送り込みます。緑林軍の先鋒は劉秀の部隊五千でした。すでに洛陽近くまで進撃していましたが大軍接近の報をうけ昆陽(河南省平頂山市)まで後退し籠城します。当然単独では勝てるはずがありませんから、援軍前提の籠城でした。ところが新王朝の正規軍40万という大軍に肝をつぶした緑林軍は怖じ気づき全く援軍を送る気配すら見せませんでした。兄の劉縯だけが弟の危機に焦りますが単独ではどうしようもありません。彼自身も別の戦線を担当して身動きとれませんでした。

 

 

 

 孤立無援の劉秀は、王鳳・王常らに城の守備を任せ自身は李軼ら側近13騎のみで城を脱出し頴川郡で兵を集めます。劉秀は7000騎あまりの援軍と共に昆陽に戻りました。これを甘く見た王尋、王邑はわずか1万で迎撃しますが劉秀軍に敗北。劉秀はこの機会を逃さず決死隊三千とともに新軍の本陣に突撃、新軍は大軍だけに対応できず大混乱のうちに王尋が討ち取られました。

 

 

 昆陽の守備軍もこれを見て打って出たため王邑は指揮を放棄して逃亡。40万の大軍でありながら合計でも2万に満たない劉秀軍に大敗すると云う醜態をさらします。それだけ士気が低かったのでしょう。王邑が洛陽に逃げ帰った時手勢は数千だったと伝えられます。事実上昆陽の戦いが新王朝に引導を渡す事になりました。

 

 

 

 一方、緑林軍内部で巨大な軍功を上げた劉秀に立場は微妙になります。兄劉縯も南陽宛城を攻略すると云う功績を上げていたため更始帝はこのままでは劉兄弟に自分の地位を奪われるかもしれないと恐れました。緑林軍の中で劉縯を天子にという意見も少なくなかったのです。

 

 

 

 疑心暗鬼にかられた更始帝は、讒言を信じ劉縯を逮捕し誅殺しました。こうなると兄を無実の罪で殺された劉秀の動向は注目されます。ところが劉秀は更始帝の元に参じると「兄に罪あり、私の忠誠心に変わりはありません」と申し出ました。さすがに気がとがめたのか更始帝は、劉秀を破虜将軍武信侯に封じます。劉秀とて、兄の誅殺は腸が煮えくりかえるものでした。しかし更始帝に反抗するにはまだまだ劉秀の勢力は小さすぎました。

 

 

 

 劉秀は待つ事を知っていました。緑林軍主力が新王朝の本拠地関中に進撃するとき、一人劉秀だけは河北の平定を命じられます。体のいい厄介払いでしたが、劉秀はこれを絶好の機会と見て緑林軍と離れ独自の勢力を築くべく動き出します。結果的に劉秀の選択は正解でした。

 

 

 

 次回は劉秀の河北平定と即位、天下統一を描きます。

 

 

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