2022年1月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »

2016年9月

2016年9月 2日 (金)

日野富子の収入と織田弾正忠家の収入

 前記事『清洲三奉行と織田信秀』で、ある方から日野富子の収入の話が出ました。私はろくに調べもせず勘で津島湊の関税の方が桁違いに多いと返したんですが、本当にそうか気になりました。

 本記事はそれに関する調査と推定で、大した内容でもないので興味の無い方はスルーをお願いします。
 さて、日野富子といえば私はNHK大河ドラマ『花の乱』の三田佳子♪一般受けはしなかったようですが、配役といい(野村萬斎の細川勝元は特に良かった!!!山名宗全も萬屋錦之介だし)、内容といい近年の糞大河とは比べるのも失礼な最高傑作の一つだと評価しています。
 その日野富子、夫がだらしない無能将軍足利義政だったため苦労したようですね。有力守護を統制するどころか逆にいいように操られ結局応仁の乱という未曽有な戦乱を招きました。足利将軍家は直轄領が少なく有力守護大名のバランスの上に立っていたので、それが崩れれば衰退するのは当然でした。
 
 富子は斜陽の足利家を支えるために、御領所(富子の直轄領)からの年貢、大名間の裁判で有利に進めるための礼銭(ぶっちゃけ賄賂ですな)、京都に入る街道上に設けた関所の通行税、さらにはそれを元手にした高利貸しで莫大な財産を築きます。
 その遺産は七万貫(現代の貨幣価値で70億円ほど)だったそうです。もちろん生前にかなり使っていたでしょうから稼いだ総額ではないと思います。
 一方、津島湊を支配した織田弾正忠信秀。記録によると伊勢神宮修理費で七百貫、朝廷禁裏修理費で四千貫ポンと差し出すくらいでした。これは余裕が無ければできません。少なくともその10倍は年収が無ければこんな大金出さないでしょう。最低でも七千貫から四万貫くらいは税収があったはず。
 過去記事でも考察しましたが、津島関税収入と年貢で最大五千の傭兵を数年間動かせるくらいの財力は持っていたと推定しています。尾張は太閤検地で57万石。単純計算で清洲織田家の下四郡が半分の石高として29万石。そのうち信秀の勢力圏が半分としても14万石~15万石くらいはあったはずなのです。(那古野、古渡、末森領を加えればもっとか?)
 やはり結論としては、日野富子の財力より織田信秀の財力の方が桁が違ったと判断して良いような気がします。信長時代初期の鉄砲隊五百というのも莫大な財産が無ければ編成できません。年貢収入のみだとかなりきつい。当時の鉄砲はとても高価でしたから。全盛期の武田家でさえ鉄砲隊は五百もいなかったように思います。だから騎馬を多用したんだし…。間違ってたら教えてくださいね。
 日野富子の財産形成術は関所に代表されるように収奪、一方織田家の財産形成術は後の楽市楽座に繋がる流通支配。関所など廃止して商業を振興した方が良い。経済に関する考え方が根本的に違っていたのでしょう。皆さんはどう思われますか?

清洲三奉行と織田信秀

 戦国時代の始まりは応仁の乱だとされます。この戦乱で室町幕府の支配と権威は地に堕ち、群雄割拠の時代に突入しました。三管領家のうち、畠山氏・斯波氏は没落し京都を離れ各々の領国に活路を求めました。細川氏は京都に留まり以後管領職を独占します。もっとも他の幕府役職は有名無実なものになりましたから、単なる名目上の地位にすぎなくなりました。
 その細川氏でさえ下克上の波はやってきました。阿波守護代三好氏の台頭です。細川氏にはほかにも摂津守護代薬師寺氏や讃岐守護代香西氏など多くの重臣がいました。ところが三好氏は阿波のみならず細川領国全体の守護代として主家を凌ぐ勢いを持つようになります。その代表が三好長慶でした。
 余談が続きますが興味深い話なので続けると、三好氏台頭の理由は阿波という国の安定性が大きかったのではないかと考えます。阿波守護職を世襲したのは細川一門でも嫡流京兆家に次ぐ家格を持つ下屋形阿波細川氏。他の守護領国が近隣の大名との戦争で安定しなかったのに対し、阿波は下屋形家の支配の下戦国期を通じて安定しました。細川京兆家の当主は、中央の争いに敗れると阿波に逃れ、そこで勢力を回復して再び上洛するという事を繰り返します。言わば下屋形阿波細川氏が、細川一族全体のパトロンとして後援したのです。となれば阿波守護代三好氏の発言権が大きくなるのも当然でした。
 細川氏は三好氏に下克上され、三好氏の傀儡になり下がります。足利将軍家はすでに管領細川氏の傀儡でしたから、三好長慶は二段階上の存在である足利将軍をも操る存在になったのです。しかし長慶の晩年、三好家は家宰(筆頭家老)松永久秀に乗っ取られます。
 これを尾張に当てはめると、中央の細川氏に当たるのが尾張守護斯波氏、三好氏に相当するのが守護代両織田氏(岩倉、清洲)、松永弾正に当たるのが織田弾正忠信秀でした。久秀と信秀、同じ弾正で共通するのは歴史の皮肉ですね。
 さて尾張に目を転じると、尾張下四郡守護代織田大和守家には重臣として三奉行と呼ばれる有力家臣がいました。織田因幡守、織田藤左衛門、織田弾正忠の三氏です。因幡守家は居城不明ですが藤左衛門家は小田井城(清須市)を居城とします。弾正忠家は最初津島に城(館?)を持っていましたが、信秀の父信定の時代に勝幡城(しょばたじょう、愛知県愛西市勝幡町と稲沢市にまたがる)を築き拠点を移しました。
 織田弾正忠家が台頭したのは、なんといっても尾張のみならず東海地方有数の交易港だった津島湊を支配した事です。過去記事『織田家と津島港(湊)』で詳しく書きましたが、津島湊からあがる莫大な関税は弾正忠家の財政を潤しました。推定ですがその経済力は数千の傭兵を養えるほどだったと言われます。信秀の時代、伊勢神宮修理費700貫、朝廷へ禁裏修理費4000貫献上という記述はいかに財政が豊かだったかの証明でした。

 織田信秀(1510年~1551年)と言えば有名な織田信長の父です。最初信秀は、同じ三奉行の一人織田藤左衛門と争いました。藤左衛門は一向一揆勢力と結びつき尾張での勢力拡大を図っていました。これを見ても守護斯波氏はおろか直接の主君守護代織田大和守ですら統制が及ばなくなっていた事が分かります。

 信秀は、藤左衛門を合戦で降し清洲織田家最大の実力者となりました。当時尾張は、東から駿河今川氏の圧力、北からは土岐氏を下克上した斎藤道三が窺っていました。尾張の織田一族は、国内では対立しますが尾張全体の危機となると団結します。その指揮官として信秀を選んだのです。信秀が美濃を攻めた時、三奉行の因幡守はもとより岩倉織田氏の勢力まで糾合し、実に9千という大軍を集めたそうです。この戦は、斎藤道三の反撃で失敗しましたが、信秀は尾張の旗頭として大きな存在となっていきます。

 天文元年(1532年)、信秀は今川氏豊(駿河守護今川氏親の庶子、あるいは一族といわれる)から那古野城(名古屋市中央区、後の名古屋城)を奪い居城としました。その後天文八年(1539年)には古渡城(中央区)、天文十七年(1548年)には末森城を築き、東へと領土を拡大していきます。

 信秀は、津島を支配することで文化的な事にも理解を示し連歌師を招いて連歌の会を主宰するなど余裕を見せました。彼の政治力が尋常ではないのは、京都に上洛し朝廷に莫大な献金をして従五位下備後守の官位を得た事です。同時に時の将軍足利義輝にも拝謁しました。この時代の地方豪族としては恐るべき慧眼でした。私称にすぎない他の武家の名乗りと違って、朝廷に認められた正式な官位は尾張の旗頭として他の武士を指揮する大義名分となるからです。もっともこれは信秀の単なる朝廷好き、権威好きの側面があった事は否定できませんが。

 天文四年(1535年)隣国三河の松平清康(家康の祖父)が守山崩れで横死すると信秀は三河に雪崩れ込みます。天文九年(1540年)には松平氏の重要拠点安祥城を攻略しました。これがきっかけとなり松平氏は駿河の今川義元に屈服し、織田信秀の侵略に対抗しようとします。今川織田の対立は松平竹千代(後の家康)の人質強奪事件に発展しました。

 織田氏と今川氏は三河を戦場に第一次小豆坂合戦(1542年)、第二次小豆坂合戦(1548年)など激しくぶつかります。一進一退の攻防で、三河の支配権はどちらに転ぶか分からなくなります。美濃の斎藤道三とも幾度も干戈を交えました。ただ今川・斎藤と強敵を同時に相手にするのはじり貧に陥るので、天文十八年(1549年)信秀の嫡男信長と道三の娘濃姫(帰蝶など色々な名前が出ているが本名不明)との政略結婚で和睦が成立します。

 このままいけば、信秀は外征によって尾張を纏め主家織田大和守家を滅ぼし、岩倉織田氏も降し守護斯波氏を傀儡として戦国大名に成長していたと思います。ところが天文二十年(1551年)、流行病(脳卒中という説もあり)により末森城で急死しました。享年42歳。

 後を継いだのは嫡男信長です。信長の覇業は、父信秀の基礎があったからだとも言えます。信秀はなかなか興味深い人物だと思います。

尾張織田氏の台頭 (後編)

 斯波武衛家(嫡流)第九代当主斯波義建(1435年~1452年)は若年で家督を継いだため、一族越前大野斯波氏の持種と執事甲斐常春の後見を受けていました。持種と甲斐常春は斯波武衛家の主導権を争い暗殺騒ぎまで起こします。そんな中、義建はわずか18歳で世を去りました。
 義建の晩年(といっても18歳だが)、持種の子義敏を養子に迎えます。義建の死で斯波武衛家の嫡流は絶えたのですが、家督を継承した斯波義敏(1435年~1508年)は養子というより義建と年齢がほとんど変わらなかったため、執事甲斐氏(越前守護代も兼任)との対立はますます先鋭化しました。三管領家の一つ斯波家のごたごたを見て、足利八代将軍義政は義敏の家督を廃し同じ足利一門渋川義鏡(よしかね)の子義廉に斯波家督を継がせました。これには甲斐氏勢力の暗躍があったのは言うまでもありません。
 ところが義政は、寛正六年(1465年)義敏側の運動が功を奏し赦免してしまうのです。これは将軍義政の有力守護勢力削減策だったのかもしれませんが、同じ三管領家畠山氏の家督争いとともに応仁の乱の原因となります。この頃の尾張守護代は義廉派の織田伊勢守敏広でした。
 畠山氏の家督争い、そして斯波武衛家の家督争いに将軍家跡目争い(義政の子義尚と義政の弟義視)まで加わって応仁元年(1467年)ついに応仁の乱が勃発します。これも直接の引き金は、その前年将軍義政が突如斯波氏家督を義廉から取り上げ義敏に再び与えた事でした。さらに義敏には尾張・越前・遠江の守護職まで与えられます。家督とすべての守護領国を奪われた義廉は怒ります。そして義廉と姻戚関係にあった有力守護山名宗全も激高しました。
 足利義政の無能ぶりには溜息しか出ません。いくら有力守護の勢力を削ぐにしてももっと上手い方法がいくらでもあったはず。もっともやってはならぬ方法を犯したのですから争いにならない方が不思議でした。おそらく義政はそこまで深く考えて行動したのではなかったかもしれません。
 時の幕府管領は細川勝元でした。もともと宗全と勝元は対立していたわけですから、この両者を総大将にして天下を二分する応仁の大乱が起こるのです。これまでの経緯から義廉は当然山名方(西軍)に付きます。義廉と対立する義敏は細川方(東軍)に味方しました。
 義廉、義敏両派は京都のみならず領国の尾張、越前でも激しく戦います。この間、斯波氏が一時守護をしていた遠江は完全に駿河の今川氏に奪われました。もともと遠江は今川氏の守護領国で今川一門や被官も多かったので当然の結果だったとも言えます。これで斯波氏の守護領国は尾張・越前のみとなりました。
 応仁の乱は泥沼となり、決着がつかぬまま文明九年(1477年)有耶無耶のうちに終息します。ところが斯波氏にとっては激変となりました。東軍細川勝元は、西軍斯波義廉の有力武将朝倉孝景(1428年~1481年)を調略し、寝返らせ越前守護代職を与えるのです。孝景は、対立していた斯波家執事甲斐敏光(常春の子)と合戦して叩き出し、越前を完全に領国化します。これが戦国大名朝倉氏の始まりでした。さらに朝倉孝景には越前守護職も与えられます。
 これで斯波氏は尾張一国だけとなりました。その尾張も義廉方と義敏方が鋭く対立します。この頃東軍尾張守護は義敏の子義良(よしすけ)に代わっていました。義良と守護代織田大和守敏定は清洲(清須)城に籠ります。一方西軍守護義廉と守護代織田伊勢守敏広は岩倉城に拠りました。義廉方には美濃守護代斎藤妙椿(みょうちん)が加勢します。
 文明十一年(1479年)尾張においてもようやく和睦が成立します。これにより尾張上四郡(葉栗、丹羽、中島、春日井)守護代職を伊勢守敏広が持ち、下四郡(海東、海西、知多、愛智)守護代職を大和守敏定が貰いました。この頃、斯波義廉や義良は守護代織田氏の傀儡となっており完全に力を失います。義廉はその消息すら不明になり、一応義良の子孫が斯波武衛家家督を継承しました。
 以後上四郡守護代織田伊勢守家と下四郡守護代織田大和守家による尾張分割支配が成立します。敏広と敏定は従兄弟同士だと言われます。本来の嫡流は伊勢守敏広だったそうですが、守護斯波義良を擁する清洲の大和守敏定の家系が有力となっていきます。そして清洲城主織田大和守家の三奉行から織田信長を生む織田弾正忠家が台頭するのです。

尾張織田氏の台頭 (前編)

 最近、『愛知県の歴史』(山川出版)を読んだんですが、有名な織田信長の先祖の家系がはっきり分からないという記述がありました。出自も謎なら、信長の家系織田弾正忠家ももともとは尾張下四郡守護代織田大和守家の三奉行の一人にすぎず、信長の祖父信定の時代に急速に台頭します。ちなみに尾張上四郡守護代は織田伊勢守家でした。(上の系図は居城が逆。大和守家が清洲城、伊勢守家が岩倉城)
 
 ではこれら織田一族がどうして尾張に土着し、勢力を蓄えたかに興味を覚えました。『愛知県の歴史』の記述を参考に考察したいと思います。
 その前に、織田一族の主君で三管領家の一つ、斯波一族の嫡流斯波武衛家から語らなければなりますまい。斯波氏は足利家氏から始まる家系で、初代家氏が奥州斯波郡(岩手県斯波郡と盛岡市の一部)を領した事から斯波氏を名乗ります。もっとも南北朝期までは足利氏を名乗っており、勢力を持っていた尾張の国にちなみ尾張足利氏を称していました。
 過去記事でも書きましたが、家氏は泰氏の長男です。足利宗家を継いだは弟頼氏で、これは時の権力者北条得宗家から妻を娶ったからに過ぎず、そのため足利宗家も北条氏も家氏の家系には気を使いました。斯波氏は本来は足利家の嫡流という意識が抜けず、四代高経が室町幕府の管領就任を打診された時も「管領と言えども将軍家の家来にすぎない。我が家が将軍家の臣下になることはできない」と断ったくらいです。
 時代の流れには勝てず、高経の四男義将が斯波氏で初めて管領に就任します。この義将の子孫が斯波氏の嫡流となり、代々左右兵衛督(ひょうえのかみ)の官職を世襲した事から唐風に斯波武衛家と呼びました。
 斯波武衛家は管領職の他に尾張と越前という大国(どちらも江戸期の石高で50万石以上)の守護職を世襲します。守護領国の数は多くても貧しい山陰地方が本拠地の山名氏や同じくそれほど石高が高くない四国が根拠地の細川氏と対抗できたのは、尾張・越前の経済力のおかげでした。
 もともと尾張が本拠地だった斯波氏は、室町初期には越前に本拠を移していました。というのも四代高経が越前守護となり新田義貞を藤島で討ち取るという大功をあげたからです。越前は南朝勢力の強い国だったため斯波高経は越前経営に腐心しました。
 と言っても斯波氏は幕府の管領として京都に常駐する必要があり、斯波氏が越前不在の時は守護代甲斐氏と朝倉氏が守護所に居て国内を統治します。大国だけに守護代も二人設けていたのでしょう。一方、重要な領国である尾張にも守護代を設ける必要が生じました。
 尾張守護代には越前の国人、織田氏が抜擢されます。織田氏の出自は藤原氏とも平氏とも言われはっきりしません。越前国丹生郡織田荘の荘官出身で織田剣神社の神官も兼ねていたようです。あくまで私の想像ですが家紋の似ている朝倉氏と同様日下部氏の後裔ではないかとも考えています。朝倉氏も織田氏も共に木瓜紋ですから。
 尾張の守護代を越前から持ってくるというのもこの頃の斯波氏の本拠が越前だった証拠で、余程斯波氏の下で武功をあげたか、朝倉氏の関係で引き上げられたかのどちらかでしょう。織田氏が尾張に入部したのは斯波氏六代義教(義重から改名、1371年~1418年)の応永年間だと伝えられます。この時の織田氏の当主を織田常松(じょうしょう)といいました。常松というのは出家後の法名で教信というのが出家前の名前だったと言われます。
 それまでの尾張守護代は甲斐氏で、守護義教の不興を買ったので交代させられたのでしょう。この時織田常松が守護所を設けたのは下津(おりつ、稲沢市)でした。『愛知県の歴史』によると、この時織田中務入道、同蔵人入道、同左近入道、同九郎、同左兵衛尉教継など多くの織田一族が尾張に入り勢力を広げました。おそらく本国越前は甲斐氏や朝倉氏の勢力が強すぎ、尾張に新天地を求めての移住だったのでしょう。
 後編では織田氏の尾張領国化、織田大和守、織田伊勢守という両守護代家の成立、織田弾正忠家の台頭を描きます。

細川顕氏と奥州家、和泉国守護の関係

 超マニアックで誰もついてこれないと思いますので、捨て置いて下さい(笑)。
 最近、YOUTUBEで懐かしのNHK大河ドラマ『太平記』を全話見たんですよ。その中に出てくる森次晃嗣演じる細川顕氏、なかなか味があって好きになりました。ドラマ中では尊氏の弟直義の側近として観応の掾乱では尊氏、高師直一派と対立するも、いつのまにか尊氏派に寝返り讃岐・河内・和泉守護と侍所頭人など幕府の高官を務めるなど世渡り上手なところに惚れました。
 実際の顕氏も、細川嫡流の和氏亡きあと弟頼春とともに細川一族を支え陸奥守の官位から奥州家の祖になりました。ところが調べてみると顕氏の時代には奥州家は三カ国の守護職と幕府の顕職を保ちますが、子の繁氏、孫の業氏の時代に讃岐守護を嫡流京兆家の頼之(頼春の子)に奪われ、和泉国守護職も業氏の死後は、京兆家の庶流である和泉上守護家(刑部家)と和泉下守護家に奪われます。
 ではその後奥州家がどうなったかと見てみると、幕臣としての地位は保ったようなのです。しかもある程度細川一門の中で権威はあったらしく、和泉上守護家出身の細川藤孝の子忠興は奥州家輝経の養子となって奥州家を形の上では継承しています。ですから肥後熊本藩細川家は和泉上守護家ではなく細川奥州家を名乗りました。
 それにしても森次晃嗣(ウルトラセブン)、大河ではなかなか良い役を演じてますね。草燃えるでは畠山重忠、徳川家康では戸田宣光(竹千代【後の家康】を織田信秀に銭五百貫文で売っ払った人)ですからね。もっとも史実では竹千代を織田家に売ったのは宣光の父康光らしいですが…。

稲作朝鮮半島伝播の歴史

 この記事は、過去記事 『稲の道、文明の道』の続編です。
             http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/52196752.html
 過去記事では、稲作が朝鮮半島から渡ったのではなく支那長江下流域から直接日本に渡ったと推測しました。米はもともと熱帯から温帯にかけてが発祥の地で寒冷地である朝鮮半島から温暖な日本に伝播するのは物理的にちょっと考えにくいと思ったからでした。ただ当時は科学的・学問的裏付けが無いと書いたと思います。
 その後忘れていたんですが、ちょうどココログのミラーブログ記事『新羅日本人国王説』に「新羅の王統は昔氏の他に金氏と朴氏も日本人の可能性がある」というコメントを頂いたんです。調べていくうちに、新羅王朝の成立より稲作の伝播そのものを調べる方が早いと分かりここに再び書く事となりました。
 現在は否定的意見も出てきましたが、戦後長く稲作は支那山東半島から朝鮮半島を通じて日本に伝播したという説が有力でした。ところが地理の知識があればこの説はおかしい事に容易に気付きます。支那大陸は南船北馬といって淮河を境にして稲作地帯と麦作地帯が分かれます。山東半島でも稲作は一部行われていますが麦作と並立していてメインは麦作です。なぜなら寒冷地では稲は育ちにくいからです。
 現在確認されている日本最古の稲作遺跡は縄文時代後期の岡山県南溝手遺跡と津島岡大遺跡で約3500年前。ただこれは水田耕作で栽培されたものではなく陸稲だったそうです。確実な水田耕作が確認されているのは佐賀県唐津市の菜畑遺跡で約2700年前です。
 一方、朝鮮半島における稲作(水田耕作)遺跡は1500年より前には遡れないそうです。ただ朝鮮人によればまだ遺跡が見つかってないだけだそうですが(苦笑)。
 最近、遺伝子工学研究のおかげで稲作朝鮮半島伝播説が否定されました。ウィキの該当部分を見てみましょう。
温帯ジャポニカの遺伝子のSSR領域にはRM1-aからhの8種類のDNA多型が存在する。
  • 中国にはRM1-aからhの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続く。
  • 朝鮮半島にはRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多い。朝鮮半島ではRM1-bを持つ品種は存在しない。
  • 日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多い。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本を中心に発見されている。
  • 登呂遺跡出土物の研究により、弥生時代後期には温帯ジャポニカ型と熱帯ジャポニカ型が栽培され、両者のイネが自然交雑していたことを示唆する結果が得られている[53]
農学者の佐藤洋一郎は「はじめに南から陸稲がやってきて畑稲作として定着し、つづいて中国から(あるいは朝鮮半島南部を経由して)水田稲作と水稲が渡来したと考える。」いう仮説を提唱していいる。
 何の事かチンプンカンプンでしょうから、私なりに分かりやすく解説すると
①米には大きく分けてジャポニカ米とインディカ米の二種類がある。
②ジャポニカ米は温帯ジャポニカ米と熱帯ジャポニカ米に分類される。
③稲の源流である野生種は多年生で同じ多年生のジャポニカ米が最初に誕生し伝播の過程で一年生のインディカ米が生まれた。
④本格的水田耕作は長江流域(長江文明?)で始まりだいたい6000年前頃。
⑤長江流域の稲作遺跡にはすべての米の遺伝子型(8種類)が存在する=稲作発祥の地。
⑥朝鮮半島の米には温帯ジャポニカ米の遺伝子だけ存在しない(=寒冷地で生育しないから)。
⑦日本には温帯ジャポニカ米と熱帯ジャポニカ米の二種類の品種特性遺伝子が存在する。
⑧半島に温帯ジャポニカ米の遺伝子が存在しないのに日本に伝播させることは不可能。
⑨上記のことから朝鮮半島に大陸から渡ったのは陸稲ということになる。
⑩水稲は日本から朝鮮半島に渡ったと解釈するのが科学的。日本へは大陸から直接伝播した。
 実は上の米の遺伝子研究、支那の政府機関が20年に渡って満洲で行った品種調査の結果なんですよね。だからどう足掻いても長江流域→日本→朝鮮半島という稲作伝播の流れにしかならないんですよ(苦笑)。 もう一つ駄目押しを書いておくと、韓国の学会では水田耕作不適地の山東半島からの稲作伝播説に固執し長江下流域から直接伝播の可能性を議論しないのだとか。なぜかというと長江下流域からだと同時に日本にも伝播した可能性を否定できず、そうなると稲作が半島から日本に伝播したという従来の説が非現実的になるからだそうです。語るに落ちるとはこの事。
 加えて半島南部に和人が住んでいた事は魏志倭人伝(正確には魏志東夷伝倭人条)にもはっきり書かれています。

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里)

 狗邪韓国を倭の領土の北端と取るか倭との境界と取るかで解釈は分かれます。ところが同じ魏志東夷伝韓条で
韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある[4]
 と書かれており、倭が半島南部にも領土を持っている事がはっきり分かります。
 これを私は日本(大和朝廷)が征服したと見るより古代海洋民族である縄文人が半島南岸にも進出し定住した結果だと思っています。現在の朝鮮人(源流はツングース系エベンキ族)は当時この地に存在せず半島南部には百済、任那、新羅の元となった海洋民族(東夷系)、支那からの亡命者、和人が混在していたと見ます。そのうちもっとも和人率の高い所(倭人居住区域+弁韓)が任那に発展していったのでしょう。その傍証として縄文土器が半島南部からも見つかっているそうですよ。
 そういう見地から見ると、新羅の三王統がすべて日本人であったとしても不思議ではないと考えます。加えて言うと、韓国全羅道で発見されている日本式の前方後円墳、日本が3世紀発祥で韓国では5世紀末ですから日本から文化が伝わったのは確実。被葬者が日本式の甲冑をまとい、九州系横穴式石室が見られる事から日本人で間違いないと思います。古代の日本人は半島南部を日本だと考え行き来していたのでしょう。大和朝廷は半島南部に国司を派遣していたそうですからその中の一人でしょうね。
 大和朝廷が半島情勢にあれほど固執した理由も、半島南部が日本だったと解釈すると説明できます。百済も新羅も日本に服属し人質を送っていました。日本が百済を援けて唐・新羅連合軍と白村江で敗れた後はじめて半島の日本領(+傀儡政権の百済)を諦めたのだと思います。百済滅亡時、数多くの百済人が日本に亡命したそうですが、それ以上に半島にいた日本人も列島に渡ったのでしょう。

 皆さんはどう思われますか?

ゲッベルスの宣伝戦争

 「嘘も百回言えば真実になる」この言葉を聞いた事があると思います。発言したのはナチスドイツ帝国宣伝大臣パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(1897年~1945年)。
 この言葉は宣伝と洗脳の本質を衝いた言葉だとされます。もっとも本人の発言ではなくゲッベルスに対立する勢力が流したものともされますが…。ゲッベルスは泡沫政党であった国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を宣伝の力により政権政党に押し上げヒトラーの独裁国家を建設に大きく貢献した一種の天才でした。
 ゲッベルスは、1897年プロイセン王国ライン州の小都市に生まれます。父は職工母はオランダからの帰化人と決して恵まれた家系ではありませんでした。4歳のときに小児麻痺にかかり足が不自由になります。成人してからも小柄で生涯のコンプレックスになったそうです。
 しかし彼は、周囲から時には悪魔的とさえ評される頭脳の持ち主でした。奨学金で大学に進むも冷酷な性格を教授たちに嫌われ博士号取得を妨害されたりしたため深い恨みを抱きます。実はこの教授たちユダヤ人でした。もしゲッベルスが学者として世に出ていたら後のナチス政権もユダヤ人虐殺もなかったかもしれないと思うと歴史の皮肉を感じますね。
 ゲッベルスが社会に出た時、ドイツは第1次大戦の結果極度のインフレに見舞われ政治も無策無能なワイマール共和国であったため国民は塗炭の苦しみを味わっていました。こういうときに台頭するのは、極右と極左です。彼らなら何とかしてくれるかもしれないという大衆の願いが極端な主張を行う政治勢力に向けられるのはある意味仕方ない事でした。
 ゲッベルスは最初共産主義運動に興味を示しますが、あるとき泡沫政党であったナチスを知ります。別にナチスの思想に共鳴したわけではなく現状に不満を抱く者が流されて行きついた先だったのでしょう。社会に恨みを抱き何とか現状を変革しようともがいていたゲッベルスは、アドルフ・ヒトラーという一人の人物と出会います。
 ヒトラーは、これまでゲッベルスが会った事のない強烈なカリスマの持ち主でした。最初ゲッベルスは、党内でヒトラーとは対立する勢力に属していましたが、ヒトラーを奉じてドイツを変えられるのではないかと考えます。ヒトラーもまたゲッベルスの特異な才能を見抜いていました。
 ヒトラーに心酔したゲッベルスは、以後ナチス党首に就任したヒトラーのために得意の宣伝で政権奪取を図ろうと動き出します。その結果、ナチス党は1928年国政選挙で12議席獲得したのを皮切りに1930年には107議席で第二党、1932年には230議席で第一党に躍り出ました。1933年ヒトラー内閣が発足、同年3月には宣伝省が設けられゲッベルスは宣伝大臣に就任します。その後の経過はご存じの通り。最終的には第2次世界大戦を起こしヒトラーはベルリンで自殺します。ゲッベルスもまた妻子とともに運命を共にしました。
 本稿では、ゲッベルスがどのような手段で政権を取ったか考察しようと思います。
 ゲッベルスは大衆を2つのタイプに分けていました。自分で考え行動する知識層。他人の考えに影響され流されて行く愚民層。知識層に対してはゲッベルスが理路整然と演説し理に訴え、愚民層にはヒトラーが感情論で訴えるという二段構えの作戦を取ります。
 政権を取るには圧倒的多数派の愚民層を味方につけるしかないとゲッベルスは考えていました。そのため演説会や党大会では暗闇の中でサーチライトを照らし大音響の音楽を流し聴衆を催眠状態に陥らせます。そこへヒトラーが理ではなく感情に訴える演説を行うのですから聴衆は熱狂します。一度熱狂した大衆は周囲にこの興奮を伝え半信半疑の者も次の演説会では信者となるのです。これが急速に支持者を獲得できた理由でした。
 また、愚民は本を読まず頭で考えないのでゲッベルスはポスターを町中に貼って視覚的に訴えます。画像そのものがサブリミナル効果で知らず知らずのうちに大衆はナチスを受け入れる空気になりました。愚民が雰囲気で動く事を知っていたゲッベルスは、映画スターを買収しナチス支持者にして扇動させます。この方法でも多くの支持者を獲得しました。
 マスメディア対策としては、直接新聞社を購入しナチス支持の記事を書かせました。これで一定の知識層を取り込みます。これら一連の活動は当然莫大な資金が必要です。どこから来ていたかというと共産党政権になっては困る資本家たちからでした。ですからナチスの党勢が拡大すればするほど活動資金が流入する仕組みです。ナチスが雪だるま式に膨れ上がったからくりでした。
 ゲッベルスは心理学にも造詣が深かったと思います。次に紹介するのはゲッベルスの言葉です。
「娯楽の中に宣伝を刷り込ませ、相手に宣伝と気づかれないように宣伝を行う、宣伝したい内容を直接キャッチフレーズ化して強調・連呼せず、心の中で思っているであろう不満・疑問・欲望を遠まわしに刺激し暴発させる、もっとも速度の遅い船に船団全体の速度を合わせる護送船団の如く、知識レベルの低い階層に合わせた宣伝を心がける」

「どのような種類の宣伝がより有効かといったことを決定する理論的根拠はない。望ましい結果を生む宣伝はみな良い宣伝で、それ以外の宣伝はみな悪い、たとえそれがどれほど面白そうな物であっても。なぜなら宣伝の目的は人を面白がらせることではなく、『好結果を生むこと』であるから。それゆえに一つの宣伝を目して、これを粗野だとか下品だとか野蛮だとか公正を欠くなどと批評することは見当違いもはなはだしい。なぜならば、宣伝とは自分と同じ心理を認める人を探し求めようとする行為だからである。」

「プロパガンダの秘訣とは、狙った人物を、本人がそれとはまったく気づかぬようにして、プロパガンダの理念にたっぷりと浸らせることである。いうまでもなくプロパガンダには目的がある。しかしこの目的は抜け目なく覆い隠されていなければならない。その目的を達成すべき相手が、それとまったく気づかないほどに。」

「もしあなたが十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば、人々は最後にはその嘘を信じるだろう。嘘によって生じる政治的、経済的、軍事的な結果から人々を保護する国家を維持している限り、あなたは嘘を使える。よって、国家のために全ての力を反対意見の抑圧に用いることは極めて重要だ。」(おそらく嘘も百回~の語源)

「政治家は不人気な政策を実行しなければならないときもある。しかし不人気な政策というのは入念に準備し、大衆を納得させた上で実行されねばならない。庶民の知性をバカにしてはいけない。不人気な政策の被害を最も受けるのはたいていの場合庶民なのだから、なぜそうしなければいけないのか、庶民にはその理由を知る権利がある。だからあらゆる政策の実行は説得力にかかっている。厳しい真実をむやみに明らかにするのは愚鈍だが、危機というのは政治的、経済的、そして心理的に準備した上で開示されねばならない。プロパガンダの役割はここにある。国民を啓蒙し、政策実行の下慣らしをするのだ。目的を見失うことなく、あらゆるプロセスにおいてサポートする。いわば会話にBGMを提供するようなものである。そうすると、不人気な政策もやがて人気を得るようになり、国民の断固とした支持のもと、政府は難しい決定を実行に移せるようになる。プロパガンダに優れた政府は、大衆の支持を失うことなく、必要な政策を実行できるのだ。」
 読んでいて戦慄を覚えませんか?しかしゲッベルスが完成させた手法は社会主義勢力だけでなくアメリカはじめ自由主義陣営でも頻繁に使われました。彼らはゲッベルスを深く研究したのです。日本のマスゴミが使う手法もゲッベルスの手法そっくりだと気付くでしょう。
 私は反日勢力が日本を貶めてきた手法を学ぶことは反撃するためにも重要だと考えています。ですからゲッベルスを紹介したのです。

« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »