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2016年9月 2日 (金)

尾張織田氏の台頭 (前編)

 最近、『愛知県の歴史』(山川出版)を読んだんですが、有名な織田信長の先祖の家系がはっきり分からないという記述がありました。出自も謎なら、信長の家系織田弾正忠家ももともとは尾張下四郡守護代織田大和守家の三奉行の一人にすぎず、信長の祖父信定の時代に急速に台頭します。ちなみに尾張上四郡守護代は織田伊勢守家でした。(上の系図は居城が逆。大和守家が清洲城、伊勢守家が岩倉城)
 
 ではこれら織田一族がどうして尾張に土着し、勢力を蓄えたかに興味を覚えました。『愛知県の歴史』の記述を参考に考察したいと思います。
 その前に、織田一族の主君で三管領家の一つ、斯波一族の嫡流斯波武衛家から語らなければなりますまい。斯波氏は足利家氏から始まる家系で、初代家氏が奥州斯波郡(岩手県斯波郡と盛岡市の一部)を領した事から斯波氏を名乗ります。もっとも南北朝期までは足利氏を名乗っており、勢力を持っていた尾張の国にちなみ尾張足利氏を称していました。
 過去記事でも書きましたが、家氏は泰氏の長男です。足利宗家を継いだは弟頼氏で、これは時の権力者北条得宗家から妻を娶ったからに過ぎず、そのため足利宗家も北条氏も家氏の家系には気を使いました。斯波氏は本来は足利家の嫡流という意識が抜けず、四代高経が室町幕府の管領就任を打診された時も「管領と言えども将軍家の家来にすぎない。我が家が将軍家の臣下になることはできない」と断ったくらいです。
 時代の流れには勝てず、高経の四男義将が斯波氏で初めて管領に就任します。この義将の子孫が斯波氏の嫡流となり、代々左右兵衛督(ひょうえのかみ)の官職を世襲した事から唐風に斯波武衛家と呼びました。
 斯波武衛家は管領職の他に尾張と越前という大国(どちらも江戸期の石高で50万石以上)の守護職を世襲します。守護領国の数は多くても貧しい山陰地方が本拠地の山名氏や同じくそれほど石高が高くない四国が根拠地の細川氏と対抗できたのは、尾張・越前の経済力のおかげでした。
 もともと尾張が本拠地だった斯波氏は、室町初期には越前に本拠を移していました。というのも四代高経が越前守護となり新田義貞を藤島で討ち取るという大功をあげたからです。越前は南朝勢力の強い国だったため斯波高経は越前経営に腐心しました。
 と言っても斯波氏は幕府の管領として京都に常駐する必要があり、斯波氏が越前不在の時は守護代甲斐氏と朝倉氏が守護所に居て国内を統治します。大国だけに守護代も二人設けていたのでしょう。一方、重要な領国である尾張にも守護代を設ける必要が生じました。
 尾張守護代には越前の国人、織田氏が抜擢されます。織田氏の出自は藤原氏とも平氏とも言われはっきりしません。越前国丹生郡織田荘の荘官出身で織田剣神社の神官も兼ねていたようです。あくまで私の想像ですが家紋の似ている朝倉氏と同様日下部氏の後裔ではないかとも考えています。朝倉氏も織田氏も共に木瓜紋ですから。
 尾張の守護代を越前から持ってくるというのもこの頃の斯波氏の本拠が越前だった証拠で、余程斯波氏の下で武功をあげたか、朝倉氏の関係で引き上げられたかのどちらかでしょう。織田氏が尾張に入部したのは斯波氏六代義教(義重から改名、1371年~1418年)の応永年間だと伝えられます。この時の織田氏の当主を織田常松(じょうしょう)といいました。常松というのは出家後の法名で教信というのが出家前の名前だったと言われます。
 それまでの尾張守護代は甲斐氏で、守護義教の不興を買ったので交代させられたのでしょう。この時織田常松が守護所を設けたのは下津(おりつ、稲沢市)でした。『愛知県の歴史』によると、この時織田中務入道、同蔵人入道、同左近入道、同九郎、同左兵衛尉教継など多くの織田一族が尾張に入り勢力を広げました。おそらく本国越前は甲斐氏や朝倉氏の勢力が強すぎ、尾張に新天地を求めての移住だったのでしょう。
 後編では織田氏の尾張領国化、織田大和守、織田伊勢守という両守護代家の成立、織田弾正忠家の台頭を描きます。

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