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2016年9月 2日 (金)

稲作朝鮮半島伝播の歴史

 この記事は、過去記事 『稲の道、文明の道』の続編です。
             http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/52196752.html
 過去記事では、稲作が朝鮮半島から渡ったのではなく支那長江下流域から直接日本に渡ったと推測しました。米はもともと熱帯から温帯にかけてが発祥の地で寒冷地である朝鮮半島から温暖な日本に伝播するのは物理的にちょっと考えにくいと思ったからでした。ただ当時は科学的・学問的裏付けが無いと書いたと思います。
 その後忘れていたんですが、ちょうどココログのミラーブログ記事『新羅日本人国王説』に「新羅の王統は昔氏の他に金氏と朴氏も日本人の可能性がある」というコメントを頂いたんです。調べていくうちに、新羅王朝の成立より稲作の伝播そのものを調べる方が早いと分かりここに再び書く事となりました。
 現在は否定的意見も出てきましたが、戦後長く稲作は支那山東半島から朝鮮半島を通じて日本に伝播したという説が有力でした。ところが地理の知識があればこの説はおかしい事に容易に気付きます。支那大陸は南船北馬といって淮河を境にして稲作地帯と麦作地帯が分かれます。山東半島でも稲作は一部行われていますが麦作と並立していてメインは麦作です。なぜなら寒冷地では稲は育ちにくいからです。
 現在確認されている日本最古の稲作遺跡は縄文時代後期の岡山県南溝手遺跡と津島岡大遺跡で約3500年前。ただこれは水田耕作で栽培されたものではなく陸稲だったそうです。確実な水田耕作が確認されているのは佐賀県唐津市の菜畑遺跡で約2700年前です。
 一方、朝鮮半島における稲作(水田耕作)遺跡は1500年より前には遡れないそうです。ただ朝鮮人によればまだ遺跡が見つかってないだけだそうですが(苦笑)。
 最近、遺伝子工学研究のおかげで稲作朝鮮半島伝播説が否定されました。ウィキの該当部分を見てみましょう。
温帯ジャポニカの遺伝子のSSR領域にはRM1-aからhの8種類のDNA多型が存在する。
  • 中国にはRM1-aからhの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続く。
  • 朝鮮半島にはRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多い。朝鮮半島ではRM1-bを持つ品種は存在しない。
  • 日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多い。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本を中心に発見されている。
  • 登呂遺跡出土物の研究により、弥生時代後期には温帯ジャポニカ型と熱帯ジャポニカ型が栽培され、両者のイネが自然交雑していたことを示唆する結果が得られている[53]
農学者の佐藤洋一郎は「はじめに南から陸稲がやってきて畑稲作として定着し、つづいて中国から(あるいは朝鮮半島南部を経由して)水田稲作と水稲が渡来したと考える。」いう仮説を提唱していいる。
 何の事かチンプンカンプンでしょうから、私なりに分かりやすく解説すると
①米には大きく分けてジャポニカ米とインディカ米の二種類がある。
②ジャポニカ米は温帯ジャポニカ米と熱帯ジャポニカ米に分類される。
③稲の源流である野生種は多年生で同じ多年生のジャポニカ米が最初に誕生し伝播の過程で一年生のインディカ米が生まれた。
④本格的水田耕作は長江流域(長江文明?)で始まりだいたい6000年前頃。
⑤長江流域の稲作遺跡にはすべての米の遺伝子型(8種類)が存在する=稲作発祥の地。
⑥朝鮮半島の米には温帯ジャポニカ米の遺伝子だけ存在しない(=寒冷地で生育しないから)。
⑦日本には温帯ジャポニカ米と熱帯ジャポニカ米の二種類の品種特性遺伝子が存在する。
⑧半島に温帯ジャポニカ米の遺伝子が存在しないのに日本に伝播させることは不可能。
⑨上記のことから朝鮮半島に大陸から渡ったのは陸稲ということになる。
⑩水稲は日本から朝鮮半島に渡ったと解釈するのが科学的。日本へは大陸から直接伝播した。
 実は上の米の遺伝子研究、支那の政府機関が20年に渡って満洲で行った品種調査の結果なんですよね。だからどう足掻いても長江流域→日本→朝鮮半島という稲作伝播の流れにしかならないんですよ(苦笑)。 もう一つ駄目押しを書いておくと、韓国の学会では水田耕作不適地の山東半島からの稲作伝播説に固執し長江下流域から直接伝播の可能性を議論しないのだとか。なぜかというと長江下流域からだと同時に日本にも伝播した可能性を否定できず、そうなると稲作が半島から日本に伝播したという従来の説が非現実的になるからだそうです。語るに落ちるとはこの事。
 加えて半島南部に和人が住んでいた事は魏志倭人伝(正確には魏志東夷伝倭人条)にもはっきり書かれています。

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里)

 狗邪韓国を倭の領土の北端と取るか倭との境界と取るかで解釈は分かれます。ところが同じ魏志東夷伝韓条で
韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある[4]
 と書かれており、倭が半島南部にも領土を持っている事がはっきり分かります。
 これを私は日本(大和朝廷)が征服したと見るより古代海洋民族である縄文人が半島南岸にも進出し定住した結果だと思っています。現在の朝鮮人(源流はツングース系エベンキ族)は当時この地に存在せず半島南部には百済、任那、新羅の元となった海洋民族(東夷系)、支那からの亡命者、和人が混在していたと見ます。そのうちもっとも和人率の高い所(倭人居住区域+弁韓)が任那に発展していったのでしょう。その傍証として縄文土器が半島南部からも見つかっているそうですよ。
 そういう見地から見ると、新羅の三王統がすべて日本人であったとしても不思議ではないと考えます。加えて言うと、韓国全羅道で発見されている日本式の前方後円墳、日本が3世紀発祥で韓国では5世紀末ですから日本から文化が伝わったのは確実。被葬者が日本式の甲冑をまとい、九州系横穴式石室が見られる事から日本人で間違いないと思います。古代の日本人は半島南部を日本だと考え行き来していたのでしょう。大和朝廷は半島南部に国司を派遣していたそうですからその中の一人でしょうね。
 大和朝廷が半島情勢にあれほど固執した理由も、半島南部が日本だったと解釈すると説明できます。百済も新羅も日本に服属し人質を送っていました。日本が百済を援けて唐・新羅連合軍と白村江で敗れた後はじめて半島の日本領(+傀儡政権の百済)を諦めたのだと思います。百済滅亡時、数多くの百済人が日本に亡命したそうですが、それ以上に半島にいた日本人も列島に渡ったのでしょう。

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