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2016年10月

2016年10月12日 (水)

戦国大名駿河今川氏Ⅷ  今川氏の滅亡

 今川義元の横死は今川領国に衝撃を与えます。特に過酷な占領地支配で苦しんでいた三河では、松平広忠の息子松平元康が自立の動きを見せていました。桶狭間の合戦時、今川軍の武将として大高城に入っていた元康は、駿府に帰還せずかつての居城岡崎城に入城します。人質に出されて以来14年ぶりの帰還でした。
 今川家は義元の息子氏真(1538年~1615年)が継ぎますが、この時家督相続をめぐって内乱が起こらなかったのは、それすらできるようなエネルギーが無かったからです。三河では、松平元康が今川勢力を駆逐し着々と領国化を進めました。凡庸な氏真も家臣団も、元康の動きを黙って見守るしかありませんでした。それだけ茫然自失していたのだと思います。
 戦国の世は弱肉強食、今まで今川家は三国同盟に守られていました。しかし氏真の凡庸が知れ渡ると甲斐の武田信玄(晴信)は、今川領を攻め取ろうと画策します。義元の娘を正室に迎えている嫡男義信から猛反対されますが、逆に義信に切腹を命じるほどの非情さを見せました。信玄は、松平元康から改名していた徳川家康に使者を送り、信玄が駿河を、家康が遠江を攻め取ろうと密約します。
 家康はさらに尾張の織田信長と同盟を結び後顧の憂いをなくしました。今川家中では徳川方、武田方双方から調略の手が伸び国人たちが次々と離反します。今川領国がガタガタになったのを確認すると、信玄は永禄十一年(1568年)軍を率い駿河に侵入しました。一方的な同盟破棄に怒った北条氏康は、氏真側に味方し駿河に援軍を送ります。駿河は今川・北条連合軍と武田軍の戦場となりました。この時、有名な塩止めのエピソードがあるのですが、上杉謙信の美談も眉唾で、単に越後ルートの塩を商売のために止めなかっただけだとも言われます。
 駿府は武田軍に落とされ、氏真は重臣朝比奈泰朝の掛川城に逃れました。信玄との密約で遠江に攻め入っていた徳川軍に掛川城は包囲されます。しかし半年の籠城戦に耐え抜きました。ここで家康は方針転換します。北条氏康に使者を送り、今川・北条・徳川で連合し駿河から武田信玄を叩き出そうとしました。が、信玄の用兵は生易しいものではなく結局駿河奪回は失敗、武田領国になりました。すでに多くの今川家臣は信玄に降っています。もはやどうしようもない状況でした。
 
 掛川城は、氏真の命を助けるという条件で開城します。事実上これが南北朝以来駿河・遠江に勢力を誇った今川氏の滅亡でした。結局氏真の器量では厳しい戦国の世で領国を保つ事は出来なかったのです。その後の氏真を描きましょう。
 氏真は一時北条氏に保護されますが、氏康死後北条家が武田家と和睦した事から居辛くなり元亀二年(1571年)かつての家臣徳川家康の庇護下に入ります。氏真は徳川家の客分となり、何度か合戦にも参加したそうですが生来の戦下手で全く活躍できず、天正十九年(1591年)頃には京に居たことが確認されます。蹴鞠の名手で父の仇信長の前でも腕前を披露したそうですが、この時の彼の感情が読めません。案外さばさばとし、父の仇などとは思わなかったかもしれません。信長は絶対権力者、命ぜられるままに機械的に動いただけだったのでしょう。でないと生き残る事は出来ないからです。
 秀吉からも領地を貰い、家康の天下となると近江国に隠居領500石を与えられます。慶長十九年(1615年)12月、江戸において死去。享年77歳。天寿を全うした氏真は、意外と幸せだったかもしれません。家康の名家好きのおかげでしょうが、氏真の孫直房は1000石を与えられ高家となりました。なんとその子孫から幕末に若年寄(範叙)を出しているんですから驚きです。
 同族の吉良上野介があんな目に遭ってる事を思うと、高家今川氏は比較的平穏だったのでしょう。
                                (完)

戦国大名駿河今川氏Ⅶ  今川義元の登場

 今川氏親が家督を相続し嫡男氏輝を次の後継者と定めた後、氏輝の弟たちは嫡流、庶流関係なく皆仏門に入れられます。これは幾度も繰り返された家督相続をめぐる内乱を避けるためでした。氏輝の同母弟芳菊丸もわずか4歳で富士郡瀬古の善得寺に預けられます。出家後の名前は栴岳承芳(せんがくしょうほう)。彼の教育係に選ばれたのが、今川家の重臣庵原(いはら)氏出身の太原崇孚(たいげんそうふ【すうふ】)雪斎でした。
 二人は京都五山に上り勉学に励みます。このまま進めば、僧侶として一生を終るはずでしたが、兄氏輝がわずか24歳で急死したため、母寿桂尼から急きょ呼び戻されます。氏輝は、将来病弱ではありましたが、その死があまりにも急だったため暗殺説、自殺説もあります。
 氏親の正室中御門氏(落飾して寿桂尼)には三人の男子があり、長男が氏輝、次男が彦五郎、三男が栴岳承芳でした。実は氏輝急死と前後して第二継承者の彦五郎も亡くなっています。この辺りの不自然さが暗殺説が囁かれる所以でしょう。栴岳承芳には異母兄玄広恵探があり、この二人が有力な家督候補でした。
 栴岳承芳には雪斎の実家庵原氏や一族の瀬名氏など多くの重臣が味方します。一方玄広恵探の母が福島(くしま)氏出身だったため、武断派の福島正成(くしままさしげ)を中心とした福島一族は恵探を支持しました。福島氏は遠江国土方(高天神)城主。ただこれもはっきりせず、北条氏家臣説もあります。

 最初に動いたのは栴岳承芳派でした。早速環俗させると足利12代将軍義晴に使者を送り偏諱を賜り、義元と名乗らせます。焦った恵探派は天文五年(1536年)5月、久能山で挙兵しました。恵探派は駿府の守護館を襲撃しますが失敗、撤退し方ノ上城(焼津市)、花倉城(葉梨城、藤枝市)を拠点として抵抗しました。この戦いを城の名を取って花倉の乱と呼びます。
 ところが政略的に優位だった義元派が小田原北条氏の援軍を加えて攻撃、花倉城を落とし、逃れた玄広恵探は瀬戸谷普門寺で自害しました。恵探派の主力である福島一族は追放されます。有名な北条氏の重臣北条綱成は、小田原に亡命した福島正成の遺児だと伝えられます。

 こうして、家督(第9代)を相続した義元(1519年~1560年)ですが、状況は厳しさを増しました。氏親の晩年から氏輝の時代にかけて、福島正成が主導して甲斐国に侵入を繰り返し武田家との関係が悪化していました。小田原北条氏もあまりにも大きくなりすぎたため、今川氏との関係がぎくしゃくします。

 義元は、軍師となった雪斎長老の意見を容れまず天文六年(1537年)甲斐守護武田信虎の娘を正室に迎え和睦。これは武田氏と対立していた北条氏綱(伊勢宗瑞の子)の怒りを買い北条軍の侵攻を招きました。その後甲斐では信虎の長男晴信が父を追放して当主となり、北条家でも氏綱が没し息子氏康が継ぎます。

 雪斎は、天文二十三年(1554年)駿河国善徳寺に氏康、晴信を招き義元と両者が互いに婚姻関係を結ぶ事で三国同盟を締結させます。これが善徳寺の会盟です。北条氏は武蔵国へ進出を図り、晴信も信濃へ、義元は三河から尾張と互いに背後を気にする事なく進出できるようになりました。

 三河に侵攻する今川軍を指揮したのは雪斎です。庵原氏出身とはいえここまで軍才があるのですから驚きます。尾張の織田信秀と何度も戦い一進一退の攻防を繰り返しました。そんな中、西三河の松平広忠(家康の父)の帰順を受けます。嫡子竹千代を人質にとり、天文十八年(1548年)広忠が死去すると、重臣朝比奈泰能(掛川城主)を送り込み、事実上の今川領国にしてしまいました。今川氏の三河支配は過酷を極め、松平党は常に先陣を命じられ消耗していきます。
 義元生涯のライバル織田信秀が天文二十年(1551年)死去すると、最大のチャンスが巡ってきました。善徳寺の会盟は、義元上洛の後顧の憂いをなくすという意味もあったのです。当時の今川領国は駿河・遠江・三河に尾張の一部を合わせて80万石強。動員兵力二万五千。永禄三年(1560年)、満を持して義元は立ちます。二万五千全軍を率いて尾張に侵入しました。この時の目的を上洛だとする説、あるいは尾張の完全平定が主目的だとする説がありはっきりしまっせんが、どちらにしろ当面の敵は信秀の後を継いだ信長でした。
 信長に代替わりして、多くの国人が今川方に寝返ります。当時の信長の動員兵力は二千までに激減していました。通常なら籠城戦です。ところが信長は出撃を選びます。この時今川軍には軍師雪斎(1555年死去)の姿はなく、自ら戦を指揮した経験の少ない義元は油断していたのだと思います。
 5月19日、信長の奇襲によって桶狭間(田楽狭間)の合戦は幕を開けました。この時義元の本陣には五千の旗本がいたとされますが、移動中を横撃され対応の暇なく総大将義元は織田勢に討ちとられてしまいます。義元享年41歳。
 油断と言えば油断、運が無かったとも言えます。ともかく義元の死で今川家は瓦解の道を辿りました。逆に織田信長にとっては飛躍の始まりです。信長の勝利は情報の勝利だったとも言えます。細作を放ち今川軍の動きを完璧に把握していたからできた芸当でした。
 次回最終回、今川氏の滅亡を描きます。

戦国大名駿河今川氏Ⅵ  今川仮名目録

 分国法といえば、戦国大名が自分の領国内を統治するために制定した法律で、例えば幕府の出した法令より優先するため、これを持って戦国大名の始まりとする見方があります。早くは周防の大内氏壁書、越前の朝倉孝景条々、肥後の相良氏法度などが知られています。
 ここ駿河でも、大永六年(1526年)駿河守護今川氏親(1471年~1526年)によって『今川仮名目録』という分国法が制定されました。氏親は今川氏第7代当主、駿河・遠江守護で両国を完全に領国化、三河国(愛知県東部)への進出を果たします。今川仮名目録は、氏親の晩年、死去する二か月前に制定されました。これは後を継ぐ息子氏輝が領国支配しやすいように配慮したものであり、これまでのような後継者を巡っての内乱を避ける目的もありました。
 では氏親の領国支配とはどのようなものだったでしょうか?応仁の乱で幕府の権威が失墜し、鎌倉府も永享の乱、享徳の乱で地方に対する統制力を失っていました。大内氏や武田氏、佐竹氏のように守護大名から戦国大名に成長した者、朝倉氏や尼子氏のように守護代から国を奪った者、あるいは毛利氏や長宗我部氏のように国人から成長した者など多くの戦国大名が登場します。
 駿河の今川氏も、幕府の権威に頼ることなく自立する必要性がありました。氏親は、領国の生産高を把握するため早い段階から検地を実行しました。これは国人(地侍)層の既得権益を侵害するものであり、よほど強力な統制力が無ければできません。氏親があえて検地を断行したのは、どうも母方の伯父(母の兄)伊勢宗瑞(後の北条早雲)の影響があったと言われます。
 宗瑞は今川家とは微妙な関係で、家臣ではなくおそらく客分という立場だったろうと思うのです。それでいて、氏親擁立に抜群の功績を挙げた事から、今川家の顧問のような形になり、時には軍を率いて今川氏のために三河や相模、武蔵に出兵しています。実は検地を始めたのは伊豆の宗瑞の領国が先でした。宗瑞は幕府政所執事伊勢氏の一族として、従来の古いやり方の欠陥を知り尽くしていました。思わぬ事から伊豆国という領地が手に入り、それまで抱いていた改革案を実行に移したのでしょう。当然伊豆での成功例は、顧問を務めていた今川家にも伝えられました。
 大永六年六月、しばらく中風を患っていた氏親は54歳で病死します。後を継いだのは嫡男氏輝(1513年~1536年)でした。氏輝はこの時わずか14歳。父氏親の配慮のおかげで家督相続はスムーズにいきました。それには母寿桂尼の後見が大きな力となります。ここで彼女の事を紹介するのも無駄ではありますまい。寿桂尼、藤原北家観修寺流中御門家の出身。父は権大納言中御門宣胤。氏親の母北川殿が京都出身(伊勢氏)だったため、息子の嫁も京の公家からということで、迎えられたのでした。
 政略結婚であり、京都の姫様育ちの可弱い女性だと思ったら大間違いでした。実は彼女、古の北条政子ばりの才女で、夫氏親の亡きあと尼御台、女戦国大名として今川家を切り盛りします。彼女のおかげで今川家は大きな騒乱もなく氏輝の統治に移行できました。そして彼女は、息子氏輝の亡きあともその弟義元と氏親の側室の子玄広恵探との家督争い、所謂花倉の乱を戦い抜き義元を今川家督へ据える事に成功します。
 彼女は、孫氏真の代まで生き、亡くなったのは永禄十一年(1568年)。生年が不明なので何とも言えませんが、結婚した年から推定するとなんと80歳以上の長命を保ちました。寿桂尼の存在が今川家を支え、彼女の死と共に滅亡したのかもしれません。それにしてもなかなかユニークな女傑でした。

戦国大名駿河今川氏Ⅴ  伊勢新九郎

 今川家第6代当主、駿河守護義忠(1436年~1476年)。父範忠の代に起こった家督相続を原因とする内乱の傷もようやく癒え、駿河今川氏は宿願だった遠江国守護職の奪還を目指し行動します。今川了俊失脚で斯波氏に奪われた遠江守護職ですが、了俊の子孫は遠江今川氏として当地に土着し、駿河今川氏の有力な藩屏となりました。中でも了俊から数えて4代目の範将(?~1464年)などは、今川軍の有力武将として活躍、遠江においても斯波氏の守護代甲斐氏と抗争するなど遠江に大きな影響を与えます。
 その他、久野氏、小笠原氏などは斯波氏が守護となっても今川方として活動しました。反対に斯波氏が守護となって以降、今川支配に反発を持っていた国人層は斯波氏方に付きました。なかでも有力な南朝方だった井伊谷の井伊氏は、斯波氏の先兵として遠江から今川勢力駆逐を目論みます。
 当時の守護は、まだ領国の一円支配を完成しておらず当初の職掌であった軍事警察権のみ行使していました。それすらも遠江では怪しく、今川氏と斯波氏が戦争になったら国内が二分する事は必定だったと思います。そんな中応仁元年(1467年)全国を巻き込んだ応仁の乱が勃発しました。遠江守護斯波義廉が山名方に付いたのを見て、今川義忠は躊躇なく細川方に味方します。義忠は小笠原・朝比奈・庵原・葛山など有力国人を従え上洛しました。
 戦いは泥沼になり膠着します。文明二年(1470年)東軍総帥・管領細川勝元は将軍の命として義忠に本国駿河に帰って東海道の斯波義廉方を討つよう伝えます。これは義忠にとって渡りに船でした。喜んで帰国した義忠は、大義名分を得て露骨に遠江への侵略を開始します。まず帰国途中に、狩野氏の拠点見付を攻め落とし、一族の堀越貞延(今川範将の子)に1000余騎を与え浜松近辺に進出させました。今川軍と斯波軍は遠江国内で激しくぶつかります。これで斯波義廉が西軍方の遠江守護、今川義忠が東軍の遠江守護となりました。後はどちらが敵を叩き出し実効支配するかです。
 ただ斯波義廉にとって不利だったのは、本国越前を細川勝元の策動で重臣朝倉孝景に乗っ取られ、残った有力領国尾張に至っては対立する斯波義敏と血みどろの戦いを繰り広げるなど、とても遠江に構っている暇がない事でした。義忠は有利に戦を進め、あと一歩で遠江完全支配を達成できるところまで行きます。ところが好事魔多し、見付城攻撃で大きな損害を出し一時兵を引こうとしていた時、突如起こった一揆の奇襲攻撃を受け、その時受けた矢傷がもとで現地で亡くなりました。
 一転、今川家は窮地に立たされます。義忠の嫡男竜王丸(のちの氏親)はわずか4歳。有力重臣三浦・庵原・朝比奈・由比氏らは竜王丸の今川家督継承を支持しますが、これに異を唱えた一派がいました。関口・新野・名児耶(なごや)氏らです。彼らが奉じたのは今川一族小鹿範満でした。前記事で書いた弥五郎範頼の子です。両者は一歩も引かず、駿河はまたしても大乱になる寸前まで行きました。
 これを心配した堀越公方政知は執事上杉政憲を派遣、相模守護扇谷上杉定正も家宰太田道灌を送り込みました。太田道灌は600余騎を率いて駿河に乗り込みます。竜王丸派、範満派は道灌の斡旋でようやく和議が成立しました。この時太田道灌の陣営に乗り込み直談判して話を纏めた者がいます。その名は伊勢新九郎。いったい彼は何者でしょうか?
 伊勢新九郎長氏(1432年~1519年)、最近の研究では盛時という名が定説です。諸説ありますが最大公約数的に言うと、幕府政所執事伊勢氏の一族。新九郎の家系は備前に領地を持っていたとされます。今川義忠が上洛中に妹北川殿が見染められ側室(正室という説も?)となりました。彼女の生んだ竜王丸を助けるために駿河に赴いたと言われます。もっとも、北条早雲という名が人口に膾炙していますね。ただ彼が生前北条早雲と名乗った事はなく、出家後の伊勢宗瑞が当時の名乗りです。宗瑞の息子氏綱が、関東支配に都合が良いからと初めて北条氏を名乗るのです。
 ここではまだ箱根の坂を越えていないので、伊勢新九郎で続けます。新九郎が太田道灌に示した調停案はこうでした。
1、義忠の実子である竜王丸の優位は動かない。
2、とはいえ若年の当主では今川家の統制は難しい。
3、小鹿範満は竜王丸成人まで後見人として守護職を代行する事。
4、竜王丸成人後は、守護職を譲り渡す事。
 新九郎の申し出は常識的な線であったので道灌も上杉政憲も納得、範満派も渋々ながらも矛を収めました。一時範満派に駿府を追われていた竜王丸とその母北川殿は、和議成立後も駿府帰還ができず志太郡小川郷(焼津市)小川法栄の屋敷に身を寄せます。範満が、竜王丸成人後も守護職を手放す気がない証拠でした。
 それから苦節11年、新九郎は秘かに駿河国内で同志を集め機会を待ちます。長享元年(1487年)、突如蜂起した新九郎は手勢を率いて駿府の守護館を急襲、範満を討って竜王丸を駿府に迎え入れました。すでに新九郎により駿河の有力国人たちには根回しがされており、大きな反発は起こらなかったそうです。
 竜王丸は元服し氏親と名乗ります。伊勢新九郎は功績により富士郡下方十二郷を与えられ興国寺城(沼津市)を居城としました。戦国大名伊勢宗瑞のはじまりです。ここからの歴史は、今川家の歴史と直接関係ないので概略だけ示します。
 明応二年(1493年)、堀越公方政知死後後を継いでいた足利茶々丸を討って伊豆国を奪取。同四年(1495年)には相模小田原城主大森藤頼を騙し討ちして小田原城を奪いました。伊勢宗瑞は、この城に本拠を移し本格的な関東進出を始めます。
 驚くべきは、諸説ありますが伊勢宗瑞が箱根の坂を越えた年齢で、なんと60歳。しかもそれから20年以上も生きるのです。隠居したのではなく生涯現役、戦場に出陣しての活躍ですから驚かざるを得ません。こういうバイタリティがあったからこそ成し得た偉業なのでしょう。以後、小田原北条氏は5代を数え関東に君臨する巨大勢力に成長します。
 次回は今川氏親の領国経営と義元の登場までを描きます。

戦国大名駿河今川氏Ⅳ  今川氏の内訌

 九州探題として足利将軍家を凌ぐ力を持った今川了俊は、三代将軍義満の逆鱗に触れて失脚。駿河守護には甥の泰範が単独で指名され、以後彼の子孫が今川氏嫡流として駿河を支配しました。その駿河に最初の危機が訪れます。すなわち上杉禅秀の乱でした。
 
 犬懸上杉氏の当主で関東管領であった上杉氏憲(出家して禅秀)は、時の関東公方足利持氏と仲が悪く応永二十二年(1415年)、管領職を罷免されます。代わって管領に就任したのは氏憲の政敵山内上杉憲基でした。怒った禅秀(分かりやすいので以後この名前で書きます)は、与党の大名を語らい持氏に反乱を起こします。鎌倉の公方館を反乱軍に攻撃された持氏は、命からがら海岸伝いに相模、伊豆と逃れ箱根を越え駿河の東端、瀬名にたどり着きました。
 時の駿河守護今川範政(泰範の子)は、驚いて持氏を保護するとともに事の次第を京の幕府に報告します。幕府は範政に上杉禅秀追討を命じました。範政は越後守護上杉房方と協力し禅秀の反乱軍を攻めます。駿河勢は数こそ少ないものの初代駿河守護範国以来統制が行き届いており強力でした。一方反乱軍は数は多くても計画性がなく勢いで蜂起したため纏まりに欠いていたと思います。応永二十四年(1417年)正月、各地で駿河勢に敗北した反乱軍は鎌倉に逃げ込みました。将来を悲観した首謀者上杉禅秀はここで自害、反乱は鎮圧されます。
 四代将軍義持は範政の働きを激賞し、同時に鎌倉公方持氏からも「忠孝・恩義は忘れ難し」という賞詩を拝領しました。以後、駿河守護今川氏は幕府の先兵として鎌倉公方を監視する重要な役目を帯びます。後に「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と称された理由の一つはこの時の今川氏の地位向上もあるのだと思います。
 鎌倉公方持氏にとっても今川範政は無視できない存在になりました。五代将軍義量が19歳の若さで急死し、籤引きで三代義満の子義教が将軍職に就くと、秘かに将軍の座を狙っていた持氏は今川範政へ自分の味方に付くよう働きかけます。しかし幕府への忠節を重んじる範政はこれを拒否、持氏に諫言しました。両者の関係は冷え込みます。
 同じころ関東管領上杉憲実も持氏の軽挙妄動を戒めたそうですが、逆に勘気を被り追放されました。持氏の不穏な動きは逐一京の義教にもたらされます。そうした中永享四年(1432年)将軍の富士遊覧が催されました。当然物見遊山などではなく明らかに持氏に対する威圧です。持氏にも駿河へ出頭が命じられます。しかし、暗殺を恐れた持氏はこれを拒否しました。
 永享十年(1438年)6月、義教の数々の挑発で我慢の限界に達した持氏はついに挙兵します。所謂永享の乱です。ところが待ち構えていた義教は、駿河の今川勢と上杉憲実の越後・上野の大軍を差し向け鎌倉を包囲し、持氏を自殺に追い込みました。
 実は、この時今川軍を率いてたのは範政ではなくその子彦五郎範忠でした。当主範政は永享三年(1431年)頃から病の床についていたのです。範政には家督継承の資格がある三人の子がいました。正室の末子である千代秋丸(範秋)、弥五郎範頼、彦五郎範忠です。最初範政は有力守護山名時熙の支援もあり正室の子千代秋丸に家督を譲ろうとします。しかし、山名氏と今川氏の連合を警戒する幕府はこれを許しませんでした。
 弥五郎範頼を推す一派は、管領細川持之を頼ります。ところがこれも同じ理由で将軍義教から家督相続を拒否されました。義教は有力守護の勢力削減策を推進しており山名氏や細川氏と今川氏の連合は絶対にあってはならないものだったのです。結局、今川家督は一番継承の可能性が低い彦五郎範忠に与えられました。
 このような経緯で今川氏五代と駿河守護職を継承した範忠(1408年~1461年)でしたが、家中は千代秋丸派(=山名派)と弥五郎派(=細川派)に分裂します。範忠に従った国人は朝比奈、岡部、矢部氏らでした。一方本来なら正室の子で一番家督継承資格があった千代秋丸派の狩野、富士、興津氏らは、あろうことか関東公方の援軍まで要請し駿河国内で両派の合戦が起こりました。
 一種の家督相続をめぐる内乱です。事態を憂慮した将軍義教は、範忠を全面的に支援し反乱軍は狩野氏の本拠湯ヶ島城に追い込まれました。一族の重鎮今川貞秋(仲秋の子)率いる今川軍主力はこれを包囲し、陥落させます。反乱軍に担ぎあげられた千代秋丸のその後が不明ですが、殺されたか仏門に入れられたかのどちらかでしょう。
 これで千代秋丸派は壊滅しますが、もう一方の弥五郎派は不気味な沈黙を守ります。そして弥五郎範頼の子小鹿範満の代に再び大騒動を起こすのです。ともかく幕府の後押しで家督を継いだ範忠は、以後関東への出兵三回、京都への出兵一回と活躍し、康正元年(1455年)不帰の人となりました。後を継いだのは嫡男義忠。
 義忠の代は、今川氏が守護大名から戦国大名に成長する端緒となります。応仁の乱を利用し斯波氏に奪われていた遠江守護職を奪回するのです。しかしその後悲劇が起こります。再び起こるお家騒動。これを纏めたのは外から来た一人の男でした。次回、伊勢新九郎に御期待下さい。

戦国大名駿河今川氏Ⅲ  九州探題今川了俊(後編)

 今川了俊は、史書として『難太平記』、紀行文『道ゆきぶり』、歌論書『言塵集』などを記した当代一流の文人でした。その文学的イメージと武将としてのそれにギャップがあるように感じるんですが、そういう複雑なところも含めて了俊なのでしょう。
 九州探題今川了俊の活躍によって、懐良親王率いる南朝方は大宰府を追われ筑後の山岳地帯と肥後に追い詰められます。当時懐良親王がどこを拠点にしていたかは諸説あり、筑後国星野村説、肥後国隈府(わいふ、現菊池市)の雲上宮(くものへぐう)説がありはっきりしません。どちらにしろ戦況によって移動していた事は間違いなく、幕府軍は南朝方を次第に追い詰めていきました。
 1374年11月、了俊は南朝方に止めを指すべく肥後に進攻します。南朝方の主力はなんといっても菊池氏でこれさえ倒せば南朝方は瓦解するはずでした。菊池氏側も一代の英傑武光はすでに陣没し、後を継いだ子の武政も同年5月に病死していました。家督は嫡男武朝(1363年~1407年)が継ぎますが、この時わずか11歳。了俊は武政の死を待って肥後に進軍したのです。
 玉名郡南関より肥後に入った了俊は、1375年7月山鹿を過ぎ菊池氏の本拠隈府城を指呼の間に捉えた日ノ岡に着陣します。日の岡は山鹿市の北にそびえる不動岩で有名な蒲生山に連なり南東にのびる台地上。山鹿平野を一望できる要衝でした。了俊の弟仲秋も肥前勢を率いて岩原(いわばる、古墳群で有名)に陣を布きます。これに対し菊池勢は八方ヶ岳山系が南に延び、菊池川に迫った台地上の台(うてな)城に籠って最終防衛線にしました。
 実は菊池氏の本拠隈府城(現菊池神社)は、それほど防御が堅くなく十八外城と呼ばれる支城群で守る作戦を採ります。台城も十八外城の一つで、山鹿方面からの侵攻に備えた城でした。了俊は、台城と日ノ岡の中間にあり、街道と菊池川がもっとも狭まる場所水島を決戦場と定めます。了俊はこの戦いで終止符を打つべく九州各地の有力守護にも参陣を求めました。薩摩の島津氏久、豊後の大友親世はこれに応じますが、もう一人の有力守護筑前の小弐冬資は参陣を渋ります。父頼尚の後を受けた冬資にとって利害のぶつかる九州探題の強大化は望んでいませんでした。
 困り果てた了俊は、島津氏久に仲介を頼みます。氏久の情誼を尽くした手紙を受け取った冬資は嫌々ながらもようやく8月末、日ノ岡に到着しました。その日、冬資を主賓とする宴が催されます。するとその席で、今川家臣山内道忠は冬資を組み伏せ、了俊の弟仲秋がこれを刺殺しました。いくら利害がぶつかるとはいえ、陣中での暴挙は九州全土の幕府方に動揺をもたらします。特に面目を潰された島津氏久は烈火のごとく怒り、さっさと陣を払い帰国しました。大友親世も、一応了俊の説明に納得しますが以後非協力の態度に転じます。これを水島の変と呼びます。
 水島の変は了俊の自滅でした。菊池勢も頑強に抵抗し幕府軍は肥後から撤退します。島津氏久は、了俊に対しあからさまな敵対行動を取り、了俊は嫡子義範を日向に派遣し島津勢と戦わざるを得なくなります。が、北朝優勢は変わらず、態勢を整えた了俊は大友氏など九州の有力守護に頼らず、幕府に依頼して周防・長門の守護大内弘世に援軍を出させます。これは大内氏が九州に関与する端緒でした。
 1377年春、今川軍は再度肥後に侵入します。今回は大内氏の援軍も加え今川氏の勢力範囲である筑前・筑後・肥前の兵だけで攻略するつもりでした。了俊の嫡男義範は、日向・大隅方面で島津氏久と泥沼の戦いを続けており今回は参加できませんでした。同年7月、玉名郡白木原(玉名市から南関町に至る小岱山東麓の一帯と推定)の合戦で菊池軍を破ります。1378年9月の託摩原(たくまばる、熊本市東部)の合戦は菊池武朝の奮戦もあり一時敗北しますが、大勢は変わらず1381年6月22日了俊はついに菊池氏の本拠隈府城を攻略しました。
 南朝方は、最後の拠点八代古麓城に籠城しました。実はこの前懐良親王は征西将軍職を良成親王(御村上天皇皇子、甥に当たる)に譲っており、八代に同行したとも、これと別れ筑後国矢部で病気のため薨去したとも伝えられます。了俊は古麓城を何重にも包囲、1391年9月良成親王、名和顕興らが降伏、九州南朝方はついに滅びました。この時菊池武朝は行方不明になりますが、実は菊池氏の隠し領地のある日向国米良地方に潜伏したと推定されます。
 20年という長き歳月は掛かりましたが、九州探題今川了俊はついに南朝方を降し九州を平定しました。その威勢は少なくとも九州においては足利将軍を凌ぐようになっており、三代将軍義満の警戒を受けるようになります。中央で了俊を後援しつづけた管領細川頼之が1379年康暦の政変で失脚していたことも了俊にとって悪く作用しました。新管領の斯波義将は了俊を頼之派と見ており、追い落としの機会を狙っていました。
 
 九州に野心を持つ大内義弘(弘世の子)は、了俊に対し同盟して幕府を攻めようと持ちかけます。了俊がこれを断ったのを根に持った義弘は、逆に幕府に了俊が謀反の志を持っていると讒言しました。もちろん証拠もなく信用もできなかった話ですが、将軍義満も管領斯波義将も絶好の機会と捉え了俊を九州探題から解任します。後任には渋川満頼が選ばれました。しかし、実権はなく次第に大内氏の傀儡と化します。
 幕府に帰順した島津氏久も、独自の動きを見せていた豊後の大友親世も名目上は九州探題を尊重しますが、実際は侮り独自路線を選択、戦国時代に至ります。筑前の少弐氏は、探題の後ろ盾として九州に上陸してきた大内氏と血みどろの戦いを繰り広げる事となりました。
 今川了俊は、将軍への申し開きも許されず本国遠江に帰国を命じられます。義満はさらに追い打ちをかけ、甥泰範(範氏の次男)が守護をしていた駿河の半国守護を命じました。これは今川氏の分裂を狙った策でした。その後、応永六年(1399年)には大内義弘が応永の乱で自滅します。将軍義満の挑発にまんまと乗った結果でした。甥泰範は、了俊が運動して駿河半国守護を奪い取ったと勘違いし逆恨みしており、了俊が大内義弘と通じていたと幕府に讒言します。これによって了俊は遠江と駿河半国の守護職を剥奪されました。
 失意の時を迎えた了俊はさらに鎌倉公方足利満兼の乱への関与も疑われ、義満は関東管領上杉憲定に了俊追討を命じます。これは当の上杉憲定や今川一族の助命嘆願運動でようやく許されました。了俊は、上洛し以後一切政治に関わらない事を条件に赦免されます。義満も鎌倉府に対する備えとしての今川氏の重要性は十分承知しており、自分を脅かす恐れのある有能な了俊一人を排除するだけで良しとしたのでしょう。
 京都に隠棲した了俊は、『難太平記』執筆など静かな晩年を迎えます。応永二十七年(1420年)死去。享年94歳。父範国と同様驚くべき長命でした。その後、今川氏は泰範の子孫が嫡流として駿河守護を世襲します。一方、了俊の子孫は遠江今川氏として一族の重鎮となりました。ただ幕府に警戒されたため守護職を剥奪され、代わって斯波氏が遠江守護となります。今川氏が遠江守護職を回復するのは第6代今川義忠まで待たなくてはなりませんでした。

戦国大名駿河今川氏Ⅲ  九州探題今川了俊(前編)

 今川了俊(1326年~1420年)が九州探題に任命されたのは応永三年(1370年)。足利三代将軍義満はこの時わずか13歳。幕府の実権は管領細川頼之が握っていました。南北朝時代に突入して30年以上。全国的に北朝方の優位は確立していましたが、九州だけは例外で征西将軍宮懐良親王のもと南朝王国とも言うべき巨大な勢力に膨れ上がっていました。
 ここまでの九州南朝の動きを簡単に紹介しておきましょう。後醍醐天皇の皇子懐良親王が九州に入ったのは1341年。鹿児島から上陸し肥後の豪族菊池武光の元へ赴きます。武光は庶流でしたが戦上手だったために推戴され菊池家代15代当主となっていました。菊池氏は、古代豪族狗古智卑狗(くくちひこ)の末裔とも言われ肥後(熊本県)北部が地盤です。平安時代より名が知られ肥後北部から中部に渡って一族が広がります。
 鎌倉時代、守護にはなりませんでしたが守護級の実力があるのは間違いなく元寇でも活躍しています。有名な竹崎季長も菊池一族です。12代武時以来の熱心な宮方で、懐良親王が菊池氏を頼ったのは正解でした。足利幕府にとって都合が悪かったのは、尊氏の庶子直冬も九州に居た事です。直冬は家督相続の不満から足利方の筑前守護少弐頼尚に推戴され北朝方でも南朝方でもない第三勢力を築いていました。
 少弐氏がなぜ幕府を裏切ったかですが、尊氏が九州を去る時九州探題として一族の一色範氏を残したのが原因でした。筑前守護である少弐氏と九州探題は職掌がぶつかり共存できない存在なのです。九州探題に抑え込まれるくらいならと、丁度九州に流れてきた直冬を迎え娘婿にします。直冬にしても大豪族少弐氏の後ろ盾を得る事はありがたく、両者の利害が一致しての事でした。
 中央で尊氏、直義兄弟の対立観応の掾乱が勃発し、直冬は直義勢力として九州に君臨します。逆に九州探題一色氏は孤立し直冬軍に攻められ敗北、弱ったところを1353年筑前国針摺原で菊池武光率いる南朝軍に大敗、九州から叩き出されてしまいました。観応の掾乱が直義派の敗北に終わると九州の直冬も孤立、中国地方に脱出します。
 少弐頼尚は、幕府に帰順しました。ここでようやく九州の北朝方はひとつになったわけですが、懐良親王の南朝戦力は侮りがたい勢力に成長していました。1359年、少弐頼尚を総大将とし大友氏時、城井冬綱ら豊前・豊後・筑前・筑後・肥前五カ国の兵六万とも号する軍勢が、懐良親王・菊池武光率いる肥後・筑後・日向、肥前の南朝方四万と筑後国大保原で激突します。兵力に関しては誇張があるように思いますが、どちらも数万の大軍であった事は間違いないでしょう。(実数として幕府軍三万、南朝方一万五千くらいか?)
 筑後川を挟んで両軍は対峙し、激しく戦います。この時菊池武光は血の付いた刀を川の流れで洗ったという伝説があり大刀洗の地名が残っています。戦闘は、武光率いる菊池勢の奮戦で纏まりに欠く幕府軍の隙をつき南朝方の大勝利に終わりました。北朝方は散り散りになり敗走します。少弐頼尚は筑前の山中に隠れゲリラ戦を行ったと伝えられます。
 筑後川の合戦の勝利によって、南朝方は大宰府を落としました。以後10年九州は南朝方が支配するようになります。この間幕府は斯波氏経、渋川義行などを九州探題として送り込みますが南朝支配を覆す事ができずことごとく失敗しました。
 今川了俊は、幕府の切り札として探題に任命されたのです。幕府にとっても負けられない戦いでした。了俊は嫡男義範(のち貞臣に改名)、弟仲秋とともに本国遠江で軍を整え、さらに九州遠征の根拠地として備後(広島県東部)の守護にも任ぜられていたため、この地でも兵を集めます。菊池武光が強敵であることを認識していた了俊は、慎重に準備を進めました。まず嫡男義範を豊後に上陸させ田原氏能(うじよし、大友一族)と共に高崎山城に籠らせます。弟仲秋は肥前から上陸させ同地の北朝方を糾合させました。そうしておいて1371年本隊を率い豊前門司から九州に上陸します。
 久しぶりの強力な九州探題に、それまで南朝方に抑え込まれ逼塞していた幕府方は次々と参陣します。少弐頼尚もこの時了俊の軍勢に加わったそうです。肥前、豊前、豊後と三方から迫る幕府軍に防御の弱い大宰府での迎撃を諦めた南朝方は筑後高良山(久留米市)を本陣に耳納山地の山岳地帯を防衛線に選びました。この時も激しい戦いが繰り広げられますが、南朝の大黒柱菊池武光が負傷し、その傷がもとで陣没します。享年45歳。
 南朝の支柱であった武光の死は衝撃を与えました。懐良親王はこれ以上の抗戦を諦め筑後南部の山岳地帯(星野)から肥後に撤退します。こうして了俊は豊前・豊後・筑前・筑後を南朝方から奪還しました。肥前も南朝方が地盤を築いていましたが、弟仲秋を派遣し平定します。
 今川了俊は、このまま順調に九州を平定できたのでしょうか?実はこの後ひと波乱があるのです。後編では水島の変と了俊の九州探題解任、その晩年を描きます。

戦国大名駿河今川氏Ⅱ  駿河守護

 今川範国が駿河守護に任ぜられた1338年は、南北朝時代で意味のある年でした。過去記事『信濃の南北朝』でも触れましたが、南朝後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王が遠江国に入国したのです。最初宗良親王は北畠親房と共に奥州に赴く予定でした。ところが伊勢を出港してまもなく暴風雨に遭い遠江国白羽湊に漂着します。
 幸い遠江は、南朝方の公卿西園寺公重の領地浜松荘がありましたから南朝の拠点を築けると睨み親王はこの国で活動を開始します。真っ先に応じたのは井伊谷の領主井伊高顕(道政の子)でした。駿河国でも安倍城主狩野貞長が応じます。貞長は同族である駿河の入江、蒲原、岡部氏あるいは伊豆国の工藤、伊東、天野氏に味方するよう促しました。
 今川範国が駿河に入ったのは、こういう危機的状況の中です。放っておいては宗良親王を中心に遠江・駿河・伊豆が南朝方に支配され、幕府のある京都と鎌倉の間の連絡が分断される恐れがありました。今川範国に託された任務は非常に重要なものでした。
 駿河に入国すると、範国は安倍城の狩野貞長を攻めます。狩野氏は伊豆の工藤氏の一族でまずこれを何とかしないと駿河から伊豆に広がる工藤一族を押さえきれなくなるからです。また遠江の井伊谷城は簡単に落ちるような城ではなく、周囲をしっかり固めてじっくり攻めようという作戦だったと思います。
 三河出身で駿河に全く縁のない範国は、駿河総社浅間神社など領内の有力寺社に特権を与え味方につけます。これはなかなか頭の良い方法で、これにより駿河国人の心を掴みました。足利尊氏も今川氏だけに東海地方を任せることに不安を感じ1339年高師泰、高師冬らに率いられた軍勢を三河から侵入させます。高軍は大平城、鴨江城を次々と攻略し井伊谷城に迫りました。翌1340年仁木義長に率いられた幕府軍がついに井伊谷城を落とします。
 宗良親王率いる南朝方は、いまだに健在だった駿河安倍城に逃れます。しかし、ここも今川軍に攻略されたため親王は信濃に向かいました。範国は駿河、遠江を順調に平定し南朝方の武将たちを次々と降します。その代表は遠江国犬居城主天野景顕でした。天野の降伏は象徴的で、同族の狩野氏、岡部氏らも次々と範国に降伏します。駿河・遠江から南朝勢力を一掃した今川範国は、以後駿河を拠点として守護大名の道を歩み始めました。
 今川範国は89歳まで生きます。当時としては信じられないくらいの長命ですが、そのおかげで領国内の国人たちの家臣団化に成功しました。さらに常時領国駿河に居たことで支配が安定し、室町時代から戦国時代にかけて盤石の政権を築きます。今川義元が上洛しようとしたのは、今川領国が他の戦国大名以上に強固な支配体制を確立していた証拠でした。
 今川範国の在国はあるいは足利尊氏の指示かもしれません。それだけ駿河国は足利幕府にとって要とも言うべき重要な国だったのでしょう。範国には多くの子供がいました。そのうち長男範氏に駿河の守護職を、弟貞世(出家して了俊)には遠江守護職を受け継がせます。最初、範国は凡庸な範氏を廃し優秀な貞世に家督を継がせるつもりでした。しかし貞世は今川家が乱れる元になると家督相続を固辞、結局範氏が駿河守護職と今川家督を得ます。
 今川嫡流は駿河に在国しましたが、貞世は上洛し山城国守護職、幕府侍所頭人、引付頭人などを歴任しました。二代将軍足利義詮が1367年死去すると出家し了俊と号します。以後貞世を了俊と呼びます。三代将軍義満のもとで管領を務めた細川頼之は有能な了俊に重要な任務を授けました。当時南朝勢力は全国的に劣勢でしたが、九州だけは例外で征西将軍宮懐良(かねなが)親王と菊池武光が独立王国を築く勢いでした。実際、懐良親王は明との交渉でも日本国王を名乗ったくらいです。
 1370年、今川了俊は九州探題に任命されました。次回は了俊の戦いと今川一族の危機を描きます。

戦国大名駿河今川氏Ⅰ  その出自

 長野県下伊那郡大川入山に端を発し岐阜県愛知県を流れ三河湾にそそぐ大河矢作川。古代より三河国(愛知県東部)の政治権力は矢作川に沿って発展していきました。国府のある豊川市近辺より矢作川流域を中心とする三河西部が栄えていたのもその証拠でしょう。
 三河に本格的な武家勢力が進出したのは鎌倉時代。下野(栃木県)の豪族足利氏が幕府の命で三河守護として赴任します。足利一族は三河に移住し、吉良、今川、一色、細川、仁木など多くの支族が生まれました。足利氏は守護所を矢作宿(岡崎市)に設けます。
 足利氏三代義氏(1189年~1255年)には二人の有力な息子がいました。すなわち長氏と泰氏です。順当に行けば長男長氏が家督を継ぐはずでしたが、生来の病弱で弟泰氏に家督を譲りました。哀れに思った義氏は、足利家の有力な領地である矢作川下流幡豆郡西條の吉良荘地頭職を譲ります。以後長氏の子孫は吉良氏を名乗りました。
 このような経緯から吉良氏は、足利宗家から一目置かれる存在となり室町時代には「足利将軍家が絶えたら吉良が継ぐ」と言われるほどでした。ただ似たような話が泰氏時代にもあり、子の家氏(斯波氏の祖)と頼氏の家督継承問題が起こります。要は時の権力者鎌倉幕府の執権、北条得宗家との関係で家督相続が決まるために、本来継ぐべき者が継げなくなったというだけでした。おそらく類似した話が他の有力御家人の間でもあったかもしれません。
 吉良荘を継承した長氏は、領地経営に腐心し生涯を終えます。死に際し長男満氏に吉良荘を、次子国氏に隣接する今川荘を与えました。今川荘は現在の愛知県西尾市今川町を中心とする一帯です。この国氏が今川氏の祖となります。足利一門の中では、斯波氏(尾張足利氏)と同じく家格の高い一族でした。
 今川氏の名前が史書に出てくるのは、三代範国(1295年~1384年)からです。範国は足利一門の有力武将として当主尊氏(当時は高氏)の下で元弘の変以来各地を転戦しました。中先代の乱では鎌倉を追われてきた尊氏の弟直義を吉良貞義(満氏の子)とともに三河国矢作に迎え、中先代軍の攻撃を防ぎ足利尊氏の本隊が到着するまで戦線を支えます。
 以後尊氏が鎌倉に向かった時も三河に残り、新田義貞率いる尊氏追討軍を三河国で防ぎました。ただこの時は新田軍が大軍であったため衆寡敵せず敗走します。義貞を追って尊氏が上洛した時範国もおそらく従ったのでしょう。その後、背後から奥州の北畠顕家軍が襲いかかったため足利軍は京を追われ九州に逃れます。範国も他の足利一門と同様九州に落ちたと思われます。あるいは本国三河でゲリラ戦を続けたという可能性も捨てきれませんが…。
 九州で勢力を蓄えた尊氏は、少弐、大友、島津ら九州の有力豪族を糾合し十万とも号する大軍で逆襲に転じます。1336年摂津湊川の合戦で宮方を破った尊氏は再び京都に入りました。後醍醐天皇は大和国吉野に逃れ本格的な南北朝時代が到来します。尊氏は、京都と鎌倉を結ぶ東海道諸国の重要性に鑑み今川範国に1336年遠江守護、次いで1338年には駿河守護職を与えました。これが今川氏と駿河の関係した最初です。
 次回は、範国の駿河入部と統治を描きます。

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