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2016年10月12日 (水)

戦国大名駿河今川氏Ⅱ  駿河守護

 今川範国が駿河守護に任ぜられた1338年は、南北朝時代で意味のある年でした。過去記事『信濃の南北朝』でも触れましたが、南朝後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王が遠江国に入国したのです。最初宗良親王は北畠親房と共に奥州に赴く予定でした。ところが伊勢を出港してまもなく暴風雨に遭い遠江国白羽湊に漂着します。
 幸い遠江は、南朝方の公卿西園寺公重の領地浜松荘がありましたから南朝の拠点を築けると睨み親王はこの国で活動を開始します。真っ先に応じたのは井伊谷の領主井伊高顕(道政の子)でした。駿河国でも安倍城主狩野貞長が応じます。貞長は同族である駿河の入江、蒲原、岡部氏あるいは伊豆国の工藤、伊東、天野氏に味方するよう促しました。
 今川範国が駿河に入ったのは、こういう危機的状況の中です。放っておいては宗良親王を中心に遠江・駿河・伊豆が南朝方に支配され、幕府のある京都と鎌倉の間の連絡が分断される恐れがありました。今川範国に託された任務は非常に重要なものでした。
 駿河に入国すると、範国は安倍城の狩野貞長を攻めます。狩野氏は伊豆の工藤氏の一族でまずこれを何とかしないと駿河から伊豆に広がる工藤一族を押さえきれなくなるからです。また遠江の井伊谷城は簡単に落ちるような城ではなく、周囲をしっかり固めてじっくり攻めようという作戦だったと思います。
 三河出身で駿河に全く縁のない範国は、駿河総社浅間神社など領内の有力寺社に特権を与え味方につけます。これはなかなか頭の良い方法で、これにより駿河国人の心を掴みました。足利尊氏も今川氏だけに東海地方を任せることに不安を感じ1339年高師泰、高師冬らに率いられた軍勢を三河から侵入させます。高軍は大平城、鴨江城を次々と攻略し井伊谷城に迫りました。翌1340年仁木義長に率いられた幕府軍がついに井伊谷城を落とします。
 宗良親王率いる南朝方は、いまだに健在だった駿河安倍城に逃れます。しかし、ここも今川軍に攻略されたため親王は信濃に向かいました。範国は駿河、遠江を順調に平定し南朝方の武将たちを次々と降します。その代表は遠江国犬居城主天野景顕でした。天野の降伏は象徴的で、同族の狩野氏、岡部氏らも次々と範国に降伏します。駿河・遠江から南朝勢力を一掃した今川範国は、以後駿河を拠点として守護大名の道を歩み始めました。
 今川範国は89歳まで生きます。当時としては信じられないくらいの長命ですが、そのおかげで領国内の国人たちの家臣団化に成功しました。さらに常時領国駿河に居たことで支配が安定し、室町時代から戦国時代にかけて盤石の政権を築きます。今川義元が上洛しようとしたのは、今川領国が他の戦国大名以上に強固な支配体制を確立していた証拠でした。
 今川範国の在国はあるいは足利尊氏の指示かもしれません。それだけ駿河国は足利幕府にとって要とも言うべき重要な国だったのでしょう。範国には多くの子供がいました。そのうち長男範氏に駿河の守護職を、弟貞世(出家して了俊)には遠江守護職を受け継がせます。最初、範国は凡庸な範氏を廃し優秀な貞世に家督を継がせるつもりでした。しかし貞世は今川家が乱れる元になると家督相続を固辞、結局範氏が駿河守護職と今川家督を得ます。
 今川嫡流は駿河に在国しましたが、貞世は上洛し山城国守護職、幕府侍所頭人、引付頭人などを歴任しました。二代将軍足利義詮が1367年死去すると出家し了俊と号します。以後貞世を了俊と呼びます。三代将軍義満のもとで管領を務めた細川頼之は有能な了俊に重要な任務を授けました。当時南朝勢力は全国的に劣勢でしたが、九州だけは例外で征西将軍宮懐良(かねなが)親王と菊池武光が独立王国を築く勢いでした。実際、懐良親王は明との交渉でも日本国王を名乗ったくらいです。
 1370年、今川了俊は九州探題に任命されました。次回は了俊の戦いと今川一族の危機を描きます。

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